Chord:Rebellion Index

Ciao^_^Cotton

第1話 疾走の記憶

スタートの号砲が、夏の空を裂いた。

赤いタータンに、スパイクの鋭い音が立て続けに刻まれる。その中の一本だけが、きっぱりと違う音を立てていた。


――佐藤 璃子りこ

まだ小学生だったあの頃。陸上部のない学校で、彼女はミニバスケットボール部のコートに立っていた。背は決して高くない。けれど、一歩ふみ出した瞬間の加速だけは、誰にも真似できなかった。

味方が放ったロングパスに向かって、床を蹴る音がひときわ鋭く響く。璃子は、ゴールだけを見据えて駆け抜けた。


(あ――これだ)


空気が身体をすり抜けていく瞬間。
世界から音が消え、リングとボールだけが鮮やかに浮かび上がる。

――シュッ。

ボールが気持ちよくネットを揺らすと、体育館じゅうの歓声がいっせいに弾けた。それでも璃子は、ただ息を弾ませながら笑っていた。


(勝ち負けより、この疾走感がたまらなく好きだ)


その姿を、観客席の片隅からじっと見つめていた少女がいた。

――水沢紗良さら


別の小学校に通う彼女は、友達に誘われて偶然この試合を観に来ていた。

同じ学年とは思えない、しなやかな動き。目の前のボールだけを追うのではなく、コート全体を見渡して走る感覚。


そして何より――勝敗よりも「走ることそのもの」を楽しんでいる笑顔。


(風……あの子は……特別だ)


小さな胸の奥で、まだ名前も知らない少女の姿が、焼きつくように刻まれた。



それから数年。

璃子は、中学で本格的に陸上競技を始めた。バスケットボールも好きだったが、「走ることそのもの」の世界に、彼女の心はすぐに惹かれていった。

短距離。
スターティングブロックに足をかけ、ピストルの音を待つ数秒間。
あの静寂が、何よりも好きだった。


この頃の璃子は、いつも大勢のクラスメイトに囲まれていた。その中のひとり

――同じクラスの少女、佐倉莉里りり

黒髪のロングヘアをゆるくひとつに結び、学校指定のジャージの上着を羽織っている。



ある日、県大会の会場で、スタンドの一角から身を乗り出し、璃子に向かって声をかけてきた。

「璃子。がんばってね!」

少し緊張したような、それでいてまっすぐな声。スタートラインに足をかけていた璃子は、振り返ってにっと笑った。

「うん、行ってくる!」

たったそれだけのやりとり。それで、胸の奥に不思議なあたたかさが灯る。


莉里は、特別成績がいいわけでも、なにかで目立つわけでもない。休み時間や帰り道に、テストの愚痴や好きな音楽の話で盛り上がるクラスメイトのひとりだった。それだけにリコを素直に自分の憧れにしている。


(すごいなあ、璃子って)


スタートの合図を待つ璃子の背中を見ながら、莉里の握る手の力がほんの少し強まる。


(いつも全力で走ってて……わたしも、いつか、ああやって何かをがんばれるようになりたい)

そんなぼんやりした願いが、この時の莉里の中に芽吹き始めていた。


号砲。
身体が、前へ飛び出す。腕の振り、足の回転。地面を蹴るたびに、世界が後ろへ流れていく。

――結果は、全国大会行き。

表彰台の上でメダルをかけられながら、璃子は嬉しさよりも、どこか不思議な落ち着きを感じていた。


(ああ、まだ走れる。もっと、もっと先まで)


観客席から見ていた莉里は、拍手をしながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。
それは、ただの憧れだったのか、もっと別の何かの始まりだったのか。


別の場所、別の中学では、紗良も、噂でその名前を耳にしていた。部活動は違っても、同じ地域で全国に進む選手の名前は自然と広まっていく。

「佐藤璃子、全国行ったんだってさ」

(やっぱり……彼女は、特別だ)

小学生のときに見た「風」は、さらに遠く、まぶしいものになっていた。そのまま璃子は、スポーツ推薦で現在の高校へ進学する。
インターハイを視野に入れた、本格的な競技生活の始まりだった。


高校では、璃子と莉里とはクラスが分かれた。さらに、莉里は生徒会に入り、放課後はほとんど校内の仕事や会議で埋まるようになる。

中学の頃のように、毎日のように一緒に笑う時間は減った。廊下ですれ違っても「おつかれ」「またね」と短く挨拶する程度――そんな距離感になっていた。

それでも、莉里はときどき陸上グラウンドの方を眺めてしまう。


(璃子、今日も走ってるかな)


風を切る背中を思い出すだす。憧れは、どんどん遠くなる。



そして、高校一年の夏。

インターハイ予選に向けた強化合宿の最中、事件は起こった。

最後の流しを終えた直後だった。

「っ――!」

左足首の奥で、何かが弾けるような感覚。
地面を蹴ろうとした瞬間、足がまったく前に出なかった。崩れ落ちる璃子を、周囲の選手たちの声が囲む。


「佐藤! 大丈夫か!?」


痛みは鋭く、現実感は薄い。ただ、ふくらはぎの奥でが何かが弾けたような、硬質で不穏な音がしたことだけを鮮明に覚えている。

診断は――アキレス腱断裂。手術、長期リハビリ。



「全国」を当たり前のように目指していた日々は、その一行の説明で、あっけなく形を変えた。


高校に戻ってからもしばらく、璃子は病院と学校を行き来する生活が続いた。生徒会室の窓から、教室へ向かう松葉杖の影が見える。


莉里は、書類に視線を落としながら、何度もそちらを気にしてしまう。

(……話す時間、前より少なくなっちゃったけど)

はじめて会った時から、自分は勇気をもらってばかりだった。

そんな璃子が風のように駆け上がっていくのを、誰よりも楽しみにしていたのは、自分だと気づいた。

コピー用紙を置き、意を決して立ち上がる。


教室の前。
ドアを開け、顔を出すと、璃子が少し驚いたように、だが嬉しそうに目を丸くした。

「……莉里?珍しいね。」

「邪魔だったら、ごめんね。たまには顔、見たくて」

言いながら、自分の言葉が少しだけ震えているのを感じる。
中学時代、誰よりも近くで見ていた背中。その背中が「走れない」と告げられてしまったことが、まだうまく飲み込めない。


横に腰かけ、莉里はそっと璃子の足に目をやる。

「また、走れるの?」

「どうかな? ちょっと怖い感じ…。完治には1年くらいかかるし、高校、終わっちゃった…。」

「そうなんだ…、でも、無理しないでね。ゆっくり治そう。」

「ん、ありがとう。」

そう言った璃子の目は、なんだかどこも見ていないように見えた。

「……璃子は、璃子だから」

「え?」

「全国に行くから、すごいんじゃないよ。走ってるときの顔が……わたし、すごく好きだったから」

口にしてしまってから、少し言いすぎたかと思った。だけど、たった半年で夢を失った友達にかける言葉なんて、他に浮かばなかったのだ。

璃子は返事をしようとして、上手く声が出なかった。代わりに、かすかな笑い声と一言だけ。

「……変なこと言うね、莉里」

けれど、ここの空気だけは、やけに温かかった。


疾走の記憶。


それは、痛みと共に閉じられたはずのページの奥で、まだ静かに光り続けていた。

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