老兵よ、武器を取れ─アンバリッドの戦い

ルビー・ミッドナイト

第1話 老兵よ、武器を取れ─アンバリッドの戦い

第一章 門


雨が降っていた。


空から落ちてくる水滴の一つ一つを、俺の視覚補正が勝手に追尾する。速度、角度、着弾予測。戦場では命を救った機能が、今は無意味な数字を網膜の端に並べ続ける。消し方を忘れた。いや、消す気がないのかもしれない。


門に打ちつけられた真鍮のプレートが、雨粒を弾いて鈍く光る。古びた筆致でこう記されていた。


サイボーグ廃兵専用病院─アンバリッド


『安らぎを、再生を、そして人間の尊厳を』


三度読んで、笑うべきか泣くべきか迷った。 「安らぎを、再生を、そして人間の尊厳を」 アンバリッドにまつわる、いくつかの「不自然な噂」を思い出す。入所した廃兵の数と、裏門から出る棺の数が、計算上一致しないという噂だ。 その言葉を俺のような残骸に向けて刻んだ職人は、どんな顔をしていたのだろう。皮肉か、それとも本気の祈りか。どちらにせよ、俺には関係のない話だ。俺は「再生」など求めていない。


俺には自分で幕を引く自由がない。


十七年前、最初の従軍手術のとき、頸椎の奥深くに埋め込まれた自殺禁止オーダー。正式名称は「自己終末抑制プロトコル・タイプC」。兵士という名の国家資産が、勝手に壊れないための安全装置だ。引き金に触れれば指が凍り、屋上に立てば足が鉛になり、首に縄をかけようとすれば腕が痺れて落ちる。


生きたいからじゃない。命令だからだ。


俺の体は国家に預けた資産の残骸。返却期限を過ぎても、なお勝手には動かない。廃棄処分の書類が届くまで、俺はただ呼吸を繰り返すしかない。


だからここに来た。せめて、誰かの手で終わらせてもらうために。


安楽死。その言葉が、俺にとっては最後の希望だった。自分の指では引けない引き金を、白衣の誰かが代わりに引いてくれる。それがアンバリッドの役割だと聞いた。再生を望む者には治療を、終わりを望む者には穏やかな終末を。どちらを選ぶかは本人次第。


俺は後者を選びに来た。


門をくぐる。雨が止む。頭上のセンサーが俺を認識し、透明な膜が傘のように展開したのだ。どうも、死にに来た男にも、濡れない権利くらいはあるらしい。


受付の白衣が、完璧な笑顔を載せた口で俺の名を呼ぶ。


「イザム様、ようこそアンバリッドへ。こちらです」


マニュアルから切り出したみたいな声。抑揚も間合いも計算されている。人間か、アンドロイドか。どちらでもいい。頷いてついていく。


消毒と金属の匂いが肺を磨く。壁のスリットから整備用のアームが覗き、車椅子の老人の背には銅線の花が咲いている。脊椎の接続部から伸びた導線が、花弁のように広がっているのだ。美しいとも醜いとも言えない、ただそこにある光景。


廊下の両側に並ぶ部屋からは青白い光が漏れている。モニターの脈、機械の呼吸、時折漏れる唸り声。誰かが悪夢を見ている。誰かが痛みに耐えている。誰かが、俺と同じように、終わりを待っている。


ここは病院で、工場で、墓場だった。


第二章 六人部屋


案内されたのは六人部屋だった。


ベッドは五つ埋まっていて、皆がベッドか椅子に座り、無言の視線だけを俺へ寄越す。品定め。値踏み。あるいは単なる警戒。どれも戦場で見慣れた目だ。ここにいる全員が、かつて同じ目で敵を見ていたのだろう。


俺は、まず自分から自己紹介した。特に仲良くなりたいわけじゃない。礼儀だからだ。死ぬまでの短い時間、最低限の秩序は保ちたい。


「俺はイザム。陸軍第二大隊第三歩兵隊で曹長だった。みんなも聞いたことがあるだろ、あの特殊作戦『ナイトレイブン』に参加したよ」


部屋の空気がわずかに動いた。ナイトレイブン。十二年前の夜間強襲作戦。敵の指揮系統を三十六時間で壊滅させた伝説の作戦であり、同時に、参加者の七十四パーセントが五年以内に死亡または廃兵認定を受けた呪われた作戦でもある。生き残った者は英雄と呼ばれ、壊れた者は忘れられた。俺は後者だ。


