海岸で保護された男、浦部太郎

夏灯みかん

海岸で保護された男、浦部太郎

『令和七年六月〇日、◇◇県○○市海岸にて、高齢男性が徘徊しているとの通報があり、警察により保護される。推定八十代前半。本人は自らを「浦部うらべ 太朗たろう」と名乗るが、身分証明書等の所持はなく、居住地・家族構成についての説明は一貫しない。

会話は成立するものの、時折、過去の出来事について現実と異なる内容を語る様子が見られた。医療機関において認知機能の低下が疑われ、単独での生活は困難と判断。

身元不明のため、保護入院を経て、市の判断により行政措置として入所を決定。』


 僕は今度入所してくる「浦部さん」の資料を見ながら部屋を見回した。

シーツ交換OK、掃除完了。「浦部さん」用の個室の準備は整った。いつでも入所してもらえる。


僕は◇◇県立特別養護老人ホーム「竜宮苑りゅうぐうえん」で働いている。

ここには、自立生活が可能な方から、ベッドから動くことができない方まで、さまざまな高齢者が暮らしている。


「浦部さん」は身体はお元気で自立生活可能、深夜徘徊があること、一貫しないお話で周囲を混乱させてしまうことがあるということで、個室で暮らしていただくことになった。


 ◇


 師走の冷たい風を連れて、浦部さんは移送されてきた。


「お世話になる」


 そうはっきりと言って、車から降りてきた小柄な老人は、真っ白な長めの白髪を垂らしてお辞儀をした。――丁寧で、しっかりとした人だ。それが、僕の第一印象だった。


「浦部さん、こちらが浦部さんのお部屋になります」


 そう言って準備した部屋を案内すると、浦部さんは「おお」と小さく感嘆の声をあげた。


「……この部屋を使っていいのか、俺ひとりで」


「はい」とうなずくと、浦部さんは感動したようにつぶやいた。


「いやはや……、これではまるで、殿様のよう……」


 その古風な表現に、僕は思わず笑ってしまった。

 浦部さんは驚いたように僕を見つめた。

 僕は慌てて表情を正した。


「……すみません、そんなふうに言っていただけると、部屋を準備した甲斐があります」


「この部屋は、あなたが準備してくださったのか」


 浦部さんは目を細めて、僕の胸の名札を見つめた。


「……お名前は、なんと。失礼。俺は文字が読めないのだ」


 そういえば、資料に『文字の読み書きができない』と書いてあったことを思い出し、僕は名札を持ち上げると、字を指差しながら説明した。


卜部うらべ……と申します」


「うらべ……なんと、俺と同じ名前なのか!」


 浦部さんは前のめりになって、僕を見つめた。


「漢字が違いますけれど……、僕の『うら』は卜、浦部さんの『うら』は「浦」ですよね」


「どちらかはわからない。とにかく、俺は、入り江の『浦』に住んでたから、“うらべ”なんだ」


 名前の漢字はわからず、その表現から『浦部』という漢字が当てられたのかもしれない。

 そんなことを思っていると、浦部さんは、またぺこりと頭を下げた。


「字はわからんが、”うらべ”がいて、俺は嬉しいよ」

 


 浦部さんは“とても感じがよい”入所者で、施設でも好かれるようになった。


「今日もありがたい」


 浦部さんは配られた食事に手を合わせ、深く礼をする。

 残さず食べ、食事を下げる時には、配膳の職員に「今日も美味かった」と歯を見せて笑うのだ。 


 浦部さんのお世話をする時間は、僕にとって、ほっと一息つけるような時間だった。


 僕はこの介護施設で働いて三年になる。

 この職場は、僕にとって、決して明るい気持ちになれる職場ではなかった。


 海に面した施設は、市内から車で一時間ほど。

 三階建ての大きな建物で、二階には自立生活が可能な浦部さんのような入所者、三階には介護度の高い入所者が暮らしている。――基本的に、亡くなるまでをここで過ごす、終の棲家だ。


