『修羅の海 ——戦なき戦の傷跡——』
迦兰多(Jialanduo)
第一巻:上陸、あるいは霧の迷宮
第一章:黄金の檻と鏡の神
文禄元年(1592年)早春 —— 日本・京都、聚楽第
豊臣秀吉は、目覚めた瞬間、己の死を確信した。
視界を埋め尽くすのは、呼吸すら拒むような黄金色(こがねいろ)だった。混じり気も、影も一切ない。あるのは純粋かつ高密度の光のみ。だがその光は暖かさとは程遠く、金属特有の冷たい生臭さを放っていた。 彼は瞬きをした。枯れ木のような瞼が、乾いた音を立てて眼球と擦れ合う。 視覚が焦点を結ぶにつれ、自分が極楽浄土にいるのではないことを悟る。そこは聚楽第の最奥、「黄金の茶室」だった。
壁も、天井も、敷かれた畳の目ひとつひとつに至るまで、すべてが金で織りなされている。ここは黄金の子宮であり、同時に黄金で密封された棺桶でもあった。
「水……」
声を出そうとしたが、喉には乾いたおが屑が詰まっているようだった。漏れ出たのは、首を絞められた老猿のような掠れ声だけだ。 誰も答えない。 日本最高権力が集うこの府邸は、今や深海のような静寂に包まれていた。媚びへつらう大名たちも、恭しい侍女も、常に目を光らせていた側近たちも、一夜にして蒸発してしまったかのように。
秀吉は身を起こした。その動作だけで激しい眩暈が襲う。彼は自分の手を見下ろした。 かつて織田信長の草履を懐で温め、天下統一の采配を振るい、あの徳川家康さえも跪かせた手だ。 だが今のそれは、枯れ枝のように痩せ細り、老人斑(シミ)に覆われていた。まるでクシャクシャに丸められた古和紙を、乱暴に広げたかのような皮膚。その下を走る紫黒色の血管は、血液を運んでいるようには見えない。何か黒い蟲が、皮下を這い回っているかのようだった。
(老いたか……)
その思考は唐突に、感嘆ではなく、恐怖として脳髄に突き刺さった。生理的な、自己の存在が霧散することへの根源的な恐怖。
彼は立ち上がり、覚束ない足取りで茶室の隅へ向かった。そこには黄金の茶道具一式が鎮座している。 密閉された空間には空気が淀み、黄金の金属臭と、畳のイグサの匂い、そして老いた肉体が発する微かな腐敗臭が混じり合っていた。
秀吉は茶釜の前に座した。誰もいないが、習い性で点前(てまえ)を始める。 それが、理性を繋ぎ止める唯一の儀式だった。 湯を汲み、茶筅(ちゃせん)を振るう。黒楽茶碗の中で茶筅が高速で回転し、サワサワと細やかな音を立てる。 だが、その音はこの絶対的な静寂の中で、異常なほど増幅された。
サワサワ……サササ……カサカサ……
音が違う。竹の穂先が陶器を擦る音ではない。無数の節足動物の脚が、鼓膜の上を這い回る音だ。 秀吉の手が止まった。彼は茶碗の中の濃緑の液体を凝視した。 泡立つ茶の表面は弾けることなく、ゆっくりと回転を始めている。気泡が幾何学模様を描き出す。円でも四角でもない、直視すれば眼球が裂けるような、不快な螺旋。
「太閤殿下。お心が乱れておいでです」
唐突に、背後から声がした。 秀吉は首の骨が鳴るほどの勢いで振り返った。 茶室唯一の出入り口、狭い「躙り口(にじりぐち)」に、一人の人影が正座している。
十五、六歳ほどの少年だった。純白の小袖を纏い、顔には厚く白粉(おしろい)を塗り、唇には鮮血のような紅を差している。 秀吉は目を細めた。記憶力には自信があるが、近侍の中にこんな顔は見当たらない。 その五官はあまりに完璧すぎた。生きた人間特有の「揺らぎ」がない。定規とコンパスで設計図を引いたような、人工的な対称性。 そして、その肌は不気味なほど滑らかで、蝋燭の揺らめく光の下でも、一切の影を落とさないのだ。
