12話

学校も夏休みに入り一カ月以上が八月の末、俺はあれから家に引きこもり続けている。能力者であることが、誠や無砂利場さんにバレて煩わしく感じたことも理由の一つだが、原因は他にある。あれほどの好機であったにも関わらず、結局、俺は無砂利場さんに何のモーションもかけることができなかった。チャンスは常にあったはずなのに、何も出来ず夏休みを迎えた。

ある日、家のポストに俺宛に封筒が入っていた。宛名には「亜草」とあった。すぐに阿草さんからの物だと分かり、それで勘違いに気付いた。それまで、てっきり「あぐさ」というのは苗字なのだと思っていた。珍しいように思ったが、ネットで調べると「阿草」という姓を見つけたからだ。どうでもいいが「阿草」ではなく「亜草」だった。そしてどうも、これは名前だ。

封筒の中には一枚の手紙が入っていた。開いてすぐ、「人が求める成長とは極小の知恵と極小の度胸である」という文が目に入った。折りたたんで封筒に戻した。なんとなく核心をついているような気がして気持ち悪くなった。今の俺の状態を言っているように思えた。世界が広いなんて知らない、俺の世界は家と通学路と学校くらいのもんだし、はっきり言って一番は無砂利場さんだ。無砂利場さんがいるからこその高校生活で、成就するにはまさに極小の知恵と度胸が必要だと納得してしまった。

亜草さんは俺のことをどこまで知っていたのだろうか。事件を調べたと言っていたが――。

「うるさーい!」

生物化学教員の三春は一メートル物差しを白い教卓に叩きつけた。

びくっとした。ぺちゃくちゃと私語を楽しんでいた生徒たちがぴたっと静かになり、一斉に振り向き実験室はしんとした。五秒ほどして、三春が逆さ三日月の目でにっこりと微笑む。

「私はあとは引きませんからねえ」

 いつか三春に結婚はしているのかと訊ねた生徒がいた。それで分かったことだが、三春は離婚しているらしい。結婚なんて想像もできないし離婚に至る事情があるのだろうが、思うにこの突発的な発狂に理由があるんじゃないだろうか。絶対そうだ、これが原因に違いない。

「今日は残り時間は映画みましょ」

三春が各窓の黒いカーテンを閉めて周ると、実験室の中は真っ暗になった。

天井から吊るされた教卓の上のスクリーンには、プロジェクターによって洋画が映し出されている。世界を救うために、ドリルで地面に穴をあけて地球の中心に向かうという話だ。前に観たことがある。地球の中心は高温で、マグマなんかもあって、早い話が確かほぼ全員死んでしまう映画だった気がする。

机にべたっと、寝腐るようにしてだらけた。右耳で映画の音をひろい、左耳にイヤホンをつけて音楽を聴く。無砂利場さんが好んで聴くミュージシャンらしい、誠に教えてもらった。俺の好みではないが、聴いていると何か近づけたような気がして安心できた。

 あれから四条河原町周辺は通行止めになっている。四条大橋なんかは崩れてしまったらしい。修復工事が始まり、テレビではあの宵山の夜の出来事ばかりが取り沙汰されている。あの場にいた俺や誠などの当事者は辟易としているほどだ。そういえば駅前のショッピングセンターで火事があったらしい。誠とよく放課後に行っていた鳳凰だ。規模が大きく、飛び火して付近のスケート場も燃えたそうだ。中古ゲーム店は無事だと聞いた。ただ放課後の憩いの場はなくなった。

 とにかく世間が殺伐とした雰囲気になってきた。東京なんかでは能力者の抗争が激化しているそうだ。メディアでも流れるようになり、法改正がなんちゃらかんちゃら……。

 なんとなく世の中が変わりつつあるような気がしている。なにかもっと酷くなるような気がする。能力者の存在がここからさらに公になっていき、取り締まりが始めるのだろうか。厳罰化が始まり規制が強くなって……そんなことばかり考えている。

