本編

第1話 学園の貴公子(プリンス)

 聖シロツメ女学園・男子部。

 そこには、全校女子の視線を釘付けにする男がいた。

 3年A組、八木翔(やぎ・かける)。

 彼は常に、誰もが予測し得ない場所、そして予測し得ない角度で存在していた。


 昼休み。屋上を囲む高さ3メートルのフェンス。そのわずか5センチの縁の上に、彼は立っていた。

 強風に銀髪をなびかせ、遠くの山嶺を見つめるその横顔。まるで、世界の終わりを予見する哲学者のようだ。

「見て……八木先輩よ。あんな危険な場所で、一体何を……?」

「きっと、この窮屈な世界を俯瞰して、人類の未来を憂いているのよ……!」

 女子たちの黄色い声が飛ぶ。八木は、まばたき一つしない。

(……レタス。……あそこに、レタスがある)

 彼の瞳が捉えているのは、哲学でも真理でもない。購買部のショーケースで寂しく佇む「本日の売れ残り、レタスサンド(半額シール付き)」である。


 昼休みの購買部は、まさに戦場。人気の「メロンパン」を求め、男子生徒たちが殺気立っている。

 そこへ――颯爽と、八木が現れた。

「どけよ八木! 今日こそは俺が……うおっ!?」

 八木は無言だった。次の瞬間、彼は人混みの肩を、まるで飛び石のように軽々と踏んで跳躍した。

 トン、トン、トン。

 空中を歩くかのような軽やかさで、人混みの頭上を渡っていく。

「なっ……スカイウォークだと!?」

「重力を無視してる……!」

 生徒たちが息を呑む中、八木は購買のカウンターに音もなく着地した。小銭をチャリン、と並べる。その所作すら、どこか絵になる。

「あら八木くん、今日もカッコいいわねぇ。はい、いつものレタスサンド。今日はサービスで『特盛り』にしといたからね」

 購買のおばちゃんは、八木の美貌に頬を赤らめながら、紙袋を差し出した。

 中身を覗き込んだ八木の瞳が、わずかに輝く。パンとパンの間から、もはや制御不能なレタスの奔流が溢れ出していた。サンドイッチというより、「レタスに挟まれた薄いパン」である。

(……神)

 八木は満足げに紙袋を抱え、誰もいない屋上へと消えていった。


 放課後。校舎の裏で、1年生の気弱な男子が不良グループに絡まれていた。

「おい、ジャンプしてみろよ。ほら、早く……って、なんだその目は!?」

 空気が、凍った。遠くから響く、重低音。

「メェェェェ〜〜〜……」

 それは、オペラ歌手のビブラートのような、魂を揺さぶる美声だった。

 不良たちが振り返ると――八木が、猛スピードで突進してきた。

「な、なんだアイツ!? 速すぎるッ!」

 観察する暇はなかった。八木は一切手を使わない。低い姿勢から、その額を――ドゴォッ!――不良のみぞおちに叩き込んだ。

 ただの頭突きではない。これは、縄張りを守るヤギの本能が生んだ、野生の一撃。

 \秘技・断罪の頭突き(パニッシュ・バット)/

 不良たちは、スローモーションのように宙を舞い、校舎の壁に激突した。

「ぐはっ……!」

「つ、強い……!」

 八木は倒れた不良たちを一瞥すると、その足元に生えていた植え込みのパンジーを――ムシャリ――と一口齧った。そして、何事もなかったかのように優雅に去っていく。

 夕日を背に浮かぶその背中には、確かに後光が差していた。

 助けられた1年生は、感動のあまり膝をついた。

「……かっこいい。あれが、言葉を必要としない、真の強者の背中……!」


 その頃。3年A組の教室。夕暮れの光が、静かに差し込んでいた。

 学園で唯一、八木の正体を知る立花さんは、八木の机の上を見つめていた。

 そこには――数学の教科書。表紙の端が、綺麗に円形に齧り取られている。

「(……八木くん。食べてるよね、これ。みんなには『ミステリアスな貴公子』って美化されてるけど、これ絶対、お腹空いて齧ってるよね!?)」

 立花さんは深い溜息をつきながら、鞄から「緊急用レタス」を取り出した。

 明日もまた、飼育係の戦いは続く。

 八木先輩のミステリアスな伝説は、まだ始まったばかりである。

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