ピトレスク
藤沢ローリング
ピトレスク
俺はパイプ椅子に背筋を伸ばして座っていた。
握った手の中は、汗で湿っている。
「では、松崎さん。志望動機をお願いします。」
「はい!!」
俺は勢いよく返事をした。
「私は、御社の『技術と心で幸せな未来を築く』という考えに感銘を受け、御社を志望しました。
私も御社の一員となって、お客様の未来を創るお手伝いをしたいと考えております。」
俺はセリフを言い終えて、ようやく息継ぎをした。
「なるほど。では、弊社に入って5年後、10年後はどんなことをしていたいですか?」
「え?あ、あの。それは…。」
面接官の眼鏡の奥から鋭い視線が飛んできた。
俺は額から汗を流し、目を泳がせる。
「あの、お客様の、未来のお手伝いをしたいと、思います。」
言葉を詰まらせながら、俺は弱々しく答えた。
「そうですか。
では、その未来のお手伝いとは具体的にどのようなことをお考えで?」
俺はそこから何を答えたのかも覚えていなかった。
「いや、そんな先のこと聞かれたって、分かんないっての!!」
ドン!!
俺はジョッキを勢いよく机に叩きつけた。
金曜日の夜の居酒屋は、スーツ姿の人で溢れていた。
ガヤガヤとした声が、BGMのように耳にまとわりつく。
「まあ、確かにあの質問ってムズイよな。」
枝豆を口に頬張りながら、戸田が答えた。
「だろ?早く就活終わってくれって思ってるのに、そんなこと考えられないって。」
頬を赤く染めながら、俺は唾を飛ばした。
「松崎、お前大分ストレス溜まってるな。
明後日美術館行くけど、お前も行くか?」
「なんで美術館なんだよ?
俺、絵なんて興味ないけど。」
サクサクのから揚げをビールで流し込んだ。
「そう言うなって。
静かな空間で美しいものを見ると、心が癒されるぞ。」
俺は背筋を伸ばして、ぐるりと周りを見渡した。
みんな俺のように顔を真っ赤にして、がははと笑っている。
未来の俺かもしれない人で、店は埋め尽くされていた。
「…分かった。お前に付き合うよ。」
「よし!じゃあ、10時に駅前集合な。」
俺は戸田に促されて、ジョッキをぶつけて乾杯をした。
「おい、戸田。遅いじゃないか。」
「ごめん、ごめん。」
日曜日の駅前、戸田が小走りでやって来た。
電車が線路を走る音が響き、多くの人が誰かを待っていた。
「それで、会場はどこにあるんだ?」
「うん、公園の中にあるみたい。」
戸田はスマホで地図アプリを見ながら答えた。
「それじゃ、早速行くか。」
俺の言葉に戸田は顔を上げ、人波を掻き分けた。
「あれ、何かイベントでもやっているのか?」
公園に入ると、思った以上ににぎやかだった。
「あ、これコスプレじゃない?」
戸田の指差す方を見ると、見たことあるキャラクターに扮した人が歩いていた。
「衣装も奇抜だし、髪の毛の色もすごいな…。」
俺は口を開けたまま、遠巻きにそれらを眺めた。
「どうやら、今日ここでコスプレイベントやってみるみたい。」
スマホから顔を上げた戸田が答えた。
「なるほどな。俺、コスプレって初めて見たよ。
戸田は見たことあるか?」
「いや、俺も。何て言うか、すごいな…。」
俺らの視線の先には、ポーズを決めているピンクの髪の女性がいた。
「あんなに堂々とポーズしていて、なり切ってるな。」
「うん、なりたい自分になれているって感じ。」
戸田の言葉に俺はハッとし、戸田を見ると、その視線は女性に向いたままだった。
「ほい、チケット買ってきたよ。」
美術館の入口でフラフラ歩いていると、戸田が戻って来た。
「おお、これがチケット…!!
