031〝ロミオ〟と〝ジュリエット〟の狭間で
矢久勝基@修行中。百篇予定
031〝ロミオ〟と〝ジュリエット〟の狭間で
「おぉロミオ。あなたはどうしてロミオなの」
バルコニーを照らす月を遮って、少女が空を見上げている。吹き抜ける風がベールを揺らし、さらさらと音を立てるかのようだ。
「ロミオの名を捨て、家をお捨てくださいませ。そのお立場に立ちはだかる巨大な岩壁がわたくしを盲目にして、明日を見ることができません」
「……」
星を仰いで呟く彼女を階下で見上げる影がある。よほど姿を現し声をかけたいが、それは叶わない。
「よいではないですか改名も。名を失ったとしてもあなたの輝きが消えるわけではありません。薔薇は薔薇という名でなくとも美しく咲き乱れるように、あなたはロミオでなくともその武功を失うわけではありません」
まるでピンスポットを浴びて役を演じる女優であるかのように一点……バルコニーから空を見上げ、愛しき男を想うジュリエット。
「姓名判断的にも凶の卦が出ております。そんな名前なんて思い切ってポイしちゃうのが吉って今日の占いコーナーでも言ってましたわ」
「……」
階下の物陰に潜むロミオは、微動だに出来ない。
自分はモンタギュー家の次期当主なのだ。その名の重みは、一目惚れの相手にすべてをささげたとしても、消え去ることはない。
ロミオのモンタギュー家とジュリエットのキャピュレット家には長い抗争の歴史がある。人口100人の地域の権益をかすめ取ったキャピュレット家に、もともとの権益をもっていたモンタギュー家の怨嗟は止まらない。
先日も、夜の路上に爆音を轟かすキャピュレット家の車列にモンターギュ家の一派が特攻み、一昼夜バイパスが使用不能となった。モンタギュー家はこの戦いで勝利をおさめ、ますます勢いづいている。
モンタギュー家の当主、デミオ=モンタギューは、次の集会時にも拳を振り上げて怒鳴った。
「いっかぁ、おめーら。キャピュレットの連中が流してんの見たら全殺しだぞゴラァァ!!」
違法改造された数十台の単車の排気音が暴力的な音でそれに応えれば、彼の息子であるロミオも、次期当主として声を張り上げる。
「テメーらビビってんんなよ!? マッポがしゃしゃっても喧嘩やめんじゃねぇぞ!」
彼のリーダーシップには天賦の才があるようで、若いながら十分なカリスマ性を兼ね備えていた。叱咤を激励と受け取った従者たちは一層奮い立ち、思い思いにアクセルを噴かして絶対忠誠の意思を示す。
彼らの手にはそれぞれ、鉄パイプやバールが握られていた。暴力的な空ぶかしの音は天をも貫く嘶きとなり、街の夜の支配者が誰なのかを、雷鳴の如く轟かせている。
「おぅ旗持ち。ビッとしていけよ? 行くぞオラァ!」
デミオの号令一下、アスファルトに飛び出してゆくロミオと、それに続々と続いてゆく爆音の壁。怒涛はもはや、キャピュレットを全滅させるまで止まらない。
そんな抗争の最中の電撃的な恋。ロミオとジュリエットの恋は、突然起きた。
ある日、麻薬の密売に出かけたロミオが受け渡し場所の近隣のコンビニに寄った時、少し時間が遅かったのも相まって惣菜売り場には弁当が残っていなかった。
彼はやむを得ずおにぎり売り場へ。しかしおにぎりもほとんどが売り切れている。
彼はただ一つ残っていた梅昆布茶味に手を伸ばした。その時、たまたま同じおにぎりへと手を伸ばした少女がいたのだ。
お互いの手が、おにぎりに到達する三センチ前に触れあった。
「あ……」
彼女は小さな声を上げ、電撃を浴びたように腕を引っ込める。
「ご、ごめんあそばせ」
反射的に少女の方へと振り返ったロミオも、息をのんだ。美しい。
「し、失礼いたします!」
恥ずかしそうに会釈をして、そそくさ立ち去ろうとする少女の背中を、ロミオの声が追いかける。
