第9話 生の継承
「殿下! お急ぎください!」
レオンを抱いたウォード伯爵が矢を剣で弾き落とした。火花が散り、伯爵の額には焦りがにじむ。
「ウォード伯爵!
お母様の血が止まらないの!
助けて!」
伯爵は周囲を素早く見回し、抱いていたレオンを地面に下ろすと、代わりに母の肩を支えた。
だが母は、かすかに首を振る。
「……ウォード卿、私はもう……助かりません」
その声は、風に溶けるほど微かだった。
そんなこと、ない。そう叫びたかった。けれど、胸の奥で何かが止めた。
「ふたりを……お願い……」
「必ずお助けします」
伯爵の返事を聞くと、母は満足そうに微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。
「お母様!!」
「いや! いやよ! お母様!!」
ウォード伯爵はそっと母を木の根元に寝かせると、私とレオンを力づくで引き離した。
「皇女殿下! お気を強くお持ちください!」
火の粉が舞い、森が赤く染まる。怒鳴り声と同時に、空気が焦げる匂いがした。最初の火矢から山火事が広がっているのだと、すぐに理解した。
「お気持ちは痛いほど分かります。
ですが、あなた方は皇族です。生き残る義務があります!
そのために、今も多くの騎士たちが命を懸けているのです!」
伯爵の声が震えていた。炎に照らされたその横顔には、決意と痛みが同時に宿っている。
「……厳しい現実ですが、先程入った報せによれば、廃城を守っていた兵たちは全滅。アルヴェイン公爵も戦死されました。
すぐに追手が来ます。ここを離れねば!」
全滅。戦死。
耳に届いても、意味が頭に届かない。
――ノアも、まだ戻ってきていない。
「ノアは……無事なの?」
「きっと大丈夫です。この先の小川を渡った洞窟で落ち合う予定です。行きましょう」
私は小さくうなずいた。本当は離れたくない。
けれど、母ならきっと言う。「生きなさい」と。
伯爵は泣き叫ぶレオンを抱き上げ、私の手を強く握った。
「お母様が燃えてしまう!」
レオンの叫びに振り返ると、炎が母の眠る木の根元を包もうとしていた。
現実が心に追いつかない。
息が詰まる。
――でも、確かに見えた。母の身体が、赤い光に呑まれていくのを。
「お母様!!」
気品に満ち、優しく、温かく、抱きしめてくれた。
もう、二度と触れられない。
私は叫びながら走った。涙が頬を焼き、視界が滲んでも足は止まらなかった。
やがて森を抜けると、水の音がした。
レオンは泣き疲れて静かに伯爵に抱かれている。
闇の中で、小川が月の光を反射して白く輝いていた。
しかし、その流れは速く深い。とても子どもの力では渡れそうにない。
「私が抱いて渡ります。皇女殿下から参りましょう」
伯爵の言葉に、私は涙を拭ってうなずいた。
彼の腕に抱き上げられると、冷たい風が頬を差した。
川の水は氷のようで、月光を飲み込むようにうねっている。
一歩ごとに水位が上がり、伯爵の外套が重く濡れた。
それでも、彼の腕の力は一度も緩まなかった。
「もう少しです、殿下……」
ようやく対岸に着くと、伯爵は私を下ろし、息を整えた。
「ここでお待ちを。すぐにレオン殿下を——」
言葉が途切れる。
伯爵の顔色が、月光の下で凍りついた。
――レオンの姿が、ない。
「……レオン?」
声が震えた。どこにもいない。さっきまで伯爵の後ろにいたのに。胸がぎゅっと締めつけられる。
「まさか……お母様のもとへ戻ったの?」
「なんてことだ……!」
伯爵が顔をゆがめ、剣を握る。
「皇女殿下、この先の洞窟でお待ちください。必ず連れ戻します!」
「でも——!」
「お逃げください! 今はそれしかありません!」
その叫びを最後に、伯爵は川を再び渡り、闇へ消えた。
私はただ、立ち尽くした。森には風と水の音だけ。心臓の鼓動が耳を打つ。
――逃げなきゃ。
伯爵の言葉が何度も反響する。涙を拭き、足を前に出した。
しばらく進むと、岩肌がむき出しになり、黒い穴が口を開けていた。
――洞窟。きっと、ここ。
中は暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。
手探りで進むたび、母の声もレオンの泣き声も遠ざかっていく。
静寂の中で、また涙がこぼれた。
「……お母様……レオン……」
膝が震え、崩れ落ちそうになる。
そのとき、奥の方で小さな音がした。
金属が岩を擦るような――そんな音。
私は息を潜め、岩陰に隠れた。
暗闇の奥で、一筋の光が揺れる。
目を凝らすと、その光の向こうに見慣れた人影があった。
「……ノア?」
焦げた外套、血に染まった肩、そして疲れ切った顔。
けれど、その瞳だけは――いつものノアのものだった。
「……エリシア様!」
次の瞬間、私はノアの胸に飛び込んでいた。
「ノア……お母様が……レオンが……!」
言葉が崩れる。声にならない嗚咽がこぼれる。
ノアは火を置くと、何も言わずに私の背を抱きしめた。
その手の温もりだけが、壊れかけた私を繋ぎとめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます