プロローグ: スラム街と別れの夜1

スラム街の名は「影の谷」と呼ばれていた。

街の中心部から遠く離れたこの場所は、かつては豊かな農地だったという噂が残るが、今では廃墟と化した建物が乱立し、雨水が溜まった溝が悪臭を放つ迷路のような路地が広がっていた。


空は常に灰色で、太陽の光が届く日は稀だった。人々はここで生き延びるために、街のゴミを漁ったり、危険な仕事を引き受けたりして日銭を稼いでいた。

病気が蔓延し、子供たちの笑い声よりも、飢えのうめき声が日常のBGMだった。そんな場所に、一組の夫婦が住んでいた。

夫のアルンは、30代半ばの瘦せた男で、かつては街の鍛冶屋の見習いだったが、仕事がなくなり、スラム街に流れ着いた。妻のリナは少し若く、優しい目をした女性で、元は近隣の村から嫁いできたが、夫とともに貧困の渦に飲み込まれていた。


二人の住む小屋は、腐った木材と錆びた鉄板で作られた粗末なものだった。屋根には穴が空き、雨が降ると床がびしょ濡れになる。


内部は狭く、寝床と小さな火鉢、わずかな食器だけが置かれていた。アルンは毎日、街の外れで廃品を集め、市場で安く売ることで何とか食料を調達していたが、最近は買い手がつかず、空腹の日々が続いていた。

「今日もこれだけか… パンと少しの干し肉。二人分にも足りないな」アルンは夕暮れに小屋に戻り、ため息をついた。リナは火鉢で湯を沸かし、薄いスープを作ろうとしていたが、お腹が大きくなっていた。妊娠していたのだ。


妊娠がわかったのは、数ヶ月前だった。最初は喜びに満ちた瞬間だった。「アルン、私たちに子供が… 神様の恵みよ!」リナは夫を抱きしめ、涙を流した。

アルンも微笑み、「そうだな。この子のために、もっと頑張るよ。名前は男の子ならエル、女の子ならエラにしようか」と語り合った。だが、現実は甘くなかった。食料が不足し、リナの体は日増しに弱っていった。

栄養が足りず、足がむくみ、顔色が悪くなった。「このままじゃ、私の体が持たないわ… 子供に何かあったらどうするの?」リナは夜中、夫に囁いた。

アルンは彼女を抱きしめ、「何とかするさ。明日はもっと遠くまで廃品を探しに行くよ。きっと良いものが見つかるはずだ」と励ましたが、心の中では不安が渦巻いていた。

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