「もってけよ」
「え……?」
振り返る少女。ロミオはおにぎりを棚からとって彼女の方へと差し出した。
「アンタが食った方が、この梅昆布茶おにぎりも喜ぶってもんだ」
「でも……最後のおにぎりなのですよ」
「心配すんな。おにぎりがなければ菓子でも買ってくからよ」
差し出されたおにぎりをそっと受け取る少女。その際、再び指が触れて、彼女の頬は紅潮した。
「せ、せめてお名前を……」
「名乗るほどのモンでもねぇよ。ってか、名乗るほどのコトでもねぇし……」
その時だった。突如せり上がった背中の向こうの殺気に、ロミオは身を翻して身体をのけぞった。
「んだコラァ!!」
間一髪、まさに髪の毛を数本かすめていった剛腕に動揺しながら、彼は巨漢を睨みつける。が、次に上がった声は少女のものだった。
「なにをするのティボルト!!」
ティボルトと呼ばれた巨漢はそれには答えず、ロミオを睨みつける。
「テメェ、モンタギューのとこの若頭だな」
「え……」
目を丸くする少女を尻目に、ロミオが凄む。
「それを知ってて喧嘩売ってんのかよ。誰だテメェ」
「キャピュレットだよ」
「ああ……」ロミオの顔がさらに険しくなる。
「道理で店がクセェと思ったわ」
「ティボルトやめて!!」
二人の間に割って入り、ティボルトに梅昆布茶おにぎりを突きつける少女。
「この方はわたくしに、たった一つしかなかった梅昆布茶おにぎりを譲ってくれただけです!」
「そんなもん毒入りに決まってるでしょう? コイツはロミオ=モンタギューですぜ!」
ティボルトは一瞬でそれをひったくり、ロミオに向かって投げつける。彼はとっさに身をかがめてかわし、おにぎりはドリンクコーナーの冷蔵庫の扉に当たって落ちた。
「食べ物を粗末にすんなコラ」
「ジュリエット様をたぶらかしてんじゃねぇぞ、モンタギューのクソガキィ!」
「ティボルト! わたくしはいただいた梅昆布茶おにぎりを買って帰ります! 暴力沙汰は許しませんよ!」
……そしてジュリエットはおにぎりを求めて踵を返した。しかしもう、そのおにぎりは別の子供がレジで会計を済ませてしまっていたのであった。
月明かりのテラスバルコニーで、ジュリエットの一人舞台は続いている。
「おおロミオ。あの梅昆布茶おにぎりの味を知らぬまま、あなたと離れた日から、わたくしの心はあなたの虜。あなたのお気持ちが伺えなかったことがわたくしにとって人生最大の禍根でございます」
互いに、両家が和解などできないことを知っている。だから……たった10メートルしか離れていないこの距離を、縮めることができないでいる。彼女も空に向かって呟くしかないのだ。
「ロミオ……やはりお名前をお捨てください。来年の今月今夜のこの月を、再来年の今月今夜のこの月を、再々来年の今月今夜のこの月を、わたくしの涙で曇らせるおつもりですか」
どこか金色夜叉なジュリエットは空へと両手を広げた。
「あなたがその名を捨ててくれさえすれば、わたくしのすべてが手に入るのですよ。こんなにかわいくてセクシーで美人でコケティッシュなジュリエットを手に入れるなど、1万回ガチャを引いたって確率は0です。めっちゃお買い得だとは思いませんか?」
その後もヒートアップしてゆくジュリエット。
「今ならわたくしのドレス30点セットもお付けいたします。ご気分やTPOに合わせてわたくしジュリエットを自由にコーディネート。お客様の満足度調査では実に98%の方が『家が華やかになった』という喜ばしい評価を頂いております」
ロミオは、ひたすら気配を殺してそれに聞き入った。