近くのベッドに座っていた男が、最初に口を開いた。痩せた指が、頭部のヘッドセットをいじっている。外す気配はない。


「ハナムラ。通信兵だった」


その目は部屋を見ていない。焦点が合っていないのではなく、見えない戦域に合わせているのだ。通信兵特有の癖。彼らは常に複数の情報層を同時に見る訓練を受ける。現実は、そのうちの一つに過ぎない。


ただ、サイドテーブルには小さな子供の写真が立てられていた。


ハナムラの隣の男が、椅子から立ち上がった。金属で編んだみたいな体躯。肩幅は俺の一・五倍はある。外骨格の癖が素肌にまで残って、立っているだけで重心が戦闘姿勢だ。


「ヴァンスだ。第一大隊にいた」


叩き上げの軍曹。その顔を見て、俺は思い出した。ナイトレイブンの前哨戦で、単独で敵の機関銃座を三つ潰した男。勲章を五つもらい、そのうち四つを酒代に換えたという噂を聞いたことがある。


続いて、窓際のベッドに腰かけていた男。ひどく痩せていて、笑っているようで笑っていない。そんな表情を、顔に貼り付けている。


「みんなコヨーテって呼ぶよ」


本名は言わない。言えないのか、言いたくないのか。


「陸軍司令本部の情報戦、潜入班にいた」


潜入班。敵地に単独で潜り込み、情報を抜き、時には要人を消す。帰還率が三割を切る部署。生き残った者の多くは、人格の一部を置いてくる。コヨーテの笑顔が本物に見えないのは、そのせいかもしれない。


四人目は大柄な男だった。ベッドに腰かけ、窓の外の空を見上げている。その視線の角度で、俺には分かった。


「オルソン。元砲兵だ」


砲兵は空を見る。着弾観測、航空支援の要請、天候の判断。空が味方か敵かを、常に見極めなければならない。その癖は、退役後も抜けない。大柄で朴訥。声は低いが、棘がない。きっと人が良いのだろう。


最後の一人が、俺に向かって軽く頭を下げた。中肉中背、真面目を絵に描いたような顔。


「シャフです。自分は元工兵で、爆薬を扱っていました」


信用できそうだ、と直感が告げた。工兵は慎重でなければ生き残れない。一つのミスが自分と仲間を吹き飛ばす。シャフの目には、その慎重さが染みついている。


六人。全員が退役兵。全員がサイボーグ。全員が、何かを終わらせにここへ来た。


俺たちは、それ以上の言葉を交わさなかった。必要がなかったからだ。戦場で培った沈黙の作法が、ここでも生きている。


第三章 温室


看護師が俺を外へ誘った。休憩室兼温室に案内するという。


中庭の温室には、湿り気のある匂いと、循環ポンプの低い鼓動が満ちていた。葉の群れが呼吸するたび、光が揺れる。天井のガラスから差し込む陽光が、緑のフィルターを通して床に模様を描く。


戦場には緑がなかった。あったとしても、それは迷彩の緑であり、生命の色ではなかった。ここの緑は違う。呼吸している。成長している。俺たちとは逆方向に、時間を進めている。


そこに彼女がいた。


銀の髪をうなじでまとめ、右眼のレンズには細い亀裂。陽光がその亀裂に当たり、虹色の線を頬に落としている。彼女はベンチに腰かけ、手元の植物図鑑を眺めていた。


珍しい、女の退役兵。ここでは希少で、つまり高価だ。女性用の義体は特注が多く、レアメタルの比率も高い。闇市場では男の三倍で売れると、戦時中に聞いた話を思い出す。下品な計算が、無意識に走る。すぐに振り払った。


