誓いノ淵

なるにぃ

第1話 ハッピーエンドの前触れ

夕闇の中、焼け焦げた柱だけが墓標のように立ち並ぶ。

十九歳のルーニャは、ボロボロの衣服を血に染め、荒い息を吐きながら廃墟を進む。


「……ただいま」


かつて暖炉があった場所を見つめ、彼女は小さく微笑んだ。


その背中を、容赦ない怒号が突き刺す。


「いたぞ、バケモノだ!!」


別の声が重なる。


「逃がすな! 矢を放てッ!!」


――ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!!


矢が風を切る音が、無数に重なる。

背中、肩、足へ。

逃げ場のない鉄の雨が、次々と突き刺さる。


「……っ、あ……」


ルーニャは衝撃で膝をついた。

全身から溢れ出した血が地面を濡らし、矢だらけの無残な姿になる。


 


這いつくばる彼女の視界に、巨大な影が落ちた。


ゆっくりと歩み寄る、漆黒の鎧の男。


――パパ。


その手には、不気味な鈍い光を放つ巨大な処刑斧が握られていた。


 


もうすぐ、私は殺される。


振り下ろすのは――祖国の英雄、父の手。

殺されるのは――その祖国を滅ぼした魔女。


 


鎧の男は無言で斧を構えた。


 


「……ねえ、パパ?」


 


口から零れる血を飲み込み、いつものように強がってみせる。


「私、昔は聖女って呼ばれてたんだよ。

――いろんな人に、夢と希望を与える幻を見せていたの」


鉄の仮面の奥は暗く、感情は読めない。


「でも、覚えてる?

昔、パパが私を愛してたように、私も妹を生かしたかっただけなんだ」


 


斧が振り下ろされる。

視界が反転し、吹き出した血が空を汚した。


(ああ……あの日も、こんなふうに――視界が、混ざり合っていたっけ)


 


そして、ふと。


そこに“誰か”の気配があった。


(ああ、そこに誰かいるの?)


声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でも分からない。

けれど返事を待つ前に、私はもう名前を知っていた。


(ああ、ルツか。)


――私の、たったひとりの『共犯者』。


 


良かったら、私の走馬灯、一緒にみてかない?


ひょっとしたらあなたなら、過去を変えられるかもしれないものね。

そうでしょ?


 


腐臭が、ふっと消える。


代わりに胸いっぱいに流れ込んできたのは、

「湿った土」と「雨」の匂いだった。


冷たい風が頬を撫で、耳の奥で水が鳴る。


 


――それは、十一年前の初夏。


 


 


最初の異変は、あの沼で起こった。


「願いの泉」――女神が棲み、願いを叶えるという言い伝えの場所。


けれど、私たちが辿り着いた先に広がっていたのは、ただの泥沼だった。

雨水を含んだ黒い水面がぬるりと揺れ、踏み込めば足首から奪われそうな匂いがした。


女神なんていそうにない。


代わりにそこにあったのは、盛り上がった土の塚――

無縁仏の墓標が、いくつも固まっている景色だった。


隣で、トレアが息を呑む。

生まれつき目の見えない妹は、私の袖をきゅっと掴んだ。

見えないのに、不穏な空気だけは敏感に察するのだ。


「……昔、ここで何かあったのかな?」


自分に言い聞かせるみたいに呟くと、トレアが首を傾げる。


私は、笑ってみせた。

怖くないふりをするのは、いつだって私の役目だ。


「……たぶんね。今日は、泉も女神さまも調子悪いみたいだけど」


――ここは禁域。足を踏み入れた者は、子どもであろうと処分される。


それを知っていて、私たちは来た。


噂が本当なら。

もしこの場所に、ほんの欠片でも“願い”が残っているなら。


『妹トレアの目が治りますように』


胸の奥でそう唱えた瞬間、視界の端で、泥の中から突き出た筒が見えた。


私は屈んで引き抜く。

泥が重く絡みつき、ずるりと嫌な音を立てた。


小さなガラスの万華鏡だった。


外側は腐って、金具も黒ずんでいるのに、壊れてはいない。

口元を袖で拭って、吸い込まれるように覗き込んだ。


――星の世界が、そこにあった。


砕けた光が幾重にも重なり、夜空みたいな深さが掌の中に収まっている。

綺麗で、気味が悪いほど綺麗で、息をするのを忘れた。


 