誠はそれなりに理解してくれた。平さんや結局名前も知らないままの同級生たちは、そもそもあの日の俺を見ていないようで、特に何か聞いてくることもない。夜の暗さが幸いしたみたいだ。問題は無砂利場さんだ。どうもあれから話しかけづらい。また逃げてしまっている。不幸中の幸いというか、あの日の騒動のおかげもあって無砂利場さんと短くも会話ができた。なのにあれ以来、一瞬も話していない。また見つめるだけの日々が始まった。

もう九月だ。そこでふと脳裏に過るのは阿草さんの言葉だった――失ってから行動して足りることなど何一つない。


昼休みのチャイムが鳴り、「今日はここまでやね」と三春が映画を止める。

実験室をあとにし教室まで戻って来て、飲み物を買う予定だったことを思い出した。二年生の階に面した、渡り廊下の突き当りに自販機がある。ここの下の階だ。自販機の前まで来ると、片手にペットボトルを二本抱えた生徒の姿があった。思わず目が止まったのは、その生徒の目が薄暗く沈んでいたからだ。上瞼が落ち気味で瞳は虚ろで、目の下に薄く隈も見えた。横目で俺をなんとなく確認しながら、そのまま教室棟の方へ歩いていった。

閉鎖的社会空間で人の理性は狂う――阿草さんの言葉を思い出した。一瞬、中学のころの自分と重なった気がした。だが何故だか思い出せない。中学当時の俺はどんな様子だっただろうかと、ときどき考えることがある。つい数年前のことだというのに、何故だか意外と思い出せない部分がある。それほど楽しくなかったことだけは感覚的に覚えている。教員もふざけたような奴ばかりで質が悪かった。高血圧だかなんかで、怒って生徒の首を絞めて問題になった教員は、そのあと学校からいなくなった。クォーターに憧れていたのか、誰が見ても明らかなブルーのカラーコンタクトをつけた教員は、卒業式のころには黒目に戻っていた。怒ると鶏みたいに両手をばたつかせる太った教員、こいつも気付いたらいなくなってたな。ヒステリックが深刻なのか、私語に反応して神経質な笑顔を浮かべ銅像になる女教員は、教師という職に向いていなかったのか辞めたそうだ。

とにかく変な奴が多かった、それだけは覚えている。あれも閉鎖的社会空間の影響によるものだったのだろうか。みんな記憶の中でよだれを垂らし、らりっている。さきほどの生徒もすでに何等かの影響を受けてしまっているのだろうか。それであんな目つきに……俺にできることはないだろう。少し同情してしまった。


       〇


九月八日から十日までの三日間に、高校最後の文化祭があった。日中は蒸し暑く、蝉の鳴き声も止まず、夕方になると次は烏が鳴いて田舎の陰鬱とした気配が漂う。

一日目は行かなかった。誠から「どうした?」と昼くらいにメールがあったが応えなかった。二日目は朝だけ行って昼には帰った。

おおよそ文化祭というのは三日目に主なイベントが集約されていて、三年生の演劇や軽音楽部のライブは最終日に行うのが恒例らしい。だから二日目までは本当にやることがない。行く意味がなく、それは一年と二年のころに分かった。自分のクラスの出し物がない二日間というのは、暇つぶしのトランプで遊ぶだけの不毛だ。青春と言ってしまえばそうなのだろう。偶に家庭科室でプリンが食えるからと様子を見に行くことはあるが、大半は教室に引き籠もる。本来は他クラスや他学年の出し物を楽しむための自由時間らしいが、公立高校レベルの出し物なんて興味がない。だから結局トランプしかやることがない。