彼女が顔を上げた。俺を見る。品定めではない。もっと柔らかい、何かを確かめるような目。


「あなたも、終わらせに来たの?」


陽だまりみたいな声だった。天気の話みたいな調子で。


「ああ」と俺は正直に言う。嘘をつく理由がない。「立てば戦場の音がする。夜は砂の味がする。眠れば爆発で目が覚めて、目を開ければ死んだ奴らがいる。体は動くが、中身はもう廃棄済みだ」


彼女は頷いた。理解したのか、しなかったのか。どちらでもいいという頷きだった。


「私は、治しに来たの」


そう言って、彼女は柔らかく笑った。人間のやり方で。機械の精度ではなく、人間の不完全さで。久しぶりに見る笑顔だった。忘れかけていた感覚の所在を、誰かが指さしてくれたような。


「グロリアよ。よろしく」


「イザムだ」


彼女はポケットから細いスティックを出した。中に半透明の液体。下品に明るいフォントが容器の表面で踊っている。


ニューロフォリア。


「それ、ニューロフォリアだな」


「ええ」


サイボーグ専用の電子麻薬。神経インターフェースに直接作用し、快楽と幻覚を手早く手に入れる。PTSD持ちには魔法の薬に見える。失った感情や記憶が戻る錯覚をくれる。笑い方を忘れた者が笑い、泣き方を忘れた者が泣く。


「貰ったけど、使う気はないわ」と彼女は言った。「脳が作った偽物の幸福に溺れれば、やがて自分の輪郭ごと溶ける。そうなった人を何人も見てきた」


彼女は液をベンチの下に零した。透明な液体が石の隙間に吸い込まれていく。


「私はこれ抜きで自分を感じたい。あなたは試した?」


「勧められたが、手は出してない」


「偉いのね」


「臆病なだけだ。壊れ方を選びたかった」


第四章 夜の温室


その夜、俺はもう一度温室へ戻った。眠れなかったからだ。眠ろうとすると砂の味がする。口の中に、あの砂漠の微粒子が蘇る。十二年経っても、まだ吐き出せない。


温室の照明は落ち、葉の影がゆっくり呼吸している。循環ポンプの鼓動が床から伝わる。人間の心拍に似せてあると誰かが言っていた。六十から七十の間で、ゆっくりと上下する。信じたくなった。


グロリアは噴霧ノズルの詰まりを細いピンでつついていた。彼女も眠れないのだろう。レンズの亀裂が、わずかな灯りを星のように砕いている。俺の気配に気づき、顎でベンチを示す。


「座って」


「手伝おうか」


「壊すのは速くても、直すのはゆっくりじゃないと」


その言葉が、別の何かを指しているように聞こえた。俺はポケットから視覚レンズ用の補修フィルムを出した。メンテナンス棟から失敬したものだ。


「貼らせてくれ。見栄えは落ちるが、視界の歪みは減る」


「見栄えなんて、とっくに落ちてるわ」


肩をすくめて、彼女は近づいた。顔が近い。右目に指を伸ばすと、レンズの縁がかすかに震えているのが触覚に伝わる。恐怖ではない。緊張でもない。何か別の、名前のない振動。


息を止めてフィルムを滑らせ、微熱で縁が馴染むまで数えて待つ。五秒。十秒。ここで初めて、時間というものが優しい単位で進んだ。戦場の時間は常に速すぎるか遅すぎる。爆発の瞬間は永遠に引き伸ばされ、待機の時間は圧縮されて消える。でも今、この十秒は、ただの十秒だった。


「どう?」


彼女は瞬きし、遠い葉、近い水滴、俺の顔へ順に焦点を移した。


「輪郭が柔らかくなった。色が帰ってきたみたい」


微笑んで、すぐに真顔に戻る。


「ありがとう。夜の廊下が、少し怖くなくなる」


「夜が怖いのか」


「怖いわよ。静けさの中で、昔の足音だけが増幅される。あなたは?」


「砂だ」


俺は自分でも驚くほど正直に言った。


「夜になると、砂の味がする。唇の内側に微粒子が挟まってる感覚。飲めない。吐けない。ずっとそこにある」


彼女は一度だけ頷いた。「わかる」ではなく、「わからなくても隣にいる」という頷き。その違いが、俺には分かった。


第五章 呼吸の貸し借り


翌朝、リハビリ室で紙コップを倒した。


指のサーボが微振動を止められない。古い聴覚補正─通称サンドイヤー─が、遠い炸裂音を拾ってしまう。実際には何も鳴っていない。天井の空調が回っているだけだ。でも俺の耳は、それを散弾の雨に変換する。


