なんでやねん、もうあかん

草森ゆき

 天気予報は雨やったけど実際には一滴も降らんかったし、せやから会いに行けるやんと思うてアパート出て回りにくくなってもうてる鍵穴に錆びかけの鍵突っ込んで、ちらほらゴミが落ちとる汚い裏道を浮足立ちながら歩いとった。ほんまにええ気分やった。住人の爺さんが死んで空き家になっとる古民家にブルドーザーが腕突っ込んどった。どんどん数が増えとる野良猫が潰されていっとる様子をずっと見てた。朝の空気は夏の熱気に負けとって、火傷しそうなぐらい熱い太陽がおれの全身焦がしてた。落ちる汗も気にならんくらいええ気分やったから最高気温四十度近いのなんてぜんぜん問題あらへんた。バス停にちょうど乗りたいバスが停まってて、おれは慌てて走って乗って、ICOCAピッ!てしたところで冷え冷えしたクーラーに濡れた体を撫でられてもうて一回だけくしゃみ出た。乗車口近くに座っとったおばさんが迷惑そうな目で睨んできたけど知らんふりして降車口近くに手摺りに掴まって一息ついた。

 ユリのアパートはバスの終点から十分ぐらい歩いたとこにある。

 もうどのくらいやろう、たぶん一か月近く会ってへんかった。二週間前に台風が来て、その後から天気があんま安定せんかったから、おれも彼女も予定がぜんぜん合わへんかった。警備員ってこれやからあかん。雨やと当日に休んでくれって言われることが多いから、急に休みができることになってまう。ほんでユリはダブルワーカーやから休みがおれよりも不安定や。木曜はぜったい休みにしとるらしいけど、おれがほぼほぼ休みにならへん。

 そう、今日みたいなめっちゃラッキーなことが起こらん限り。今日は昨日のうちから絶対雨やて天気予報が叫んどって、ほな現場中止にするわって連絡がすぐに来た。もうほんま、そんな業者珍しい。大体は当日の朝まで粘って、ほんで雨降ってもまあこの降り方やったらいけるわ言うて決行しよる。せやからもう、もうほんま、ほんまに業者さんと天候さんおおきにって気持ちがめっちゃ溢れとる。今日めっちゃ木曜日やから、感謝してもし足りひん。おれはウキウキで終点に辿り着くんを待っとった。辿り着いてからはいの一番にバス飛び降りた。何回も通ったアパートまでの道歩いて、いやほぼ走って、途中でそうや連絡してへんと思いながら歩きに戻してスマホ出して休みになったから会いに行くでって連絡した。既読つかんかったけど時間見てみたら十一時過ぎで、もしかしたらユリはまだ寝とるかもしれへんかった。あいつけっこう宵っ張りやし遅起きや。せやったらまあ、合い鍵でそっと入って寝とったら近くで起きるまで待って……なんやったらおれも一緒に昼寝して、十四時くらいに起きてから遅い昼飯二人で食うてまったり過ごす感じでええか。

 考えとる間にアパートについた。インターホン鳴らしかけたけど寝てたらあかんなと思うてやめた。そっと鍵回して、忍び足で入った。カーテンは開けとるみたいで思てたよりは明るかった。あーなんかこれサプラーイズ!て言ってみたい状況でもあるなあ。せやけどそんなんせん方がええわなあ。っちゅうかむしろ、自己満足なサプライズなんて大事故起きるだけやろうしやめた方がええに決まっとるよなあ。

 脳内で独り言ぐるぐる回しながら玄関前のキッチン通り過ぎて部屋に続くドア開けた。

 おれを迎えてくれたんはじっとりした夏場の熱気、隅っこに設置されとる部屋の消臭力ローズの香り、テーブルの上にほったかされとる半額弁当のゴミ、その横にあるパソコンから漏れとるちっさい音のボカロ曲、床に脱ぎ落とされとるユリの服、タオルケットを股に挟んで寝とるベッドの上の全裸のユリ。

 ほんでから、窓ガラス挟んだ向こう側のベランダ、煙草咥えながらおれと見つめ合っとる知らん男。

 おれは動けんへんかった。時間的には年単位で固まってもうとるような、自分の中の時間が捻じれ切ってもうた感覚やった。息もしてへん気がした。男が突っ立っとるおれを見つめたまま煙草をゆったり吸うてるんを、そんな状態で呆然と眺めてた。

