ボクが魚になれなかった日々
宝や。なんしい
第1話
店長がぷよぷよとしたお腹に手を当てて、制服のボタンを触りながら「最近ほんま、増えたよな、感染者」とため息混じりに呟いた。
真夜中のコンビニは暗闇に閉ざされていてやたらと静かだ。
この辺りは駅近くとはいえ住宅街の中にあって、人の出入りは限られているし国道に面していても駐車場がないので、変な輩が入ってくることもあまりない。
とは言え、深夜のバイトが僕だけというのはなかなか不便だし問題もある。
「
「ごめんね、
店長は朝剃った
「それにしてもどんどん
ぷつん、と妙な音が近くでして、何かと思ったら店長が慌ててお腹のボタンのはじけ飛んだ方向を必死に追いかけていた。きっといつかそうなるだろうと店長のお腹の取れかけのボタンを見るたびにはらはらしていたので、決着がついたことで少し安心した。
「いらっしゃいませ」
毎晩のように現れる女性がいつの間にかレジ前に立っていて、サラダとカルボナーラと林檎風味の紅茶をカウンターの上に置いた。
パスタの種類は違うけどほぼ毎晩その組み合わせだ。僕は黙ってカルボナーラを温めた。聞かなくても必ず彼女は温めてくれという。きっと一人暮らしなのだろうと僕は推測していた。疲れた顔をして化粧もすっかり
「さ、最近、だいぶ変化してきましたね」
店長が緊張気味に女性に声をかけた。
店長はプライドが高いくせにむやみに劣等感が強くて、知らない人に話しかけたりすることはあまりない。しかも女性で美人となると、やたらと避ける傾向にあった。
珍しいこの言動に思わず僕は店長の顔をしげしげと見つめた。
「あ、わかります?」
女性は少しうれしそうにして、さっきまでの疲れた顔が一気に晴れた。
「でも指がくっついちゃって。こういう時困るんですよね。ええと、おいくらでしたっけ?」
「1023円です」
レジの表示を確認しながら金額を伝えると、彼女はくっついた指を不器用に動かしてエルメスの財布からお札と小銭を取り出した。
彼女はいつも一番面倒な現金での決済を選ぶ。
「この時間やと人が少なくていいですけど、ランチ時みたいにレジが混んでる時は、後ろに並んでる人がイライラしてるのがわかって焦るんですよね」
意外とよくしゃべるんだと思った。あるいはこの異常事態における親近感みたいなものがそうさせているのかも知れない。
女性は軽々とした足取りで帰って行った。自動扉のセンサーの単調なメロディーが静かな店内に繰り返し流れていた。
「葛城さん、なんで来ないんすか」
改めて店長に聞いてみた。
「辞めはったわけやないんでしょ?」
「だから、魚類化が進んでんねやろ。もう会話もまともに出来へんみたいやから、実質辞めたんとおんなじやな」
「マジっすか? それやったら別の人採用せなあかんのちゃいます?」
「それは分かってんねんけどなあ、今さら誰もけえへんねん。募集は一応してんやで。それに、またすぐに魚類化してもうたらしゃあないしな」
店長は途方に暮れたような感じで、またぼそぼそと誰に言うでもないようにして呟いた。
僕が季節外れのひどいインフルエンザで、一か月近く寝込んでいる間に世の中はずいぶん変わってしまっていた。大学もバイトも休んで、一人暮らしのボロいマンションにはテレビもないし、ネットは嫌いなので見ることはほとんどないし、とくに仲のいい友人もいないし、唯一いた彼女にもふられてしまったばかりで世の中から完全に遮断されていた。
ようやく復活した時には世界中がパンデミックに陥っていた。
魚類化というのは
でも僕は今までにまだ一度も感染した人を間近で見たことがないので、にわかには信じられないでいた。
女性の指は確かにくっついてるみたいだった。さっきのやりとりを思い出しながら女性の指のヒレっぽい感じをリアルに頭の中で描いてみると、胃の中のものが逆流してくるような不快感を覚えた。
そもそも僕はサカナが大嫌いなんだ。
「
インフルエンザの高熱で苦しんでいる時に、
「うん、言わんかったっけ。見るのも嫌やねん」
「食わず嫌いなだけちゃうん? なんかトラウマでもあんの」
「トラウマ、トラウマなあ」