「何か、拾ったの?」


不意にトレアが私の袖を揺らした。


「……え? あ、いや。なんでもないよ」


私は慌てて、拾った万華鏡を背中に隠した。


いつか妹の目が治った時のために、サプライズプレゼントにしよう。

この光を、トレアにも見せてあげたい――そう思ったから。


 


夜が来ると、私たちは窓辺に寄り添い、乏しい月明かりを頼りに本を開くのが日課だった。


光を知らないあの子にとって、私が読み聞かせる物語こそが、

彼女が触れられる唯一の宇宙だったから。


私は手元の古びたページを目で追い、淡々と読み上げる。


「そこには夕日で赤く染まった海が――」


その言葉に、トレアが弾かれたように身を乗り出した。

見えない瞳を輝かせ、私の袖を引く。


「ねえ、お姉ちゃん!!海ってなに!?」


こういう時、私は決まって丁寧に教えてあげてた。


「海はね、クソデカい水たまりだよ」


「クソデカい?じゃ、どうして赤くなるの?」


「それはね、太陽にしばかれて、朝夕二回、血まみれにされるからだよ?」


「え!?クソデカいくせに!?」


「上には上がいるの。それが自然の摂理。トレアも気をつけてね」


「う、うん…」


めんどくさくて、ときどき雑に答えてた。

――けど、あの時間が好きだったな。


 


そんなトレアはある時から、月日が流れることを恐れるようになった。


「もうすぐ独りになる気がする」とずっと怯えていた。


だから私は、トレアを元気づけるちょっとしたホラ話を用意した。


 


その日、木陰は涼しくて、葉の隙間から落ちる光が地面で揺れていた。


けど木陰に腰かけたトレアは膝を抱えたまま、黙って震えていた。


だから私は、わざと明るく声をかけた。


 


「当ててあげようか。……また一人になるって、悩んでるんじゃない?」


トレアが小さく肩をすくめた。

その反応だけで、図星だと分かる。


私は彼女の手を包み、ぎゅっと握った。


「大丈夫。トレアの傍には、いつだって――ルツがいるから」


「……ルツ?」


首を傾げる妹に、私は息を整えてから言った。


ルツ――困った人を助けてくれる、願いを叶える妖精。天使さま。


もちろん、でまかせだ。


でも、あの子を安心させたかった。安心して、眠ってほしかった。


「ほら、今だって横にいるよ。触ることはできないけど……ちゃんと傍にいる」


トレアは、見えないはずの空間に顔を向けた。

真剣にルツを探してる。

当然そこにはなにもないけれど。


胸がきゅっと痛んだ。

それでも、私は続ける。


「それでね。トレアに贈り物があるみたい。願いを叶えてくれるって証なんだって。だからどんな時も、トレアは一人じゃないよ」


「え……?どこ?」


「ほら――足元に」


私は、袖の奥に隠していた万華鏡をそっと地面に置いた。


言葉に誘導され、トレアの手が地面を探り、その筒に触れる。


「ホントだ……でも、これなに?なんに使うの?」


「なんだろうね。でも、ずっと持ってたらさ。

いつか、それが何か分かる日が来るんじゃない?」


万華鏡を大事そうに抱きしめ、トレアは何もない空間に向かって、はにかむように微笑みかけた。


「はじめまして、ルツ。そこにいますか?」


 


そんな私たちの日常は、ある日、急に狂い始めた。


ママが「名誉ある役目」に選ばれたのだ。


――連れていかれた。兵士に囲まれて。何も分からないまま。


それっきり、帰ってこなかった。

そして、誰もどうしてそれが“名誉”なのか教えてはくれなかった。


凄く、悲しかった。


けれど、いつも慰めてくれていたママは、もういない。

それが、余計に悲しかったな。


だから、せめて私がママの代わりを頑張ろうって思ったんだ。


泣いてばかりじゃいけない。

私がしっかりしなきゃ。


 


ある日の夕暮れ。


私は不慣れな手つきで食事を用意し、食卓についた父へ明るく声をかけた。


「パパ、ごはんできたよ!」


ガシャンッ!


