住み継がれるもの-間宮響子-

江渡由太郎

住み継がれるもの-間宮響子-

 間宮響子は、二度とあの家には近づかないと決めていた。


 それでも――

 人生というものは、決意をあざ笑うように配置を変える。


 その日は仕事の帰りだった。

 夕暮れが住宅街を濁った水のように満たし、街灯が一つ、また一つと灯り始める時間帯。

 ナビが示した近道は、彼女の記憶の奥に沈めていた場所を正確に掘り起こした。


 ――ああ。

 足が止まったのは、理屈ではなかった。

 霊能力者としての勘、もっと言えば「嫌な予感」という生理反応に近いものだった。


 その家は、まだそこにあった。

 外壁は塗り替えられ、郵便受けは新品に変わり、玄関先には子供用の自転車が二台、無造作に倒れている。

 ミニバンが一台、エンジンの熱を残したまま駐車されていた。

 生活の匂いがする。

 幸福そうな、どこにでもある家族の気配。


 それが、余計に不気味だった。




 この家には、かつて一家が住んでいた。


 観葉植物は次々と枯れ、飼い犬は理由もなく死に、夜毎、誰もいないはずの廊下を「何か」が歩き回った。

 扉は震え、スプーンは宙を舞い、ラップ音は壁の内側からではなく、“部屋の中心”から鳴った。

 間宮響子は、呼ばれて来た。

 だが、祓えなかった。


 ――これは、家に憑いているのではない。

 ――土地に、棲みついている。

 しかも、女だった。


 生者への執着ではない。

 悪意ですらない。


 ただ、「ここに居続ける」という強烈な意志だけを持った存在。


 響子は家族に告げた。

 逃げなさい。ここは人が住む場所ではない。

 母と息子たちは出ていった。

 だが、父親だけが残った。


 時折、息子たちが様子を見に行くと、父は人が変わったように罵声を浴びせた。

 顔つきが違った。

 声が、重なっていた。

 そして、関わりは断たれた。


 数か月後、父親は孤独死した。

 腐敗は進み、発見されたとき、家の中は「住んでいた」というより、溶け合っていたと聞く。

 家族は相続を放棄した。

 義理の兄が家を引き取り、売った。


 それで終わった――はずだった。




 響子は、ゆっくりと二階の窓を見上げた。

 カーテンは半分だけ開いている。

 夕焼けを背に、窓の奥に“顔”があった。


 男の顔だ。

 皮膚は緑がかっていた。

 生者の色ではない。

 腐敗の名残でもない。

 目だけが、異様に澄んでいる。


 ――見ている。

 こちらを、確かに。


 間宮響子は、呼吸を忘れた。

 あの夫だ。

 孤独死した男。

 だが、そこにあったのは魂ではない。

 残骸だった。


 背後に、別の気配がある。

 女だ。

 姿は見えない。

 だが、わかる。

 あの女は、この家に新しく来た“家族”を拒んではいない。


 むしろ、歓迎している。

 そして――

 孤独死した男の魂を、この場所に縫い止めた。

 仲間として。


 窓の男の口が、わずかに開いた。

 声は出ない。

 だが、言葉は直接、響子の頭に流れ込んできた。


 ――ここは、出ていかない。

 ――住む者が、いなくなるまで。


 その瞬間、家の中から子供の笑い声が聞こえた。

現実の音だ。

 新しい家族の、何気ない日常。

 響子は、後ずさった。


 この家は祓えない。

 壊しても、燃やしても、土地が残る限り終わらない。

 ――住み継がれる。


 恐怖も、狂気も、孤独も。




 その夜、間宮響子は夢を見た。

 見知らぬ家の二階の窓から、緑色の顔が、こちらを見ている夢を。


 そして、夢の中で気づく。

 自分の背後にも、誰かが立っていることに。

 振り向く前に、目が覚めた。


 ――だが、安心はできなかった。

 天井のどこかで、コツ、コツ、と歩く音がしていた。


 二階など、存在しない部屋で。



 ――(完)――

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