視界が白くなる。ここがどこか分からなくなる。リハビリ室の床が砂に変わり、天井が砂漠の空に変わる。心拍が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。


「目、閉じて」


グロリアの声が、柔らかい布みたいに落ちてきた。


彼女は俺の手首を取り、甲に二本の指を置いた。軽い電流が触れた気がする。いや、電流ではない。体温だ。人工皮膚を通して伝わる、彼女の熱。


三拍のリズムで、指が叩く。


「タン、タン、タン。吸って」


声に合わせる。金属の肺が鳴り、呼気にオゾンの欠片が混じる。


「タン、タン、タン。吐いて」


それだけの動作ができない日がある。呼吸という最も基本的な行為が、戦場の記憶に邪魔される。でも今日は、できた。彼女のリズムに合わせて、吸って、吐いて。震えがいくらか退いていく。


彼女は指を離した。


「戦場の音にはパターンがある。不規則に見えて、実は予測可能な構造を持ってる。なら、もっと簡単なパターンで上書きすればいい」


「上書き」


「古いルーチンを、もっと古い手順で。人間の手順で。機械が生まれる前から、人間はこうやって呼吸を整えてきた」


倒れた紙コップを拾い、濡れた床を布で押さえる。彼女の手つきはゆっくりだ。俺は初めて、自分の動作がどれほど速く荒いかを正確に知った。戦場仕様のまま、俺は十七年を過ごしてきた。


第六章 記憶の交換


温室は、俺たちの逃げ場になった。


医師面談のあと、定期チェックのあと、時間を盗むみたいに戻る。グロリアはミントとバジルを好んだ。葉に触れては、指先に匂いを移す。その匂いは、ここで唯一、記憶を温める側へ連れて行ってくれた。


「小さい頃、雨どいの下にミントが自生してたの」


彼女は遠い目で語った。氷にミントの葉を沈めた夏の飲み物。歯にしみる冷たさ。祖母の手が差し出すガラスのコップ。戦争の前、世界がまだ普通だった頃の話。


俺は市場の話を返した。地雷原の向こうの町で聞いた、歌う女の話。歌詞は拾えなかったが、旋律は甘かった。砲撃の前、たった三分間だけ開いた静寂の窓。その窓から漏れてきた歌声。


「三分」とグロリアは言った。点滴の滴下を砂時計代わりに眺めながら。「三分、待てる人は、だいたい優しいのよ」


その言葉の意味を、俺は後になって理解した。


気象制御の不調で、予定外の雨が温室のガラスを叩いた夜があった。


葉に当たる雨音は砲声に似ている。リズムも、音圧も。でも意味が違う。砲声は何かを壊すために落ちてくる。雨は何かを育てるために落ちてくる。同じ音でも、意味が違えば、受け取り方も変わる。