乾いた破砕音が響き渡り、スープの皿が床に叩き落とされた。

飛び散った欠片と汁が、床を汚していく。


「パパ……?」


事態が飲み込めず、私は呆然とパパを見上げた。


パパは無言のまま、静かに立ち上がる。

その顔には怒りも、悲しみもなかった。

あるのは、凍てつくような無関心だけ。


彼は私に背を向けると、低い声で吐き捨てた。


「……これからは、“騎士長様”と呼べ。二度と、パパなどと呼ぶな」


冷たい拒絶。

遠ざかる背中は一度も振り返らなかった。


部屋に残されたのは、散らばった食器の残骸と、私たち姉妹だけ。


「……大丈夫? お姉ちゃん?」


部屋の隅で、音に怯えていたトレアが震える声で私を呼ぶ。


私は、震える唇を噛みしめ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 


 


 


しばらくして、私たち姉妹は都への呼び出しを受けた。


生まれて初めて訪れる煌びやかな都。

馬車に揺られながら、私は少しだけ胸を躍らせていた。


けれど、そこで私たちは初めて、残酷すぎる“現実”を知ることになったのだ。


馬車が市街に入った途端、通りを行き交う人々の視線が、異物を見るような鋭さに変わる。


「おい、あいつを見ろ!?」

「黒髪だ――」

「野人だ! 化け物だ!」

「呪われた黒髪が、堂々と街にいるぞ!」


罵声が礫(つぶて)のように降り注ぐ。


この国では、「野人」は繁殖を禁じられている。

生きていい子供は、一家にひとりまで。

二人目以降は“余剰”とみなされ、処分される。


――それが、あの人たちの言う“管理”。


私たちは今まで一緒だったけれど、それは単なる管理ミスだったようだ。

だって、その呪われた特徴である「黒髪」が顕著に出たのは、妹のほうだけだったから。


「不吉な黒髪だ!」

「街から追い出せ!」

「こいつ、自分の見た目も知らねえってよ!!」


目が見えないトレアは、自分がなぜ罵倒されているのか分からず、ただ小さく震えている。


そんな妹を嘲笑うように、男たちの下卑た笑い声が響いた。


「グハハ! 傑作だ!」

「良かったな! 現実が見えてなくて!」

「醜い黒髪の怪物が!」


「やめて!」


私はたまらず叫んだ。

妹を抱きしめ、群衆を睨みつける。


「妹にひどいこと言わないで!」


しかし、群衆の悪意は止まらない。

むしろ、私へと標的を変えて広がっていく。


「……妹? じゃあ、お前も野人の血が入ってんのか?」

「ああ、そういうことか」

「今からお前ら、『審判』だな!?」


審判。


その言葉に、私の心臓が凍り付く。


「え!?」

「おいおい、“余剰”はどっちだぁ!?」

「増えすぎた野人はちゃんと間引かねえとなぁ!」


殺意の混じった笑い声が包囲網を狭めてくる。


まずい。

双子だとバレたら、どちらかが、あるいは二人とも殺される。

私たち、姉妹であることを隠さなきゃ――!


「ダメ、違う!!」


私は叫んでいた。

抱きしめていたトレアの手を、振り払うように。


「この子は……ホントの妹じゃない!! 血の繋がりなんてない!!」


群衆がざわめく。


「はぁん? 証拠は?」

「わ、私の髪は、黒くないもん!!」


私は自分の髪を掴んで突き出した。


「だから私は……“野人なんか”じゃない」


ごめんね、トレア。

とっさに、そんな言葉しか浮かばなかったの。


突き放されたトレアは、少しだけ驚いたように顔を上げた後、悟ったように微笑んだ。


「……よかった。お姉ちゃんが野人じゃなくて」


あの子の、あんなに悲しい笑顔を、私は初めて見た。


胸が張り裂けそうになったその時、馬車の扉が荒々しく開かれる。


「ついたぞ! 降りろ!!」


御者の怒鳴り声が、残酷な幕切れを告げた。


 


 


 


審査の末、トレアは“余剰”と判断された。


処分は、一か月後。


「それまでは今まで通りに暮らしていい」


そう告げられた。


役人は温情のつもりでそう言ったのかもしれない。けれど――


今まで通り?