 煙草を吸い切った男が静かな動きでベランダから出てきた。おれの肩をぽんぽん叩いて、耳元に口を寄せてきて、言うた。

「外で話せますか?」

 妙に芯の通った標準語やった。おれは呆然引きずったまま三回くらい小刻みに頷いて、男はなんでか知らんけどふっと息で笑ってから先に部屋を出て行った。


 喫茶店がそんな遠ないところにあった。関西の住宅街の中やけど愛知県出身のご夫妻がおって、モーニング文化が恋しいあまりに自分らで喫茶店を開くことにしたらしい。

 目の前におる男、七岡英二郎が自己紹介の終わりにそう言うた。喫茶店なんかどうでもええわい、七なんか二なんかどっちやねん。心の中で突っ込んだつもりやったけど声に出てた。七岡は垂れてきた前髪を耳にかけながら九ですねてあほほど温厚な声で返してきた。

「おもんないわ、なんやねん」

「十和田さんは十なので、俺の方が低いですよ」

「十和田千歳やから千十や」

 七岡は口の中でこもらせるように「ちとせ」と繰り返した。それから、さっき運ばれてきてたオリジナルブレンドコーヒーを一口飲んだ。なんやじっくり飲んどった。状況説明するために脳内で情報整理でもしとるんかと思て、とりあえずなんも言わんと七岡の発声を待ってやった。

「ユリさんは百野百合だから二百ですね」

 て真顔で言われてテーブルに額をゴーン!てぶつけてもうた。

「おま、おまえ、なんなんや?」

「七岡英二郎です」

「ちゃうわ、ほんまになんやねん」

「十和田さんが欲しい答えとして話すなら、ユリさんのセックスフレンドです」

 思考回路が止まりかけた。せやけどなんとか踏ん張って、手えつけてへんかったアイスコーヒーごくごく飲んで、身ぃ乗り出して更に聞いた。

「おまえ……七岡、おまえ、ユリにおれ、彼氏がおるって知っとったか?」

「知ってます」

「な、え、せやったら彼氏に悪いから言うて、セフレになんかならへんやろうが」

「それは出会い方によりますよ」

「は?」

「セフレ募集、彼氏あり、行為のみ希望、平日希望」

「……あえ?」

「ユリさんがつけていた条件です」

 七岡は話しながらテーブルの真ん中に自分のスマホをぽんと置いた。おれは疑問符を引き摺りながら画面を覗いた。そこにはアプリが表示されてた。ラブ@ナイトっちゅうあからさまな名前のアプリやった。七岡は画面をおれに見せたまま何回かタップして、アカウントをひとつ表示した。

 YURIてローマ字で名前が書かれとって、アイコンはユリの口から下、谷間が見えとる上半身まで映した写真やった。赤いブラジャーが思いっきり見覚えあった。ええやんこれって言いながらホック外した記憶がめっちゃ鮮やかやった。

 魂抜けるかと思た。何度目かわからん呆然状態になっとると、七岡が別のページをタップして表示した。自分のアカウント情報らしかった。ナインてアカウント名前で、こいつほんまに自分のこと九やと思うとるんやなてあほほどどうでもええことに気が付いた。

「これ、俺とユリさんのやり取りです」

 七岡が次に見せてきたんは個人チャットルームみたいなとこやった。ユリと七岡がお互いに希望日やら希望プレイやらについて話しとる画面が表示されとった。おもろいくらい事務的なやり取りやった。来週木曜空いていますか。可能ですが出来れば午前希望です。大丈夫です、YURIさんに合わせます。ありがとうございます。場所はどうされますか。前回と同じ私の部屋でお願いします。了解しました。では当日よろしくお願いします。はい、お願い致します。

 スマホ画面からゆっくり目ぇ離して前向いた。七岡がめっちゃ穏やかな顔でおれの様子を眺めてた。伸びた襟足が汗の名残で光る首筋にくっついとった。二重まぶたではっきりしとる目の中の色が穏やかやった。長い前髪の隙間の耳にちっさい画鋲みたいなピアスが見えた。七岡を喫茶店に食い止めてくれとるピアスのような気がしておれは、

「もしかして、セックス、下手なんか……」

 ほかの誰にも話せへん気付きを漏らした。七岡は一瞬だけ眉下げた。あわれな子羊を見つめる聖母ってこんな目ぇするんちゃうかなと思うておれはちょっとだけ泣かせてもろた。


 昼下がりの喫茶店は延々空いてた。おれと七岡は向かい合ったままずっとおって、それはおれがぶっ壊れかけてたせいやったけど七岡がずっと目の前におったおかげでなんとか留まった。