なんか緊張してきた。」
「いやいや、リラックスしに来たんだから。」
「だって、こんな静かだとは思わなかったよ。」
体育館くらいのロビーに、カツン、カツンという靴の音しか聞こえなかった。
「ほら、行くぞ。」
俺は戸田に導かれて、先へと進んだ。
中に入ると、白い無機質な空間に、ポツンポツンと額縁が並んでいた。
「うわ、めっちゃ上手い!!」
「そりゃそうだろ。」
横に並ぶ戸田が鼻で笑った。
「何ていうか、めっちゃリアルだよな。」
「それは写実主義ってやつだな。見たままをそのまま描くやつ。」
「なんかヨーロッパの絵って、日本と全然違うな。」
俺は絵に圧倒されながら、下から上へと何度も見返した。
「この時代には就活なんてなかったんだろうな…。」
「違いない。」
戸田を見ると、ニコニコ笑っていた。
「ほら、次は17世紀のコーナーだぞ。」
戸田が指を差し、奥へと促す。
「なんでそんな詳しいんだよ?」
「だって2回目だからな。」
戸田は口角を上げ、ニヤッと笑った。
「お前、美術館本当に好きなんだな。」
「まあね。」
俺は戸田に導かれるまま、先へと進んだ。
すると、廊下の窓からふと気になるものが目に入った。
「おい、松崎。どうかしたか?」
少し先に進んだ戸田が、振り返って俺に声を掛けた。
「ごめん、戸田。俺、行くわ。」
俺は窓の外を見つめたまま答え、道を引き返した。
「あ、おい。」
戸田のその声に返事をすることなく、俺は駆け出していた。
「確かこの辺りだったと思うけど…。」
俺は辺りを見渡しながら、公園を走った。
ビビッドカラーの綺麗な髪のコスプレイヤーたちの横を抜けていく。
そして誰の声も聞こえなくなったところで、俺は立ち止まった。
そこには、紅葉した木下のベンチに座る女性がいた。
髪はブロンドで、中世ヨーロッパの民族衣装のようなものを着ていた。
彼女は俯いて、静かに本を読んでいた。
木漏れの光が、キラキラと彼女を照らしていた。
「まるで絵みたいだ…っ!!」
俺は思わず言葉を漏らしていた。
するとパッと彼女は顔を上げ、俺を見つめた。
深い緑色の目が、綺麗に輝く。
「あ、あの。すみません。」
俺は軽く頭を下げ、小さく答えた。
「Pas de souci. Venez.」
「え?何て?」
すると彼女はベンチの横の空いたところをポンポンと叩いた。
「座れってこと?」
彼女はニッコリと笑って頷いた。
そろそろと俺は歩き、彼女から少し離れたところに座った。
「えーっと。ハロー?」
その言葉に彼女は眉間に皺を寄せて、首を傾げた。
「英語じゃないのか。何て言えばいいんだ?」
俺は口を半開きにして、目を泳がせてしまう。
「Ca va?」
彼女は眉毛を八の字にして、俺の顔を覗き込んだ。
「サバ?あ!!フランス語か!!」
俺は戸田が大学で言っていた
『サバはフランス語で大丈夫』
という言葉を思い出した。
「イエース。サバサバ!!」
俺はパッと笑顔になり、明るい口調で答えた。
そしてポケットからスマホを取り出し、翻訳アプリを立ち上げた。
「えーっと、
『こんにちは。素敵な服ですね。』っと。」
俺は翻訳された文字を彼女に見せた。
「Ah, oui. Merci beaucoup.」
彼女はニッコリと笑った。
「En fait, c'est mon vêtement préféré parce que …」
「あ、待って待って。ここに向かって話して。」
俺はマイク機能をオンにして彼女にスマホを近づけた。
彼女は緑の目で画面を俺を交互に見る。
俺がゆっくりと頷くと、またフランス語で話した。
「えーっと、
『実はこれは私の村の伝統的な衣装だから、私のお気に入りなの。』
おお、だからこんなにクオリティが高いのか!」
俺が画面を見ながら大きく頷くと、彼女はニッコリしながら足をブラブラさせた。
『俺の名前は松崎 翔太です。あなたの名前は?』
『私の名前はエミリーです。』
『旅行ですか?』
『私は本を読んでいます。』
「あれ、やっぱり翻訳アプリじゃ精度良くないのかな?」
画面から顔を上げて横を見ると、まん丸とした目が俺を見つめていた。
頭に着けた白い三角巾が風になびき、花の匂いを運んでくる。
『エミリーは、何の仕事をしていますか?』
すると、彼女は首を傾げて何も言わなくなった。
「えっと、『家では普段どんなことをしていますか?』
これならどう?」