そんなの、できるわけがなかった。


あと一か月で失われる日常を。


どうやったら、うまく。


「今まで通り」過ごせるの?


……だから私は、隠れて泣いてた。


泣いてたはず、だった。


けど――その姿を、トレアに見られてしまったの。


 


次の朝。


 


トレアが、いない。


 


布団はまだ温かいのに。

玄関の戸が、わずかに開いていた。


「……うそでしょ」


裸足のまま外へ飛び出す。

冷たい土が足裏に刺さる。


地面には、乱れた足跡。

小さく、ふらついて、ところどころ転んだ跡まで残っている。


――ひとりで外に出たことなんて、今まで一度もないのに。


足跡は、村の外れへ向かっていた。

そして、禁域へ。


そこは子どもが近づいたら、叱られる場所。

大人でも、理由がなければ入らない場所。


「なんで……なんでそっちに……!」


走りながら、頭の奥で“答え”が浮かび上がる。


私が、トレアを安心させるために作った――あの嘘。


願いを叶える泉。

守り神の妖精ルツ。

泣かないで。きっと助けてくれる。


全部、妹のために。

全部、私の都合で。


「トレアのバカ……っ!」


息が切れる。喉が痛い。


足跡が途切れかけたところで、私は見つけた。


倒れた草。泥に押しつけられた手形。

そして、少し先で、木の根にしがみつくように座り込む小さな背中。


「トレア!」


妹は、私の声に肩を震わせた。

顔は泥だらけ。膝は擦りむけている。

それでも、こちらに向き直ろうとする。


「お姉ちゃん……? 来ちゃったの……?」


「当たり前でしょ! ひとりで禁域に来るなんて……! 目も見えないのに……!」


言葉が、怒りの形を借りて溢れた。

本当は怖かった。失うのが。


「ここ、願いの泉に行く道だよね」


トレアが言った。


胸の奥が、ぎゅっと潰れる。


「……違う。そんなの、嘘だよ」


私が作った嘘。

私が、守れない嘘。


「ルツに会うの。お願いするの」


「やめて!」私は叫んだ。

「願いの泉なんて、嘘だったのに!」


トレアは、驚いたように瞬きをした。

それから、ぽつりと。


「うん。知ってる」


「……は?」


「だって、お姉ちゃん、昨日泣いてた」


心臓が止まった。


「泣いてない!」私は反射で否定した。

「お姉ちゃんだから!」


「泣いてたよ。音がしたもん」


「してない!」


「してた」


「してない!」


言い合いが、幼い頃みたいにぐるぐる回る。

――違う。今はそんな場合じゃない。


私は無理やり息を整えた。


「……とにかく、帰ろう。誰かに見つかったら――」


トレアは、握った私の手に力を込めた。


「違うの。私がお願いしたいのは――」


そこで、言葉が途切れた。

まるで、決心を飲み込むみたいに。


「お姉ちゃんが、泣かないで済むようにしたい」


一瞬、世界が静かになった。


「私がいなくなったあとも……お姉ちゃんのそばに、いてくれるものを。

 ルツに、頼みに行くの」


喉の奥が、熱くなった。

怒りが消えて、代わりに、罪悪感が押し寄せる。


――私の嘘のせいで、この子は、私を慰めようとしてる。


「……トレア……」


そのとき。


茂みの向こうから、金属の擦れる音がした。


「――侵入者は近い!手分けして探しだせ!」


凍りつく。


番兵たちの怒号。

禁域の木々が、ざわりと鳴った。


「ダメ。逃げるよ」


声が震えた。自分の声じゃないみたいだった。


見つかったら処分される。

禁域に入った者は、見つかれば――それだけで終わりだ。


