断罪の瞬間に巻き戻りましたが私の心は拷問で壊れたままでした。殿下が泣いて謝罪してきますが、優しくするのは「新しい拷問」ですか? 愛していると言えば殴られないのなら、何度でも言います、ご主人様。

抵抗する拳

第1話

 大理石の床に響く靴音が、不快なほど規則正しく、冷静だった。


「――それで? 殿下がおっしゃりたいことは、以上でしょうか」


 王城の広間。貴族たちが息を潜めて見守る中、リリアナ・ベルンシュタイン公爵令嬢は、断罪の言葉を突きつけられてなお、眉一つ動かさずに言い放った。


 第一王子である俺、アルフレッドを見上げるその瞳。

 そこには婚約破棄を告げられた哀れな女の涙も、焦燥も、何一つ浮かんでいない。あるのは出来の悪い生徒を見る教師のような、あるいは害虫を観察するような、絶対的な「冷徹」だけだった。


 俺の腹の底で、ドロリとしたどす黒い感情が渦を巻く。

 そうだ。いつも、これだ。

 この女は常に俺を「品定め」している。


「リリアナ! 貴様、自分の立場が分かっているのか! 聖女ミナをいじめ抜き、階段から突き落とそうとした罪だぞ!」


 俺が怒声を張り上げても、リリアナは扇子を口元に当て、淡々と返す。


「その件につきましては先日、提出した報告書に記載した通りです。当該時刻、私は領地の財務監査のため王都を離れておりました。転移魔法の履歴も提出済みです。ミナ様の証言には物理的な矛盾が生じております」


「う⋯⋯っ」


「また、私の給仕がミナ様のドレスを切り裂いたという件ですが、あの日ミナ様が着用されていたシルクは横糸の性質上、刃物を使わずとも突起物に引っ掛ければ容易に裂けるものです。それを『悪意ある切りつけ』と断定するのは、いささか早計かと」


 理路整然とした反論。

 完璧な論理。

 一片の隙もない、美しい正論。


 だからこそ、腹立たしい。

 だからこそ、俺はこいつが憎くてたまらないのだ。


(ああ、そうだ。お前はいつも正しい。俺よりも賢く、俺よりも強く、俺よりも国を愛している)


 隣で震える聖女ミナが、俺の腕にしがみついてくる。


「怖い⋯⋯アルフレッド様⋯⋯リリアナ様、どうして嘘をつくの⋯⋯?」


 ミナの体温は温かい。彼女は俺を頼ってくれる。俺がいなければ生きていけないと涙目で俺を見上げてくれる。


 なのにリリアナは違う。

 彼女は俺など必要としていない。

 俺が「次期国王」という記号でなければ、見向きもしなかっただろう。


「⋯⋯言い訳をするな!!」


 俺は論理を暴力的な大声でねじ伏せた。


「証拠など後から何とでも偽造できる! 大事なのは、ミナが傷ついたという事実だ! 人の心を持たぬ冷血女のお前に、王妃の座など務まるものか!」


 俺の罵倒に周囲の貴族たちがざわめく。

 しかしリリアナは、青ざめるどころか、小さくため息をついた。

 それは駄々をこねる子供に向けられる、諦めを含んだ吐息だった。


 彼女は一歩、俺へと歩み寄る。

 その背筋は凍てつくほどに真っ直ぐで、気高い。


「アルフレッド殿下」


 氷の刃のような声が、俺の鼓膜を刺す。


「感情論で国政を語るのはおやめください。聖女様の『お気持ち』で、法と秩序を曲げるつもりですか? それでは為政者失格です」


「な⋯⋯なんだとっ!」


「目を覚ましてくださいませ。貴方様はこの国の未来を背負う方なのです。一時の情動に流され、正しき道を見失うなど⋯⋯そのような愚行、私の婚約者として許容できません」


 私の婚約者として。

 許容できない。


 その言葉が、俺の中で張り詰めていた最後の理性を焼き切った。


 ああ、やはりお前は。

 お前だけは、俺を見下しているんだな。

 俺を一人の男としてではなく「管理すべき未熟な存在」としてしか見ていない。


 俺の心に巣食っていた劣等感という怪物が、聖女の甘い毒に唆され咆哮を上げた。

 『やってしまえ』と。

 『この生意気な女の、すました仮面を砕いてしまえ』と。


「――黙れ」


 俺は右手を振り上げた。

 王族としての矜持も、男としての礼儀も、すべてかなぐり捨てて。


 バチンッ!!