画面を見せるとパッと笑顔が咲いて、うんうんと頷いた。
『私は家族と畑で食べ物を育てています。
松崎さんは?』
「へー農家さんなのか。
『俺は大学に行って勉強しています。』と。」
すると彼女は両手で口を覆い、息を吸い込んだ。
『まさか、貴族の方だったなんて。失礼しました。』
そう返すと、彼女は深々と頭を下げた。
そして彼女は立ち上がった。
「え?え?」
俺はベンチに座ったまま、小さくなっていく彼女を見ていた。
「おい、松崎。昨日は酷いじゃないか!!」
翌朝、講義室に行くと、戸田が駆け寄って来た。
「ごめんって。綺麗な外国人がいたからつい。」
「はあ?それで昨日抜け出したのか?」
戸田はガクッと肩を落とし、ため息をついた。
「本当にあり得ない。今度何か奢れよ。」
「分かってるって。牛丼特盛がいいんだろう?」
俺は両手を合わせながら、チラッと顔色をうかがう。
「まったく、これじゃ文句も言えないじゃないか。
あと、美術館での写真アップしたから、いいねしておけよ。」
「はは、仰せのままに!!」
俺は戸田の隣の席に座り、大学の一日を始めた。
放課後、俺は再びあの公園に来ていた。
「なんか自分ってバカみたいだな…。」
昨日とは違って静かな公園を、見渡しながらゆっくり歩く。
「やっぱりイベントはないから、さすがに無理か…。」
気が付けば俺は、自分の足を見ながら歩いていた。
すると、不意に風が吹いて俺は顔を上げた。
その先には、昨日と同じベンチで彼女が本を読んでいた。
昨日と同じ三角巾に、シックなロングスカート、そして深紅のエプロンをしていた。
「なんて綺麗なんだ…。」
その神秘的とも言える光景を、俺はしばらく眺めていた。
「ボンジュール。」
俺が声を掛けると、顔を上げた彼女はニコっと笑った。
「Bonjour. Ça va?」
「ウィ、サバサバ。」
本を閉じたエミリーの横に、俺は静かに座った。
『昨日はどうして帰ったの?』
スマホの画面を見せると、彼女は背中をシュッと伸ばした。
『昨日は大変失礼いたしました。
貴族だとは知らずに、無礼な態度を取った私をお許しください。』
彼女の顔を見ると、目からは涙が溢れそうだった。
『俺は貴族なんかじゃないよ。
だからそんな畏まらないで。
エミリーと楽しい話がしたいな。』
真っ直ぐ視線を向ける彼女に、俺はゆっくりと画面を見せた。
『ありがとうございます。仲良くしてください。』
彼女は肩の力が抜け、柔らかい笑顔を向けた。
『あなたは大学の後に何をしますか?』
『仕事をします。』
『それは、どんな仕事ですか?』
受け取ったスマホを見て、俺は固まった。
文字を打ち込もうとする指が、何度も止まった。
彼女は首を傾げながら俺を見ている。
『みんなのためになる、立派な仕事です。』
俺はスマホを彼女に渡し、深く息を吐いた。
すると、彼女はこれまで違ってなかなか話さなかった。
温かな日差しに、冷たい風が俺らを駆け抜けた。
ようやく話した彼女からは、
『それは、とても素晴らしいことです。
けれど、その中のあなたは笑っていますか?』
と返してきた。
俺はその綺麗に整った活字を見て、あの日の面接を思い出した。
額に冷たい汗が流れ、指先が震えた。
俺の手にあるじっとスマホを見ていた彼女が、俺の顔を見た。
『エミリーは畑仕事楽しいですか?』
俺はチラチラと彼女の顔を見ながら、文字を打った。
受け取った彼女は、両手でスマホを抱え、目を閉じた。
そして透き通った声で、スマホに向かって話し出した。
それはまるで歌っているかのようで、差し込む日の光で輝いて見えた。
やがて目を開けた彼女は、そっとスマホを差し出した。
『私は畑仕事がとても楽しいです。
毎朝早く起きて、家族みんなで水を上げたり、手入れをします。
同じことの繰り返しですが、これがいつか実を結んだ時を思うと、ワクワクします。
家族みんなでそれを笑って食べる時を思うだけで、幸せです。』
俺が目を上げると、彼女は黙ったまま微笑んでいた。
「弊社に入って5年後、10年後はどんなことをしていたいですか?」
あの日の言葉が、頭をよぎる。
すると、彼女がそっと俺の手に手を添えてきた。
「エミリー…。」
小さく頷いた彼女を見て、俺は指を画面に滑らせた。
『俺はきっとその仕事で笑っています。ずっと。』
それを見て彼女は大きく頷いた。
俺の肩はフッと軽くなり、それでいて体に力が湧き出るようだった。
