第8話 無情なる矢
沈みゆく陽が、森の端にわずかな光を残していた。
空は橙から群青へと溶け合い、砲撃で崩れた塔が長い影を落とす。
風が冷たく頬を撫で、世界そのものが静かに夜へ沈んでいくようだった。
ノアを先頭に、私たちは裏口から森へと逃げ出した。
森は薄暗く、枝葉が夜の帳のように上空を覆っている。枯葉を踏む音、誰かの短い息づかい、それだけが響く。
遠くではまだ、砲撃のような音がときどき響く。そのたびに体がびくりと震え、無意識に母の手を強く握っていた。
「大丈夫よ、エリー。あなたは強い子だわ」
母の声いつもと同じ穏やかな声なのに、今はその奥に、何かを覚悟した響きがある。
「ちょっと…こわいの」
レオンがいる手前、姉として弱音を吐くことが許されなかった私が、母の優しさを前に初めて声を震わせた。
母は静かに微笑んで、私の瞳を見つめ返す。
「泣いていいの。恐れることは恥じゃないわ。
でもね、エリー、“恐れを知る心”こそが民を守る強さになるのよ」
その言葉が胸に深く刻まれる。母の言う“強さ”が、私の知っているどんな力よりも尊く思えた。
その時、ノアが片手を上げた。
風の向きが変わり、葉擦れの音が遠ざかる。
まるで森全体が息を潜めているようだった。
「……何か、います」
近衛兵の声が低く響き、ノアが頷いて剣に手を添えた。
次の瞬間――
乾いた音が闇を裂き、矢が木に突き刺さる。
二の矢、三の矢。鋭い金属音が辺りに散り、兵たちが防御の体勢を取った。
ノアは咄嗟に身を翻し、私と母の前に立ちはだかる。
「伏せてください!」
叫びと同時に剣が閃き、矢を弾き落とす。
火矢が地面に突き刺さり、乾いた草が燃え上がる。
橙の火が森を照らし、私たちはその光の中に浮かび上がった。
「囲まれています!」
近衛兵の言葉通り、森の奥から黒い影が次々と現れる。顔を布で覆った男たち——昼間襲撃してきた傭兵たちだ。
「エリー、離れてはだめ!」
母の声が響く。彼女は私を抱き寄せ、自らのマントを広げて覆った。恐怖で体が震える。
でも、その腕の中はどんな剣よりも強く、どんな盾よりも心強かった。
ノアが一歩、前へ出た。
炎が揺れ、彼の横顔を照らす。
その瞳は、まるで氷の刃のように静かで、迷いがなかった。
「……ここは、通さない」
鋼がぶつかり合う音が夜を裂く。
ノアの剣が閃き、敵兵が呻き声を上げて倒れる。
だが次の瞬間には、別の影が木々の間から飛び出してくる。
「ノアっ!」
思わず叫んだ声が震えた。
母が私の肩を抱き寄せる。
「見てはいけません、エリシア。
……大丈夫。ノアは必ず戻ってくるわ」
それでも、目を逸らせなかった。
剣が闇を裂くたびに、血の匂いが風に混ざる。
胸の奥が焼けつくように痛くて――
私は、これが“戦う”ということなのだと初めて知った。
やがて、ノアが低く叫ぶ。
「今です!走ってください!」
ノアの声に、母は即座に私の手を取って駆け出した。
背後では、ノアが敵を引きつけるように反対側へ走っていく。焔の向こうで金属音が響き、火花が夜に散った。
息を切らしながら、私は何度も振り返った。
けれど母は一度も後ろを見なかった。
その横顔は、静かな光を宿していた。
「お母様……ノアは…」
「信じなさい。彼は必ず来るわ。
——だから、今は前だけを見て」
その言葉の直後、ひゅ、と矢が空を裂く音がした。
次の瞬間、母の体がぐらりと揺れる。
「……お母様?」
叫ぶより早く、母は私を突き飛ばした。
私は地面に倒れ込み、転げるように草の上を滑った。
振り向くと、母が片膝をついていた。その足には黒い矢が深く突き刺さっている。
「お母様!!」
駆け寄る私を、母は片手で制した。
その瞳は痛みを超えて、どこまでも穏やかだった。
「いいの……大丈夫。まだ……動けるわ」
震える声で、それでも微笑む。
その微笑みが痛いほど綺麗で、胸が締めつけられる。
「後から追いかけるから……貴女は先に逃げなさい」
「いやです、お母様……!」
母は私の腕を押し、もう一度だけ微笑んだ。
まるで沈みゆく陽の、最後の光のように。
「あなたは、帝国の希望なのよ」
その瞬間、無情にも再び矢が放たれた。
矢の雨が母を貫き、赤い花びらのように血が散る。
「お母様!!!」
私は息が詰まるような気がした。
何かが胸の奥で崩れていくのを感じる。
「お母様!!!お母様!!!」
叫びが夜を裂く。
母の身体から流れ出る血が、地面に染みていく。
大声を出しても、体を揺さぶっても、もう何の返事も返ってこなかった。
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