 三階の入所者のシーツを替えてから、窓の外を見た。

 海が見える大きな窓からは、微かに波の音が聞こえる。

 冬の薄曇りの空から、ひらりひらりと、白いものが舞い降りてくるのが見えて、僕はベッドに横たわる男性入所者に話しかけた。


「――初雪ですかね……」


 けれど、返事は何もない。

 ベッドに横たわる細い枯れ枝のような身体には何本もの管がつながっている。

 この人は、もう自分の口から物を食べることもないし、話すこともない。

 ……心臓は動いているけれど。


 意識がはっきりあるのかないのかも、僕にはわからなかった。

 けれど、感覚はあるのだろう――彼は、声にならない呻き声を上げた。


 僕は慌ててナースコールのボタンを押した。

 痰が絡んでしまったのかもしれない。

 介護職の僕は、看護師を呼ぶくらいのことしかできない。


 駆け付けた看護師はてきぱきと痰を吸引した。すると、入所者の男性は静かになり、部屋にはまた波の音が響いた。


 僕は人が苦しんでいる様子を見るのが苦手だ。

 彼らに少しでも、安らかに過ごしてほしいと思っている。


 ◇

 

 どっと疲れを感じた僕は、二階の浦部さんの部屋の方へ向かった。

 「シーツ交換です」と声をかけ、扉を開けると、浦部さんは椅子に腰かけて窓の外を見つめていた。


「――初雪ですかね……」


 そう、先ほどと同じつぶやきをすると、浦部さんはこちらを振り返って、にっと笑った。


「雪だなあ。どおりで寒いわけだ……。でも部屋ん中は温かくて極楽だぁ」


 朴訥としたその笑顔に、僕は泣きそうな気持ちになった。

 ――それから、浦部さんが何か手に持っていることに気がついた。

 いくつもの細い布の束。


「浦部さん、それ……」


 そう聞くと、浦部さんは照れたように笑った。


「布草履編んでんのよ。たくさんできたで」


 布草履。――端切れを編んで作る室内履きで、施設でもよく作業療法に使われる。


 浦部さんの視線の先の机の上には、こんもりと布の草履が置いてあった。

 

「こんなに、たくさん作られたんですね……」


 僕は驚いて、そのうちの一つを持ち上げて目を見開いた。

 素人目で見ても、できの良い草履だった。

 入所者の作る布草履は、たいていは凸凹が激しく、足のツボを刺激するのに良さそうなものばかりだったが、浦部さんの布草履は違った。


 網目は均一で、しっかりと締まっており、まるで売り物のようだった。

 デザインもなかなかにお洒落で、藍色と白い布地が綺麗にグラデーションになっている。


「お上手ですね……」


 そう言うと、浦部さんは「なんも」と照れ臭そうに笑った。


「草履はよく編んでたから、こんなもんだわ。やっぱり、自分で手を動かして、物をつくるのは楽しいさね」


「草履職人……とかだったんですか?」


「そういうわけじゃない。……なんでも自分で作らんと、なかったからね」


 浦部さんは白髪の髪を掻いて「ははは」と笑った。


 その時、大きな声がした。


「あらまあ、浦部さん! そんなにたくさん作ってくれたんですね!」


 介護職員の同僚……松崎さん。パートで長く働いている、五十代くらいの女性だ。


「これは……道の駅で売れるわね」


 松崎さんはほくほくとした顔でうなずいた。

 二人が話している間に、僕はシーツを替えてしまった。


 ◇


 シーツを替え、廊下に出ると、松崎さんが浦部さんの部屋を見ながらつぶやいた。


「浦部さん、感じのいい方よねえ。おばあさま方にもすっかり人気で……、若い頃は男前だったって感じがしない?」


「……確かに、そんな感じがしますね……」


 僕はうなずいた。

 浦部さんは小柄ではあるけれど、皺だらけの顔はどこか精悍で、活き活きとした雰囲気がある。


「……ぜんぜん、認知症なんて気はしないけれど。会話もはっきりしているし……」


 僕はまた、うなずいた。

 入所資料で読んだ内容を思い出す。


『時折、過去の出来事について現実と異なる内容を語る様子が見られた』


 ……そんな様子は見られない。


 考え込む僕を松崎さんがじっと見つめた。


「……卜部くんって」


 松崎さんは僕が就職した時に指導係だったこともあるのか、僕のことを「くん」付けで呼ぶ。

「ちょっと浦部さんに、顔が似ているわよね……」


 僕はどきっとした。

 ……僕は、浦部さんに、たぶん他の職員以上に、親近感を抱いていることを自覚していたから。


「そ、そうですか?」


「……そう。似ている気がするわ。浦部さんの方が、元気な感じがするけれど」


 松崎さんはからかうように言った。

 

