逃げた先には嵐あり

俺はいつもより少し早歩きで廊下を進んでいた。

佐々木から妹の話を聞かされた後だったが、正直、今日は誰かの重い話に付き合う気分じゃなかった。


一人になって、頭の中を空っぽにしたかったんだ。

​だから、わざと人が少ない旧校舎側の渡り廊下を選んだのだが。


​「……あ」


​柱の陰、ちょうど影になるベンチに、小さな影がうずくまっていた。


ぶかぶかのバスケ部ジャージに、大きなエナメルバッグ。

隠れようもなかった。


​「……佐々木妹。こんなところで何してんだ」


​声をかけると、彼女はびくっと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。

佐々木祭。

中学の頃から変わらない、ポニーテールを揺らす元気なビジュアル。だが、今俺を見上げているその瞳の奥には、何かに怯えているような、あるいは酷く冷めたような色が混じっていた。


何故こんなところに?と疑問が浮かんだがそう言えば今日は1年生の授業は午前で終了だと誰かが言っていたのを思い出す。

恐らく授業が早めに終わった1年生は先に部活動を開始していたのであろう。

そして恐らく現在、彼女は休憩中。


​「……悠真くん、みっけ。っていうか、見つかっちゃったね」


​祭は力なく笑って立ち上がると、俺との距離をぐいと詰めた。

そこには「聞く準備」も「構える時間」もなかった。ただ、制汗剤のシトラスの香りがふわりと鼻先を掠める。


​「……佐々木から聞いたぞ。元気ないんだって?」

「あはは、兄貴、相変わらずうるさいね」


​彼女はいつもの「元気な後輩」を演じるように笑ったが、その瞳は一度も笑っていないと感じさせた。


​「……元気だよ。元気だけどさ、なんか最近、こう……前みたいにパワーがでないんだよね」

「パワー?」

「……ううん、なんでもない。ただ、兄貴が彼女と楽しそうにしてるの見ると、たまに寂しくなるんだ。自分だけが、ずっと同じ場所に置き去りにされてるみたいで」


ほんの一瞬のことだったが、その肩が微かに震えて、視線が反れたような気がした。


​「……って悠真くんに言っても仕方がないか」

「……」

「あー、ごめん! 変なこと言った。今の、兄貴には内緒だよ?」


​祭はパッと顔を上げると、いつもの「ロリっ子バスケ部員」の仮面を被り直した。


「じゃあね! 今休憩中だから!キャプテンに怒られるから!」

嵐のように走り去っていく背中。

だが、その足取りはどこか危うく、俺の中に正体のわからないモヤモヤだけを残していった。


​俺は、その場に残ったシトラスの香りを微かに感じながら、一人で立ち尽くす。


佐々木の惚気と、妹の隠された何か。


見えてきそうで見えなかった核心の部分。

はたして俺はそれに触れないといけないのだろうか。


五月の風は、春の名残を残しながらも、少しだけ乾いていた……そんな気がした。

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