幼い頃、漁師をやっている親父に連れられて夜釣りの船に乗せてもらったことがあった。嬉しくて弟とふざけて甲板で走り回っていたら、誤って海に転落してしまった。僕はまだちゃんと泳げなくて、どんどん沈んでいってしまうのを自分ではどうすることもできなかった。弟は甲板の上から僕の名前を必死に呼び続けていた。
海面が離れていく。
どんなにもがいても、暗い海の底に引きずりこまれていく。それは誰かの意思のように誠実で規則正しかった。僕のしっかりと閉じた口の隙間から、泡がこぼれた。
泡は細かい光の粒をまとわせながら、水銀みたいにどろりと形を変えて昇っていく。海面の向こう側には
その時、暗闇の中から巨大なサカナが呼ばれたみたいにしてゆっくりと近づいてきた。
大きな真っ黒な目玉が僕をじっと見て、迷わず僕を飲み込んだ。巨大なサカナは途端に無数の小さなサカナへと分裂し、キラキラと光りながら僕の身体をついばんでゆく。
僕は少しずつサカナに食べられていくのを感じながら、次第に意識を失っていった。
消えゆく意識の中、遠くでサカナたちの声を聞いたような気がした。
気がついたら病院のベッドに寝かされていた。目を開けると力の強いおかんにいきなり頭をどつかれた。親父もおかんも弟もみんな泣いていた。その様子が面白くて笑ったら、みんな一緒に笑った。
それから僕はサカナも海もそして漁師も、みんな嫌いになった。
波音と会ったのはこの日が最後だった。
このあとすぐにふられたんだ。
僕がサカナ嫌いなのがそんなに嫌だったんだろうか。一朝一夕にこれを克服することは難しい。だけどそれならそう言ってくれればなにか対策を講じてもよかったのに。まあ自信はないけどね。
大学に行くと
「お? 津村! 津村やろ? なんやねん、無視すんなや」
「あ、ああ、佐竹、久しぶり」
気がつかないふりをしてさっさと通り過ぎようと思っていたのに目ざといやつだ。
「風邪やったんやて? 大丈夫か、こんな時期に」
こんな時期?
ああ、そうか。魚類化ウィルスのことか。
こんなアホでも気になるんだと思った。ごく狭い世界で生きていて
「お前ぜんぜんそのままやな。ある意味貴重やな」
佐竹は一斉に鳴き始めた蝉の大合唱に負けじと、大声を張り上げて言った。
「うるさいな、そんな大声出さんでも聞こえるて」
「なんや機嫌悪いやんか。そうそう、お前波音ちゃんにふられたんやろ? だっせえ」
更に大声で笑った。下品過ぎて怒る気にもならない。
「なんで知ってんねん」
「波音ちゃん泣いてたって、
へ? なにが? なんで? どういうこと? なんでふられた僕が悪いねん。
波音はいったい何に傷ついたっていうんだろう。佐竹にわかって僕にわからへんて、屈辱のナニモノでもない。
「オレさあ、カツオになるのが当面の夢やねん」
唐突に佐竹が言った。
そして興奮しながら「なんでてさあ、
「お前知ってるか? カツオって、進んだり曲がったりする時、カッカッて鋭い動きをするんやで。キレがいいっちゅうかなんちゅうか、やっぱ一番かっこいいよな」
「ごめん、まったく意味がわからん」
「ええ~、なんなん? お前、しょうもないヤツやなあ」
そう大声で言ってから急に真顔になった佐竹が「ずっと不安やってんけど見てくれよ」とランニングシャツをおもむろにぬいで背中を向けた。汗でべたついている背中のちょうど真ん中の背骨に沿って、細長くてひらひらとした薄い布のようなものが生えているのが確認できた。
「やっとな、背ビレが生えてきてん。まだ小さいけど。どうやろ? オレ、カツオになれると思う?」
でかい図体には似合わない、小さな丸っこい瞳が不安そうに僕を見つめる。めまいがした。林の中からはひっきりなしに蝉が鳴いている。これは現実なんだろうか。
「カツオ………」
「おお、そうか! 津村もそう思うか。オレもきっとそうやろうなとは思っててん。だってこのオレさまが、その辺の名前も知らんような変なサカナになるはずないもんなあ」
そう言って佐竹は僕の背中をバシバシと平手で何度も叩いた。僕は抵抗もできず、ただなすがままになっていた。そして津村がそう言うんやったら間違いないわサンキューと言って、ランニングシャツを片手に上半身裸のまま勢いよく駆け出して行った。
木下闇をすり抜けてきた、ひんやりとした風が汗で濡れた額に触れた。佐竹は何の話をしたんだろう。
「いや、マジで。どないなっとんねん」