ガラスに額を寄せて、俺たちは並んだ。彼女のレンズに貼った薄膜の上に、小さな雨の世界が幾つも映っている。水滴が、それぞれの宇宙を抱えている。


「あなたは死にたいの?」


雨が質問を柔らげた。直接聞かれたら答えられなかっただろう。でも雨音の向こうからなら、言葉が出た。


「終わりたい。自分じゃ終われないから、ここへ来た」


「終わりたいことと、死にたいことは、同じ?」


「同じだと思ってた」


「私が生きたいって言ったら、怒る?」


「怒らない。羨ましい」


「じゃあ、あなたもここで『生きる』を一度、命令にしてみない?」


骨の中で、自殺禁止オーダーがわずかに鳴った。命令。俺は命令で動いてきた。国家の命令で戦場に立ち、国家の命令で人を殺し、国家の命令で生き延びた。なら。


「それを命令にできるなら」


「できるよ」


彼女はおどけて額に指を当て、軍隊式に敬礼した。


「命令する。イザム、生きなさい」


俺も返した。ふざけているのに、胸が痛むのを止められなかった。


その後、俺は彼女の右眼の演算を古いデバッグルーチンで微調整し、彼女は俺に呼吸のテンポを貸した。互いの部品と手順を交換した。


ある夜、彼女は銅線の切れ端で粗い輪を編み、俺の指に通した。


「落としたら怒るから」


「怒るのか」


「うん。優しく」


その輪は、俺の左手の薬指に、今もある。


第七章 消失


翌朝、彼女はいなかった。


ベッドは整えられ、枕の窪みだけが彼女の不在を証明している。シーツの皺は、誰かが丁寧に伸ばした跡。本人ではない。グロリアはシーツの皺を気にしない人だった。


看護師は「急な容態の悪化で」と言った。モニター越しの笑顔の隅で、光が乱反射している。誰の目も俺を見ていない。視線が滑る。避けている。


温室に行った。


ベンチには、銅線の輪が置いてあった。落としたら怒ると言われたやつ。彼女が外して、ここに置いたのか。それとも誰かが。


指に通す。


笑いも泣きもせず、深く息を吸った。ミントの匂いがかすかに残っている。タン、タン、タン。彼女のリズムで、息を吸う。吐く。


輪の表面を親指で撫でたとき、回路がほんの一瞬だけ身構えるような、微細なノイズが掌に触れた。電子的な何か。思い出ではないかもしれない。鍵だ。彼女が、何かを仕込んだ。


彼女らしい。


納得はできなかった。できるわけがない。「急な容態の悪化」。昨夜まで元気だった女が、一晩で。絶対におかしい。


調査を始めた。


第八章 真実


夜、メンテナンスアームが休止する瞬間に、パネルを外す。配線の森に潜るのは久しぶりだが、指は覚えている。義手の触覚は鈍っても、熱の走り方で嘘はわかる。


廊下のカメラが瞬きをするわずかな隙を、ハナムラに聞いた。彼は端末を手放さず、痩せた指でデータの潮を撫でている。


「ログ、手が加えられてるな」


彼の声は平坦だった。感情を消す訓練を受けた者の声。


「でも手数が足りてない。搬出の記録が『患者の遺体』になってるのに、重量が軽すぎる。中身を抜いてる」


画面を向ける。数字の列に、明らかな矛盾が並んでいた。


レアメタルと部品の回収。救済の看板の裏で、価値ある部品を抜いて闇の改造業者に回す。アンバリッドの中で切り刻み、安楽死の名目で帳尻を合わせる。残りは炉で溶かして精錬。見事なリサイクルだ。俺たちの体は、最後まで資産として扱われる。


端末に「GLORIA」と打つ。出てきたのは「強制安静」「幻覚発作」「家族同意の上での終末処置」。


彼女に家族はいない。夜にミントの話をしたとき、戦場で全部失ったと言っていた。両親、兄弟、従兄弟、祖母。雨どいの下のミント以外、何も残らなかったと。


「同意書は偽造だ」


オルソンが低く言った。左のこめかみがわずかに脈打っている。彼はデータ解析の訓練も受けていた。砲兵は計算が仕事だ。


「署名のフォーマット、見覚えがある。ワイルドムーンだ。軍需の裏側、非合法改造と部品取引の受け皿。あいつらが噛んでる」


窓際でコヨーテが外を見つめていた。夜が深まるほど、門の影にもうひとつ影が増える。監視か、護衛か。どちらでもいい。今の俺たちは籠の中の鳥だ。


ヴァンスは黙って拳を握り、関節の金属が低く鳴った。「まだ戦える」と目が言っていた。


シャフは壁に背をつけ、天井の配線を見上げている。工兵の目で、構造の弱点を探している。


銅線の輪が指で微かに鳴る。グロリアが残した命令は、まだ届く位置にある。


生きなさい。


俺は頷いた。ここから先は、俺たちの仕事だ。


第九章 老兵たち


俺たちは六人だった。俺、ヴァンス、ハナムラ、コヨーテ、オルソン、シャフ。


全員が退役兵で、全員がサイボーグで、全員がここへ「終わりに来た」。そのはずだった。だが今は違う。グロリアのために。まだ息のある者たちのために。そして、自分たちの尊厳のために。