 乾いた破裂音が、広間の空気を凍らせた。


 俺の拳がリリアナの白い頬を殴り飛ばしていた。

 完璧な体幹を誇る彼女も、まさか公衆の面前で暴力を振るわれるとは思っていなかったのだろう。

 リリアナの細い体は無様に体勢を崩し、硬い床へと叩きつけられた。


「あ⋯⋯」


 リリアナが、初めて小さな声を漏らす。

 結い上げられた銀髪が乱れ、唇の端から一筋の赤が流れる。

 いつも俺を見下ろしていた氷の瞳が、床を這う俺の視線の下にある。


 その光景を見た瞬間。

 俺の背筋を駆け上がったのは、罪悪感ではなかった。


(⋯⋯ああ、いい気味だ)


 それは脳が痺れるほどの、暗く甘美な愉悦だった。


 初めてだ。

 初めて、この女の「完璧」を崩してやった。

 俺の力で。俺の意志で。

 賢しい口をきくその唇を、物理的な痛みで黙らせてやったのだ。


「は⋯⋯っ、はは! 見たかリリアナ! これが俺の――」


 俺の力が、お前の正論を砕いたのだ。

 そう勝ち誇ろうとした瞬間だった。


 キィィィィィンッ――!!


 脳髄を直接ミキサーで撹拌されるような、鋭利な耳鳴りが頭蓋を貫いた。

 視界がノイズ混じりの赤に染まる。

 広間の煌びやかなシャンデリアが歪み、世界が反転する。


 ――違う。

 ここは広間ではない。

 湿ったカビの臭い。錆びた鉄の臭い。そして、肉が焦げる不快な異臭。


『謝れ! 俺を敬うと言え! 俺はお前より優れていると、泣いて認めろ!!』


 記憶の中の俺が松明の明かりに照らされた地下牢で絶叫している。

 手には真っ赤に熱せられた焼きごて⋯⋯目の前には、鎖で壁に繋がれたリリアナがいる。

 ドレスはボロボロに引き裂かれ、美しい肌は火傷と鞭の跡で地図のように埋め尽くされている。


 しかし、彼女の瞳だけは死んでいなかった。

 苦痛に脂汗を流しながら、それでも彼女は俺を真っ直ぐに見つめていた。


『⋯⋯認められません。殿下、貴方様は間違っている、どうか正気に戻ってください』

『まだ言うか! この期に及んで、まだ俺を見下すのか!』

『見下してなどおりません! 私は、貴方様に素晴らしい王になっていただきたいだけ⋯⋯国のために、貴方様のために⋯⋯きゃあああああっ!!』


 ジュッ、と皮膚が焼ける音が鼓膜に蘇る。

 俺は彼女の「正しさ」が許せなかった。

 彼女が俺のためを思って言っていることなど、分かっていた。

 分かっていたからこそ、その高潔さが俺の卑小さを照らし出す鏡のようで憎かったのだ。


『どこまでも生意気な女だ! 壊れろ! 壊れてしまえ! その賢しい自我があるから俺を否定するんだ!』


 俺は彼女が泣いて謝るまで指を一本ずつ折り⋯⋯、爪を剥ぎ⋯⋯、最後にはその精神(こころ)を焼き切るために、男たちに彼女を――。


 リリアナの瞳から光が消え、言葉を失い、ただの肉塊になったとき――俺は初めて「勝った」と思い、そして⋯⋯そして蘇る幼き頃の思い出。


 ――それは陽だまりのような、王宮の庭園での記憶。


 まだ六歳だった俺は、父王の背ろに隠れ、ガチガチに震えていた。

 初めての婚約者との顔合わせ。


 相手は俺と同じ年のリリアナ・ベルンシュタイン公爵令嬢。

 彼女はまるで絵本から抜け出した妖精のように美しく、そして俺とは対照的に背筋をピンと伸ばして堂々としていた。


(怖い⋯⋯。何を話せばいいんだろう。失敗したら、父上に怒られる)

