片付けの中に

おのり

第1話 梅酒

 急に暑くなった日だった。数日前からそうだったかもしれないが、平日昼間はオフィスから出ないので分からない。服装もよく分からない。とりあえず動きやすい服、ジーパンに薄手のパーカー、中に着るのにちょうど良いTシャツは……昨日着てしまっていた。少し悩んで、私は弟のTシャツを拝借することにした。


 母と向かう先は六年前に亡くなった父方の祖父の遺したマンションだ。私にとって祖父は、二つ思い出す姿がある。


 一つはまだ祖父が元気だった頃で、幼稚園の運動会に来てくれた時の姿だ。切手や古銭の蒐集が趣味だった祖父は、「穴の開いていない五十円玉」と「磁石に付く五十円玉」をくれた。それらは恐らく今も私の机の引き出しに入っているだろう。


 もう一つは祖父が認知症になってからの姿だ。私が高校生の頃、毎年送られてきていたお中元の果物が届かなくなった。父が連絡しても繋がらない。意を決して父がマンションを訪れると、ゴミ屋敷の中にかなり症状が進行していた祖父がいた。引き取って同居することになったが徘徊の見張りなど家族の、特に専業主婦である母の負担は日に日に増えていった。ストレスで大きく体重の減った母は限界を訴えた。


「私はお父さんと結婚したけど、その親と結婚したわけじゃない」


 認知症が段階五まで進行していた祖父はあっさり施設に入ることになった。それで家族の負担がゼロになったわけではない。施設に入った祖父はみるみる身体機能が衰えていき、認知症も進行していった。父は週に一度は会いに行って外出をさせたが、母や子供たちに介護をさせた。私は受験生であることを言い訳に、そして大学は遠方に進学し、祖父とはできるだけ関わらないようにしていた。


 祖父が危篤と連絡が入ったのは、大学四年の三月だった。東京に向かう終電には余裕があったが、私はできるだけゆっくり支度をした。急いで向かっていたとしても間に合わなかったであろう、いくらも経たない時間のうちに「亡くなった」と電話が入り、私は安心して「じゃあ帰るのは明日にする」と返事をした。


 父と祖父は蟠りがあり、同居するまで疎遠だった。弟たちは祖父が元気だった頃の記憶はないが、私にはある。優しくしてもらった記憶が姉弟で唯一あるのだ。悲しむことのできる理由はあったが、それ以上に嫌っていた私が泣くなんて卑怯だと思い、葬式でも泣けなかった。介護はいつまで続くんだろうと思っていて、実際祖父が亡くなって、私は解放的な気分になったのだ。


 祖父が亡くなった時、マンションの相続が誰になるかで、父たち三兄妹は揉めた。認知症になった祖父を引き取ったのは長男である父だったが、疎遠だったはずの妹たちも相続を主張した。父の唐突な「マンションは沙也ちゃんにあげる、と言っていた気がする」という言葉でマンションは私が相続することになったが、その時まだ私は学生であったという理由で、名義は父のものとした。


 マンションは母が少しずつ片付けてはいたが、依然としてゴミ屋敷のままだった。「沙也ちゃんのもの」と言われたのは相続を父にするためだと思っていたが、どうやら父はマンションに、というより祖父関係のことを何もしたくないらしい。何もしなければ考えなくて済んで、祖父に対して失礼なことをする心配もない。永遠に先延ばしにしたいのだ。


 私の考えは違う。祖父ではなく、下の世代のために活用するべきだ。裕福というわけでもない我が家では、マンションを売るか、貸すか、家族の誰かが住むべきだ。下の弟の奨学金の負担を軽くしても良い。真ん中の弟の通学の負担を軽くしても良い。私が住むには職場からも遠く、メリットはないが……しかし活用するには何にせよ、片付けないことには始まらない。「沙也ちゃんのもの」と言われ続けて六年、しびれを切らした私は父に宣言した。


「私はマンションなんて受け取りたくない。まずは息子であるお父さんが相続するべきだ。もう私のと言わないで。……あるいは、どうしても私のだというなら私がすべてやる。その場合は絶対に口を出さないで」


 父は「沙也ちゃんのものだから」と言い、口を出さないことを約束した。大学で寮に住んでいた私はどんなボロ屋敷でも住める自信があった。

「住みながら片付ける」

 そう決めたものの、いざ行ってみると給湯管の老朽化のため、交換するまでお湯を出してはいけないという。給湯管を換えるには床の工事が必要で……畢竟、フルリフォームしか手はないというのだった。


 住むことなく、通いで、まずは全てを片付けなければならない。こうして母と車でマンションに向かうことになったのだ。


 ドアを開けると母が片付けてきたゴミ袋が廊下に所狭しと重なっている。まずはこれをゴミ収集の時間までにゴミ置き場に出す。そうして、次回捨てられるゴミの袋を作れるだけ作る。その繰り返しだ。

 ほぼ初めての片付けをする私はどこの何に手を付けたらいいか分からない。母も手当たり次第やってきただけで、どこからやっても良いという。少しくらい、これまでやってきた計画というものがあるだろうと私は憤慨したが、母だって当事者ではない。今の責任者はむしろ私で、母に手伝ってもらうという形になるのだろうか? 祖父と父の後始末なのに? 母は当然、祖父と血縁者ですらない。孫の私の方が関係者ということになる。