「おまけに丈夫で長持ち。各種お守りも取り揃えてございますので、学業成就から交通安全、金運、厄除け、もちろんわたくしたちにぴったりの縁結びと安産も、今なら25年間という破格の延長保証がされております。ただし一点物につき、ノンクレームノンリターンが条件とはなりますが……いえ、それでも絶対に後悔はさせません!」
分かっている。ロミオは暗い姿のまま唇をかみしめている。しかしそれでも自分はモンタギュー家の人間であり、次期当主でもある。そしてそのような立場にいながらも、キャピュレット家との確執を止めることはできない。
「おうロミオ、どうしたよ」
ロミオの屋敷の中庭にはケシの花が一面に植わっている。それをぼんやり眺めていたロミオに声をかけたのは彼の親友であるマーキューシオである。
「なにシケたツラしてんだよ。アンパンやって女でも抱いてこいや。紹介しようか?」
「親父にどやされんぞ。アンパンなんざやったら。オメェやってんのか」
「冗談よ冗談。で? シケたツラァ、オレの思い過ごしかぁ?」
「……」
ロミオは、ジュリエットが独り言ちていたバルコニーの物陰でした表情と同じ表情をした。こともあろうにキャピュレット卿の一人娘に恋したなど、モンタギュー家の者に言えるはずもない。
「なんでもねぇよ。俺だって疲れてることもあんだよ」
「女か」
ロミオの表情に動揺が走る。マーキューシオは笑った。
「何年付き合ってると思ってんだ。オメェは若頭。オレは雑兵だけどよ。ガキん頃からずっと一緒だったんだぜ? オメェのことならケツのほくろの位置まで知ってらぁよ」
「フゥ……」短いため息のロミオ。
「誰にも黙ってろよ?」
「ハッ」鼻で笑うマーキューシオ。
「いまだに誰もオメェがレイリアの下着盗んだこと知らねぇだろうが」
「ぶ……」ロミオは吹き出し、
「もう忘れろよ。赤ん坊の頃の話じゃねぇか」
7歳の頃、美人メイドの下着を盗み、この男にだけ見せびらかして自慢したことがあった。
「フゥン」
マーキューシオはその話を、無表情に聞いた。
「そらぁ確かに誰にも言えねぇな」
ロミオはため息二つ。マーキューシオは頭を掻いた。
「で、どうしたいんだよ。オメェは」
彼は寂しげな笑顔を作ってみせ、
「どうもしねぇよ。俺は、モンタギューの人間だ」
「ハァーかっこいいねェ。オメェ、それで後悔はねぇのかよ」
「……別に」
「ああ、そうかい」
その『別に』が、マーキューシオには『別に』に聞こえないから、苦笑いが止まらない。
この男は、背負い過ぎている。それが背負うもののないマーキューシオにとっては少々じれったい。
分かる。自分も含めたならず者の面倒を見て、好き勝手な個性たちの居場所を守り抜くには、ある意味意固地なまでの気真面目さと強い意志が必要であることは。
だが、それがゆえに、この男が平々凡々な男としての感性を捨て去らなければならないというのは、少々不憫にも思う。
マーキューシオは、この任侠に彩られた男を愛していた。
だから後日、マーキューシオは再び、単車のマフラーのタイコを切り落としているロミオの背中に立った。
「サン・フランチェスコ・アル・コルソ修道院」
「あ?」作業を止めないまま、声だけを返すロミオ。
「十回言ってみろよ」
「舌噛むだろボケ」
「じゃあ一回でいいから行ってみろ」
「あんでだよ」
「ロレンスって修道士のジジィにキャピュレットの娘を呼んでもらったからよ」
「は……?」
手を止め、彼は立ち上がった。
「オメェ……なに勝手なことしてんだよ」
「勝手なことしねぇとオメェはずっとウジウジしてんだろうが」
「……」
「行ってこいや。家とかかんけーねぇだろ。惚れた女ぁ宙ぶらりんにさせてんの、ダッセーからよ」
「いや……だけどよ……」
「断るなら断るでも、ビッとしてこいよ。オメェそんなフワフワした気持ちでキャピュレットと喧嘩できんのか?」