 次期国王としてのプレッシャーに押しつぶされそうで俺は俯き、涙目になっていた。

 そんな俺の震える手にふわりと、温かな体温が触れた。


『アルフレッド殿下』


 顔を上げると、そこには太陽のような笑顔があった。

 リリアナが、そっと俺の手を握ってくれていたのだ。

 嘲笑も、呆れもない。ただ、迷子の子供を導くような慈愛に満ちた瞳。


『緊張なさっていますか? 実は私も、足が震えてしまっているのです』

『え⋯⋯? リリアナも?』

『はい。ですから、殿下が私の手を引いてくださると、とても勇気が出ますわ』


 嘘だ。彼女の足は微塵も震えていなかった。

 だけどその優しい嘘が、強張っていた俺の心をどれほど救ったことか。


 彼女は俺の情けなさを責めるのではなく、俺に「王子としての役割」と「自信」を持たせるために、あえて自分を下げて見せたのだ。


 なんて、優しい女の子なんだろう。

 なんて、聡明で美しい人なんだろう。


 俺が彼女に抱いた劣等感の正体。

 それは、どうしようもないほどの「憧れ」であり――人生で初めての「恋」だったのだ。

 風に揺れる銀髪。薔薇の香り。

 俺は赤くなった顔で彼女の手を強く握り返し、精一杯の言葉を紡いだ。


『あ、愛しています、リリアナ』

『はい。私も心から愛しております、アルフレッド様』

『き、きっと立派な王になってリリアナを幸せにしてみせます!』

『うふふ、そのときが楽しみです。良き王の伴侶として精一杯、お支えしますね』

 

 そうだ。あのとき誓ったではないか、立派な王になると、リリアナを幸せにすると。

 なのに俺は今、何をしている? 何故、彼女を傷つけているんだ?


「あ⋯⋯ああ、あ⋯⋯?」


 現実に戻った俺は、ガタガタと膝を震わせていた。

 すべて、思い出した。

 あの時、俺の手を優しく引いてくれた、あの柔らかく温かい指を。

 それを俺は一本ずつへし折り、二度と俺の手を握れないように、自ら破壊したのだ。


 聖女に洗脳された? 違う。

 俺だ。俺自身が望んだんだ。

 優秀すぎる彼女への嫉妬。劣等感。


 それを「正義」という言葉でコーティングして俺は自分の婚約者を、この国で一番俺を愛そうとしてくれていた女性を、無惨に破壊したのだ。


「う、わあああああああっ!!」


 俺は獣のような咆哮を上げ、頭を抱えた。

 取り返しのつかない罪悪感が、内臓を食い荒らす。


 まだ間に合うか?

 今はまだ、頬を殴っただけだ。まだ地下牢には入れていない。まだ彼女は壊れていない!


