第二章:異邦の静寂

文禄元年(1592年)四月十三日 朝鮮・釜山沖 —— 釜山鎮城


津田幸之助(つだ・こうのすけ)がその「臭い」に気づいたのは、釜山の海岸まであと三里に迫った頃だった。 最初は、船底の干物が湿気て黴(カビ)たのだと思った。だが、その臭気はすぐに甲板を突き抜け、海風を突き抜け、口元を覆った手拭いさえも突き抜けて、肺腑を直接犯し始めた。 単なる腐臭ではない。 極限まで濃厚で、吐き気を催すほど甘ったるい香り。 真夏の盛りに、数千個の熟れた柿を密室に放り込み、発酵させ、形が崩れるまで腐らせたような、粘着質な甘み。あるいは、仏壇の前で枯れて茶色い水を垂れ流し始めた百合の花の臭いだ。


「いい匂いだなぁ……」 隣の足軽が鼻をヒクつかせ、陶然とした、しかしどこか虚ろな表情を浮かべていた。「津田様、これが異国の花の香りでしょうか」


幸之助は胃の腑が裏返るのを堪え、白くなるほど強く船縁を掴んだ。 「吸うな。この匂いは……おかしい」


海面には、重い灰黄色の霧が立ち込めていた。霧には質量があるかのようだ。帆にまとわりつき、油のような雫となって、涙の跡のように垂れ落ちていく。 七百艘の戦船、一万八千の精鋭を乗せた第一軍団は、死のような静寂の中を滑るように進んでいた。 本来なら、戦太鼓が鳴り響き、法螺貝が吹き鳴らされ、武者震いを隠すための鬨の声が上がるはずだ。だが、誰も声を発しない。この不気味な霧と、甘ったるい死の香りに喉を塞がれているのだ。


「先鋒より報告!」櫓の上の見張りが嗄れた声を上げた。「陸地が見えます! 距離五百!」


幸之助は顔を上げた。 船首が波を割る勢いで、霧が綿屑のように引き裂かれた。視界の端に、黒い海岸線が醜い傷跡のように横たわっている。 釜山。朝鮮の入り口。 この距離なら、雨のような矢を浴びせられるか、あるいは海岸を埋め尽くす朝鮮軍の姿が見えるはずだ。小西行長様は出陣前、「朝鮮軍は文弱なれど、国を守る戦となれば死に物狂いで来る。上陸部隊の半数が死ぬ覚悟をせよ」と繰り返していた。


だが、何もいない。 砂浜は空っぽだった。城壁の足元まで続く黒い砂浜には、海鳥一羽いなかった。 遠くに聳える釜山鎮城は、死んだ巨人の頭蓋骨のように、暗い空の下で沈黙している。城門は大きく開け放たれ、顎の外れた口のように、招かれざる客たちを待ち構えていた。


「空城の計か?」小西行長の副将が呟くのが聞こえた。 「構わぬ、上陸だ!」小西行長が太刀を抜き、切っ先を死寂の陸地へ向けた。「太閤殿下のために! 攻めよ!」


船が砂浜に乗り上げる。ズズズ、という鈍い音が響いた。 衝撃がない。まるで腐った肉の塊に、船首がめり込んだような柔らかい感触。 タラップが下ろされる。数千の武士たちが獣のような声を上げて駆け下りた。


「掛かれェ!」 「敵将の首を挙げろォ!」


叫び声は空虚な砂浜に響いたが、あまりに薄っぺらく、滑稽でさえあった。応える敵がいないからだ。彼らの咆哮は何にもぶつかることなく、濃い霧に吸い込まれ、反響すらしなかった。


幸之助は重い文箱を抱え、隊列の後方を歩いた。 浜に足を下ろした瞬間、強烈な「違和感」が全身を這い上がった。 砂が柔らかすぎる。一歩ごとに足首まで埋まる。しかもその砂は黒く湿っていて、踏むと黒い汁が滲み出し、あの嘔吐感を誘う甘い匂いを放つのだ。 これが異国の土なのか? 幸之助は足元を見た。これは砂浜ではない。巨大な生物の皮膚だ。無数の毛穴が開閉し、呼吸している皮膚の上を歩いているような感覚。


「全軍警戒! 城内へ!」


先鋒部隊が城門へ雪崩れ込む。矢の一本も飛んでこない。 軍勢は黒い奔流となって釜山鎮城へ飲み込まれていった。 城門をくぐる際、幸之助はふと上を見上げた。門の蝶番(ちょうつがい)は錆びついていたが、その錆は鮮やかな赤色で、まるで生えたばかりのようだった。地面には数本の槍が落ちていたが、柄は腐り落ちているのに、穂先だけが新品同様に光り、幸之助の青ざめた顔を映し出した。


城内に入ると、不気味な静寂は頂点に達した。 街は無傷だった。 道は広く整い、両脇の商店には「米」「酒」「布」といった、幸之助にも読める漢字の看板が下がっている。 焼き討ちの跡も、争った形跡もない。 だが、人がいない。一人も。 そして、すべての家の戸や窓が開け放たれていた。 暴力的に壊されたのではない。客を招き入れるように、あるいは中の何かが……逃げ出しやすいように、丁寧に開けられ、留め金で固定されている。


「残敵を捜せ! ネズミ一匹逃すな!」 将たちの怒鳴り声が、気を狂わせそうな空虚さを埋めようと響く。 幸之助は妙な渇きを覚えた。ふと、路地裏の一軒の民家に目を奪われた。 変哲もない瓦屋根の家。戸はやはり開いている。その暗い入り口が、磁石のような引力で彼を呼んでいた。 何かに取り憑かれたように、幸之助は隊列を離れ、その家へと歩を進めた。


