神様の贈り物

小説の神様

妻の機嫌が、朝からすこぶる悪かった。



怒りの理由は分かっていた。


私が今朝のゴミ出しを忘れた事と、残り少ないトイレットペーパーを交換しなかった事。



それと、私が小説を書けない事。





妻とは恋愛結婚だった。


学生時代から趣味で小説を書いていた私は、大学卒業後も働きもせずに小説家の道を目指し続けた。



運良くいくつかの小さな賞を取り、発行部数は少なかったものの、書籍も出版した。



何とか物書きとしてギリギリ食っていけるようになり、「先生」と呼ばれるようになった自分の立場に酔っ払っていた私は、よせばいいのに私の初期の頃からのファンであった妻にプロポーズをした。


妻からすれば、「売れるかもしれない作家の妻」である自分と、「それを最初から見抜いていた見る目がある女」を同時に手に入れられる機会だったのだろう。



お互いがその判断が間違っていたのに気付いた時、妻は15キロも太っていた。




私は、いわゆる「憑依型」の小説家だ。


降りてくればスラスラと書けはするが、書けない時は何をしても書けない。



焦って原稿用紙に向かってがむしゃらに書き続け、読み返して捨てるを延々と繰り返す。



そんな日が、もうかなりの時間続いていた。


相当な難産だが、キッカケはまだカケラも見えて来ない。




朝食の催促をした私に、妻は無言で冷蔵庫を指差す。


何があるのかと開けて見てみると、入っていたのは食べかけのヨーグルトだけだった。



マズいと思った。


私もイライラしていた。



このまま妻と会話をすれば、おそらく喧嘩になってしまう。



咄嗟に自室に小銭入れとタバコとライターを取りに戻った私は、散歩に行くとだけ言い残して玄関に向かった。



大型の海洋生物のようにソファに寝転んだままの妻が、こちらを見ないままヒラヒラと手を振っていた。






私は毎日散歩に出掛ける。



それこそ、雨だろうが雪だろうが毎日。



自室に籠りっぱなしで物語を書いていると、思ったよりも退屈な仕上がりになってしまうことが多い。


刺激の無いまま話を組み立てても、ありきたりな場所に着地してしまう。



自分の書いている物語を脳内で朗読しながら、私はただ歩く。


そうすると、たまに自分では思いつかないような展開が降りて来る事がある。



キッカケはごく小さい事。




例えば、あくびをする猫。


蜘蛛の巣にかかった蝶。


アスファルトを割って咲く花。



何がトリガーになるのかは分からない。




だが、その「何か」から刺激を受けて、ラブコメディがスプラッターに化けたり、ファンタジーが殺人事件に変わったりもする。



そんな刺激が私は好きだった。




脳内に降りて来る「何か」を探して、私は淡々と歩いた。




目的地はいつも同じ。


町外れの小さな神社。




そこは、鳥居と小さな祠があるだけの、簡素で静かな場所。



トイレも手水も無い。



錆びた賽銭箱と、誰が供えているのかも分からない、くたびれた花が置かれているだけの場所だった。



どんな神が祀られているのかも知らない。



ただ、その場所が持つ独特な静けさと、特有の寂しさが好きだった。


それと、鎮守の森というには余りにも数が少ないが、それでも御神木と呼ぶに相応しい立派に根を張った杉の木達が好きだった。




ここで私は、沢山の作品のインスピレーションを貰った。



私は、この神社に祀られている神を「小説の神様」と勝手に名付けていた。




小銭を賽銭箱に放り込み、ゆっくりと手を合わせる。



そのまましばらくボーっと杉の木を眺めて、深呼吸をしてから帰る。



それがいつものルーティンだった。




あの声が聞こえるまでは。




それは、随分と若い声だった。


男児でも女児でもなく、幼いようでいてしっかりとした口調の声。



「おい。オッサン。アンタだよ。アンタしか居ないだろ。おい。」




杉の木の足元で背伸びをしていた私は、不意にかけられた声に驚いて咄嗟に肩をすくめた。



声の出所を探す。


誰も居ない。



少し下の方から聞こえた気がする。




私がゆっくりと木の根元に視線を落とすと、杉の木の後ろから可愛らしい黒猫がひょっこりと顔を出した。




「アンタも熱心だな。今日で500日目だ。アンタのお陰で、俺にかけられてた封印が解けちまったよ。」



口元は動いていない。


声は私の脳内に直接聞こえている気がする。


どう考えても、この猫が喋っている。





星のように美しく金色に輝く目をした、綺麗な黒猫だ。




頭が真っ白になった。


自分の作品に喋る猫を登場させた事はあったが、実際に喋る猫を見たのは初めてだった。



「ここがどんな所なのか知りもしないで来てたのか?ここは、俺を祀ってたんだ。祟り神として俺を恐れてた村人どもが、恐れをなしてここに俺を封じ…ッオイ!撫でるな!コラ!」