「……」
もっともである。自分はモンタギュー家のナンバー2なのだ。断ち切るならきっぱりと断ち切らなければ、士気に関わるだろう。
だが……保険も必要か。
「マーキューシオ」
ロミオはいくつかの言葉をつぶやくと、工具もそのままに単車にまたがり、エンジンをかけた。タイコを切らずとももともと中身などほぼ何もない。噴き抜ける爆音とゴムの焼ける臭いを残し、ロミオの姿は一瞬で屋敷から消えた。
サン・フランチェスコ・アル・コルソ修道院は城壁の向こう、アディジェ川のほとりにある。ロミオは単車を目の前で止め、修道院の巨大な扉を開けた。
薄暗い礼拝堂には巨大な十字架。そしてその眼下には……
「ロミオ……」
あの……コンビニで指が触れ合い、バルコニーで彼を求め続けた少女の姿があった。
ロミオは……しばらく立ち尽くしたまま微動だにしない。ジュリエットも一言名を呼んだだけで振り返った姿のままとなっている。
場には二人の他、誰もいない。二つの視線が作り出す刻は、凍り付いてしまっているかのように動かない。
「ロミオ……」
再び呟いたのは少女の方だった。
「わたくしを……欲しくはありませんか……?」
「……」
「このジュリエットが勝手に燃え上がっていることは存じております。それでも……改めてわたくしをまじまじとご覧ください。恋する女が美しいものであるなら、わたくしは今、世界でもっとも美しい女であるはずです」
一歩……また一歩と、礼拝堂の出口……つまり、立ち尽くす男の方へと歩を進める少女。
「……モンタギュー家をお捨てください。そしてわたくしと……」
「アンタぁ、キャピュレットを捨てられんのかよ」
「捨てますとも。ジュリエットの名を捨て……そうですね……お宮とでも名乗ります」
「おみやぁ?」
「そんな名であればこの界隈では珍しいですから、身バレもしないでしょう。ロミオは……そうですね……マツモトキヨシなんていかがでしょうか」
「……」
多少感性はズレているようだが、相変わらず美しい。
手の届く距離まで近づいた彼女の眉の形、鼻の高さ、唇の濡れ具合……透き通った眼球の深さは、固く誓ってきた意志すら溶かしてしまうほどに魅力的であった。
抱きしめたい。抱きしめてしまいたい。両腕が自然と彼女を求め、小さくもがく。
……しかしその時、不意に修道院の扉が乱暴に開け放たれた。吹き込む外からの風と共になだれ込んだのは、キャピュレットの特攻服を着た猛獣たちの咆哮である。
「オラァァァァ!!!」
ロミオはとっさにジュリエットを突き飛ばしそれを迎え撃ったが、一瞥しただけでは数が分からないほどの人数がいる。襲い掛かる鉄パイプを身を固めて肩で受け、右手で殴り返したところで、別の刺客が放ったこん棒の一撃に殴られてよろけた。
「ゲハハハハハハ!! 飛んで火にいるなんとやらぁ!」
その巨漢の声には聞き覚えがあった。コンビニでジュリエットの護衛をしていた男だ。
殴られた頭に下卑た声がぐゎんぐゎんと響く。
「今日はとことんやってやんからよ! ゲハハハハ!!」
二日酔いのような頭痛とふらつきを感じながら、なだれ込んでくる特攻服の群れに押しつぶされぬよう転げまわるロミオが、それでも自分を奮い立たせて地面を強く踏みつける。
「ざっけんなコラァァ!!」
男のテンプルを拳で引っかけなぎ倒し、そのまま二人目三人目と、彼は喧嘩慣れをした動きで翻弄した。四人目五人目の暴力も何とかやり過ごし、六人目七人目に殴りかかる。
が、絶望的な一対多勢での殴り合いに有利は望めない。八方から押し寄せる数えきれない暴力によろけ、確実に追い詰められてゆく。
ロミオは腫れて塞がった左目で出口を見た。20mという距離は走れば一瞬だが、今の状態であそこまでたどり着くことはできない。それでも、彼はことあるごとにそちらを睨みつけた。
