理想郷では平穏にお過ごしください
ケンノジ
第1話
「平成三十九年」
運転席の妻のぶっきらぼうな一言に、陸郎はそうだっけ、とつぶやく。それから、スマホで入力中の失業保険の電子申請書の和暦欄に、39と書いた。
目的地の旅館まで、あと一時間と車のナビでは表示されている。自前の軽自動車は、曲がりくねった山道を下ったり上ったりを繰り返していた。
「西暦の下二桁に十二を足したら平成何年かわかるんだよ」
「そうなんだ」
妻の紗恵とまだ生後八か月の優唯。家族三人で、初めての遠出だった。
「ねえ。それっぽい気配全然ないけど、これ合ってるかな。思ってた以上に山奥じゃない?」
細い山道の端に停車すると、紗恵がナビを触り、目的地の旅館までの道のりを確認した。
「合ってるはずだけどな」
紗恵がカーナビの画面を触り、ピと電子音が鳴る。地図が縮小された。
「優唯がそろそろ起きるかも」
紗恵が優唯を振り返る。二人の愛娘は、ベビーシートの中で小さな寝息を立てていた。
陸郎は生後八か月になる我が子の扱いがまだわかっておらず、起きたらどうあやしてあげたらいいのかさっきから考えていた。頭の中では上手くいっているはずだが、これまでもそのシミュレーションが成功した試しはない。
そうなると、また紗恵からの信頼度が下がってしまう。仕事を辞め無職の夫。寝起きの娘の機嫌を取れない夫。減点続きだ。
「ナビ古いから、遠回りの道を案内してるのかも」
「陸郎もスマホの地図で見てよ」
"あ"と"お"の中間くらいの声で反応した陸郎は、地図アプリを起動させる。が、現在地が表示されない。
「電波がない」
「しょうがないからナビ通り行ってみるね」
「うん。お願い」
「もし優唯が起きたら、リュックの中に携帯用のミルクと哺乳瓶あるから、それ飲ませてあげて」
「オッケー」
なるほど、その手があるのか、とたった一つの冴えた方法を掲示され、陸郎はリュックの中にあった小さな缶ボトルのミルクを取り出す。丸っこい赤ちゃんのイラストとおもちゃのイラストが描かれていた。
あれ、と紗恵がつぶやいた。ちょうど自宅の鍵を見失ったときのような声だった。
「どうしたの」
「アクセル踏んでも動かないの」
「え」
乗り出した陸郎に見せるように、紗恵はぐいと右足でペダルを踏む。
「ね?」
「一回エンジン切って再始動させてみよう」
「パソコンじゃないんだから」
「まあまあ。でもやってみよう」
「やっぱ買い替えたほうがよかったのよ。ナビも古いし」
「まだ壊れたって決まったわけじゃないでしょ」
陸郎がはじめて買った車で、相当な走行距離になっているが、丁寧に乗ってきた自負も思入れもあった。
もちろん故障したこともない。
「こんな前触れなく壊れるもんかな」
愛車の突然のアクシデントがいまいち信じられないでいると、紗恵がエンジンを切る。車も車内も沈黙し、束の間を置いてエンジンボタンを押す。
長い咳払いのようなエンジン音が鳴り、やんだ。
紗恵と思わず目が合う。じんわりとした緊張が車内に漂いはじめた。
紗恵がもう一度再始動させても、ヘソを曲げたかのように、車はうんともすんとも言わない。
紗恵の口から不安がため息になってこぼれる。
「え、なんで?」
がっくりうなだれてハンドルに突っ伏す紗恵。陸郎は励ますかのようにダッシュボードを開ける。
「保険保険。こういうときは電話したらレッカーサービスとかが」
「電波ないんでしょ」と紗恵が苛立ちが陸郎の動きを遮った。
そうだった、と気勢を削がれた陸郎がシートに背を戻すと、余震のように優唯が一泣きした。目が覚めて空腹を自覚したのか、唇をわななかせて破裂しそうなほどの泣き声をあげた。
「陸郎やってみて。私優唯見てるから」
「うん」
まだ慣れない育児よりも、慣れ親しんだ愛車の面倒をみるほうが気楽な陸郎は、妻と入れ替わって運転席に座る。
同じようにエンジンをかけようとしたが、結果は同じだった。
「なんでこんなときに」
機嫌を取るようにハンドルをさすってやるが、応えることはなかった。静かになった後ろを振り返ると、紗恵がおっぱいを飲ませているところだった。
「紗恵は優唯とここにいて。俺だけ戻って、電波探すよ」
「それがいいかもね」
「じゃあ、ちょっと探してくる」
今の提案は良かったんじゃないか――。減点されっぱなしの評価が、久しぶりに加点されたような気がした。
「電波、電波、電波」
ひとりごとをつぶやきながら、陸郎は来た道を戻っていくと、白い軽トラックがこちらへ来るのが見えた。
曲がりくねっていた先で同じ道を辿って近づいてくる。すぐそこまで来ると、陸郎は両手を大きく振って運転手に合図を送った。
祖父と孫だろうか。壮年の赤胴色をした肌の男と中学生くらいの女の子が乗っていた。
ゆっくり車が止まると、男が窓から顔を出した。
「こんなところで、どうされました」