「リリアナ! す、すまない、俺が悪かった!」


 俺は床に倒れている彼女のもとへ駆け寄った。

 周囲の貴族たちが突然発狂した俺を見て悲鳴を上げている。

 聖女ミナが「えっ⋯⋯なにこれ、アルフレッド様?」と戸惑う声を上げているが、どうでもいい。


 俺は震える手でリリアナの細い肩に触れようとした。


「許してくれ、リリアナ。俺は愚かだっ――」


 その指先が、彼女の肩に触れた瞬間だった。


「ヒッ!?」


 リリアナの喉から聞いたこともないような短い悲鳴が弾けた。

 彼女はバネ仕掛けの人形のように跳ね起きると、俺から距離を取り床に額を擦り付けるほどの勢いで平伏した。


「も、申し訳ありません! 申し訳ありません、!!」


「⋯⋯え?」


 俺の手が空を切る。

 リリアナの声は、先ほどまでの凛とした響きを失っていた。

 恐怖に引きつり、裏返り、媚びへつらうような――奴隷の声。


 リリアナが顔を上げる。

 俺は息を呑んだ。


 そこに、気高い「鉄の女」はいなかった。

 焦点の合わない瞳が、虚空を泳いでいる。

 歯の根が合わず、カチカチと音を立てて震えている。


 彼女が見ているのは「現在の俺」ではない。

 頬を殴られた衝撃がトリガーとなり、彼女の中で時間は「一周目の拷問の最中」から地続きになってしまったのだ。


「生意気な口を利きました! 意見などいたしました! ごめんなさい、ごめんなさい、お許しください!」


「り、リリアナ? 何を言って⋯⋯俺だ、アルフレッドだ!」


「はい、存じております、偉大なるアルフレッド様! 無能な雌豚が、身の程をわきまえずに口答えをいたしました!」


 彼女は床に頭をガンガンと打ち付けながら、早口でまくし立てる。

 その姿に周囲の貴族たちが「おい、様子がおかしいぞ」「⋯⋯何が起きているんだ」「気でも触れたのか?」とざわめき始める。


 俺は血の気が引くのを感じた。

 違う。こんなリリアナは見たくない。

 俺を冷たく見下し論理的にさとしてくる、あの誇り高いリリアナに戻ってくれ。


「やめろ、頭を上げるんだ! 許す! もういい、俺が間違っていた!」


 俺が叫ぶとリリアナはビクリと肩を跳ねさせ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。


「あ⋯⋯声、ですか?」


 彼女は虚ろな目で俺ではなく、俺の後ろにある「見えない恐怖」を見つめて呟いた。


「私の声が、ご主人様の癇に障ったのですね? ああ、そうです、そうでした。有能ぶった私の言葉など、騒音でしかありませんものね」


 ガチッ、と彼女の顎に異常な力が篭もった。

 自分の舌を、奥歯で噛み砕こうとしているのだ。

 口の端から血の泡が吹き出し、ブチブチと繊維が断裂する音が――。


「やめろッ!!」


「んぐ、あぐッ――!」


 彼女は本気だった。

 自分の舌を噛みちぎろうとしていた。歯が舌に食い込み、口の端から鮮血が溢れ出す。


「リリアナ!! お願いだやめてくれ!」


 俺は慌てて彼女の手首を掴み、無理やり口から引き剥がした。

 彼女の口元は自分の血で赤く染まっている。


 それでも彼女は、恍惚とした絶望の表情で、血の泡を吹きながら叫んだ。


「この舌を切り落とせば許していただけますか!? もう二度と正論など吐きません! 思考もしません! ただの奴隷になります! ですから、どうか、どうか焼きごてだけは⋯⋯あぁぁぁぁっ!!」


 リリアナは頭を抱え、床を転げ回って錯乱した。

 ドレスは汚れ、高潔だった公爵令嬢の面影は微塵もない。

 そこにあるのは、俺が作り上げた「作品」。

 恐怖と暴力によって自我を粉砕された、哀れな肉人形。


「あ、あ⋯⋯」


 俺は膝から崩れ落ちた。

 広間の中心で壊れた婚約者と呆然とする俺。


 手遅れだった。

 謝れば済む段階など、とうの昔に過ぎ去っていたのだ。

 俺は自分の手で愛すべき女性を、永遠に殺してしまったのだと――突きつけられた瞬間だった。


「い、いやぁぁぁっ! 何よこれ、気持ち悪い!!」


 凍りついた広間の静寂を引き裂いたのは、聖女ミナのヒステリックな叫び声だった。


 彼女は、口元を血に染めて床を転げ回るリリアナを見て、生理的な嫌悪感を露わに顔を歪めていた。

 さっきまで「怖い」と震えていた可憐な聖女の仮面は剥がれ落ち、そこには自分のシナリオが崩れたことへの苛立ちしかなかった。


「アルフレッド様! ご覧になりましたか!? やっぱりこの女、狂っていますわ! 自分の舌を噛み切ろうとするなんて、正気じゃありません!」


 ミナは俺の腕を強引に揺さぶり、金切り声を上げた。


「早く! 早くこのゴミを処分してください! 地下牢へ入れるのでしょう!? 私のために、この生意気な女を二度と出てこられないようにするって、約束してくださったじゃない!」


