時を詠む約束 短編:泥の掌、空を掴む指先

しわす五一

​時を詠む約束 短編:『泥の掌、空を掴む指先』

 その『手』は、もはや人間のものではなかった。


​ カイが握る漆黒の剣は、指の骨と癒着したかのように動かない。返り血でぬらぬらと滑る柄を、剥き出しの殺意だけで固定している。


 父と母を殺し、仲間を焼き、里を蹂躙した帝国兵たち。カイの指先は、彼らを『人』として数えることをやめていた。ただ、漆黒の刃を突き立て、引き裂き、その抵抗が消えるまで握りしめるだけの、呪われた機械。


​「そこを、どけぇ……ッ!」


​ しかし、運命は残酷な『重み』をもって、その手を止める。


 背後から振り下ろされた剛将の巨斧が、カイの右肩を叩き潰した。剣が石畳に落ち、甲高い音を立てる。間髪入れず、細剣がカイの脚の腱を正確に貫いた。


​「……あ、がぁぁぁっ!!」


​ カイは泥濘ぬかるみの中へと叩きつけられた。


 視界が真っ赤に染まり、地面を掴もうとした左手の生爪が石に当たって剥がれ落ちる。だが、カイはその痛みさえも『前へ進むための楔』として、折れた指を泥に突き立てて這った。


​ 目前には、リリィを閉じ込めた檻の馬車。


 鉄格子を握りしめる、リリィの白い指が見えた。


​(あと、少し……)


​ 生爪の剥がれたカイの指先が、空を掻く。リリィの指まで、あと数インチ。


 だが、無情な鞭の音が夜気を切り裂いた。馬車が動き出し、カイの伸ばした手の先から、愛しい少女を遠ざけていく。


​「リリィーーッ!!」


​ 虚空を掴んだカイの手。その時、加速する馬車の奥から、引き裂かれるような、けれど何よりも切実な絶唱が届いた。


​「カイ……! お願い、もういいの、逃げて……ッ! 生きて……! カイ、生きてぇぇ!!」


​ その声は、カイが己の命を投げ打ってでも戦おうとする『執念』を、根底から否定し、抱きしめるような祈りだった。


 彼女が最後に望んだのは、救済ではなく、カイという一人の少年が、この地獄を生き延びること。


​ その直後、カイの掌に天から何かが舞い落ちた。


 リリィの瞳から零れた熱い涙の雫。そして、千切れた虹色の石のお守り。


​「……ぁ……」


​ 掌に残った石には、リリィの体温が、そして今しがた放たれた『生きて』という呪いにも似た言霊の震えが、残酷なほど鮮明に宿っていた。


​ カイは、感覚を失いつつある指を必死に曲げ、その石を握りしめた。


 掌の傷口に石の角が食い込み、新たな血が流れる。だが、その『痛み』こそが、彼女に生かされた証だった。


​ 意識が急速に白濁していく。


 たとえ世界が白く塗り潰されようとも。


 この掌に食い込む石の重みと、耳の奥で鳴り止まない『生きて』という声がある限り――俺の指先は、地獄の底からでも、お前を掴み取りに行く。


​ 少年の意識は、リリィの最後の願いを掌に握りしめたまま、底知れぬ闇の淵へと沈んでいった。


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時を詠む約束 短編:泥の掌、空を掴む指先 しわす五一 @shikousakugo49

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