僕は誰ともなしに突っ込んでみた。確かに人間が魚類化するなんて考えられないようなことが実際に起きていて、それだけでも充分気持ち悪いっていうのに、あいつは、佐竹は、どう見たってサカナになりたがってるじゃないか。
そういやこのウィルスは
みんな感染したいのだろうか。
サカナになりたいとでも言いたいのだろうか。
僕は
今日は大学になんて行ってられへんなと思い、
そうか。
僕は波音に会うのが怖かったんだ。
いったい何が原因で僕に別れを告げたのか、友人に泣きながら愚痴らないといけないほど彼女に何があったというのか。
でも本当のところは、もし波音が魚類化してしまっていたらどうしようという不安がそこにあることに気がついた。波音の身体にウロコやヒレが生えていたら、僕はなんと言えばいいのだろう。
きっとそれを知るのが一番怖かったんだ。
店長が分厚い両手で僕の手を包み込むようにして握りしめながら「津村くうん、ありがとう。助かるわあ」と涙をためて言った。ぷにゃぷにゃした店長の手のひらは、弾力があるけどいい具合に柔らかくて、不覚にも気持ちいいと感じてしまった。
「昼間のバイトも辞めてしもて、もう、どうにもこうにもまわらへんねん。このままやったら営業も続けられへんわ。国とか市が支援してくれるいうけど、そんなん、焼き石に水や」
それに、と店長は続けた。
「それにオレは、なんでサカナになられへんのやろう。見たところ津村くんも変化ないみたいやな」
念入りに僕の全身を隅々まで嘗めまわすようにして確認したあと、ほっとしたような顔をして、オレには津村くんしかおらんよとまた手を握りしめた。やたらとセンチメンタルになっている店長は、一番の問題はそこなんだと言わんばかりだった。
「すみませえん、『ラメウロコ』ってありますか?」
女子高生二人が声をかけてきた。さっきから店内を賑やかにうろついていた二人だった。探し物を自分たちの力で見つけるのを観念したらしい。
『ラメウロコ』? なんだ、それは。僕はこう見えても、このコンビニのスペシャリストを気取っているくらいなので、ここにあるもののすべてを
「ああ、まだ出してへんかった。ちょっと待ってね」
店長は慌てて店の奥に入っていった。荷物置き場から担いできた段ボールの中には『ラメウロコ』なる商品がびっしりと詰められていた。
「ウロコに貼ったらキラキラ光るやつらしいわ。女の子ってああいうの好きやな」
きゃぴきゃぴ騒がしい女子高生を見送りながら、店長は感慨深げにそう言った。
女子高生たちの健康そうな皮膚には、ウロコがところどころに生えていた。
「サカナになられへんとどうなるんかな」
しょんぼりとする店長が誰ともなく呟いた。
「進化に乗り遅れたものは………、どうなんねやろうな」
進化? サカナになることが?
「進化って?」
店長は虚ろな目をして呆れたように口角を少しだけあげて嗤うだけで、何もこたえてはくれなかった。
進化? 退化ちゃうんか。
街に出て空を見上げると、まんまるい月に薄い雲かかっていて、
ビルから
その光景をじっと見ていると、まるで海の底にいるような感覚に陥った。
あそこに浮かんでいるサカナたちは、みんなもとは人間の成れの果てなんだ。魚類化が進むと、なぜかみんな身体が浮かんで空中をさまようようになる。
それも魚類化の大きな特徴だった。
地上に這いつくばって生きているヒレもウロコも持たない僕は、いつまでも縛り付けられたままだ。何に? ああ、そうだ。生きることにだ。あるいは死ぬことに。
その時限に。言葉と引き換えに彼らは自由を手に入れた。
そういうことなんだろうか。
ビルの壁面に取り付けられたスクリーンにCMが流れていた。ぎらぎらしたカドミウムオレンジのビキニを着た女性の歩く後ろ姿からゆっくりズームアウトして、ちょうど音楽が盛り上がったところで振り向くと、目の覚めるような銀色の肌。
細長い顔。
細かくてびっしりと生えた鋭利な歯。
………タチウオだった。
「君の夏、まだ間に合う」とナレーションが続く。
どうやら今人気のアイドルだと思われた。この商品のCMはずっと彼女が担当していたはずだ。だけどどこにも彼女の片鱗を見つけ出すことはできない。
吐き気がした。
頭がぐらぐらして立っているのもやっとだった。
ぼんやりした頭の隅っこで、いったい何に間に合うというのだろうと考えていた。