 ぼんやり見渡して、流しの下の収納に目を付けた。開けると大きめの瓶が並んでいる。梅干しか、梅酒か……といった瓶だが、色がおかしい。真っ黒なのだ。梅酒(あるいは梅干し?)というものはこんな色になる物なのだろうか? 取り出して見ると蓋に茶色に変色してカサカサになったメモが貼ってある。


6月19日 土曜日

梅 1.7kg

氷砂糖 1.0kg

ホワイトリカー 1.7ℓ

3週間ほどしたら綺麗な琥珀色になり、飲み頃になります。実は1年経ったら取り出してください。


 几帳面な可愛らしい丸文字だ。家事を一切やらなかった昔気質の祖父も、晩年の一人暮らしでは梅仕事をすることがあったのだろうか? 父の字も丸文字だったため、疑いつつも聞いてみる。


「ねえこれ、じーちゃん?」

「さぁ……」

「じゃあ、ばーちゃんかな?」

「……違うと思う」

「確かにじーちゃん、よく果物狩り行ってたもんね」

「それはまた別かなぁ」


 どちらにせよ、丁寧に作られたこの梅酒は誰にも飲まれずに流しに捨てられてしまう。梅酒って真っ黒になることはある? 軽くググっても分からない。力を入れると簡単に開いた。中栓を抜く。香りはアルコール。十数年ものであることは間違いないが、果実酒であるなら飲めるのでは……。確かに私は梅酒が好きだが、味への興味よりも梅仕事の大変さ、その労力が無駄に終わってしまうことへの悲しみの方が気にかかっていた。コップになるものを見渡すが、思いつかない。そして黒。一口くらい、舐めるくらい……と思っても、勇気を出せる色ではない。


「やっぱだめかなぁ」

「沙也の友達ならなんて言うと思う?」

「絶対止められるよ。『だめに決まっているじゃないですか。何言ってるんですか。どうしても飲みたいなら私が作ってあげますから、それは飲まないでください』。うん、絶対そう言う」

「良い人だねぇ」


 渋々液体を流しに傾けてゆく。まあ、何瓶もあるのだから、気が変われば他の瓶のを飲めばいい。アルコールと梅の混じった香りが立ち込める。本当に良い香りだ。やっぱり飲めるんじゃないだろうか。もったいない。


「それ、ばーちゃんではないと思う」

「なんで? 字?」


 母は祖父母の字を覚えているのだろうか。私は二人の字を全く思い出せない。


「……この家に最初に、お父さんと来た時。お父さんが『骸骨があるかも』って言っていたの、覚えてる? あれ、心当たりがあったからなんだ」

「うん?」


 突然変わる話についていけないながら相槌を打つ。梅酒は勢いよく流れて、残るはこちらも真っ黒な大量の梅の実だ。


「じーちゃんの、彼女」

「……」

「その人が持ってきた、というか渡した?んじゃないかなぁ」


 聞きたくなかったなぁ、とまず思った。そんな話、墓場まで持って行ってくれよ。次世代に聞かせないでくれれば、なかったことになるのに。

 離婚前からの。というか、お互いいたらしいよ。ようやく私に言えたのは「ドロドロしてんなー」という簡単な感想だけだった。


 父方の親戚事情を私たちは何も聞かされていなかったが、こうしてポロポロと聞こえてくる話では絶対観ないタイプのドラマのような、現実味のなかった人間関係が見えてしまう。祖父母が離婚していると聞いたのもかなり大きくなってからだった。祖母の顔も知らず、誰か親戚のお葬式で「こんな時にしか会えないばーちゃんでごめんね」と謝りながら涙声で話し掛けてきた女性が祖母だったのだろうが、その一回の記憶である。孫が産まれたのだと、写真を見せてもらった。ただ、父の妹が何人いるのかもずっと知らなかった。なんだか詳しく聞いてはいけないような気がしていた。祖父の余命が迫る頃になって父が妹の一人と連絡を取り、初めて会った。父と同じ顔の人がいることに驚いた。従兄弟たちも四人姉弟だったことと、その父親がそれぞれ違うことはその時に知った。


 母方の祖父母は口は悪いがいつでもずっと惚気合うような人たちで、私の両親も(考え方が古過ぎて気持ちは悪いが)離婚のりの字も出たことはない。非現実的な世界の話だった。だが、私の半分、父方の血は違った。不倫は殺人ではないが、『氷点』の主人公の気持ちが一瞬分かったような気がした。私がいくら綺麗に愛情深く透明に生きたくとも、黒が混ざっていると思うと、心が冷えたような気持ちになるのだな。


 私はできるだけ勢いよく笑い声をあげた。


「もっと早く言ってくれればよかったのに! そうしたら、これ捨てる罪悪感なんてなかったのに!」


 母は呆気にとられたような顔になった。


「え、そうなの?」

「うん。そうしたら、作った人が可哀想だから一口だけでも飲もう、なんて思わなかった」

「そっか……」


 聞きたくなかった。でも、この話を一番軽くするにはこう言うしかなかった。次の瓶は梅ではなく苺のようだ。ガラスまで真っ黒な瓶を逆さまにしながら、捨てる罪悪感がなくなったことだけは本当だった。果実酒の作り手への期待はもうなかった。

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