『あとでやる帳』
活呑
あとでやる帳
「本日配属された、桐針です。よろしくお願いします。」
職場は少数。そんなにスペースも広くなく、ただ書類だけは積み上がっている。これはあれだ。片付けができない職場だ。
「ということで、みんな、よろしくしてあげてくれ。望持くん、仕事の説明をよろしく頼むよ。」
いちばん体格の良い中年の男性が一歩前に出て、手を差し出してきた。
「望持です。よろしくね。
早速だけど仕事の説明をするよ。こう見えてここはそれなりに忙しいんだ。」
握手を終えた手をズボンで拭いた
「君も知っていると思うけど、『あとでやる帳』への登録、削除を実施している部署なんだ。
利用者は直接ここへ来て、登録か削除を申請していく。
我々は、その内容を正しく登録し、または削除をする。基本はそれだけだ」
「それだけですか?」
「ああ。だが、バカにはできないぞ。市民の悩みを扱う重要な仕事だ。丁寧にね。」
桐針は用意された椅子に座り、目の前の分厚いファイルを開いてみた。
日付、住所、名前、あとでやると決めたこと、期限。
これを記入してもらった上で、端末に登録するらしい。なるほど、アナログだ。そんなものなのかもしれない。
チーン。
ガラス戸の向こうに、若い女性が立っていた。
手にはメモ帳。ページの端が折れている。
「こちらでお伺いします」
桐針が声をかけると、女性は少し安心したように息を吐いた。
「あの、『あとでやる帳』の登録をお願いします」
「内容を伺っても?」
女性はメモ帳を見てから、顔を上げた。
「部屋の模様替え、です」
桐針は一瞬だけ考え、用紙に書き込んだ。
「期限は?」
「決めてません」
「……わかりました」
端末に入力すると、軽い電子音が鳴る。
「これで登録完了です」
「あ、ありがとうございます」
女性は少しだけ、肩の力を抜いて帰っていった。
桐針はファイルを閉じる。
たしかにこれは、悩みと言えば悩みなのだろう。
「これ、いつかやるって言いつつやらないやつですよね?」
「率直な意見だ。そしてこのシステムの奥深いところでもある」
望持はすっと目を細めた
「本当に忘れちゃいけないことは登録できないんだ。その結果、ここにある内容は一見、どうでも良くみえる」
桐針は空を見つめた。
「でも予定として登録される、と。」
不思議なシステムだ。負債製造機。ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
チーン。
次の来客だ。確かに忙しい職場らしい。
「こちらでお伺いします」
桐針は立ち上がって手を振った。
高校生くらいの男の子だ。
「手紙の返事を書きたいんです」
連絡手段なんていくらでもある昨今、ずいぶん古風な高校生だ。
ラブレターの返事かな?
「ではここに必要事項をご記入ください」
男の子は差し出された用紙を受け取り、しばらく固まった。
「あの……期限って、書かないとダメですか」
「未定でも構いません」
「じゃあ……未定で」
そう言って、彼はペンを走らせた。
桐針は横目で、書かれた内容をちらりと見る。
——手紙の返事を書く。
「宛先は?」
男の子は一瞬だけ視線を泳がせた。
「……自分です」
桐針はペンを止めたが、何も言わなかった。
「わかりました」
端末に登録すると、いつもと同じ電子音が鳴る。
「これで完了です」
男の子は、ほっとしたように肩を落とした。
「ありがとうございます。
これで、忘れてもいい気がして」
そう言って、少し照れたように頭を下げ、帰っていった。
桐針はその背中を見送ってから、ファイルを閉じた。
手紙を書く前に、
自分に返事を出す必要がある人もいるらしい。
チーン。
「はい、次の方どうぞ」
今度現れたのは、スーツ姿の中年男性だった。
ネクタイが少し曲がっている。
「登録をお願いします」
「内容を伺っても?」
男性は少し考えてから、はっきり言った。
「冷蔵庫の奥のプリンを食べる」
桐針は一瞬、望持の方を見た。
望持は何も言わず、うなずいただけだった。
「期限は?」
「賞味期限が切れる前で」
「具体的な日付は?」
「……じゃあ、今日じゃなくていい日に」
桐針は用紙に
期限:未定
と書き込んだ。
端末に登録する。
電子音。
「完了です」
男性は満足そうに息を吐いた。
「これで安心して仕事に戻れます」
「……そうですか」
男性は軽く会釈をして帰っていった。
桐針は小さく息を吸った。
「……本当に、どうでもいいですね」
「そうだね」
望持は書類を整えながら言った。
「でも、今日一日で一番切実だったかもしれない」
昼休憩。
職場の照明が一段落とされ、窓際のブラインドが少しだけ上げられた。
それだけで、部屋の空気が仕事用から昼用に切り替わる。
桐針は持参した弁当を机の端に置いた。
蓋を開けると、白いご飯と茶色いおかず。
見慣れた色だ。
