第11話 灰の朝

 夜が明けるころ、ようやく雨がやんだ。


 洞窟の入口から差し込む淡い光は、濡れた岩肌を優しく照らしている。外には白い霧が薄く漂い、冷えた空気が頬に触れるたび、胸の奥の強ばりをなぞるように痛んだ。


 ノアが外の様子を確かめに行っているあいだ、私は焚き火の名残の前にじっと座っていた。赤くなりきれない炭が細く煙を立ち上げ、その頼りない温もりを見つめていると、どうしようもなく心細くなる。



 眠れなかった夜の間、私はずっと入り口の方を見つめていた。レオンとウォード伯爵が、戻ってくるのを信じたかった。けれど、朝になっても誰の姿も見えなかった。


 やけに澄んだ鳥の声だけが、残酷に響く。


 ノアが静かに戻ってきた。

「…足跡は、川辺の方で途切れています。それ以上は、追っ手の痕跡が濃く……危険です」


 言葉を切る彼の横顔が、一瞬だけ苦しげに揺れた。

 ノアも分かっている。ここにいたら、次は私たちが捕まると。


「……行きましょう」


 自分の声なのに、どこか遠くから響いてくるようだった。

 胸の奥がぽっかり空いて、何も支えがなくなるような、そんな痛さ。


 ノアは私を見つめ、迷うように言葉を探した。

「……殿下、無理はなさらないでください」


「無理なんて、してないわ」

 首を横に振った。振らなければ、崩れ落ちてしまいそうだった。


「母上が…… ‘逃げなさい’ と言ったの。だから進まなきゃ。レオンも、母上の想いも……無駄にしないために」


 ノアの瞳が揺れ、数秒の沈黙ののち、小さく頷いた。

「……はい。どこまでもお供します」


 洞窟を出ると、冷たい山道が続いていた。東の空の端には薄い光が生まれ始めている。

 そのわずかな光を頼りに、私は歩き出した。


 ぬかるんだ地面が、足を踏み出すたびにぴちゃりと音を立てる。


 全て夢ならば良かったのに、馬車から飛び降りたときにひねった足がズキズキと痛み、それが現実だと否応なしに突きつけてきた。


 ――これは夢じゃない。本当に、全部。


 どこに向かえばいいのかなんて分からない。ただ、立ち止まったらどうにかなってしまいそうで、前へ進むしかなかった。


 山道を歩いていると昨日の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。

 父は行方不明で、アルヴェイン公爵は亡くなった。

 馴染みのある騎士たちは私を助ける為に死に、母は目の前で殺された。レオンも恐らく…。

 

 昨日まであった幸せはもうどこにもない。父はもう抱き締めてはくれないし、母の優しい声も聞けない。遊ぼうと私の手を引っ張る愛らしい弟ももう居ない。


 もっとそばにいたかった。愛していると、大好きだよって伝えればよかった。こんなことになるならもっと大事にすれば良かった。

 

 そもそも私たちが何をしたのだろう。誰かを苦しめただろうか。誰かに恨まれていたのだろうか。分からない。そういう立場だから仕方が無いのか。なら皇族なんかに生まれなきゃ良かった。


「……うっ……っ」


 視界が滲んで、世界がゆっくり歪んでいく。


 どうして。

 どうして私だけ生き残ったの?

 どうしてみんな私を置いていくの?


 どうして……どうして……どうして!


 ――ドサッ。


 足がもつれ、木の根につまずいて倒れ込んだ。

 痛みよりも、立ち上がらなきゃという焦りが先にくる。

 でもすぐにまた転んで、手も膝も擦りむき、血が滲んだ。


 そのとき。

 そっと横から温もりが触れた。


「一度、休みましょう」


 ノアの声は驚くほど静かで、優しかった。


 彼の服は傷だらけで、血もついている。

 それでも私を責めるどころか、ただ黙って支えてくれた。


 ――辛いのは、私だけじゃない。

 ノアだって父を亡くし、仲間を失っているのに。


「ごめん…なさいっ」


 申し訳なかった。私のような人間に仕えたからこのような目に遭い、私のような人間を守るために父を助太刀することも最期に立ち会うことすら出来なかったのだ。


「わたし…の…っ…せい」

 

 力もないくせに、守られるだけで、何も返せない私が生き残っているなんて。

 生き延びた理由が分からない。息をしている意味もわからない。


 もし母が生き残っていたら。

 もしレオンが先に逃げられていたら。

 何か、変わっただろうか。


「私が……死ねばよかった……」


 そう、私が助かったって何も出来ないのだ。


「……エリシア様……」


 ずっと黙って聞いていたノアが、そっと私を抱きしめた。


「……っ!」


 ノアに触れられることは今まで何度もあった。でも──抱きしめられたのは初めてだった。


「離して……っ!」


 泣きじゃくりながら彼の胸を叩く。

 だけどノアは一度も離れなかった。

 まるで、「何があっても離れません」と静かに言われているようで、余計に苦しくなった。


「エリシア様のせいではありません」


 落ち着いた低い声が、私の胸の奥深くに届く。


「……私は、よかったのです。エリシア様が……ご無事で」


 その言葉は、小さな声だった。

 小さいのに、鋭くて、温かくて。

 張りつめていた心の糸がぷつりと切れ、胸の奥が熱くなる。


 涙がこぼれて、もう止められなかった。

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