気が付けば俺らは何時間も話していた。
「ねえ、エミリー。」
俺はオレンジ色に染まった空を見ながら呟いた。
「俺、就活頑張ってみるよ。」
彼女は首を傾げながらも、黙って聞いてくれる。
「やりたいことはすぐに見つからないかもしれないけど。
それでも、エミリーにも笑ってもらえるような仕事をする。
そう思えばきっと、どんな仕事も楽しいから。」
俺が振り向くと、彼女は緑の目をじっと向けていた。
俺はスマホを取り出し、
『今日はありがとう。
また明日ね。』
と書いた。
すると、
『また明日は、何て言う?』
と返って来た。
「また、あした。」
「マタ、アシタ?」
「そうそう!!」
俺が大きく頷くと、彼女はパッと笑って、
「マタ、アシタ!マタ、アシタ!」
何度も楽しそうに繰り返し叫んだ。
「うん、また明日!!」
俺は軽くなった体で立ち上がり歩き出した。
すると急に腕を引かれ、体が引き寄せられる。
大きく目を開けると、彼女の顔がすぐ側にあった。
そして彼女は俺の左頬に頬を重ね、唇から音を出した。
俺が口を開けて止まっていると、彼女は反対の頬にも同じことをした。
「エミリー?」
見下ろした彼女は俺の顔を見上げ、
「マタ、アシタ。」
ニッコリと笑った。
夕日に染まる、その赤い顔はまるで絵画のように美しく、時が止まったようだった。
次の日の午後、俺は授業をサボって公園に来ていた。
「今日はどんなことを話そうかな…。」
俺は頬を手で撫でながら、軽やかな足取りであのベンチに向かった。
しかし、
「あれ、いない?」
いつものベンチには誰も座っていなかった。
「ちょっと来るのが早かったのかもしれないな。」
俺はベンチに座ってポケットに手を突っ込んだ。
冷たい風が横を駆け抜け、俺は目を閉じた。
瞼の裏では、夕焼けに染まる彼女の顔が浮かんだ。
「早く来てくれないかなぁ…。」
俺は頬を赤く染め、うろこ雲の空を見上げた。
気が付けば、日はすっかり落ちていた。
「今日は来ないのかな?」
遠くの美術館からトラックが出るのを見ながら呟いた。
夜の風はさらに冷たくなり、耳は真っ赤になっていた。
「うう、寒いな。」
俺は体をぶるっと震わせ、ギュッと体を丸めた。
しかしその日彼女が来ることはなかった。
「お、松崎。なんか久しぶりだな。」
戸田の声で顔を上げた俺は、いつの間にか講義室に着いていたことに気付いた。
「お前ここ一週間、講義にも出ないで何してたんだよ?」
戸田は俺の目を観察するように、じっくりと見ている。
「…。ずっと公園にいたんだよ。」
俺は自分でも聞こえるか怪しい大きさで答えた。
「は?そんなところで何してたんだよ。
まさか、例の外国人美女でも待ってたのか?」
「うるさい!!」
俺の怒鳴り声で、ニタニタと笑っていた戸田の表情が消えた。
俺は戸田を置いて、スタスタと椅子に座った。
「おい、松崎。からかって悪かったって。
今度牛丼奢るからさ。」
すぐに隣に座った戸田に、何も言わなかった。
「外国人美女って言えばさ、この前の美術館にすごい美女がいたんだよ。」
そう言って戸田はスマホを押し付けてきた。
それは美術館で戸田が自撮りした写真だった。
「ほら、ここ。こんな美女リアルにいてほしいよな~。」
俺は戸田の背後にある、一枚の絵画に目が留まった。
「エミリー!!」
そこには俺がよく知っている彼女がいた。
薄暗い部屋で、あの衣装のまま、どこかを見つめていた。
「おいおい、名前を勝手に付けるなよ。
これは『農家の娘』って作品らしいぜ。」
「俺、ちょっとサボるわ。」
「あ、おい!!」
俺は立ち上がって、カバンを手に早足で講義室を出た。
「どうしてエミリーがあんなところに…。」
俺は短い呼吸を繰り返しながら、早足で公園を歩いていた。
いつの間にか握っていた手は汗ばんでいた。
やがて俺は美術館に入り、チケット売り場に向かう。
「すみません。あの、西洋絵画を見たいのですが。」
俺は肩で息をしながら、受付の人に声を掛ける。
すると、
「恐れ入りますが、西洋絵画展は先週末で終了しました。
常設の日本画ならご覧いただけます。」
ゆっくりと落ち着いた声に、俺は呼吸を忘れた。
「え、じゃあ、あの。この写真のこの絵について知りたいのですが。」
俺は戸田のSNSのアカウントから自撮り写真を見せた。
「そういったことはこちらでは、お答え出来ません。」