『浦部さんの方が元気そう』という言葉に、苦笑しながらも、納得してしまう。

 僕は二十八で、浦部さんは推定八十代だ。

 けれど、僕より浦部さんの方が活力がある気がする。


「……確かに」


 そう言うと、松崎さんは僕の背中をばんっと叩いた。


「ちょっと、冗談よ。まだ二十代なのに、何言ってるの!」


 それから、声を小さくした。


「そうだ。私の近所のとこの娘さん、東京から最近戻ってきたみたいなんだけど……卜部くん、お食事とかどうかしら……?」


 僕は首を振った。


「いえ……、有難いお話ですけど……、大丈夫です」


「……そう? いい子よぉ。年も同じくらいだし……」


「もったいないお話ですから」


 僕ははっきりそう言うと、何か言いたげな松崎さんに会釈し、交換したシーツを載せたカートを押して立ち去った。


 僕はどちらかというと、年配の方にウケのいいタイプらしい。

 この仕事に就いてから、数度、『誰か紹介しようか』と声をかけてもらった。

 ……それ自体は、有難いし、光栄な話ではある。

 けれど、すべてお断りさせてもらった――僕には、身分不相応な話だから。


 僕は今まで『生きてきて良かった』と思ったことがない。

 だって、この世は僕なんかいなくたって、問題なくまわる。

 僕は自分が存在する意味を感じたことがない。つまり、生きている意味を感じたことがない。

 

 僕の家は兄弟がたくさんいて、僕は六人兄弟の五番目だ。

 適当に育てられて、適当に育って、高校を出て、フリーターになった。

 要領が悪く、社交性もなくて、飽き性で仕事は続かず、お金に困って、三年前に寮付きのこの施設に就職した。

 

 この職場は、僕にとって明るい気持ちになれる職場ではないけれど、生きていることを感じられる職場ではあった。ただ、若くて力のある男だというだけで、この職場では頼られる機会が多い。『覇気がない』『やる気がない』と、前の職場ではなじられてきた僕の性格も、ここでは『穏やかだ』『感じがよい』と褒められることが多かった。

 ――僕は、決してやる気がないわけじゃない。やることはやるけれど、熱心にやらないだけだ。僕は、何かに熱くなるほどの生命力を持っていない。死ぬ気力もないから、生きているだけだ。


 できることなら、安楽に、早く生を終えてしまいたい。

 僕は“楽ではない”状態が嫌だ。エネルギーを使うようなことは嫌だ。

 

 誰かと交際して――それこそ、結婚して、家族を持つなんて、こんな僕が考えていいことじゃない。


 ◇

 

 年が明けてしばらく経った、二月の夜だった。

 僕は夜勤だった。その日は雪と共に風が吹き荒れ、海が荒れていた。


 施設内の見回りをしていると、ザザァ……ザザァと荒れた波の音と、窓を揺らす風の音が消灯後の暗い廊下に響いていた。不安で眠れないお年寄りが何人かベッドから起き上がってしまっていたので、「大丈夫ですよ」と声をかけて回った。


 浦部さんの部屋の前を通りがかった時、僕は浦部さんがベッドから立ち上がり、ガタガタと揺れる窓ガラスを見つめていることに気がついた。


 ……浦部さんも不安で眠れないのだろうか……。

 そう思って、部屋の扉を引くと、浦部さんのつぶやきが耳に入った。


「オト……オトが、俺を呼んでる……」


 “オト”……?


 首を傾げる僕の横で、窓ガラスが激しく揺れた。


ガタガタガタガタッ


 暗い室内に、激しい音が響く。それは、誰かが部屋の中に入ってこようとするような、異様な窓の揺れ方だった。僕は浦部さんの隣に立ち、窓ガラスの向こうの暗闇を見つめた――そして。