「⋯⋯処分」


 その単語が、再びリリアナのスイッチを押してしまった。


 ビクンッ、とリリアナの細い体が跳ねる。

 虚ろだった瞳に、生々しい恐怖の色が宿る。

 彼女の壊れた脳裏に「処分」という言葉と結びついた、一周目の凄惨な記憶がフラッシュバックしたのだ。


「ひっ、あ、ああぁ⋯⋯っ!」


 リリアナはガタガタと震えながら、床を這った。

 俺の方へではない。

 聖女ミナの足元へと、蜘蛛のように這い寄っていく。


「な、何よ! 寄らないでよ汚らわしい!」


 ミナが後ずさり、ヒールの先でリリアナの手を蹴り飛ばした。

 バキッ、と嫌な音がして、リリアナの白魚のような指が赤く腫れ上がる。

 だが、リリアナは悲鳴を上げなかった。

 痛みなど、あの日々に比べれば些細なことだと言わんばかりに。


 彼女はあろうことか、自分を蹴り飛ばしたミナの足元に額を擦り付けたのだ。


「ひぃっ」

「おっしゃる通りでございます!!」


 リリアナが叫んだ。

 血の混じった唾を飛ばしながら、必死の形相で。


「私はゴミです! 狂っております! 聖女様のおっしゃることはすべて正しい! 私は汚れた、価値のない、廃棄されるべき肉人形です!」


「は⋯⋯?」


 ミナが呆気にとられて口を開ける。

 俺は、心臓を雑巾で絞られたかのように息が止まった。


 やめろ。もうやめてくれ。

 誇り高いリリアナ。誰よりも気高く、理不尽には断固としてノーを突きつけてきたお前が。

 自分を陥れた女に対して、そんなことを言わないでくれ。


 しかしリリアナは止まらない。

 彼女にとって、今の最優先事項は「プライドを守ること」ではない。「これ以上、痛いことをされないために、ご主人様(アルフレッド)の機嫌を損ねないこと」だけなのだ。


 ご主人様が愛している聖女を肯定しなければまた焼かれる。また爪を剥がされる。

 その防衛本能だけが、彼女を突き動かしている。


「ですから殿下! ご主人様! どうかご機嫌を直してくださいませ! 私が生意気だったから、聖女様を不快にさせたから、お怒りなのですよね!?」


 リリアナはミナの靴にすがりついた。


「ほら、ご覧ください! 私はこんなにも卑しい! 聖女様の靴の泥を、この舌で綺麗に舐め取りますから! ですからどうか、地下牢だけは! あの暗闇だけはご容赦ください!」


 リリアナは、本当にミナの靴先に口づけようとした。

 公爵令嬢としての矜持も、人間としての尊厳も、すべてかなぐり捨てて。


「う、うぷッ⋯⋯」


 俺の喉の奥から、胃液が逆流してきた。

 嘔吐感。

 それはリリアナへの嫌悪ではない。

 こんな姿にさせてしまった、自分自身への強烈な吐き気だ。


 俺は望んでいたのではなかったか?