怒ってフーフー唸っているが、見た目は可愛らしい黒猫だ。



動物に目が無い私は、どうしても喋る猫を撫でたいという誘惑に勝てず、彼の話を遮って頭を撫でていた。



「全く。俺を解放した恩が無きゃ、今すぐズタズタに引き裂いてやるところだ。」




話をあまり聞いていなかったが、どうやら私は彼の封印を解いてしまったようだ。



この美しい黒猫の姿も仮の姿なのかもしれないし、封じられていた事実から考えると、残虐な妖怪の類いなのだろう。



人語を話せる程の知性を持ち、祟り神と恐れられ封じられていたような存在。



小説家という職業柄の特技を活かして、私は一瞬でありとあらゆる考察を巡らせた。




「オイ。オッサン。俺達妖は貸し借り無しが原則なんだ。封印を解いてくれたお前に、借りを返さなきゃならない。願いを言え。」





そういうものなのか?



願い?



私の願いは何だろうか。





「誰もが知る小説家」は、私の最大の夢だった。


だが、彼の力を借りてその願いが叶ったとしても、それは私にとって何の達成感も無い。



第一、ここで私は「祟り神として封印されていた喋る猫と会話をした」という、この上のない極上のキッカケを手に入れた。


この経験を余す事無く小説に落とし込めれば、それこそ賞など総なめに出来るだろう。


彼の力を借りるまでもない。





だったら何だ?


金か?


いや、よくよく考えると、金はいずれこの経験を題材にした小説が運んで来るだろう。


焦って手に入れる必要は無い。




何だ?


何だ?


私の願いは何だ?




私は悩み続けた。


昼前には家を出て神社に辿り着いたはずだが、奇天烈な事態に遭遇し、色々な事を考えているうちに日が傾き始めていた。



その間、私が願いを決めかねている事に呆れた彼は、大きな杉の木の根元で丸くなって、そのまま眠ってしまっていた。





玄関のドアを開ける。


カレーの良い匂いがする。




今朝方私に愛想悪く振る舞った事を反省しているのだろう。


いつもより帰りが遅い私を、彼女なりに心配していたのかもしれない。




素直ではない妻は、いつも私に謝りたいと思っている時には、私の好物のカレーを出す。






出迎えは無い。



顔も見ずに「ただいま」という私に、ソファに座って雑誌を読みながらヒラヒラと手を振って微笑むだけ。




「仲直り」のようなものは、いつもこんな空気感だけで終わる。





向かい合ってテーブルに座り、黙々と食べる私と、TVを見ながらこちらを見ない妻。




スプーンを空になった皿に置きながら「やっと降りて来たよ」とボソリと言った私の顔も見ないまま、妻は「おめでとう」とも「良かったわね」とも言わず、ただ「楽しみにしてるわ」とだけ言い残し、そそくさと食器を片付け始めた。






私は、妻に読んで欲しくて書いていたのかもしれない。



誰の目にも留まらなかった無名の私の作品を最も愛してくれた「読者」だった彼女を、私も心から愛していた。







やっと書ける。


これでやっと。



彼女が大好きな猫が出て来る、奇想天外な物語が書ける。






時計は夜の10時半。


自室からキッチンにコーヒーを淹れに行った私に、妻が嬉しそうに声を掛けてくる。





「ねぇ。この子、黒いからクーちゃんにしようよ。」





笑いながらお前に任せるよと言ってマグカップを掴んで自室に戻ろうとする私の後ろで、「じゃあ、一緒に寝ようか?クーちゃん」という嬉しそうな妻の声と、ゴロゴロという「小説の神様」の喉鳴りが聞こえた。








全く。


人間というのはサッパリ分からん。


「妻との喧嘩の仲裁をしろ」だ?


夫婦喧嘩は犬も食わんのだぞ。


猫なら食うとでも思ったか?

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