 バリン! と音を立てて、窓ガラスが割れた。 


 粉雪をまとった湿った風が室内に吹き込む。床に飛散したガラスと対照的に、風は僕の頬を撫でるように吹いた。……ガラスに、何かぶつかったのだろうか。

 呆然とする僕の横で、浦部さんがつぶやいた。


「……オトよ、俺は、ここで死ぬよ。もう、戻らねェ……」


「……浦部さん、大丈夫ですか? いったん、別のお部屋に移動しましょう!」


 僕はナースコールを押した。

 他の夜勤職員がやってきて、割れた窓を見て、驚いた声を上げた。

 ガラスの片づけは任せて、僕は浦部さんを近くの空き部屋へと案内した。


「……大丈夫ですか? 温かいものでも飲みますか?」


 そう聞くと、浦部さんはうなずいたので、僕は給湯室から白湯を持ってきて浦部さんに渡した。湯呑みに口をつけて、一口飲んだ浦部さんは、「温けぇなぁ……」とつぶやいた。


 僕は先ほど、浦部さんがつぶやいていた言葉について、聞いた。


「浦部さん……、先ほど“オト”と言っていたのは、誰かのお名前ですか?」


 浦部さんはびくっとすると、僕の顔を真顔で見つめた。

 僕は驚いて息を呑む。


「――アンタ――には、話しても、いいか……」


 浦部さんは大きく息を吐いた。


「“オト”は女の名前だ……」


「――奥様ですか?」


「……いや、まぁ、契った女ではあるんだがなァ……」


 言い淀んだ言い方に、僕は首を傾げた。――正式な結婚相手ではない、というようなことだろうか。


「天女みてぇな美しい女だ、オトは。俺になんでもくれる。――豪華な食事、金銀財宝……」


「――お金持ちの……お嬢様のような方だったのですか?」


「そうさな……、そんな感じかねェ。オトは、海の底の大きな宮殿に一人で住んでるんだ」


「“海の底”……?」


 聞き間違えたかと復唱した僕を、浦部さんは真っすぐに見つめた。


「卜部どん」


 親しげに、浦部さんは僕を呼んだ。昔話のような呼び方だった。


「アンタだから、俺ぁ、話すんだよ。……最初に”けーさつ”にさんざん話したんだがよ、みんな、俺は”ボケてる”って言うもんで……。話したところで、誰も信じてくれねェし、よくわかんねェ薬が増えるだけだからさァ、もう黙ってよって思ったんだがよ」


 浦部さんの視線は真剣で、認知症の入所者の方のどこか夢を見ているようなぼんやりとした目ではなかった。


「俺はな、海の底から戻って来たんだ。亀に乗ってな」


「亀……」


「大きな海亀だよ。……最初は、そう。近所の悪ガキがな、子亀をいじめてたんだ。首に紐つけて棒でたたいてな。それを助けてやったんだ」


 静かな部屋に浦部さんの声が響く。


「したらな、海から大きな亀が出てきて、俺に言ったんだ。『坊やを助けてくれて、ありがとうございます』ってさ。驚いたもんだよ。亀が人の言葉を話すんだから。……それで、亀が言うんだ。『お礼がしたいので、宮殿へお連れします』ってさ。俺もお礼がもらえるんなら、ってあんまり考えずに背中に乗ったんだよ。――俺を背中に乗せて、亀は海に潜ってってさ――不思議なことに、息ができるんだ」


「……」


 僕はなんと相槌を打っていいかわからず、無言でうなずいた。

 浦部さんの話は続く。


「海の底には、綺麗な宮殿があって、美しい女がいた。――それが、オトだ。オトは俺をもてなしたよ。豪勢な食事、楽器を弾いて歌ってくれて、舞を見せてくれた。金銀財宝を前に出して、“あなたにあげます”と。――俺は、オトと、しばらくの間、その宮殿で暮らした――けどなぁ……」


「……けど?」


「家に置いてきた母親が気になってなァ。俺が魚をとって売らねぇと、おっかあは飢えちまう。で、オトに帰るって言ったんだ。――そしたら、オトは俺に豪華な小箱を持たせた。土産だと。でも絶対に開けるなと」


「お土産なのに開けるな……?」


「なア。変なことを言う女だと思ったよ。けど、俺はあんまり考えずに、亀に乗って、陸に戻ったんだ。……そしたらよ、もともとあった村はなくなってて……なんかでかいピカピカしたやつ……車っての? がすごい速さで走ってて、びっくりしたよ」


 浦部さんは苦笑しながら白髪の髪を掻いた。


「……わけがわかんなくって、オトの土産の箱を開けたら、煙がもくもくして、俺は爺さんになっちまった」


 浦部さんは僕を見た。


「箱を開ける前は、ちょうどアンタくらいだったんだよ。俺は」


「……」


 僕は黙り込んだ。――浦部さんの話は、昔話のようで、やはり認知機能の低下がみられるのではないかと思ってしまう。……けれど、浦部さんの視線はしっかりと今ここにいる僕を見ていて、口調ははっきりとしていた。


 浦部さんは黙り込んだ僕を見て、息を吐いた。


「……やっぱり信じられねェよなあ。俺が一番、不思議なんだから」


「けどよ」と浦部さんは笑った。


「ここに来てから、俺ァ、楽しいよ。草履作れば褒められるし、食事に困ることはねェし、布団は温かいし……、生きてるって実感がする。――オトといた時はなぁ、豪華な食事を食っても食った気がしなくてなァ、俺は、本当に食べてたのかなア」