そしてその目が鈍く輝いた時……それは、聞きなれた爆音が、外から飛び込んでくる合図だった。
「モンタギューだぁぁ!!」
なだれ込む声、声、声。礼拝堂の空気は一変し、リンチの場は多数対多数の乱闘の場となった。
「ロミオォォ!」
マーキューシオが正面の三人を殴り倒し、ロミオに寄り添う。
「集合に手間取ったわ!」
「上等だ! コイツらぶっちめんぞ!!」
互いの特攻服が入り乱れ、血を吐いて卒倒する男たちを踏んで、礼拝堂を破壊しながら乱闘はエスカレートしていく。
警察組織が目を光らせる夜の公道とは違っている。これほど何にも散らされずに喧嘩が続く日もなかった。
「んだこの野郎!!」
「ぐぁ!!」
容赦のないバールでの一撃が誤って腕で受けてしまった男を直撃すれば、その腕はあらぬ方向に曲がった。殴り倒された男の顔は容赦なく踏み潰され、相手が背中を向いていても首が折れんばかりの一撃を加えることをためらわない。
この凄惨な喧嘩に人格という概念などはなく、ただ数が数を押しつぶす消耗戦として血が流れている。多少強くても無双などできるはずもなく、ロミオやティボルトなどのビッグネームも含め、己の身が完全に破壊されるまでに何人を潰せるか……それだけの時間が無機質に展開した。
人が壊れてゆく嫌な音が鳴り止まぬ礼拝堂で、一際大きな悲鳴が上がる。
「マーキューシオォ!!」
彼の親友は、小さく痙攣をした後、動かなくなった。ロミオの背中を襲ったティボルトのバールを、彼が受けたのだ。
ロミオは目を剥いた。そして事切れた親友から血走らせた目を巨漢に向ける。
「こンの野郎!!」
彼はこの戦場で初めて、ナイフを抜いていた。それは、『殴り合いで死ぬのは仕方ないが、刃物を用いた行為は殺人である』という、この国の慣習に基づいて、犯してはならないタブーであった。
その喧嘩では結局四人の死者がでたが、問題視されたのは喧嘩それ自体よりも、死んだ人間の中に、貴族が含まれていたことだった。
ティボルトはキャピュレット当主の妻の甥にあたる。れっきとした貴族の男が、明らかな殺意をもって殺されたこと。このことが、国の中枢を動かすことになったのである。
ヴェローナ大公であるエスカラスは、まずロミオをヴェローナから追放すること、だけではなく、両家の処遇について以下のように通達した。
『両家が本格的な和解に向けて具体的な方法を示さなければ、両家の改易もあり得る』
もともと小競り合いが絶えなかった両家である。厄介払いの意味も多分に含まれており、あの喧嘩は結果、和解などできるはずもない両家にとって、無理難題をけしかけられる口実を与えてしまったものとなった。
「何てことしてくれたんだよ。テメェはよ」
ロミオの父、モンタギュー家の当主であるデミオの書斎は、まるでワイン蔵であるかのような、薄暗くて底冷えのする場所だ。
その最奥のソファに眠るように座り、目だけはギラギラと挑発的に輝いている男……デミオが、苛立ちを隠さずに唸った。
「本来ならエンコつめて叩き出すところだが、これまでの功績に免じて勘弁してやんよ。とっとと出てけ」
ロミオも貴族である。和解はともかく、今回の件を手打ちにするなら両家の痛み分けとして釣り合いは取れる。というか、キャピュレットも大公が間に入っている手前、足元は見てこれまい。
が、無論ロミオは納得できない。しばらく闇を睨みつけ、
「俺たちの抗争は遅かれ早かれこうなったろうが。お上に睨まられたら途端に金玉縮み上がらせてダセーとは思わねえのかよ」
全身が腫れて、顔の形も変わってしまっているが、それでも気力が衰えないロミオを、父デミオは一喝した。