 俺を見下さない、従順なリリアナを。

 俺の顔色を窺い、俺の愛するものを肯定し、なりふり構わず俺にすがる女を。


(見ろ。これが、お前の望んだ「可愛いリリアナ」だぞ)


 脳内の声が嘲笑う。

 そうだ。これは俺の作品だ。俺の嫉妬と劣等感が作り上げた、成れの果てだ。


「⋯⋯もう、いい」


 俺は口元を拭い、掠れた声で呟いた。


「アルフレッド様? 早くやってしまいなさいよ! この女の顔を踏みつけて⋯⋯」


「黙れッ!!!」


 俺の絶叫が、ミナの言葉を遮った。

 広間の空気がビリビリと震える。


「⋯⋯連れて行け」


 俺は衛兵たちに命じた。視線はミナを睨みつけている。


「その女を、視界から消せ。二度と俺の前に顔を見せるな」

「え⋯⋯?」


 ミナは状況が理解できないようだった。

 衛兵たちが戸惑いながらも王子の命令に従い、聖女の腕を掴む。


「ち、ちょっと! 何をするの!? 狂っているのは私じゃない、あの女よ! 私は聖女よ!?」

「狂っているのは俺だ!!」


 俺は叫び返した。涙が止まらなかった。


「俺が狂っていたから、あんなペテン師の言葉を信じた! 俺が狂っていたから一番大切な女性を、こんな姿にしてしまったんだ!」


 衛兵に引きずられていくミナ。

 彼女は最後に悪鬼のような形相で俺を振り返り、決定的な呪詛を吐き捨てた。


「ふざけないでよ! あんた、全部私のせいにする気!?」


 ミナの声が広間に響き渡る。


「狂ってた? 笑わせないでよ! あんた、楽しんでたじゃない! 『あいつが泣き叫ぶ顔が見たい』って、地下牢でワイン飲んでたじゃない! 私は覚えてるわよ! 実行犯はあんたよ、人殺し!!」