やることは単純だ。証拠を掴み、外に流し、炉を止める。必要なら戦う。


老兵対現役─そんな見出しがつくのは御免だが、逃げようもない。俺たちは錆びている。でも、まだ動く。戦い方は筋肉より先に骨が覚えている。


まず、ニューロフォリアの備蓄庫を割り出した。冷蔵階の最奥、プラスチックの柱に透明なアンプルが並んでいる。一本手に取ると、指の熱で液がわずかに揺れた。そこに「楽園」と名乗るプログラムの影がうごめいているのが見える気がした。


「使うのか?」とヴァンス。


「武器にする」と俺は言った。


ニューロフォリアは神経インターフェースを撹乱する。最新の義体ほど統合度が高く、深く浸透している分、軌道を外されたときの転び方も派手だ。俺たちの旧式サブプロセッサは、効率が悪い。処理速度も遅い。だから、壊れにくい。悪い冗談みたいな耐性が、ここで武器になる。


シャフは透析機から引き剥がしたコンデンサーで簡易EMPを組んだ。手際は戦場のままだ。「工兵の仕事は、壊すことと作ることが同じなんです」と彼は言った。オルソンは避難経路の青図を頭に叩き込み、最も狭い曲がり角に患者搬送用の担架を先に並べた。障害物にもなり、必要なら盾にもなる。


コヨーテはモニター前で笑った。笑顔の癖だけが戻らなかった男は、笑いながら一言も嘘をつかない。「敵は三人。門の外に二人、内部に連絡役が一人。連絡役が誰かは、まだ分からない」


第十章 鍵


俺はグロリアからもらった銅線の輪を指にはめ、制御パネルの縁に触れた。


輪が微かに熱を帯び、内部の古いサービス回路が反応する。彼女の「鍵」は飾りではなかった。


視界の片隅に、封印された監査用ルートが浮かぶ。アンバリッドの創設時に作られ、その後忘れられた緊急通報システム。グロリアはそれを見つけ、輪に埋め込んでいた。


「お前、いつの間に」


俺は誰もいない温室でつぶやいた。彼女は最初から知っていたのかもしれない。この施設の裏側を。そして、自分がいつか「処理」されることを。だから俺に輪を渡した。落としたら怒ると言って。


証拠の束を監査ルートに押し込み、外の世界へ道を開く。宛先は市民団体、記者、連邦監察局。ひとつ刈られても、全部は刈れない。種を撒くように、あちこちに。


送信開始。進捗バーがゆっくり伸びていく。


そのとき、警報が鳴った。


第十一章 戦闘


門が開き、夜より硬い黒が滑り込む。外骨格の縁が薄い青に呼吸し、三つの影が降り立った。


ワイルドムーン─超国家組織ハイムーンのフロント企業─の工作員。滑らかな動作、反応遅延の補正、無駄のない殺意。最新鋭の戦闘用義体。俺たちの十年先を行く装備。


「来た」とコヨーテ。俺たちは持ち場に散る。六対三。数では勝っている。だが装備では負けている。


奴らはきっと俺たちを舐めている。退役兵。廃棄寸前の旧式。戦場では驕りが命取りになることも知らないのか。


先手を取った。ニューロフォリアの霧を換気に乗せ、ダクトを逆流させる。白いもやが床を這い、薄く光る。最新の義体は空気清浄も完璧だ。だが、このもやは空気に溶ける設計。フィルターを通り抜ける。


踏み入れた一人の視界UIが痙攣し、動きが一瞬「人間」に戻った。機械の補正が外れ、生身の反射速度に落ちる。半拍の遅れ。その半拍分が、戦場では永遠だ。


ヴァンスが支柱を片手で投げ、コヨーテが影の端から喉のサーボの導線を一刀で断つ。油が噴いた。匂いは甘く、胃に悪い。一人目、沈黙。


二人目は制御室の扉を割って突入してきた。シャフのEMPが短く吠え、外骨格の関節が凍る。俺とヴァンスが同時にぶつかり、床に杭を打つみたいに叩きつける。オルソンが手術台のバンドで四肢を縛り、データリンクを遮断。


