『消音の奇跡と、俺の怠慢な右手』

アベタカシ

1 宇宙よりも遠い段ボール

 当直室のテレビは、音が出ない。

 夜勤のルールだ。子どもが起きる。苦情が出る。誰かが面倒になる。だから消音。

 画面の右上に「緊急特番」の帯が出ていた。眩しい。夜勤の目にテレビはいつも攻撃的だ。俺は紙コップのぬるいコーヒーを啜って、テロップだけを追う。


 ――宇宙飛行士、奇跡の生還。


 ヘルメットのバイザーに青い地球がゆっくり横切って、次の瞬間、男の身体が独楽みたいに回っていた。字幕が言う。「姿勢制御不能」「空間識失調」。

 それだけで、吐き気の予告みたいなものが喉の奥に来た。俺は地上でテレビを見てるだけなのに。


 だが、次のテロップはやけに具体的だった。


「右手への強制覚醒シグナル」

「触覚増強システム(EHA)による呼吸同調」

「遅延があっても“いま”が失われない握り」


 映像の中の手袋が、ゆっくりと握り返される。分厚いグローブ越しなのに、なぜか〈柔らかさ〉が伝わってくる気がした。手袋の内側が呼吸するみたいに膨らんで、男の呼吸が落ち着いていく。字幕がそのまま説明してくれる。

 ――〈孤独じゃない〉という感触。


 俺はそこで、笑いそうになった。そんなの、テレビが勝手に盛ってるだけだろ。特番だ。感動は作るものだ。

 でも、妙に引っかかった。握手。握り返し。呼吸が揃う。心拍が落ちる。

 画面の奇跡は、手の話だった。


 その時、廊下の奥でファクスが鳴った。

 うちの施設でファクスが鳴ると、だいたいろくなことがない。深夜のファクスは、誰かが「今すぐ」何かを押し付けたい音だ。

 職員室の片隅で、感熱紙が薄い舌みたいに吐き出されていた。紙の端に、赤いスタンプ――「緊急」。


『運用停止通達:全端末ユニットは接続遮断の確認後、速やかに廃棄』


 速やかに、って言葉はいつも偉い。現場の足腰のことを一切考えないくせに、命令だけは滑らかだ。

 俺は紙を机に置いて、夕方から出しっぱなしの段ボール箱を見た。黒いロゴ。 HAP-ORPHAN。子どもたちが昼に遠巻きにして、年長の子が「呪いの手だぞ」と言ったやつだ。


 テレビの中の奇跡の手と、目の前の段ボールの手。

 同じ〈手〉なのに、片方は拍手されて、片方は捨てろと言われている。


 返送品保管庫は廊下の突き当たりだ。規則も手順も、俺は一応知ってる。知ってる、だけ。夜勤の足には、あそこは遠い。たぶん宇宙より遠い。

 箱を抱えて廊下を歩くと、中の〈手〉が動くはずないのに、腕の産毛だけが立つ。

 俺は気味悪さを「疲れ」のせいにした。夜勤は万能の言い訳だ。


 物置の扉は軽かった。鍵もかかってない。ここは、掃除用具と古い行事の飾りを突っ込む場所だ。つまり、明日に回すものを置く場所。

 俺は箱を壁際に置いて、手のひらで二回、平らに押さえた。


「まあ、明日でいい」


 口に出した瞬間、決まり文句が仕事の代わりをした気がした。

 そのとき、箱の中で何かが擦れるような、微かな音がした。

 ……気のせいだ。段ボールは鳴る。夜は音が大きく聞こえる。

 俺は取っ手に手をかけたまま、三秒だけ止まって――結局、戻らなかった。


 

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