 図星だった。

 その言葉の刃は、あまりにも深く、正確に俺の心臓を抉り抜いた。


 扉が閉まり、ミナの声が遠ざかる。

 残されたのは、凍りついた貴族たちと、床にうずくまって震え続けるリリアナ。

 そして、取り返しのつかない罪を背負った、俺だけだった。


「⋯⋯ひ、ひぃ⋯⋯ごめんなさい、ごめんなさい⋯⋯」


 リリアナはまだ聖女がいなくなった空間に向かって、許しを乞い続けていた。

 その姿はあまりにも痛ましく、そして、もう二度と元には戻らないのだという絶望だけが、そこに横たわっていた。



            * * *



 静寂に包まれた、王城の離宮。

 窓から差し込む午後の日差しは暖かく、テーブルには最高級の紅茶と菓子が並んでいる。

 傍から見れば、それは「仲睦まじい王子と婚約者」の幸福なティータイムに見えるだろう。


「⋯⋯どうぞ、ご主人様。温度は最適に調整してあります」


 リリアナが一滴の飛沫も跳ねさせず、完璧な所作でカップを差し出した。

 その表情は穏やかな微笑みを湛えている。

 ドレスの裾の乱れ一つなく、背筋はピンと伸び、かつての「完璧な公爵令嬢」そのものだ。


 だが、俺は知っている。

 テーブルクロスの下で、彼女の膝が小刻みに震えていることを。


「ありがとう、リリアナ。⋯⋯とても美味しいよ」


 俺が努めて優しく声をかけると、彼女の肩がわずかに跳ねた。

 彼女は瞬時に俺の顔色を伺い――観察し、正解を探るように瞳を揺らす。


「恐悦至極に存じます。⋯⋯毒見は済ませておりますが、お気に召しましたでしょうか。甘みは足りておりますか? ぬるくはありませんか? 不快ではありませんか?」


「大丈夫だ。完璧だよ。⋯⋯そんなに怯えなくていい」


 俺は彼女を安心させようと、そっと手を伸ばした。

 彼女の美しい銀髪を、愛おしく撫でようとしただけだった。


 しかし、俺の手が視界に入った瞬間。

 リリアナの微笑みが凍りついた。


「ヒッ⋯⋯!」


 彼女は反射的に首を竦め、両手で頭を庇う姿勢を取った。

 それは何度も何度も殴られ、焼かれ、痛めつけられた者だけが身につける、悲しい防衛本能。


「あ⋯⋯も、申し訳ありません! 避けたりして申し訳ありません!」


 彼女はすぐに自分の失態に気づき、青ざめた顔で頭を下げた。


「叩かれるのかと⋯⋯いえ、違います! しつけをしていただけるのに、生意気にも避けようとしました! どうぞ、お続けください! 頬でも、髪でも、お好きなように!」


 リリアナは目を固く閉じ、震えながら頬を差し出す。

 暴力という名の「教育」を受け入れるために。


「⋯⋯違う、違うんだ。俺は、ただ君に触れたかっただけで⋯⋯」


 俺の手は空を彷徨い、力なく下ろされた。

 何度言っても届かない。

 彼女の中で俺の手はもう「愛撫するもの」ではなく、「苦痛を与える凶器」としてしか認識されていないのだ。


(ああ⋯⋯なんという地獄だ)


 俺はカップの中の紅茶を見つめ、自嘲した。


 かつて俺は、彼女の「有能さ」が憎かった。

 俺を見下ろしているかのような、あの冷静沈着な態度が許せなかった。

 だから壊した。プライドをへし折り、俺に媚びへつらうだけの存在にしたかった。


 願いは叶ったではないか。

 今の彼女は、俺の言葉一つに過敏に反応し、俺の機嫌を損ねないよう、死に物狂いで「完璧な給仕」をこなしている。

 かつての有能さはそのままに、中身だけが「恐怖に支配された奴隷」へと成り果てた。


 俺が彼女の有能さに嫉妬した結果、彼女は「従順でなければ殺される」という強迫観念の檻に閉じ込められたのだ。


「⋯⋯リリアナ」

「はい! 何でしょうかご主人様! 何か不備がございましたか!?」

「こっちへおいで」


 俺が呼ぶと、彼女は騎士のような素早さで俺の足元に跪いた。

 俺は彼女を抱き寄せる。

 彼女の体は、抱きしめられる安堵ではなく緊張で硬直している。まるで氷の彫像を抱いているようだ。


 それでも、俺はこの温もりを手放せない。

 俺が壊した。俺が狂わせた。

 だから俺には、一生この「罪」を愛し続ける義務がある。


「愛しているよ、リリアナ」


 俺は彼女の耳元で囁いた。

 かつてはなかなか言えなかった、けれど今は毎日繰り返している言葉。


 リリアナは、俺の胸の中でゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、光がない。

 深い絶望の闇の底で、彼女は必死に「正解の表情」を演算している。


 やがて、彼女はふわりと微笑んだ。

 聖女よりも美しく、天使のように愛らしい、完璧な笑顔で。


「はい。私も心から愛しております、ご主人様」


 甘い声が、俺の鼓膜を溶かす。

 そして彼女は小首を傾げて、無邪気に――けれど真剣な目で問いかけた。


「⋯⋯今の『愛している』は、合格でしたでしょうか?」

「――――ッ」


 心臓が、冷たい手で握り潰されたようだった。


 彼女にとって「愛」とは、感情ではない。

 拷問を回避するための「回答」であり、俺という支配者を満足させるための「演技」なのだ。


 俺は涙を堪え、笑顔の仮面を貼り付けた。

 ここで泣いてはいけない。

 俺が否定すれば、彼女は「不合格だった」とパニックを起こし、また自傷を始めるだろう。


 だから俺は、一生騙され続けるしかない。

 彼女が恐怖のあまり紡ぎ出す、虚構の愛の言葉を。

 俺自身の嫉妬が招いた、この甘く残酷な煉獄の中で。


「ああ⋯⋯合格だ。大変よくできました、リリアナ」

「よかった⋯⋯! ありがとうございます、ありがとうございます⋯⋯!」


 安堵のあまり涙を流し、俺の手に頬ずりをするリリアナ。

 その姿は、まるで主人に褒められた愛玩具のようだった。


 俺は彼女の頭を撫で続ける。

 終わらない贖罪と永遠のすれ違いを抱きしめて。

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