たとえこれを愛すと言ったとしても

余白

たとえこれを愛すと言ったとしても

第一章 当たり前の毎日

 

俺は、自分の生活を特別だと思ったことがない。

 朝起きて、顔を洗って、同じ道を通って、同じ時間に帰ってくる。その繰り返しが、ただ続いているだけだった。


 そこに美波がいる。

 それが、俺の日常の一部だった。


 美波はいつも静かだった。よく気がつき、よく笑い、ほとんど自分の話をしない。俺が何か言えば、最後まで聞き、特に反対もせず、少し考えてからうなずく。

 その様子が、俺には落ち着いて見えた。


 隣にいる人間が静かであることは、心が楽になる。

 だから俺は、何も疑わなかった。


第二章 心が保たれている

 俺と美波の間には、いつの間にか決まった流れができていた。


 予定は俺が決める。

 行きたい場所も、帰る時間も、会う頻度も。

 美波はそれに合わせる。


 彼女が何かを主張することは、ほとんどなかった。

 それが不自然だとも思わなかった。


 むしろ、そうやって何も引っかからずに進むことが、心が楽でいられる関係だと思っていた。


 彼女がそこにいると、生活の不安が消えて、自分がちゃんとしている気がした。


第三章 変わらないという感覚

 最近、美波はあまり話さなくなった気がする。

 以前よりも、返事が短くなった。

 でも、俺はそれを気のせいだと思った。


 人の気分には波がある。

 それだけのことだ。


 問いかければ、ちゃんと返事は返ってくる。

 いなくなるわけでもない。


 何も変わっていない。

 心は、まだ楽だった。


第四章 少し違う日

 ある日、いつものように予定を伝えると、美波は少し間を置いて言った。


「今日は、行かない」


 その言葉が、空気の中で少しだけ重くなった。


 だが、深く考えなかった。


「分かった」


 それで終わりだった。


 特別なことではない。

 そんな日もある。


 心は、まだ乱れなかった。


第五章 言葉

 俺は時々、美波に言った。


「美波は大切だ」

「一緒にいて、楽だ」


 それは気持ちを伝えるというより、心を元に戻すための言葉だった。


 彼女がうなずくのを見ると、心がまた、軽くなる気がした。


第六章 距離

 ある日、美波は言った。


「私、少し離れるね」


 その言葉も、俺の中では特別な意味を持たなかった。


「分かった」


 理由も聞かなかった。

 聞く必要を感じなかった。


 心は、まだ落ち着いていた。


終章 静かな部屋

 気づいたとき、美波はいなかった。


 部屋は、少し静かになった。

 だが、それだけだった。


 日々は、そのまま続いた。


 しばらくして、ようやく分かった。


 俺は、美波を見ていなかった。

 彼女を、自分の心が楽でいられる場所に置いていただけだった。


 壊れないように、

 動かないように、

 自分の心が乱れないように。


 それでも、あの頃の俺は確かに思っていた。


 俺は、これを愛していた。

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