「固定完了。敵戦力残り一」


進捗バー、三十七パーセント。


三人目は正面に来ない。施設の内臓を知る者しか通れない保守シャフトを使い、音もなく背後に立った。足音の代わりに配線の軋みを聞く訓練を受けた者だ。


「動くな、イザム」


声の主は傭兵ではなかった。


ハナムラだ。


目尻に薄い光のクレスト。ワイルドムーンのハンドシェイクが網膜に焼かれている。裏切り者。扉は内側から開いていた。


第十二章 裏切りの理由


「理由を聞こう」と俺は言った。


振り返れば、彼は暗い顔をしていた。最初からだ。通信兵の癖で、焦点が合わないのだと思っていた。違った。彼は別の場所を見ていた。ここではない、どこか遠い場所を。


「孫だ」


彼は喉で言葉を折りながら続けた。


「心臓が要る。移植を待ってる。でも順番が来ない。金もない。待てない。ここなら手に入る。俺が扉を開けるだけで、あの子は生きられる」


「そのために、グロリアを─」


ハナムラの視線が泳ぎ、そこで止まった。返事は来ない。沈黙が、肯定より重かった。


三人目の傭兵が、俺の側頭部に銃口を押し当てた。自殺禁止の命令は俺の指を凍らせても、他人の指までは止めない。この施設はその穴を「安楽」と呼んできた。


「送信を止めろ」と傭兵が言う。


「もう済んだ」と俺は言った。


嘘だ。進捗は三十七パーセント。でも言葉は時に銃より速い。コヨーテは笑ったが、何も言わなかった。嘘をつけない体は、沈黙でこちらに嘘の余白をくれる。


シャフが壁の配線を剥ぎ、床に押し当てた。火花。照明が落ち、温室で見た夜よりも濃い闇が落ちる。ニューロフォリアの残光が霧の粒を縁どり、幻想的な光景を作る。


傭兵の呼吸が一瞬乱れ、銃口の圧が緩んだ。俺は肘を跳ね上げ、銃を逸らす。発砲。肩に熱。世界が白く欠ける。


呼吸。タン、タン、タン。グロリアの指が、暗闇の温室で俺の手に描いた円。雨の音を選べと言われた夜。俺は今、別の音を選ぶ。炉の唸り。冷却ポンプの拍動。送信バーの電子音。


進捗、五十八パーセント。


第十三章 命令の書き換え


自殺禁止の命令は、文脈を理解しない。単純な条件分岐だ。「自分を殺す行為」はブロックされる。でも「任務遂行中の負傷」は許容される。なら文脈をいじる。


炉の冷却管を破壊して施設の機能を停止させるのは、自殺ではない。任務だ。任務は、いつだって例外規定を持つ。


「ヴァンス」俺は叫ぶ。「炉だ。呼吸を止めろ」


「了解」


ヴァンスは笑った。戦場で何度も見た笑顔。死地に向かう兵士の笑顔。


彼は制御盤に肩を入れ、胸のバッテリーのリミッタを外す。シャフが背中から補助ケーブルを噛ませ、過負荷の電流が古い筐体に走る。ヴァンスの体が導線になる。


警報はもはや言語ではない叫びに変わり、炉の唸りが獣の咆哮になる。冷却液が吹き出し、床に白い霜が走る。傭兵の視界が、その白を敵味方識別のノイズとして誤認する。


ヴァンスは炉の心臓に身を寄せ、額を鉄に押し当てた。


「教範にあるか?」


誰にともなく呟き、スイッチを踏み抜いた。


爆発ではない。世界がひとつ大きく息を吐いたような、静かな崩れ。瞬間的な電磁の波がフロアを洗い、最新の外骨格が一斉に痙攣する。俺の古い回路は一瞬だけ落ち、指先で手動再起動。視界が重ね戻る。