 いや正直、自分の彼女とセックスしたとこの男を拠り所にせなあかん今の状況なんやねんと思うてるけど、それはそれとして七岡はめっちゃええやつやった。テーブルに突っ伏して唸っとるおれを慰めてくれたし、ユリはおれが嫌いなわけやなくてむしろずっと付き合っていきたいから唯一不満を感じる性行為を他で補っただけやって何回も言うてくれた。そらもう噛んで含めるように何回も。せやからおれは留まった。顔を上げて、鼻啜って、おおきに七岡て礼言うて、テーブルに両肘ついて組んだ手指の上に顎乗せながら、言うた。

「頼む、ユリの好きなプレイとかそういうやつ、教えてくれ」

 七岡としばらく見つめ合った。その間におれの腹が派手に鳴って、七岡はとりあえず何か食べましょうて言いながらメニュー表手に持った。

 ハム卵サンド頼んだ。七岡はチーズバーガーにして、二つともけっこうすぐに届いた。セックス講座は食い切ってからやろなと思うて黙ってハム卵サンド齧り始めたら、七岡はバーガーに手伸ばさんとコーヒーの残り一口飲んで、

「前提として、十和田さんでは無理な部分があります」

 おれの心の準備も待たんと講座始めた。咳き込みかけたけどハムも卵も飲み込んだ。睨み付けたらオッケーサインやと勘違いされて、七岡はバーガーを食わへんまま説明続けた。

「ユリさんが心地よいと感じる箇所なのですが、かなり奥まったところにあります。いえ、何も仰らなくて大丈夫です。先程のアプリなのですが男性ユーザーは全長を記入する欄があり、俺は実際に測った長さを記入していまして、ユリさんはそれを見てコンタクトをとってくださったようでして」

「いや待ってくれ、はじめに連絡したんユリなんか?」

「そうです。ユリさんはご自身のフィットゾーンを把握されていて、それに見合う全長のユーザーを探しておられ」

「あーあーあー、わかった、おれが粗チンなんはわかったからそんなおれでもなんとかできる方法教えてくれへんか! っちゅうかちょっと心の準備させてほしいからまずバーガー食うてくれ!」

 七岡は二回まばたきした。それからやっとバーガー食い始めて、おれは助かったと思いながらサンドイッチ二切れ目に齧り付いた。もぐもぐしてうんうん考えた。長さ。長さが必要なんやったら、もう白旗なんちゃうやろか。せやったらどないしたらええねん。長さって伸ばせるサプリとかあるんかな。コンドームにパチンコ玉とか入れて拡張させたりすんのはどうやろか。いや間違うてる気がする。もっとちゃんと考えな。

 ハム卵を味わいながらユリの顔を思い浮かべた。去年の秋に一緒に行ったでかい公園の中を二人で歩いた記憶がずるっと紐づけられて出てきよった。その中でユリはずっと笑顔やった。めっちゃでかい銀杏の木ぃ見上げてすごいっちゅうて喜んで、おれの腕に両方の手え絡めながら連れてきてくれてありがとうって笑ってた。ずっと来たかった公園、ずっと見たかった銀杏らしかった。惚れ込んどる彼女がとにかく喜んでくれておれはほんまにこの上ないやろってくらい感無量、僥倖、絶好調……まあなんか滅茶苦茶に人生最高の瞬間やった。これの後にラブホでセックスした。おれ的にはいつも通り、ほんまにいつも通り、セックスした。気分はめっちゃ盛り上がってた。ユリもずっと嬉しそうにしてくれとって、おれがどこ触っても肩とか揺らして反応してくれてた、はずやった。

 そうか、これ、全部演技やったんか、もしかして。

 ハム卵サンドの最後の一口を放り込んで噛みまくった。味があんまわからんようになってもうてた。目頭がじわっと熱くなった。堪えながらサンドイッチもぐもぐもぐもぐ、必死に噛んで飲み込んだ。

 七岡はおれより遅く食い始めたくせにもう食い終わってた。スマホでなんかを見とったけどおれが顔上げたら目ぇ合わせてきてなんかの合図みたいに一回だけ頷いた。ようわからんけど頷き返した。七岡はもっかい頷いて、実践の方がわかりやすいと思います、って赤ちゃんあやすお母さんみたいな声で言うた。

「ん?」

「実践です」

「んえ?」

「近くに場末のラブホテルがありました。行きましょう」

「んええ?」

 七岡は伝票を持って立ち上がったかと思うたら、ぽかんとしとるおれを置いてさっさとレジに向かって歩いていった。店の人がありがとうございます!て明るい声でレジ打って、おれはどないせえっちゅうねんて唸りながら結局立って七岡と一緒に喫茶店の外に出た。

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