九月十日、金曜日、仏滅――。

「あ、やば……」大富豪の途中で誠が黒板上の時計を見た。

誠が連れてきた他所のクラスの男子が「どうした?」

「三年って十時からだろ、俺のクラス最初なんだよ」

「演劇?」

「うん。ミチカ、あの人もメインで出るぞ」

「……」

誠は「ごめん」と言ってやりかけのトランプを机に置いた。

「誠も出るの?」俺は訊ねた。

「俺は照明だから」

誠が教室から出ていくと、一つの机を無言の三人が囲んでいた。俺の友達でもない奴を二人も残していきやがって……ただ気まずい。さっきまで共に黙々と大富豪をやっていた仲なのに、急に面識もない赤の他人に変わった。俺はなんとなくトランプを置いて席を立った。時刻は九時四十五分を過ぎていた。


体育館の中は外の光が一切入らないよう、二階のカーテンも一階にある複数のシャトルドアもすべて閉め切られていた。煌々とした、幕の閉め切られた舞台以外すべてが真っ暗だった。長椅子に座る大勢の生徒の頭が闇に蠢いている。数分後には開演だが、辺りはまだ騒がしい。俺は最後部の空いていた席に着いた。そこで二階の欄干の傍でスポットライトを操る誠の姿を見つけた。舞台の方を見ながらあくびを浮かべていた。

 アナウンスが流れた。「まもなく三年三組の演劇が開演となります。皆さん、大きな拍手でお迎えください」

弾幕が左右に開き、天井のいくつもの照明に照らされた、舞台のセットが見えた。

誠の操るスポットライトがぱっと舞台袖を丸く照らした。セーラー服を着た無砂利場さんが、ゆっくり歩きながら現れた。役を演じるその姿は、いつもと違う新鮮な雰囲気を纏っている。彼女がセリフを言って、俺は思わず目をそらし俯いた。なにか恥ずかしく思えてきた。

顔を上げたその瞬間、体育館から俺と彼女以外の人間が消えた。

無砂利場さんしか見えなくなった。薄暗い、静寂な体育館の観客席に独り、俺はただ彼女へ目を奪われている。彼女は舞台上で歩いたり止まったりしながら、独り、緩急をつけてセリフを言った。舞台の真ん中に一本だけ用意されたマイクは、完璧に音を拾わない。聞こえてくるのは機械を通していない生の声だ。舞台上で響き、そして館内にも響く。ただ反響に伸びはない。彼女の声は儚く、まるで舞台上のみで消え入る。

彼女は絶対に振り向かない。ここで急に立ち上がったとしても、何か叫んだとしても彼女は俺に気付かない。舞台と客席――それが俺と彼女の精神的な距離であるように思えた。太古のプラトニックにすらほど遠い、ただの一方的な勘違いであるように思えた。

現実に引き戻されると、演劇はすっかり進んでいた。内容も頭に入ってこないまま、舞台上の他の演者、客席で蠢く黒い頭の数々、出入り口付近の教員などが目についた。急に腹が沈み込んで、舌が食道の奥に飲み込まれていくような息苦しさに襲われた。激しい運動をしたあとのような動悸がして、息切れを感じた。唐突な虚しさから俺はそっと視線を落とす。自分の膝の上で握られた握られた、半開きの拳が見えた。

初めて無砂利場さんを見つけた日のことを思い出した。あのときはまだ一年生だった。なのに気付けばもう三年で、少しも距離は変わっていない。俺は無機質な観客の一部でしかなく、あの人の意識の中には存在していない……。

俺はそっと体育館をあとにした。


       〇


どうやら各学年は、夏休みを使って文化祭の出し物の練習に励んでいたらしい。特に三年は高校最後の文化祭だし、演劇は一大イベントだ。俺が引き籠もっていた一カ月もの間、生徒たちは何度も教室に集まって練習していた。日程については休み前最後のホームルームで伝えたそうだ、クラスの生徒から聞いた。俺以外はみんな集まっていたらしい。俺の連絡先を知らず、誰も連絡のしようがなかったそうだ。あくまで生徒たち自身が自発的に集まってやったことだ。という前提だ。その割には新学期の始まった翌週には本番を迎える日取りで、やけに期間は短い。つまり休みでも使って練習しないと間に合わない構造になっている訳だ。陰謀としか思えない。

