愛犬が教えてくれた北原白秋の詩
神楽森志保
第1話
祖父母が入退院を繰り返すようになり、問題となったのは二人と暮らしていたトイプードル、ルルの処遇だった。私は溺愛しており、離れがたかったのだが我が家はペット禁止だったため、叔父さんが預かってくれる運びになった。
11月末日。祖父母の家からケージに入ったルルを運び出し、叔父さんの軽ワゴンに乗せた。ルルに「おばあちゃんとおじいちゃんはしばらく戻ってこないから、叔父さん家に引っ越しだよ」と伝えたものの、困惑した様子でケージの中をうろうろとしているだけだった。その姿に私は心配になった。ルルは家族と家が好きなのだ。
祖父母が出かけて、私たちだけで留守番をしている時、ルルはいつも私が座る椅子の隙間に潜り込んできた。いつの間にか私が小学生から大学生になって椅子が手狭に感じられるようになっても、ルルは私の足下までやって来ると「スペースを空けなさいよ」と待ち構えていた。渋々私が端に寄り、ルルが飛び乗って、私達は広い家で一つの椅子に座ってじっとしていた。
ルルを乗せた車が遠ざかって見えなくなっても、憂いは消えなかった。叔父さんは犬が好きではないという。それでも優しい人なので引き受けてくれたのだが、犬が好きではない人と犬との相性が良いとは思えない。とはいえ私には、どうか杞憂でありますようにと祈ることしかできなかった。
1週間ほどが経った頃、叔父さんから連絡が来た。どうやら、ルルは祖父母に代わり、散歩に連れて行ってくれて、ご飯もくれる存在となった叔父さんに早速懐いているらしかった。私は叔父さん宅の階段を快活に登っていくルルの動画を見て胸をなで下ろした。
祖父母の家に私が来ると、ルルは玄関まで走ってくる。足下でじゃれるルルを撫でつつ靴を脱いで上がると、私がいつも荷物を置く椅子に登って、「ようこそ。荷物を置いたら存分に撫でなさい」という顔をする。そして、言う通りに撫でるとお腹を見せてゴロゴロと椅子の上を転がるのだ。私としてはただ顎の下をわしゃわしゃと撫でているだけなのに、よく飽きないものだと呆れて、でもそんな自由気ままな所がカワイイのだと魅力を再確認する。それが私にとってのルルとの挨拶だった。
それから2ヶ月ほど経った先日、用事がある叔父さんに代わって、私はルルをトリミングに連れていくことになった。叔父さん宅に頻繁に通う訳にもいかず、久しぶりの再会に私は胸を躍らせていた。中々トリミングの予約が取れなかったこともあって、最近送られてきた写真の中のルルは小さなライオンのようだった。ルルは相手がどんなに大きな犬でも果敢に吠えかかる。だから外見だけではなく中身も獅子心王ならぬ、獅子心犬であることは間違いなかった。さぁ、ライオンクイーンのお出迎えだ、と私は叔父さん家の玄関を開けた。
久しぶりに会った愛犬は私のことを忘れていた。
叔父さんに連れられて玄関にやってきたルルはキョトンとしていて、私に抱かれて車に乗り込み、トリミングで短めふわふわにしてもらっても、私を見て反応する様子が無かった。車に乗り込んだり、運び出したりでバタバタしていたから反応が追いつかないということも考えにくかった。抱きかかえて顎の下を撫でる私に向けられるのは、まるで繁華街の交差点ですれ違う人に対する眼差しなのだ。見るというより、目に映るという表現が合っているように思えた。
車窓から叔父さんが見えてくると、ルルははしゃぎだし、早く家に戻りたがった。もう、ここがルルにとって帰る場所になっているのだ。家の門に「早く開けなさい」と前足で飛びかかるルルを見ながら、安心と切なさがこみ上げてきた。私の心配していたことは起きなかったし、むしろ叔父さんがルルにしっかりと懐柔されていた。けれど、まさか私が忘れ去られてしまうとは思わなかった。
自宅へ車を走らせながら、犬は嗅覚が鋭いからじっくり会えば思いだしてくれるだろうか、なんて考えた。そこで気がついた。私は離れて暮らすルルが心配で、でも同時に自分が忘れられてしまうことを恐れていたのかもしれない。物理的な距離が必ず精神的な距離になるとは思わないけれど、会わないということは思い出しにくくなるということでもあるのだ。思えば、よく会う人や触れるものは記憶の引き出しの手前に入っている。対して、もう会うことの無いだろう友人や一度行ったきりの場所は撮った写真の姿でしか思い出せない。いきなり環境が変わったルルも覚えることが多すぎて、それまで手前に入っていたものやことが奥に詰まっているのかもしれなかった。いずれにしても、ルルは悪くない。どれも人間の都合なのだ。
私はえも言われぬ気分になると、堀越英美『エモい古語辞典』(朝日出版社)を引く。何かの弾みで購入したこの本を、私は想像以上に愛用していた。意外な本がずっと手元に残っている、読書にはそういう不思議な魅力がある。
とりあえず索引を開いて、『わ』の列を頭から読んだ。わかくさ、わがせ、わぎもこ、思ったより沢山あるわと驚く私の目に止まったのは『勿忘草』。その下に示された頁を開いて読んだ。
原産はヨーロッパでムラサキ科に属する多年草。その名前は恋人のためにこの花を摘もうとして亡くなった騎士が「ぼくを忘れないで」と言い残したというドイツの伝説に由来していて、日本では明治時代に勿忘草と訳されたのだとか。説明の最後には北原白秋の詩が引用されていた。
仏蘭西のみやび少女がさしかざす勿忘草の空いろの花(北原白秋)
詩を読ながら、そう言えばルルの名前の由来もフランス語由来だったと思い出した。確か、フランスに住んでいた祖母の弟につけてもらった名前なのだ。スペルは『lou lou』、調べてみると『かわい子ちゃん』という意味が出て来た。あぁ、確かにかわい子ちゃんだ。白秋の詩とルルが重なって、勝手に「忘れないよ」と独りごちた。「ぼくを忘れないで」と言わないといけないのは私の方なのだけれど。
ルルが忘れてしまったから、私は白秋の詩と出会えた。世界から自分の一部が消えてしまうような心細さはありつつも、忘れられるのも悪いことばかりでないと知った。
本を閉じて、キーボードを叩いた。
勿忘草は詩の通り、澄み渡る空みたいな青い花だった。
今度会った時、ルルに見せよう。そして、ありがとうと伝えて思いっきり撫でてやるのだ。
愛犬が教えてくれた北原白秋の詩 神楽森志保 @Kagamin0707
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