「津田様?」兵の声が遠く聞こえたが、意味をなさなかった。 彼は敷居を跨ぎ、屋内へ入った。 薄暗い室内には、古い埃の臭いと、あの甘ったるい腐臭が立ち込めている。 居間の中央にちゃぶ台があり、三つの陶器の椀が並んでいた。大小二つに、小さな椀が一つ。夫婦と子供だ。 幸之助は近づいた。心臓の鼓動が早鐘を打つ。 椀には白飯、漬物、そして味噌汁。 汁の表面には数切れの豆腐が浮き、静止している。 幸之助は震える指を伸ばし、そっと椀の縁に触れた。


温(ぬく)い。


指先が火傷したかのように縮こまった。 生温かい。 数分前、いや数秒前まで、ここに人が座っていたのだ。家族三人が、昼餉(ひるげ)を囲んでいた。 だが、彼らはどこへ? 逃げたのなら、なぜ箸が箸置きに揃えられている? なぜ汁一滴こぼれていない? まるで……その瞬間、彼らの肉体だけがこの空間から消しゴムで消されたように。 残された体温だけが、彼らの存在を証明している。 幸之助の背筋に氷のようなものが走った。視線を感じる。誰もいないこの部屋の、見えない隙間から、無数の目が自分を覗き込んでいる気配。


逃げなければ。 振り返ろうとした視線が、壁を捉えた。 古い日めくり暦がかかっている。 大明万暦二十年の暦。黄ばんだ紙に赤と黒の文字。 幸之助は文官であり、漢学の心得がある。無意識に日付を読んだ。 今日は四月十三日のはずだ。 だが、その暦が示していたのは**「四月十四日」**だった。 明日? この家の住人は、明日の暦をめくっていたのか? いや、違う。 幸之助は目を凝らした。 暦の文字が……動いている。 「四月十四日」の下にある「吉凶」の欄。「祭祀ニ宜シク、出行ヲ忌ム」といった小さな文字が書かれているはずの場所。 その黒いインクの染みが、生きた蟲のように紙の上を這い回り、絡み合い、交尾している。 微かな、爪で卵の殻を引っ掻くような音がする。ジジ……ジジジ……。 叫び声が喉で凍りついた。インクの蟲たちは周囲の余白を食い荒らし、黄ばんだ紙の中央で、光さえ吸い込むような漆黒の漢字へと変貌した。


【 死 】


その文字の下、「忌」であるべき場所からインクが垂れ、ミミズがのたうつような字で、歪な平仮名が綴られた。それは子供の落書きのような残酷さを帯びていた。


『カガミノナカへ……ヨウコソ……』


「ひっ!」 幸之助は短い悲鳴を上げ、後ずさりしてちゃぶ台をひっくり返した。 ガシャーン! 陶器が割れる音。温かい味噌汁が床に広がる。 幸之助は見た。こぼれたのは汁ではない。ドロリとした暗赤色の液体だ。そして、豆腐だと思っていた白い塊は―― 人間の眼球だった。 赤黒い液体の中を転がった眼球が、くるりと反転し、瞳孔を上に向け、へたり込んだ幸之助を死んだ魚のような目で見つめた。


「津田! おい津田!」


粗野な大声と共に、武装した武士が踏み込んできた。加藤平八だ。 「何をしてやがる! 叫んだりして」平八は眉をひそめ、床の惨状を見た。「なんだ、飯をひっくり返しただけか。まったく、文官ってのはこれだから」


幸之助は肩で息をしながら、床を指差した。「め……目が……あれは目だ……」


「あ?」平八は訝しげに床を覗き込み、呆れた顔をした。「津田、船酔いで頭がいかれたか? どう見ても豆腐だろうが」


幸之助は固まった。 恐る恐る床を見る。 そこにあるのは茶色い味噌汁。漂うのは大豆の匂い。白い塊は、ただの崩れた豆腐だった。眼球などどこにもない。 彼は猛然と壁の暦を振り返った。 ただの古びた暦だ。「四月十三日」とある。「死」の文字も、蠢くインクもない。


「幻覚……?」 全身が冷や汗で濡れていた。


「立てよ」平八が手を貸してくれた。「行長様がお呼びだ。空城だが、とにかく釜山は落ちた。今夜はここで夜営だ」 平八の手は熱く、力強かった。その熱が、幸之助を辛うじて現実に繋ぎ止めた。 緊張しすぎたのか? 船内の毒気に当てられたのか? 幸之助は散らばった文箱を拾い、ふらつく足で外へ出た。


敷居を跨ぐ寸前、彼はもう一度だけ、あの暦を振り返った。 暦は動いていなかった。 だが、暦の横の漆喰の壁に、いつの間にか水の染みが浮き出ていた。 その形は、まるで誰かが壁の中から必死に外へ出ようと顔を押し付けたような、苦悶の輪郭を描いていた。 その顔の特徴を、幸之助は見間違えなかった。 それは、彼自身の顔だった。


「津田? 何してやがる」 「い、今行く」


幸之助は逃げるように家を飛び出し、陽の下へ出た。 だが、暖かさは感じなかった。 彼は知っていた。逃げてなどいないことを。 この土地に足を下ろした瞬間、背後の扉は既に施錠されていたのだ。


釜山鎮城では、数万の日本兵が勝ち鬨を上げ、無血開城を祝っていた。 その歓声の裏で、街道沿いの開け放たれた無数の窓の奥、闇はより一層その濃度を増していた。 あの甘ったるい腐臭が、夜の帳と共に、兵士一人一人の毛穴から侵入し、夢の中へと潜り込んでいく。


本当の戦争が始まったのだ。 人との戦いではない。この土地の底に眠る悪夢との戦争が。


(第二章 完)

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