だから私は、トレアの手を引いて、木々の影へ滑り込もうとした。

急いで、息を殺して、隠れる。それしかない。


でも――


ごつり、と乾いた音がした。


木の根に足を取られて、トレアが転ぶ。

土を叩く音が、夜よりも大きく響いた。


「トレア! 起き上が――」


言いかけた瞬間だった。


「誰だ!! そこにいるのは!?」


鉄の声。番兵の怒号。

心臓が凍りつき、次の拍で砕けそうになった。


私は驚きのあまり、反射で身を引いた。


木の影へ、半歩。

もう半歩。


気づけば、自分の口を押さえていた。

声が漏れたら終わる。そう思ったのかもしれない。


でも――


その半歩が、取り返しのつかない半歩だった。


「見つけた!」


松明の火が揺れ、赤い光が地面を舐める。


そこに映ったのは、泥だらけで膝をついたトレアの姿だった。


「噂の騎士長様の……この野人か。で、もう一人は?」


番兵の視線が、周囲を探る。

木々の間を、獣みたいに嗅ぎ回る。


私は、息を止めた。

喉の奥が痛い。目の奥が熱い。


「はっ! 目が見えないのに、こんなとこまで一人で来れるわけないだろう!」


番兵が吐き捨てる。


「まあいい。じっくり聞いてやる。来い!」


腕を掴まれたトレアが、怯えたように身をすくめた。

それでも彼女は、私の方へ顔を向けた。

見えていないはずの目で、まるで――私を探すみたいに。


禁域に入った者は、見つかれば――


けれど、あの子はどのみち。

一か月後には、“処分”される。


……だから少し早まっただけだ。

そう思えば、痛みが薄れる気がした。


――気づけば私は、そんなふうに自分を慰めていた。


最低だ。

酷いお姉ちゃんだ。

ごめんね、トレア。


私は、木の影で口を押さえたまま、

泣くことさえ許されない顔で――ただ、見ていた。


 


鉄格子の向こうは、冷えた闇だった。


湿った石の匂いが鼻に刺さり、たいまつの火が揺れるたび、影が伸び縮みする。


その影の中で、トレアは座っていた。

膝を抱き、背を丸めて――それでも、私の気配に気づくと顔を上げた。


「……ごめんね」


小さな声だった。

謝る必要なんて、どこにもないのに。


「……あ、謝らないで」


喉が詰まって、言葉が擦れた。


私は、必死に笑おうとした。

笑っていれば、まだ何かを守れる気がして。


「わ、私たち……天国できっと、また逢えるから!」


トレアは一瞬きょとんとして、首を傾げた。


「天国? でも……野人は化け物だから、天国にいけないって。さっき言われたよ」


その言葉が、胸を削った。


化け物。


あいつらの口から吐かれた言葉が、そのまま鎖になる。


「そ、そいつは知らなかったの!!」


声が跳ねる。


私は格子を掴んで、身を乗り出した。


「ルツがいるって!!」


「……え?」


トレアの眉が少し上がる。

その小さな反応が、私に残された唯一の道しるべみたいだった。


「ルツが……どこにいても、見つけてくれる」


私は言い聞かせるように、早口になる。


「迎えに来てくれるの。だから、きっと、いつか――」


言葉の端が震えた。

嘘だと分かっているのに、止められない。


「……私たち、天国で逢えるよ!!」


トレアは沈黙した。

その沈黙が怖くて、私は息もできなかった。


けれど、次の瞬間――


「……うん。そっか!!」


ぱっと、明るい声。


「じゃあ、寂しくないね!」


トレアが笑う。

いつものように、私を安心させるみたいに。


その笑顔は、とても優しくて――

そして、やっぱり寂しそうだったよ。


 


