硝子の瞳が見ていた ――もう一つの人形

@fumito-m

1話(完結)

 その人形に出会ったのは、大学入学を控えた春先の、ひどく穏やかな午後だった。 地元の駅前にある、使い込まれた琥珀色の家具が並ぶ古い喫茶店。カウンターの隅に、彼女はいた。


「お客さんが置いていったのよ。急用ができたから、数時間だけ預かってくれって」


 店主が苦笑いしながら教えてくれた。常連客が預けていったというその人形は、アンティーク風の端正な顔立ちをしていた。レースの縁取りがされた紺色のドレスに、丁寧に整えられた亜麻色の髪。そして何より、どこまでも透き通った、意志を感じさせる硝子の瞳に目を奪われた。それまで人形に興味を持ったことなど一度もなかったが、その時ばかりは、自分の部屋に彼女を招き入れたいという強烈な衝動に駆られた。私はその足で専門店を調べ、全く同じモデルの人形を手に入れた。


 その後、私は上京した。 大学生活のために借りたアパートは、寝るためだけの殺風景な一間だった。その空間を埋めるように、私は例の少女の人形を飾った。


 五月を過ぎた頃、同じ専攻の女性と知り合った。交際が始まって数ヶ月が過ぎると、彼女の「輪郭」が少しずつ変わり始めた。些細な嫉妬。病的なまでの束縛。私の生活は次第に彼女の色に侵食され、部屋の空気は常に重く沈んでいた。


 ある日、彼女は私の部屋に、一つの紙袋を抱えてやってきた。「見て、お揃いだよ」袋から取り出されたのは、私と同じ少女の人形だった。ドレスの刺繍にわずかな違いはあったが、間違いなく同じ型だ。彼女は自分の人形を、私の人形のすぐ隣に並べて置いた。鏡合わせのような二体の人形。私はその光景に、得も言われぬ居心地の悪さを感じた。


 異変は、それから二週間ほど経った頃に起きた。彼女は二体の人形をじっと見つめながら、独り言のように、しかし確信に満ちた声でこう言った。 「ねえ……やっぱり、わたしの人形のほうが可愛いね」


 私には、二体の違いなど分からなかった。だが、彼女の瞳には明確な「格付け」が見えているようだった。 翌日、彼女の連れてきた人形は消え、再び私の一体だけが残された。


 数日後、残された人形への「虐待」が始まった。ふと見ると、人形の頬に細い線のような傷が増えていた。翌日には腕の付け根の布が裂かれ、さらに数日後には、頬に黒い穴が開いていた。タバコの火を押し当てたような、無残な焦げ跡だった。


 犯人は、分かっている。この部屋の鍵を持っているのは、私と彼女だけだ。 彼女は私の目の前で平然と笑い、日常を語る。その背後で、私の大切にしていた人形は、日に日にボロボロになっていった。なぜ私は彼女を止めなかったのか。いや、止めるのが怖かったのだ。人形に向けられているその刃が、声を上げた瞬間に自分へと向けられるのではないか。そんな本能的な恐怖が、私の喉を塞いでいた。


 そしてある日、傷ついた人形も、忽然と姿を消した。


 その後、私は一度も彼女に人形のことを尋ねなかった。彼女との関係も、まるで最初からなかったことのように立ち消えていった。


今でも、時折考える。 彼女が壊し、焼き、そして持ち去ったものは、単なる人形だったのだろうか。 あの日、私の喉を塞いだあの得体の知れない恐怖は、彼女の背後に「自分自身の未来」を見ていたからではないか。人形に刻まれた傷跡は、もし私が一歩踏み込んでいれば、私自身の身に起きていたことだったのかもしれない。 記憶が曖昧になるほど遠い過去の話だ。しかし、あの時、私の部屋に確かに存在した「不自然な空間」の冷たさだけは、今も私の血肉に鮮明に刻まれている。

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