生蜀
いそじま
Phase 1:発症
一日を終えた実感などなかった。
毎日八時四十五分きっかりに出社し、十八時の定時ぴったりに帰る。
特に秀でた能力はない。だが欠点もない。
学生のころから付き合いのある友人が少しいる。趣味はない。
仕事以外で家をでる理由は食料や生活用品の購入。
プライベートのほとんどは自宅で流行りの動画をみるだけであった。
そして寝るときに毎回思う。
「お父さん。お母さん。ごめんなさい」
私はつまらない男だった。
だが、変わりたい。
そんな欲望は微塵もなかった。
もし、「他人が私に生まれたらどう思う?」とそんな妄想をふいにする。
きっとみんな刺激が足りないとありきたりな感想になるだろう。
だが、同時に私のうちにある感情を理解してもらえれば時期にわかる。
きっと誰しもが私として一生をすごせば十分満ち足りることができる。
そんな気がしてならなかった。
自己愛だ。
私は私を愛している。
世界中の誰よりも。
勘違いされては困るが私は、鏡をみて自分の容姿にうっとりするナルシストではない。
もちろん、自分の容姿については理解している。
今まで運動をしなかったつけが来ただらしない腹。
睨んでいると錯覚させてしまう眉間に刻まれた深いシワ。
最近では歳のせいか頭髪まで薄くなってきた気がする。
時に自分で笑ってしまうほどの容姿の悪さですらあった。
私は人一倍愛に飢えているのに、誰からも愛してもらえない。
そんな自分を嫌いになれないだけだった。
かくして、容姿にも恵まれず金もなく、つまらない私は生まれてこの方異性とお付き合いさせて頂く機会もなく、今後もずっと一人で生きていくような気がするのだった。
そして本日もいつも通り、定時に帰宅するのだった。
◇
「はぁ……はぁ……」
私は本日も寝る前に自分を愛する。
スマホの画面に映る彼女たちは、現実よりも鮮やかで、どこか手の届かない場所にいる。
最新の映像は音まで作り込まれていて、イヤホン越しに聞こえる吐息が、頭の奥をじわりと刺激した。
ゲーミングチェアに深く腰掛け、手の届く場所に必要なものを揃える。
眠る前にそれを済ませないと、逆に落ち着かなくなっている自分に気づく。
何度も見たはずの映像なのに、身体だけは正直で、考える前に反応してしまう。
それが快感なのか、ただの条件反射なのか、もう区別もつかない。
果てる。
そして後始末の際に左の手のひらに、じくりとした痛みが走った。
反射で肩が跳ね、右手が止まる。
息が喉の奥でひっかかったまま、しばらく動けなかった。
部屋の空気が急に濃くなった気がして、エアコンの送風音だけがやけに大きく聞こえる。
……なんだ、今の。
痛みは、刺すように短く、しかし妙に正確だった。
刺したのは爪でも刃でもない。
自分の身体の内側から、細い針を一本だけ差し込まれたみたいな痛み。
左手を広げる。天井の明かりに透かす。
手のひらの中央寄り、親指の付け根の少し下。そこに、昼間ついた傷がある。
段ボールだ。昼休み前、倉庫の片付けを手伝わされて、まとめてあった箱を持ち上げた時、角が指に引っかかって、紙で切ったみたいにスッと線が走った。
ほんの少し血が出て、ティッシュで押さえたら止まった。絆創膏を貼るほどじゃない。そんな、ただの小さな傷。
なのに、今になって痛む。
それも、さっきまで痛くなかったはずだ。
風呂に入る時も、シャンプーの泡が触れても特に気にならなかった。タオルで拭いても、なんとなく沁みるかな、くらい。
それが、いま。
右手で持っていたティッシュを見下ろし、次に左手の傷を見た。
頭の中で、どうでもいい計算が走る。
体の向き、指の角度、触れた面積。さっき痛かったのは、あの瞬間だけだ。
触れたのは、傷の真上――いや、少しずれたか。
「……気のせいか」
声に出して言うと、いくらか落ち着いた。
三十を過ぎた男が、こんな傷でいちいち騒ぐのは情けない。
そもそも、普段なら気にもしない。擦り傷も切り傷も、放っておけば治る。そういうものだ。
だから、これはただの偶然だ。タイミングが悪かっただけ。
傷の表面が乾きかけて、そこをこすった。そう思えば説明がつく。
説明がつくなら、怖くない。
怖くないはずだ。
そう言い聞かせながら、左手のひらをもう一度眺める。
薄い赤い線。周囲の皮膚が、ほんの少しだけ盛り上がっているようにも見える。
腫れ……?
いや、腫れと言うほどでもない。気にするからそう見える。
気にするな。
気にしないために、考えるのをやめたいのに、視線がそこへ戻ってしまう。
掻けば掻くほどかゆさが増すことをしってなお、
虫に刺された箇所を、無意識に何度も掻いてしまうみたいに。
左手を握って開いて、握って開いて。
痛みの有無を確かめるように動かす。
痛くない。大丈夫だ。なら終わり。
――なのに、もう一回だけ、と指が動く。
その時、また小さく痛んだ気がした。
「っ……」
短く息が漏れた。今度はさっきよりも浅い痛みだ。けれど、存在感ははっきりしている。
痛みは「ある」。しかも、触れた瞬間だけじゃなく、触れた後もしばらく残る。
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