「黙っとけよ。もともとうちらぁ、あのジジィ(大公)から疎まれてんだ。死罪にならなかっただけマシだと思えや」
「……」
ロミオは黙っている。城塞都市ヴェローナの外に追い出されるというのはつまり、人間ではないという宣言に等しい。追放というのは、要するに貴族としての死であった。
いやしかし、そんなことよりも、今のやり取りで、ロミオは絶望的なことに気が付いていた。
「俺らが今までやってた抗争は、ままごとに終わらせなきゃいけねぇ茶番だったってことだったんだなぁ……」
きっとそうであったのだ。他家との抗争などというものはつまるところ、自己顕示欲の強い両家の当主たちのパフォーマンスの一つに過ぎなかった。その真理に気づかず、野放図に暴れてしまった己の失態だったと言わざるを得ない。そして……
……追放前夜、もう一つの失態に、ロミオは逢いに行くことにした。
月が、白く凍り付いている。
その白さがバルコニーの闇を染め、中央に立つ女を淡く浮かび上がらせている。
今日、その少女は何も呟いていない。一点空を見上げ、うつろに星の動きを追っている。
そんな彼女の沈黙を乱す物音がした。明らかに意図的な、バルコニーの手すりに投げた石が当たったような乾いた音。
ジュリエットは視線を落とす。そして、月も照らさぬ物陰に溶けている男の存在を読み取れば、目を細めて囁いた。
「いらっしゃると思いました。御追放は明日ですか?」
物陰から姿を現す男。その鋭い眼光の先に、簡素なドレスを着た女の姿が見える。
「あの喧嘩を仕組んだのは……テメェか……」
無意味なことを聞いている。マーキューシオが内通でもしていない限り、あの密会を知る術はティボルトにはなかったはずだ。
分かっている。分かってはいても、あえて聞いた。「違う!」と言ってほしかった。
が……ジュリエットは、にこりともせずに「はい」とうなずく。
「理由を聞きたいですか?」
「聞くまでもねぇよ」
苦い顔をするしかない。一見虫も殺せぬ顔をしているこの女は、自分と同類だったのだ。いや……
この時分の貴族にとって、最も大切なのは常に〝家〟であった。家を守るために生き、家を守るために死ぬ。それが当然の世の中で、如何にこの娘が素っ頓狂な独り言をつぶやいていたからとて、それを真に受けるなど、どう考えても冷静ではなかった。
結ばれることはないと初めから分かっていたはずなのに、彼女と出会って忘れかけていた。忘れかけたからこそ、あの喧嘩は起きた。いや、あの喧嘩は、抗争の本質を見極められなかったためではあったが、そのことを気づかせてくれたのが、このジュリエットという、貴族というものに縛られた女であると確信した時、彼は彼女に逢いたくてしかたがなくなった。ジレンマの中……このジュリエットという自分の鏡を、見に来ずにはいられなかったのだ。
彼はそれを皮肉ってみせる。
「テメェは所詮、敵の女だったんだな……」
少女は一瞬、身を縮こませるような動きをした。そして口を堅くして答える。
「そう。わたくしはキャピュレットの娘です。あなたが死ねばキャピュレット家が浮かばれるなら、わたくしはそれに協力します」
目を眇めるロミオに、ジュリエットは続ける。
「でも……事態はさらにこちらに好転しました。あなたを殺すことはできませんでしたが、あなたはこの街を追放、わたくしは大公様のご親戚の家に嫁ぐことになりました。モンタギュー家は没落、キャピュレット家は、これで盤石な基盤を手にすることができます」
「結婚……?」
それは、キャピュレット家の方策であった。
キャピュレット家は柳眉で知られる当主の娘、ジュリエットを大公の親戚にささげることで追及の矛先をそむけることを試みたのだ。王族と関係を深めることができれば、そうそう家の取り潰しなどはできまい。