「……オトさんと、浦部さんは……どのような関係だったんですか?」


 僕は首を傾げて聞いた。


「オトは俺のことを『好きだ』って言ってたよ。まァ、別嬪さんにそう言われて、嫌な男はいねェだろ」


 浦部さんは俺を見つめた。


「今思い出すと、あの親亀――俺をオトんとこ連れて行ったあの亀の口調と声は、オトと同じだった気がするんだ」


「オトさんは、亀だったということですか?」


「いや、帰りも同じ亀に乗ったんだがな、帰りは一言も話さないんだ、その亀は」


「……」


 僕はぞくりとした。『お礼がしたいので、宮殿へお連れします』――その言葉は、“オト”が言わせたものだったとしたら。いじめられる子亀を浦部さんが助けるのを、じっと海から見つめて、その言葉を言うタイミングを待っていた……?


「オトは俺に惚れてた気がするなァ、自惚れではなくてさ。俺は、これでも村では色男って言われてたんだ」


 浦部さんは急に真顔になり、僕に聞いた。


「――卜部どんは、いい人はいねェのか?」


「――いえ……いません……」


 そう言うと、浦部さんは宙を見つめて、つぶやいた。


「……だとよォ。よかったな……」


 それから一拍置いて、僕を見つめた。


「この話、俺がしたって報告なんかしないでくれよ。――また病院戻されるのは、嫌だァ。ここでの暮らしが俺ぁ、楽しいからよ……」


 僕はうなずいた。ここでの生活が楽しいと言ってもらえて、嬉しかったし、浦部さんは本当のことを話しているような気がしたから。



 その夜のことが頭から離れないまま迎えた週末。僕は車で少し走ったところに住む、祖母の家を訪れた。住宅街を抜けてしばらく走ると、祖母の古い家がぽつんと現れる。八十五歳の祖母は一人で暮らしている。


「ばぁちゃん、この前の夜、風強かったけど、大丈夫だった?」


「優しいねえ。心配してくれるのは、あなたくらいよ」


 祖母はニコニコと笑うと、「お茶を淹れるわね」と棚から茶筒を出した。

 

「あんたのお父さんなんか、こんなものばっかり送ってきて、顔は出さないんだから……」


 祖母は玄関に積まれた段ボールを指差した。

 レトルト食品の詰合せの段ボールが埃をかぶって置かれている。

 祖母のためにと、父親が送ったものだろう。……祖母はレトルト食品を食べないし、そもそも脂っこい安価なカレーばかりで、高齢者の身体には悪そうな物ばかりだ。


「僕がもらっていっていい?」


 そう聞くと、祖母は顔をほころばせた。


 僕はおばあちゃん子だ。母親は僕が小学生の時に家を出て行ってしまったので、祖母が母親代わりだった。


「ばぁちゃんの好きな、餅を買ってきたよ」


 僕は駅前の老舗の和菓子屋の豆餅を取り出した。祖母の大好物だ。


「今、切ってくるね」


 餅は喉に詰まりやすい。僕は立ち上がると、キッチンに行き、餅を包丁で小さく切った。

 切りながら、なんとなく、浦部さんの話をした。


「僕の施設の入所者で、浦部さんって人がいるんだけどさ……」


 浦部さんの話をそのまますると、祖母は驚いた声を上げた。


「浦部って、さんずいの“浦”よね?」


 うなずくと、目を広げた。


「うちの“卜部”は、もともとは“浦部”だったのよ。なんでも、大昔に本家の家の跡取り息子が、海で行方不明になって……もともと住んでいた浦から引っ越して、“卜部”に名前を変えたんですって……」


「……跡取り息子が、海で行方不明……」


 浦部さんの姿が頭に浮かんで、僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 ……そのときだった。


「う……ウゥゥゥ」


 祖母が喉を押さえて呻いた。

 慌てて振り返り居間に向かうと、祖母は僕が机に残しておいた大きな餅を片手に持って倒れていた。餅にはかじったあと。顔は真っ青だ。――喉に詰まらせた?


