二〇二四年九月息子は死にました
@Eriott
第1話 二〇二四年九月
二〇二四年九月、息子は死んだ。
その日がどのような一日であったかを思い出そうとしても、意識は無機質なカレンダーの数字に突き当たるだけで、固有の質感を伴った記憶としては立ち上がってこない。ありふれた日は描写を拒絶する。そこにはただ、生活という名の、摩耗しきった時間の集積があるだけだった。息子が死んだという事実だけが、その日の中に置かれている。
発見したのは、彼が勤めていた職場の副所長だった。無断欠勤が二日続き、連絡も取れないことを不審に思い、管理会社を伴って借上のアパートに入ったのだという。
報せが届いたとき、私は自販機の補充業務にあたっていた。重い飲料ケースをトラックから下ろし、冷えた金属の円筒を一台ずつ機械の喉に流し込んでいく。受話器から流れる副所長の声は、自販機のコンプレッサーが立てる低い唸りに飲み込まれ、まるで手違いで届いた役所からの事務放送か、あるいは期限の切れた契約更新の通知のように響いた。それは私自身の生活とは何ら関わりのない、音の羅列でしかなかった。私は右手に持った五〇〇ミリリットルのペットボトルを規定の列に差し込み、補充完了のボタンを押した。それから「わかりました」とだけ答えた。声は乾燥していた。私は残された五台の自販機をすべて回り、規定の在庫を充填し終えてから営業所へ戻った。
私はただ、翌朝の着替えをカバンに詰め、いつも通りに眠った。
翌朝、駅へ向かい、新幹線の自由席に乗り込んだ。やってきた車両の、空いている席に身体を沈める。時速三百キロの振動が皮膚から骨へと伝わり、その規則正しい震えだけが、私がまだ崩壊せずに形を保っていることを教えてくれた。息子が死んだ翌朝に、あらかじめ用意された切符もなく、ただ物理的な移動の原理に身を任せる。その振る舞いを、世間は薄情と呼び、親の欠落と断ずるのかもしれない。だが、私にはそれ以外の進み方がわからなかった。
辿り着いたアパートの部屋は、生活の気配を急激に脱色したような、妙な明るさに満ちていた。
部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、積み上げられた段ボールの山だった。それは引っ越しの準備を終えた直後の部屋のようだったが、ガムテープで封はされていなかった。箱の口を交互に折り込んだだけのその状態は、残される者への執拗なまでの配慮の結果だった。彼は、自分が去った後の部屋を片付ける私の労力を、あらかじめ肩代わりしようとしたのだ。力尽きる間際まで、彼は自分の持ち物を分類し、箱に収めていた。そこには残務を引き継ぐ者への、静かな礼儀があった。
一方で、冷蔵庫や洗濯機といった大型の家電だけが、その配慮の体系からこぼれ落ちたように、以前と同じ場所で無表情に佇んでいた。
彼は、自らの死の場所を汚さないための配慮をも、徹底させていた。
遺体があった場所の下には、何枚ものゴミ袋が、広げられ、丁寧に重ねられていたという。どこにでもある、半透明の指定ゴミ袋だ。死に至るまでの苦痛や、その過程で生じる逃れようのない生理現象。それらが床を汚し、清掃の手間を増やすことを、彼は何よりも恐れたのだろう。その半透明の膜が、彼の最後に残した、生への羞恥心だった。
机の上には、二台の携帯電話が並べられていた。会社から支給されたものと、個人のもの。重なることのない二つの生活が、プラスチックの塊となって沈黙していた。その隣に、一通の手紙があった。
みなさんすみません
もう疲れました
お世話になりました。
お母さん、部屋はある程度片付けました
あとはよろしくお願いします
ここまで育ててくれてありがとう
ごめんなさい
粗大ゴミを片付けられなくてごめんなさい
遺書を読み終えても、私の内側に劇的な変化は訪れなかった。ただ、追伸にある「粗大ゴミ」という五文字が、喉の奥に引っかかったまま取れなくなった。数千円の手数料を要する家電の処分を、彼は自らの命の幕引きよりも重く見積もっていた。
彼は就職してからというもの、常に「多忙」という言葉のなかに埋没していた。電話をしても、返ってくるのは疲労を隠しきれない短い相槌だけだった。何をしていたのか、何に追い詰められていたのか。それを私は知らない。ただ、この段ボールの不完全な封や、床に敷き詰められた半透明のゴミ袋に、彼の疲れの輪郭が滲んでいた。
新幹線の窓ガラスに映る自分の顔を眺める。
そこには、悲劇の渦中にいる母親の相などは微塵もなかった。ただ、昨日と同じように飲料を運び、今日という手続きを淡々と消化しようとする、一人の労働者の顔があった。
窓の外を流れる景色は、二〇二四年九月のありふれた風景でしかなかった。
世界は描写を拒んだまま、音もなく回り続けていた。
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