正直どうでもいい。

夏休みに入った翌日に一度だけ登校した。教室を覗いても誰もいなかったから、みんなやる気がないんだろうなと思い、以降は行かなかった。俺は人の話を聞かないから――というか興味のないことは自然と頭に入ってこないから――日程の話を聞き逃していた。

誠が見たいというので、三年二組の劇を見に行くことになった。ステージに上がる役者は少数だが、俺以外の誰もが、照明や美術面や衣装製作などの担当についている。誰も何も言ってこないのが不気味でしょうがない。京都府民特有の「陰湿」だ、この言葉は多様な意味を持つ。誠がそれなりに楽しんだみたいだが、俺は終始無感情だった。劇を終えた三年はクラスごとにオープンカットに集まり、記念写真を撮るそうだ。誠が教えてくれた。

「どうするんだ?」

「行く訳ないだろ」

クラスの連中が体育館から出てくる前に、誠と教室に戻った。

三年の演劇がすべて終了した十一時半過ぎより、オープンカットにて軽音楽部のライブが始まった。広場に設置された特設ステージに向かって、大階段は全学年の生徒で溢れかえった。全く興味がない訳ではないが、興味がある訳でもない。誠に合わせた半面、確か去年も三日目に下手くそなライブを見て終わった気がした。高校最後の文化祭だ。深くは考えなかった。

三年が優先的に演奏する中、下級生のバンドも何組かあった。なんだかよく分からないものばかり見させられたが、比較的まとまった演奏をする組もあった。それが誠のクラスの男子がボーカルをやっているバンドで、どうも中々のイケメンらしかった。それが最後の組で、その頃にはもうバンドにも飽きていた。俺はというと、階段の下の方に見える無砂利場さんの横顔を見ていただけだ。妙に楽しんでいるように見えた。ブラックデスメタルなどを好む俺の趣向には合わないジャンルの曲ばかりだが、文化祭っぽい選曲だし無難なのだろうと思う。それを肯定するつもりもない。三年目も、文化祭は楽しくはなかった。


オレンジ色の西日がグラウンドを照らすころ、教室でのホームルームも終わり、俺は渡り廊下先の長椅子に座って誠を待っていた。すべての三年生がここを通って下校する。しばらくして、教室棟から生徒がまばらに出てきた。そろそろ誠も来るだろう。そう思っていたら無砂利場さんの姿が見えた。彼女を含む四人ほどが目の前を横切り、職員棟へと入っていった。反射的に目線を落とした。見つめることに罪悪感があった。

「――付き合っちゃいなよ」

 特に聞き耳を立てていた訳でもなかったが、ふと会話の内容が頭に入ってきた。そして無砂利場さんの声が言った。

「……どうしようかな」

 頭が真っ白になった。呆然として、呼吸を忘れるほどに思考が止まった。

 椅子から立ち上がり、誠も待たずに、俺は北の下駄箱の方に向かって歩き始めた。足取りは一定だった。まばらな生徒の群れに混ざり下校した。

 寺の境内を自転車で通過しながら、俺の頭の中にはさきほどの無砂利場さんの声が聞こえていた。そしてこれは理由がさっぱり分からないのだが、何故だか、ライブの最後に演奏していたバンドのボーカルの顔が脳裏にちらついた。無砂利場さんや誠と同じクラスの男子だ。自分で意味が分からない。ただ俺は何か確信を持っていて、不思議にも思っていなければ違和感すら抱いていない。「告白」の文字が浮かび、頭が回らず朦朧としてきて……。

 気が付くと俺は家に帰ってきていた。

 ついさっきまで、渡り廊下の先に設置された長椅子に腰かけ、誠を待っていたはずだ。なのにもう家の前にいる。下駄箱で靴を履き替え、駐輪場に行って自転車に跨り、校門から歩道に出て高校の壁に沿って走る。境内を抜けて住宅街に出て……経路としてはそれで正しいはずだ。そのすべてを覚えていない。

いつのまに帰ってきたのか、道中のすべてが記憶になかった。

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