僕はもう何日も、ずっと家の中だけで過ごしていた。
いつだったか店長から電話があった。
「津村くん、聞いて聞いて! やっとな、オレにもヒレが生えてきてん。せやから、多分もう店も続けられへんし、もう閉めようと思てんねん。あ、津村くんはどない? いや、大丈夫や。心配せんでも必ずサカナになれる日がくるよ! 信じる者は救われるや、津村くん! わはは」
一方的にしゃべりまくり、ひとこともこたえる隙を与えずに電話を切りやがった。
店長の最近のあの膨れっぷりは、フグになるための前段階だったんじゃないかと思った。
それからどのくらいの月日が流れたのだろう。テレビもネットもない生活で、ただただ何もせず毎日過ぎていくのを眺めていた。外がどうなっているのかまったくわからなかったけれど、開いた窓からはほとんど物音はしない。
蝉もいつの間にか鳴かなくなっている。
ときおりサカナが泳いで行くのがみえたが、むこうも僕にはまるで興味がないようだった。
そう言えばカッカッと鋭い泳ぎをするカツオの後を必死で追いかけている不格好なサカナを見かけたが、あれは佐竹だろうと直感した。
名前もわからないような変なサカナで佐竹らしい。
実家からも連絡は途絶えたままだ。備蓄していた食料はすべてなくなり、水だけでもう何日も暮らしていた。
部屋の電気がつかなくなってずいぶん経つような気もするし、いよいよ生きていくことが困難になってきた。
なんとか立ち上がって洗面台の鏡で自分の顔を改めて見てみた。
痩せこけてはいるが、ウロコも生えていなければヒレもない。世の中の誰しもがサカナになったというのに、なんで僕だけがなれないんだろう。
一度背中が痒くなったことがあって、遂に来たかと思ったことがあったけど、ただ虫に刺されただけだった。
生きている価値さえないということなのだろうか。
今までゴタクばかり言って、何もできない奴らを心の中でバカにしてた。自分だって何もできないくせに。目的も目標もなく、ただのらりくらりと生きてきたことへの天罰なのだろうか。
マンションの屋上に出ると、強い風が烈しく叩きつけていった。まるで邪魔ものを排除するかのように。
迷わなかった。
怖いとも思わなかった。
僕をとめる人や悲しむ人や怒る人やバカにする人なんて、もう今は誰もいないのだから。
フェンスを乗り越える。
空は深い藍色をしていてしんしんと僕を包み込んでいく。
やっぱりあのサカナたちみたいに浮かぶことはできなかった。
虹色の透きとおった長いヒレが、僕の腕にひらひらと巻きついた。まるで僕を救おうとするかのように。でもそれは一時のことで、すぐにするりとほどけてしまう。
天女のような慈悲深いそのサカナは、太陽を背に神々しく光り輝いていた。
「波音」
思わず叫んでいた。波音やろ?
ごめん、波音。きっとサカナになっていく姿を僕に見られたくなかったんやな。
でもこんなにきれいなサカナやったら、今でもまた惚れてしまう。間違いないよ。
僕の思いは届いただろうか。サカナになれなかった僕の身体は、地面に到達すると同時に粉々になって誰かのエサとなるだろう。
次第に
「約束を果たしてもらうよ」
気がつくと病院にいた。心配そうにのぞいているのは波音だった。
「波音」
夢なのか現実なのか判別できずにへらへら笑うと、力強く頭をどつかれた。
そして、よかった、よかったとかわいい顔をくしゃくしゃにして泣いた。僕は波音の手をそっと見てみたけど、ウロコやヒレは生えていなかった。
「和樹くんのおかげで、ウィルスの抗体ができてんよ。和樹くんがずっと眠っている間に魚類化はすっかり
そして「つまり人類は和樹くんのおかげで救われてんで」となぜか波音がちょっと自慢げに言った。
「僕が? なんで?」
「さあ、なんか、体内に抗体がすでにあったんやて。せやから、感染してるのに魚類化せえへんかったんやろうって」
わけが分からず、ぼんやりしていると、「だから、死んだらあかんやん」そう言って、またぺちんと僕の頭をはたいた。
そして僕たちは一緒に笑った。
ボクが魚になれなかった日々 宝や。なんしい @tururun
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