「それ、手作り?」
望持が紙コップにお茶を注ぎながら聞いた。
「いえ。昨日の夜にスーパーで」
「正解だよ。手作りは、あとでやる帳に登録しがちだから」
桐針は思わず、口元を緩めた。
他の職員たちは、
コンビニの袋を開けたり、
スマートフォンを眺めたりしている。
誰も、さっきの来客の話をしない。
「……ここって、いつからあるんですか」
桐針が箸を止めて聞いた。
「さあ。少なくとも、俺が配属された時にはあった」
「制度の目的は?」
望持は少し考えてから、弁当を指差した。
「食べ終わったら、片付けるだろ」
「はい」
「でも、食べてる最中に
“あとで片付けなきゃ”って考えると、
飯がまずくなる」
桐針は、なるほどと思った。
「だから、ここに置く」
望持は机の引き出しを、指で軽く叩いた。
「味が落ちないように」
しばらく、咀嚼の音だけが続いた。
桐針は、いつもより少しだけ、
ゆっくり噛んだ。
昼休憩が終わり、照明が元の明るさに戻った。
桐針は弁当箱を片付けながら、さっきの望持の言葉を思い出していた。
――味が落ちないように。
自席に戻り、何気なく分厚いファイルを開く。
空白の用紙が、一枚挟まっていた。
桐針はペンを取った。
日付。
住所。
名前。
そこまでは、いつも通りだ。
「あとでやると決めたこと」
ペン先が止まる。
ほんの数秒考えてから、書いた。
——散歩に行く。
期限の欄は、そのままにした。
「……未定、でいいか」
小さく呟いて、端末に向かう。
自分の名前を入力するのは、少しだけ気恥ずかしい。
内容を確認し、登録。
電子音。
それだけだった。
何かが変わった感じは、しない。
それでも桐針は、椅子に深く座り直した。
「忘れてもいいってわけじゃないんだな……」
ただ、どこかに置いた。
それだけだ。
「桐針くん」
望持が書類から顔を上げた。
「はい」
「初日から私用の登録とは、なかなか順応が早いね」
「……バレますか」
「端末、意外と正直だから」
望持はそう言って、くすっと笑った。
「まあいいさ。
登録したからって、
今すぐ散歩に行かなきゃいけないわけじゃない」
桐針は画面を見た。
登録状態:有効
その文字を見て、なぜか少しだけ、
今日の帰り道が長くなった気がした。
チーン。
午後の来客は、静かな人だった。
年配の女性。買い物袋を胸に抱えている。
「こちらでお伺いします」
女性は小さくうなずき、カウンターの前に立った。
「登録をお願いしたいんです」
「内容を伺っても?」
女性は一瞬だけ視線を落とした。
「息子に、電話をかけること」
桐針は、用紙を差し出す動作の途中で止まった。
「期限は?」
「今日、です」
はっきりした声だった。
桐針は用紙を引き寄せ、記入しようとしてから、
ふと端末を見た。
いつもの手順で入力する。
電子音は、鳴らなかった。
代わりに、画面に短い文章が表示される。
《この内容は登録できません》
桐針は一度、画面を閉じた。
再度入力する。
結果は同じだった。
「……申し訳ありません」
女性が顔を上げる。
「登録できない、という表示が出まして」
「そう」
女性は驚いた様子もなく、うなずいた。
「やっぱり、そうですよね」
「理由は、こちらからは……」
「ええ。大丈夫です」
女性は買い物袋を持ち直し、少し考えてから言った。
「あとでやることじゃ、ないですものね」
桐針は、何も言えなかった。
女性は会釈をして、出口に向かった。
ガラス戸の前で、一度だけ振り返る。
「ありがとう。
確認できただけで、助かりました」
チーン。
扉が閉まる音が、いつもより小さく聞こえた。
桐針は端末を見下ろした。
登録できない。
それは拒否ではなく、
置き場所が違う、という意味なのだろう。
望持が、書類を揃えながら言った。
「行く人は、登録しなくても行く」
桐針は、ゆっくりとうなずいた。
その日の業務は、それで終わった。
職場からでた桐針は、改めて周囲を見渡した。
なぜだろう。景色が朝と違う気がした。朝よりもすっきりとした、明るさがあるように見える。
直接家に帰るには、少し早い。
明日の昼食の準備?惣菜の値段が下がるのはもう少しあとだ。
いつもは通らない、川沿いのルートを選んで、ゆっくりと歩き出す。
ランニングをする高校生。
仲良さそうに散歩をする老夫婦。
犬の散歩をしている女性。
気がついたら、自宅の前までついていた。
これはきっと、散歩ではないだろう。
『あとでやる帳』の更新が必要なわけでもないだろう。
今日はおわり。あすの仕事に備える時間だ。
登録された『あとでやる事』が終わったら、自己申告するのだろうか?
明日が、少しだけ楽しみになった。
『あとでやる帳』 活呑 @UtuNarou
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