人間観察記録

となかい

ブローチの行方

【まえがき】

※本作の商会内での、言葉の意味です。

 会頭=オーナー的立場

 会長=現場寄りの責任者


***



 窓から差し込む朝の光が、執務室の奥まで伸びている。

 男はそれを背に受け、執務机に向かっていた。机の上には書類と帳簿が広げられ、ペン先が一定の速度で紙の上を走っている。


 コンコンコンコン。


 控えめなノックの音が、静かな室内に響いた。


「入ってくれ」


 扉が開き、商会の従業員が一礼して入ってくる。


「失礼します」


「どうした?」


「会頭、あの……訳ありと思われるお客様がお見えになっているのですが、会長がご不在でして……」


 男の手が止まった。

 一拍の間を置き、ペンを机に置く。


「俺が行こう。応接室に通しておいてくれ」



***


 ノックの音のあと、応接室の扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、年若い男だった。


 応接用の長椅子に並んで座る一組の男女が、同時に視線を上げる。

 二人の背筋はどこか硬く、指先は落ち着きなく衣の端を掴んでいた。


 男は扉を閉め、数歩進んでから一礼する。

 歩調は一定で、足音も小さい。


「ようこそお越しくださいました。私はこの商会で会頭を務めております」


 そう名乗り、椅子の向かいに腰を下ろした。


「本日は、いかがなご用件でしょうか」


 騎士風の青年が一瞬だけ隣を窺い、それから口を開く。長旅に必要な物資を求めていることを簡潔に告げた。


 男は頷き、机の上の帳面に目を落とす。

 指先で項目をなぞり、いくつか選び出すと、淡々と金額を口にした。


 青年の表情がわずかに強張る。

 短い沈黙ののち、彼は申し訳なさそうに言った。


「……すまない。持ち合わせが足りない。物での支払いは可能だろうか」


 男は顔を上げ、二人を一度だけ見た。

 それから、女性の胸元に留められた小さなブローチに視線を落とす。


「ふむ……」


 数拍の間を置き、男は静かに告げた。


「では、そちらのブローチで構いませんよ」


 女性の肩が、かすかに揺れた。


「……これは……」


 言葉を探すように唇が動く。


「祖母の形見で……」


 男は特に反応を示さず、指を組んだまま続ける。


「当商会の商品は、いずれも長旅に耐える品質のものを揃えております。価格も、市井の相場から大きく外れることはありません」


 女性は視線を落とし、ブローチに触れた。

 やがて、小さく息を吐き、顔を上げる。


「……では、それで」


「お嬢様」


 青年が思わず声を上げる。

 女性は首を横に振り、その言葉を制した。


 男はそれを見て、口角をわずかに上げる。

 穏やかに頷き、取引が成立したことを示した。



***


 コンコンコンコン。

 執務室の扉がノックされる。


「どうした?」


「それが……問題が起きていまして……」


「わかった。すぐ行くよ」


 男は椅子を引き、執務机から立ち上がる。

 そのまま外套を手に取り、部屋を出ていった。


 静かになった室内に、朝の光だけが残る。


 机の上には、一枚の新聞が置かれていた。

 折り目のついた紙面、その片隅に、小さな記事が載っている。


『某伯爵家の令嬢が誘拐。犯人は護衛の騎士。騎士は処刑済み。』


 紙面は、何事もなかったかのように、朝の光を受けていた。

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