崖の上は、風が冷たかった。

朝の匂いは、まだ眠りきれない土と、湿った草と、どこか遠い霧の味がする。


私たちは並んで腰を下ろし、足をぶらつかせていた。

下を覗けば、白い靄が底を隠している。深さだけが、喉の奥に残った。


――結局。

禁域でつまずいた瞬間から、もう歯車は戻らなかった。

「一か月後」は、今日になっただけだ。


トレアが、膝の上で指を組んだ。

その指先は、小さく震えている。


「ねえ、お姉ちゃん」

トレアが、空のほうを向いたまま言う。


「わたしとお姉ちゃん、双子なのに。……どこが違ったの?」


「違いなんて、ないよ」

即答したつもりなのに、声が少し遅れた。喉が乾いていた。


トレアは見えないはずの瞳で、空の方向をまっすぐ見ている。

ありもしない“答え”を見透かすように。


「……じゃあ、なんでみんな、私たちを『違う』って言うの?」

「わたし、目が見えないから、自分じゃ分からないよ」


その一言が、胸の奥をえぐった。

見えないせいで、痛みの理由さえ奪われている。


「そんなこと……目の見える『普通の人』だって、分からないよ」


私の声は、自分でも分かるくらい、震えていた。


「……じゃあ、なんで私だけ」

トレアの声が、少しだけ尖った。

「なんで私だけ、死ななきゃいけないの?」

「“普通”って、なに?」


私は答えを持っていなかった。

持っているふりしか、もうできない。


「トレアは、トレアだよ」

「それ以上でも、それ以下でもない」


沈黙が落ちる。

風が強くなって、衣服の端を引っ張った。

朝日が、私のまぶたを薄く焼く。


「……じゃあ!!」


トレアが初めて、はっきり怒った。

小さな体の奥から、堪えていたものが裂ける音がした。


「何がダメで、何を治せばよかったのか!」

「せめてお姉ちゃんは教えてよ!」

「どうすれば、ありのままで、生きていけたのか!」


私は息を呑んだ。

答えがないことが、こんなにも残酷だなんて。


「……分かんない」

口に出した瞬間、負けた気がした。

でも嘘は、もう使えない。


「分かんないけど……」

私は朝の光を睨むみたいに、目を細めた。

「もっと、ちゃんとした世界だったらよかったのに」

「変なルールなんかない、別の世界だったら――」


その瞬間。


トレアが立ち上がって、私にしがみついた。

小さな身体が、必死にしがみついて、離れない。


「そんな世界、いらない!」


泣き叫ぶ声が、朝の風に裂けた。


「わたし……どんなに酷い扱いを受けても」

「やっぱり、お姉ちゃんがいるこの世界で良かった!!」


涙が頬を伝うのが、私の首に落ちて、熱かった。


「もう贅沢は言わない」

「わがままも言わない……!」


声が震える。


「だって、それでも私……」


トレアは、息を詰めて。

最後の言葉だけ、なぜか穏やかに言った。


「――幸せだったから」


そのまま、膝から崩れ落ちる。

私の服を握ったまま、子どもみたいに泣いて。


「だからもうちょっとだけ……一緒にいたかったよぉおお……!」


私は、頭の中が真っ白になって。

それでも、口だけが勝手に動いた。


「……ルツが」

「ルツが、きっと助けてくれる……」


嘘だ。

嘘だと分かっているのに、言わないと、私が壊れる。


そのとき、背後で、靴音が止まった。


「時間だ」


処刑人の声。

それだけで世界が終わる音がした。


「……やだ……!」


トレアが、縁へ引かれる。

細い足が、霧のほうへ、半歩。


私は反射で飛び出した。

板の上へ。手を伸ばして、掴もうとして――


「……あ」


指先が、空を握った。


落下していくトレアの影が、朝の光の中で薄くなる。

小さな身体が、深い霧へ吸い込まれて、見えなくなる。


トレアは、何かを口にした。

でも、その声は風にほどけて、私には届かなかった。


――大丈夫だよ、トレア。

絶対、約束を守るから。


だってあなたの傍には、ルツがいるんだから。


必ず。

必ず、ルツが、

必ず、私が、ハッピーエンドにしてみせる。


――たとえ、何を犠牲にしようとも。

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誓いノ淵 なるにぃ @naruni

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