「誰だ」秀吉の声は嗄れ、威厳を保とうとする虚勢が滲んでいた。「誰の許しで入った」
「殿下の影でございますよ」 少年は口を開かなかった。だが声は、湿った蛇のように耳の奥へと直接滑り込んできた。 「お忘れですか? 心の中で私を呼ばれたのは、殿下ご自身ではありませんか」
「戯言(たわごと)を!」 秀吉は手元の黄金の茶杓(ちゃしゃく)を掴み、力任せに投げつけた。 茶杓は空を切り、少年の身体に触れた瞬間――煙を通り抜けるように透過した。 カラン、と乾いた音を立てて、茶杓は少年の背後の床に落ちる。
秀吉は凍りついた。 少年は変わらず微笑んでいる。完璧で、裂け目一つない能面のような笑み。 「殿下、時間はあまり残されておりません。お気づきでしょう? お身体は腐り始めています。足の指から、内臓へ、そして脳へ。死が貴方を少しずつ咀嚼しているのです」
「黙れ! わしは関白だ! 太閤だ! 日輪の子だぞ!」 秀吉は咆哮したが、身体の震えは止まらない。
「日輪もまた沈みます」少年は囁く。「凡人は皆死ぬ。……ただし」
「ただし、なんだ?」秀吉は無意識に身を乗り出した。
「その有限の命を、無限の『名』と交換できれば話は別です」 少年はゆっくりと手を上げ、茶室の反対側を指差した。 「ご覧なさい、殿下。あそこに答えがあります」
視線を追うと、茶室の床の間に、いつの間にか“ある物”が置かれていた。 掛軸ではない。生け花でもない。 鏡だ。 西洋渡来の銀縁がついた、巨大なガラス鏡。当時としては国一つ買えるほどの宝物。 秀吉は催眠術にかかったように、這いずって鏡へ向かった。 今の自分の姿が見たい。自分がまだ、天下人・豊臣秀吉であることを確認したい。 彼は鏡面に冷たい手をつき、顔を上げた。
呼吸が止まった。
鏡の中に、人間はいなかった。 豪華な羽織を着た老人も、猿のような顔も映っていない。 そこにあったのは、灰色の海だった。 死に絶えた海。波はなく、重く淀んだ灰黄色の霧が立ち込めている。対岸には、捻じれ、天を突き刺す指のような奇妙な山々が連なっていた。
「ここは……何処だ?」
「『彼岸』です」 少年の声が、秀吉の背中に張り付くように響く。 「そして、殿下がこれから征服すべき場所。そこには強大な力が眠っています。あちら側の『気』を持ち帰れば、殿下の枯渇した命を満たすことができる」
鏡の中の景色が変わった。 灰色の海面に、無数の顔が浮かび上がったのだ。 老人、子供、男、女。千、いや万単位の人間の顔。その表情は一様に、極限の恐怖と絶望に歪んでいる。 それらは海面で浮き沈みしながら、声のない叫びを上げていた。
その絶望の群れを見て、秀吉は微かな……興奮を覚えた。 そうだ、興奮だ。背筋から脳髄へと這い上がる、暗くねっとりとした快感。それは麻薬のように、老いへの恐怖を瞬時に麻痺させた。他者の運命を握り潰すという全能感。
「手に入れたい……」秀吉の瞳孔が開き、眼球に毛細血管が走る。「この海を埋め尽くしたい。大明の皇帝をわしの足元に跪かせたい。わしの名を、アジアのすべての石に刻みつけてやる!」