「……それでいいのかよ」
「どういうことですか?」
「テメェは……ずっとそこで呟いてたよな」
俺のことを……という言葉は飲み込む。しかしジュリエットは察したようだ。
「聞いていらっしゃったのですね」
「不覚にもな」
彼女はふと……何かを懐かしむかのように空を見上げた。
「ジュリエットは……夢を見ておりました。あなたと取り合った梅昆布茶おにぎり……」
彼女は、小さく微笑む。
「素敵な夢でした。……でもあなたはモンタギュー。わたくしはキャピュレット。……互いの立場を思い出せば、あなたとのひとときは、さながら白昼夢のようなもの」
「……」
「その夢を終わらせるため、あなたを殺すことを思いつきました。……うまくいきませんでしたけど、おかげでキャピュレット家は王家の一員となれます」
無邪気に呟いている様には、幼さすら感じる。そう思えば、彼の目はすこし哀れな者を見る目に変わっていた。
「嘘だ」
「え……?」
「俺を罠にかけたことは間違いねぇ。ただ、修道院で俺を求めたオメェの目……」
あれは、決して演技ではなかった。この女にはあの時、矛盾した二つの世界が内包されていた。
「オメェはよ……俺なんだ」
「え……?」
「いや……オメェだけじゃねぇ。この国に住む貴族のすべてが、貴族ってもんに縛られて生きてる」
家を守り、家のために死ぬ。家を隆盛させることが唯一だと思わされている……彼がそう続けると、ジュリエットの口から自然、言葉が漏れた。
「だってそれが真実でしょう?」
「俺ァ家を追放された。おかげですべてを失ったがよ……一つだけ、手に入れたモンがある。なんだかわかるかよ」
ジュリエットは答えられない。ロミオは苦笑いを浮かべたまま言った。
「既存の秩序からの解放だ」
「秩序……?」
「俺たちにとって、何より大切なのは家だった。……そう思わされてた。だがよ、すべてを失ってみて……今はそんなもんがひどくちっぽけなものだってことに気が付いたよ」
「……」
「そんな時に、オメェのツラを無性に拝みたくなったってわけだ。家を守り、家のためにテメェ(自分)を殺しても構わない。……そうじゃねぇか?」
ジュリエットはそんなロミオを見据えて身動きもしない。彼は「聞きてえんだが……」と前置きした。
「オメェは本当に大公の親戚筋とやらとの結婚を望んでんのか……?」
「あ、当たり前です。王家の一員となれるのです。身に余る光栄ですわ」
「かわいそうにな」
「かわいそうですって!?」
彼女の表情から血の気が引く。怒りか……分からないが、次の言葉は震えていた。
「分かりました。妬みですね。あなたは追放、わたくしは王族となります。……わたくしが憎いですか? 殺したいですか?」
ロミオは無言だ。無言で……彼女を見上げている。ジュリエットにはその目を笑えない。まるで自分のことを憐れんでいるようで、そのことに焦りにも似た感情を覚えるのだ。
「殺したいのでしょう!? わたくしを殺しに来たんでしょう!? わたくし、あなたが来ると思っていました! あなたの考えてることなんてお見通しですよ!」
ロミオは鼻を鳴らして笑った。この娘は殺しに来ると予測しながら、護衛も狙撃手も置かず、無防備にバルコニーに顔を出しているのだ。その矛盾に気づいていない無邪気さに、笑うしかない。
「丸腰だよ」
一方で少女にはその余裕が理解できない。
「じゃあなぜ!!」
「言ったろう? 昔の俺を見に来たんだよ。そして……今の俺を見せに来たんだ」
「今の……俺……?」
ロミオは両手を広げて言った。
「俺ァ死んだ。親友もなくし、地位も名前もすべてなくして追放された。……その姿を、オメェに見せに来たってわけだ」
「……」