 僕は慌てて、救急車を呼んだ。


 餅を喉に詰まらせ、緊急搬送された祖母は、意識不明で病院のベッドに横たわっている。

 連絡を受けた駆け付けた父親と兄弟たちが病室に駆け込んできた。


「お前! 介護の仕事やっとるだろに! どうして餅なんて食わせたんだ!」


 父親が僕の襟首をつかんで、怒鳴った。

 「僕は切ろうとしていた」と喉元まで出かかったが、僕は言葉を飲み込んだ。

 僕が切るまで、大好物を前に、ばあちゃんは我慢ができなかったのかもしれない。

 

 その時、医者が入ってきて、父さんに声をかけた。


「お母さまですが、意識の回復は難しいと思います。……延命処置は、されますか?」


 僕は息を呑んだ。三階の入居者の方たちの姿が頭をよぎる。

 父親は間髪入れずにうなずいて、医者に頭を下げた。


「母を、死なせないでください。お願いいたします!」



 祖母はそれから三カ月後、鯉のぼりが空をはためく頃に息を引き取った。

 棺に入った顔は死化粧をしても苦しそうな表情で固まっていて、僕は目を閉じて、『優しいねえ』と笑ってくれた笑顔で上書きをして、棺から離れた。


 思ったより早く、病院から出ずに亡くなって、よかったと思う。

 僕の施設の三階で祖母を見ることは、僕にはきっと耐えられなかっただろうから。

 

 『母を、死なせないでください』


 と叫んだ父の姿を思い出す。

 誰かを現世に縛り付けるのは、誰かの愛情だ。

 ――けれど、それは、本当に愛情なのだろうか。――執着ではなく?

 父は、祖母のもとにレトルト食品を送り付けるだけだったのに。


 僕は世間で騒がれるほど『孤独死』というのも悪くないと思っている。

 もちろん、腐敗して発見者を気持ち悪い気分にさせたくはないけれど。

 ひっそりと、部屋の片隅で、ひとり消えていくのは、そんなに悪いことではないと思う。


 僕は家族を作る気もない。ひっそりと生きて、ひっそりと死ぬのを待つだけだ。


 そんなことを考えていたら、浦部さんが僕に話しかけた。


「おばあさんの葬儀は終わったのかア? 卜部どんがいねぇくて、つまらんかったよ」


 シーツ交換の途中で手が止まっていた。 僕は浦部さんに「戻ってきましたよ」と笑った。


 浦部さんは、月を追うごとに急激に老けていった。

 施設に併設する病院の医師が言うには、病気ではなく老衰だということだった。

 ……施設に来て一年ほど。年の瀬の夜に、浦部さんは亡くなった。


 僕は施設の担当者として、身寄りのない浦部さんの火葬に付き添った。

 ――その葬儀の帰り道、僕はふと、寮に戻る前に海を見たくなり、近くの海辺に車を止めた。

 

 時刻は十七時。空はすっかり暗く、薄曇りの空からは雪が降ってきそうだった。

 僕は寄せては帰る波を見つめながら、白い息を吐いた。

 ――浦部さんは、本当に、海の底の宮殿に行ったのだろうか……?


 その時、ザザァ――という波の音に、女性の泣き声が微かに混ざっていることに気づいた。


 アアァ、アアアァ……


 すすり泣くような声が耳に聞こえる。……気のせいかと思ったが、その声はだんだんと大きくなっていった。生温かいしけった海風が僕の頬を、撫でるようにそよいだ。


 まるで、あの風がひどく激しかった日――浦部さんに話を聞いた夜のように。


「……オト……」


 きっと、この泣き声の主は――彼女だ。

 僕がその名前をつぶやいた、その瞬間。


 暗い海が揺れて、大きく盛り上がって、僕に覆いかぶさった。


 ――うらべさま、うらべさま――


 縋りつくような声とともに、波がまるで生きているように僕の身体にからみつく。


「違う、僕は――」


 口の中に、ぬるりとした”何か”が入り込んで、僕の言葉を奪った。


――もう、離しませぬ。こんどこそ、ずっと、そばに―――


 耳元に嘆願するような声だけが聞こえる。

 ぬるりとした何かは、僕の視界も覆った。

 真っ暗な闇の中、僕は息苦しさに身をよじった。

 けれど身体は自由に動けない。僕の身体を、誰かが強く抱きしめているような、そんな感覚がした。


――ずっと、オトのそばに、いてくださいませ――


 “彼女”は僕に縋りつく。

 言葉も自由も奪われた僕は、ただの彼女の人形と化した。

 ――浦部さんが受けたような歓待を、僕は受けないだろう。

 彼は、それでも地上に戻ってしまったのだから。



『令和八年十二月〇日、◇◇県〇〇市の介護施設『竜宮苑』勤務の卜部さん(二十八歳)が仕事帰りに行方不明となっております。何か情報をお持ちの方は、〇〇市警察署までご連絡ください』

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