受付の女性ははっきりとした声で答えた。
「そこを何とか!!」
「そうは言われましても…。」
女性は一歩下がり、視線を巡らせた。
カツカツ、カツカツ。
すると背後からヒールの足音が聞こえてきた。
「何か問題でも?」
「あ、島田さん。こちらのお客様が絵画について聞きたいそうで。」
ポニーテールでピシっとしたスーツ姿の女性が、そこには立っていた。
その女性は俺を見下ろしながら、視線を何度も上から下へと動かし俺を見た。
「学芸員の島田です。作品ってのはどういったものですか?」
抑揚のない、それでいて力がこもった声で彼女は俺に向かった。
「あの、この写真の絵について知りたいのですが…。」
俺はスマホの写真を見せた。
自分でも分からないが、小さく手が震えていた。
「はぁ、あの作品ですか。
恐れ入りますが、何も教えることはできません。」
「どうしてですか?せめてどこあるかくらい教えてください。」
「繰り返しますが、何も教えることはできません。」
彼女は冷たい視線で、真っ直ぐ俺を見下ろしている。
「どうしてですか?海外のどこかの美術館のものですよね?」
彼女は視線を逸らし、ふーっと鼻で息を吐いた。
「この作品は個人のものなので、契約上教えることができないことになっているのです。」
「それなら、せめて一目だけでいいので、見せていただけませんか?」
その言葉に彼女はチラッと俺を見た。
俺はゴクリと唾を飲み、その目を逃さないようにじっと見つめた。
「そんな例外を認めるわけにはいきません。
それにすでに運び出したので、もうここにはありません。
恐れ入りますが、どうかお引き取りを。」
俺がまた口を開こうとすると、彼女は黙ったまま俺を見つめた。
俺は口を閉じ、体の力を失ったままゆっくりと美術館を後にした。
「なあ、エミリー。あれは幻だったのか?」
俺は彼女のベンチに座って、空を見上げた。
柔らかな質感のうろこ雲は、絵に描いたように綺麗だった。
「あれ、何でだろう?」
気が付けば、俺はポタポタと涙を流していた。
「え?そんな。」
俺が手で涙を拭っても、涙は次々と溢れてくる。
目を閉じると、ベンチに座る彼女が見える。
俺の横でニッコリと頷く彼女が見える。
頬を重ねた後に見つめた、彼女が見える。
「エミリー、エミリー…っ!!」
俺は手を止め、下を向いて彼女の名前を呼んだ。
膝の上には、雨の降り始めのようにシミが増えていく。
木枯らしの冷たさを忘れたまま、俺はずっとベンチで泣いた。
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石畳の道、私はゆっくりと歩いていた。
一日数本のバスを乗り継がないと来れない小さな村。
石組みの青い屋根の家が、不揃いに並んでいる。
「ずいぶん遠くまで来たものだ…。」
私は細かく息を吐きながら、凸凹の道を歩く。
青々と芝が茂る庭からは、コーヒーの匂いが漂う。
私は白いアジサイが咲く、中世の建物に入った。
カツン。カツン。
私の小さな足取りが、杖とともに鳴り響く。
明るい赤い壁には不揃いな大きさの四角が並ぶ。
私はその一つの前に立ち止まった。
Enfin, je t'ai retrouvée.
「やっとお前を見つけた。」
J'ai déjà quatre-vingts ans, pourtant tu n'as pas changé d'un poil depuis ce jour-là.
「私はもう80歳だというのに、お前はちっとも変わらないな。」
私は老眼鏡の位置を直す。
その手はずっと小刻みに震えたままだ。
Je t'ai cherchée partout, dans le monde entier !!
「私はお前を見つけるために、世界中を回ったんだぞ!!」
Je t'apporte notre « demain », Émilie.
「ほら、私たちの『明日』を持ってきたぞ、エミリー。」
私は絵画の女性を見上げ、クシャっと笑った。
照明に照らされたその絵画には、
La Jeune Fille qui regarde demain
――明日を見つめる少女――
とタイトルが付いていた。
ピトレスク 藤沢ローリング @fujisawa-rolling
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