03:幼い日の約束




十四年前




「ママ!」


二歳のフィオナが、小さな足でトテトテとソファに向かって歩く。


「なあに?」


そこに座る栗色の髪の女性は刺繍の手を止め、ふわりと笑った。

薄紫色の瞳を細め、優しげにフィオナを見つめている。

彼女の名はエディット。フィオナの母親である。


「……アナ!」


続いてフィオナは、部屋の掃除をしていた金髪の女性を見上げてそう呼ぶ。


「はい! 私の名前まで覚えてくださったなんて……!」


アナは感激したように目を輝かせた。

その様子に、フィオナは誇らしげににこっと笑う。


「……」


次に、フィオナの視線はソファの奥に向けられる。

たどたどしい足取りでソファの裏にまわったフィオナは、空を見上げてこう言った。


「パパ!」


しかし、フィオナの視線の先には誰もいない。


「この子ったら……何で急にパパだなんて……」


エディットとアナは顔を見合わせ、小さく首を傾げた。


「パパ!」


フィオナは空を指差し、もう一度呼ぶ。

しかし……やはりそこには誰もいなかった。


「パパに会いたいのかしら……」

「フィオナ様のお父様は今お仕事で遠いところに行ってるんです。きっともうすぐ会えますよ」


アナが優しく言い聞かせたが、フィオナは不思議そうに小さな頭をコテンと傾けた。



***



「フィオナお嬢様、またおかしな独り言言ってたわよ」

「またぁ?」


廊下の隅で、メイド二人がひそひそと話していた。

一人は箒、一人は雑巾を持っているが、動いているのは口ばかり。

話題は四歳になるフィオナのことだった。


「きっとアンリ坊ちゃんばかり可愛がられるから、構ってほしいのよ」

「無駄口叩いてないで手を動かしたら?」

「「!」」


突然の声に、メイドたちはビクリと肩を揺らす。

背後に立っていたのは、侍女長のアナだった。


「も、申し訳ございません……!」

「奥様には言わないでください……!」


深く頭を下げる二人を、アナはキッと睨みつける。


「中央階段が汚れてたから、そっちを掃除した方がいいと思うわ」

「は、はい!」

「すぐに!」


メイドたちは逃げるように去っていく。

アナは小さくため息をつき、廊下の先へと視線を向ける。


「……」


曲がり角になった壁から、淡い黄色のドレスの裾がはみ出ている。

アナは切なそうに眉を寄せ、ゆっくりと歩み寄った。


「フィオナ様」


そして優しく声をかける。


「アナ……」


隠れていたフィオナがアナを見上げる。

薄紫色の瞳は潤んでゆらゆらと揺れていた。


「お久しぶりです」

「っ……」


アナがにっこりと笑ってみせると、フィオナは力いっぱいアナに抱きついた。


「どこいってたの?」


スカートに顔を押し付けたままフィオナが聞く。

か弱く、震えた声だった。


「少し実家に帰っていたんです」


アナはフィオナの頭を優しく撫でながら答える。

住み込みで働いているアナが、一週間も屋敷にいないのは珍しいことだった。


「もういかない?」

「はい」

「!」


その力強い返事を聞いて、フィオナの表情がパァっと明るくなる。


「あのね、アンリ、もうちょっとであるけそうなの。フィオナといっしょにれんしゅうしたんだよ」

「そうなんですね」

「それでね、あのね……」

「はい」

「フィオナもね……」


フィオナの口から次々と言葉が溢れ出てくる。

アナに会わない間、話したいことがたくさん溜まっていたようだ。

アナはしゃがんで目線を合わせ、一つ一つ優しく受け止める。


「つみきでおっきいおしろつくれるようになったの……」

「すごいじゃないですか! 見せてくれますか?」

「うん!」


両手を合わせ嬉しそうにするアナのリアクションを見て、フィオナは満面の笑顔を浮かべた。


「……」


そして目の前にあるアナの顔をじいっと見つめる。


「アナ、ないちゃった?」

「!」

「おめめあかいよ」


フィオナの言う通り、アナの目尻は赤みを帯びていた。


「……はい」


アナは苦笑しながら頷く。


「私のおばあちゃんが……お空に行ってしまったんです」


アナが一週間ほど休暇を貰ったのは、祖母が亡くなったからだった。


「口うるさい人でした。『働くならもっと近くにしなさい』とか、『二人目は産まないのか』とか。最後に会った時も、私……反抗して酷いことを言っちゃったんです」


アナがぽつりぽつりと話すが、その内容は四歳のフィオナが理解するには少し難しい。

ただ、アナが悲しんでいることだけは伝わっているようで、フィオナは心配そうにアナを見上げている。


「アナのおばあちゃんおこってないよ」


そしてアナの手に自分の小さな手を重ねる。


「にこにこしてるよ」

「……!」


アナは息を呑み、周囲を確認する。


「……フィオナ様」

「?」


フィオナに向き直ったアナは真剣な表情をしていた。


「私のおばあちゃんが……見えるんですか?」

「えっと……」


フィオナは視線を泳がせる。

その反応で答えはわかりきっていたが、アナはフィオナの言葉を静かに待った。


「フィオナのこと、きらいにならない……?」


フィオナはもじもじと指先を擦り合わせる。

"視える"ことが原因で人から疎まれてしまうことを、幼いながらに理解していたのだ。


「なりません。絶対に」


アナが力強く頷くと、フィオナも一度だけ小さく頷いた。


「どんな人が見えるんですか?」

「かみのけがみじかいおばあちゃん。おはなのよこにおっきいほくろがあるよ」

「!」


アナはぽかんと口を開ける。

フィオナが話した特徴は、アナの祖母と確かに一致していたのだ。


「ごめんなさい……」


フィオナが怯えたように謝る。


「フィオナ様、大丈夫です」


そんなフィオナをアナはぎゅっと抱きしめた。


「悪いことじゃないんですよ」


とん、とん、と優しいリズムでフィオナの背中をさする。


「アナにはみえないの?」

「はい。他の人も多分……見えないと思います」

「なんでフィオナはみえるの?」

「……わかりません」

「フィオナもみえなくなりたい」

「……」


フィオナが零した切実な願いにアナはぐっと唇を噛む。しかし、すぐにまた笑顔を繕った。


「私はフィオナ様のおかげで、おばあちゃんが笑ってることを知ることができました。ありがとうございます」

「……うん」


アナがそう言うと、フィオナもつられて表情を緩める。


「でも……見えることは私たちだけの秘密にしましょうね」


アナが口元に人差し指を立てると、フィオナもこくこく頷き、同じ仕草を真似した。


「うん。ひみつね」

「なんて可愛らしいんでしょう……!」


アナはたまらずフィオナを抱きしめる。


(絶対に、守らなくちゃ)


アナが心の中で決意した、その矢先。


「侍女長……!!」


顔を真っ青にした侍女が駆けつけた。


「奥様が……!」


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