地域の特有の鈍りがあった。
「すみません。車が故障したみたいで。携帯も電波がないんです。どこまで行けば電波って戻りますか?」
そのへんは疎いのか、男が少女に尋ねると、代わって説明してくれた。
「このへん、電波がないんです。歩いて探すよりも、町で車を直すほうが早いかもしれません」
少女の目はぱっちりしていて、筋の通った鼻に薄い唇が印象的な綺麗な面立ちをしていた。
「修理? 整備工場とかってあるんですか?」
こんな山奥に? と意外そうに思ったのが伝わったのか、男は指さした。
「町まで行きゃあ、ありますよ。車であと三、四十分くらいかかりますけど」
その方角に目をやるが、山の向こう側だった。あんなところに集落があるのだろうか。
「町ですか」
訝しむ陸郎だったが、ここに来るまで子供がいたら小学校はどうやって通っているのか、と心配になるような場所に、一軒家がぽつりぽつりとあったことを思い出す。しかし、カーナビの拡大地図に載っていただろうか。
「じゃあそっちで見てもらおうかな。では、申し訳ないんですけど、まったく動けない状態なので牽引することって出来たり?」
恐縮しながら尋ねると、「ええですよ」と男は快く応じてくれた。
「ありがとうございます。お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
前職で定型文のよう口にしていた文言が、さらりと出てくる。嫌で嫌で仕方なかったあの仕事も役に立つことがあるものだ。
「この先に止まってる白の軽です。妻と娘がいます」
「はーい、はいはい」
頼み事もなんでもないことのように応じて、軽トラは走り去っていく。
ひとまずどうにかなりそうだ。一安心した陸郎は、家族のもとへと陸郎は戻る。
そこでは、牽引の準備をする男と、紗恵に抱かれている優唯を見て喜色満面の少女がいた。
「可愛い。何歳ですか?」
「今八か月」
「へぇ」
「抱っこしてみる?」
「いいんですか? で、できるかな」
女性同士は出会って何分も経っていないのに、どうしてこうもあっさり打ち解けられるのか不思議でならない。
優唯を抱っこする少女の手つきはぎこちない。
「幸せそうだね」
自分だけ何もしないのが申し訳なく、陸郎は男に尋ねた。
「何かできることありますか?」
「いやいや、大丈夫ですよ。牽引はよくやるんですぐできます」
心強い言葉を聞いて、ようやく人心地着いた。なんとかなった。この人が通らなければ今頃どうなっていたことか。もう想像もしたくない。
「このへん山奥だし、僕たちみたいに立往生する車って多いんですかね」
問いかけると、返答がない。
「おじさんたちが通ってくれてよかったね」
紗恵に言われて陸郎は深くうなずいた。
「うん。聞いたかもだけど、この先に町があるんだって」
「聞いた。仕方ないよね。電波がどこにあるかわからないような場所だし、ここで足止めされるより全然マシだよ」
「修理ってなると、チェックインは」
紗恵の顔を窺うと、残念そうに眉尻を下げてゆるく首を振る。
だよなぁ、と陸郎もため息に混ぜながらつぶやいた。
少女が優唯をあやしたり、ほっぺを触ったり、戯れたりしているうちに、牽引の準備が整った。
「カーブが多い道ですんで、ゆっくり走りますね」
「お願いします」
と夫婦の声を揃った。
「優唯ちゃん、またね」と少女が小さく手を振ると、優唯はきょとんとした顔を返す。
陸郎たちは、自分たちの車に乗り込みサイドブレーキを解除した。
「まともな休みだったのに。旅館のキャンセル料も百パーだよな」
陸郎はハンドルを抱え込むような体勢でフロントガラスに愚痴をぶつける。予定したチェックインの時間まであと一時間ほど。まったく着きそうな気配もないし、連絡もできない。
「切り替えていこう」
後部座席から紗恵がさっぱりと言う。
たった一泊だが、陸郎は彼女が今回の旅行を心待ちにしていたことを知っている。幼い娘を連れて、はじめての旅。ある種の冒険とも言えた。段取りも準備に費やした時間も陸郎の比ではないし、旅館や旅先で何をするか入念に調べてくれていた。
そんな紗恵がそう言うなら、もう何も言わないでおこう。
「優唯のことを考えたら、最善だと思う」
「着くかわからない旅館よりも、身近な町のほうがいいわよね」
「うん。修理できる場所が見つかっただけよかった」
「そうそう」
お互いが慰めあうと、軽トラからの窓から男が手を出し、空を掻くような真似をした。前進の合図のようだった。
陸郎が同じように応じると、すぐに軽トラが動き始め、車がゆっくりと引っ張られていった。
「でも、さっきのナビに町なんて映ってた?」
現に町人がいるのだから、きっと映ってたのだろう。
「多分」
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