進捗、九十八。九十九。百。


送信完了。


小さな確定音が、肺の底まで落ちた。


第十四章 夜明け


三人目の傭兵は立ち上がろうとしたが、腕が自分を許さなかった。システムが落ちている。コヨーテが近づき、必要最低限の力で眠りに落とす。


オルソンはハナムラの拘束を解かない。締め付け方は強いが、痛みを避ける位置を選んでいる。彼は囁いた。


「お前の孫の名は?」


答えは涙の形でしか降りてこなかった。汗か油か、闘の中では見分けがつかない。ハナムラは声を殺して泣いていた。


静寂が戻る。遠くのサイレンが重なり、夜が薄紙みたいに剥がれていく。床の霜が靴底に割れ、金属の匂いに湿った土の匂いが混じる。


ヴァンスは笑っていた。


炉の傍で、壁にもたれて。その笑いは、だんだん静かになり、やがて止まった。過負荷が、彼の古い回路を焼いた。


「ヴァンス」


俺は彼の傍にしゃがんだ。目は開いている。焦点は合っていない。でも口元には、まだ笑みの形が残っている。


「教範には、なかったな」


俺は彼の目を閉じた。


朝が来た。門の外に人影が集まり、ドローンが空を網目のようになぞる。俺たちが吐き出した証拠は拡散を始めている。


ハイムーンは大きい。ワイルドムーンは速い。アンバリッド一つ潰しても、別の街の炉は今夜も唸るだろう。それでも、ここで止めたことには意味がある。少なくとも、今ここにいる者たちは、違う朝を迎える。


担架が次々に運び出され、震える患者の指先が俺の袖を掴んだ。


「ここで終わるの?」


訊く目に、俺は首を振った。


「ここからだ」


言葉が命令になる。俺は自分に命じる。グロリアの声で。ヴァンスの笑顔で。


生きろ。


終章 人間の尊厳


門のプレートはひしゃげ、煤で文字が隠れていた。俺は指先で黒を払う。古びた書体が現れる。


安らぎを、再生を、そして─


指先に銅線の輪が触れた。温室の光、小さな太陽。俺は輪を押さえ、深く息を吸う。ミントの匂いがまだかすかに残っている気がした。


そして、人間の尊厳を。


声に出して読むと、胸が少しだけ軽くなる。


グロリアの笑顔が浮かぶ。人間のやり方で笑った、あの柔らかい顔。ヴァンスの笑いが空の奥で揺れる。教範にない戦い方で、最後まで笑っていた男。


ハナムラは顔を覆い、誰にも届かない祈りを零している。彼の孫のことを、俺たちは何も言わなかった。言う必要がなかった。彼は裏切り者で、同時に、誰かを救おうとした男だった。その両方が、彼の中に同居している。


オルソンは空を見上げ、砲兵の癖で雲の流れを読んでいる。今日は晴れるだろう。コヨーテは笑った。表情と感情がずれる笑い方で、それでも確かな温度があった。シャフは手の中の焼けたコンデンサーを見つめ、指先の火傷を水で冷やしている。


俺たちは歩き出す。新しい戦場へではなく、新しい場所へ。どこへ行くかは分からない。でも、ここではない場所へ。


砕けたニューロフォリアの瓶が土に沈み、風が幻覚の残滓をどこかへ連れ去る。踏まないように気をつける。あれは誰かの逃げ場だった。俺たちは別の道を選んだだけだ。


背後でアンバリッドが静かに息をしていた。施設にも魂はあるのかもしれない。いつかこのプレートの言葉が、嘘でなくなる日が来るだろう。その日、俺はもういないかもしれない。だが、その日を信じることなら、今の俺にもできる。


銅線の輪を、陽にかざす。光が輪を通り抜け、俺の掌に小さな円を描く。グロリアが残した命令。ヴァンスが示した答え。ハナムラが抱えた矛盾。オルソンの沈黙。コヨーテの笑顔。シャフの慎重さ。


俺たちは廃兵だ。国家に捨てられ、市場で値札をつけられ、炉で溶かされるはずだった。でも俺たちは、まだここにいる。呼吸している。歩いている。


人間の尊厳のために。


それが、俺たちの最後の任務だ。そして、最初の選択だ。


門を出る。朝の光が、俺の古い視覚補正を優しく焼く。数字の羅列が消え、ただの光になる。雨は止んでいた。空は、砲兵が好む青だった。


俺は歩く。タン、タン、タン。グロリアのリズムで。


生きろ、と命じながら。


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老兵よ、武器を取れ─アンバリッドの戦い ルビー・ミッドナイト @rubymidnight

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