ジュリエットは息をのんだ。彼が何を言っているかを、理解したのだ。
彼は、彼女が望む通り、名を失ったのだ。彼がこの街を追放されるなら、追いかければいい。自分の名前を捨て、どこまでも追いかけて、その背中を抱きしめればいい。
「わたくしは……」
キャピュレットの、ジュリエットだ。家を守ることを教えられ、家を守るために生きて死ぬ……貴族の娘なのだ。
だからこの男を殺そうとした。だから……大公の親戚筋であるパリスと結婚することになった。
それが正しい。それが、貴族を生きる者の勤めであり、幸せなのだ。だから……
だから…………
……ほんの少し、時間が流れた。ロミオは、静かな笑みを浮かべた。
「わかったかよ」
踵を返すロミオ。
「名前を捨てるなんてなぁ……俺たちにはできっこねぇんだ」
「……!!」
歩き出した男の姿が、言葉が、バルコニーで夢を見ていたあの日々を思い出させた。
それは彼女がどれだけ無邪気だったかをなじるだけではない。彼女があの日々に込めた想いを思い起こさせる。
夢見心地に、彼の名が消えるのを空に願っていたあの日々。思えば、あれほど楽しくて、恍惚な幸せを感じていたことは他にない。
名前を捨ててほしかった。名前など捨てられればいいと思っていた。……そんな夢を見ていた……あの日……。
「待って!!」
ジュリエットは必死に叫ぶ。叫ぶ自分は矛盾しているだろうか。分からない。でも、叫ばずにはいられない。
「待ってロミオ!!」
彼は、一度だけ立ち止まった。
「俺は秩序から解放され、守ってたもののちっぽけさを知った。……だがな、それを失って得た自由を、俺も、幸せだとは思わない。……だから……オメェは幸せになれ」
「嫌!! 行かないで!!」
ロミオはもう立ち止まらない。
遠ざかる背中に、ジュリエットは胸が締め付けられた。締められて締められて……呼吸すらままならない。
この男はなんと残酷な復讐を仕掛けに来たのだろう。この男は、夢として処理した真実を暴きに来たのだ。
それは、ある意味で開放であり、復讐などではなく、あるいは救済だったのかもしれない。
それが分からない。そこまで頭が回らない。秩序の天秤に混乱させられた頭で、ジュリエットは必死に彼の名を呼び続けた。
「待って! ロミオ!!」
自分は、誰を愛していたのだ。何を愛していたのだ。
それに気づきかけている。だから苦しい。
そしてもう一つ……ジュリエットは気づいたことがある。
ロミオは、死ぬつもりだ。
名前を捨てるなんて俺たちにはできない。……そして彼はその名を捨てることとなった。生きてる価値を……失った……。
「待って!!」
震えた。今、自分は大切なものを失いかけている。大切な物ってなんだろう。家じゃないのか。
そうだと言っている。心がうなずいている。ならばなぜ、こんなにも震えるのだ。
わからない。分からない……けど、分かる。
分かるなら、伝えなければならない。愛していると。わたくしもつれていってと。
それが言えれば救われる。きっと二人は救われる。
しかしそれが……独り言ちていた時は百度でも並べられた言葉が、……今は声にならない。
そのような未知に駆け出す勇気が、己を今まで縛り上げてきた檻に阻まれて霞んでいる。
どうしたら……! どうしたら……!!
「ロミオ!!」
それは衝動的な行動だった。もう届かぬ言葉を叫び、彼女はバルコニーから飛び降りた。
夢の続きを見るために……彼女は、それしか思いつかなかったのである。
バルコニーの下に転落して命を落とした少女の姿。
修道院で自ら命を絶った男の姿。
ロミオとジュリエットの狭間に消えた……悲劇だった。
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