「素晴らしい」 少年が笑った。今度こそ、その口は耳元まで裂け、中から底なしの暗闇が覗いた。 「ならば戦争を。理由も戦略も要りません。ただ人を送り込むのです。日本人を送り、明人を引きずり込む。彼らの恐怖、怨嗟、絶望。すべてを殿下の供物とするのです」
「供物……」
突如、鏡の中の海が沸騰したように泡立った。鏡面から黒い液体が滲み出し、茶室の黄金の床にポタリ、と滴る。 水でも墨でもない。意思を持った流動体。 黒い滴は瞬く間に分裂し、増殖した。 秀吉が見守る中、それらは親指ほどの大きさの「黒い小人」へと変化していく。 目鼻はない。だが、その極小の槍や刀を構えた姿からは、強烈な殺意が放射されていた。 何千、何万もの黒い小人が、黄金の床を埋め尽くす蟻の大群のように広がり、二手に分かれて殺し合いを始めた。
鬨(とき)の声はない。聞こえるのは、耳障りな、微小な肉が引き裂かれる音だけ。 ブチブチ……グチャ…… 小人の首が飛ぶ。傷口から噴き出すのは血ではなく黒い霧だ。その霧を周囲の小人が吸い込み、さらに巨大に、凶悪に変貌していく。
「見えますか?」少年の声は、今や四方八方から響く神託のように朗々としていた。「これが戦争の本質。同類を喰らい、己を肥やす。なんと完璧な循環でしょう」
秀吉は床上の殺戮劇に魅入られていた。 彼は干からびた手を伸ばし、黒い小人の一つに触れようとした。 指先が触れた瞬間。 小人は動きを止め、のっぺらぼうの顔を仰向け、秀吉を見上げた――。
『ギャアアアアアアアアアアアアア!』
鼓膜を突き破るような絶叫が、秀吉の脳内で直接炸裂した。 一人の声ではない。数十万人が断末魔に上げる合唱だ。 「ひっ!」 秀吉は手を引っ込め、傍らの茶碗を蹴り倒した。 濃緑の茶が床に広がる。黒い小人たちはそれに群がり、貪るように啜った。茶を吸った小人たちは膨張し、暗緑色に変色し、全身に肉腫が吹き出し、その一つ一つが「眼」となって開いた。 無数の眼球が、床一面から豊臣秀吉を凝視している。 地獄からの眼差し。
「ご下命を、殿下」 少年の姿が陽炎のように揺らぎ、鏡の中へと吸い込まれていく。 「海を渡るのです。朝鮮へ。そこに眠る……真の神を目覚めさせるために」
秀吉は床に這いつくばり、荒い息を吐いた。冷や汗が寝間着を濡らす。その瞳から恐怖の色が消え、完全な狂気が宿っていく。 もはや稀代の政治家でも、機を見るに敏な天下人でもない。 「自滅プログラム」を埋め込まれた、ただの壊れた人形。
彼は震える手足で這い進み、黄金の扉を押し開けた。 外から差し込む日光が突き刺さる。 廊下に控えていた近習たちが、幽鬼のような形相で這い出してきた主君を見て、悲鳴を押し殺し平伏した。 「殿下!」
秀吉は門枠にすがりつき、ゆらりと立ち上がった。彼が見つめる虚空には、日本列島を見下ろす巨大な鏡が浮かんでいるようだった。
「触れを出せ……」
その声は、ガラスを爪で引っ掻くような、甲高く不快な音だった。
「船を揃えよ! 名護屋に集結せよ! すべての軍勢を……すべての武士を……海へ送れ!」
侍従長が狼狽して顔を上げた。「殿下、目標は? 作戦計画は……」
秀吉は見下ろした。その瞳孔は黒い渦となり、眼窩の中でゆっくりと回転していた。
「計画などない」
秀吉は唇を歪めた。夢の中の少年と同じ、耳まで裂けるような笑みを浮かべて。
「目標は……地獄だ」
(第一章 完)
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