不適合者の澱狩り(おりがり)

斬条 伊織

不適合者の澱狩り(おりがり)

 路地の奥は、夕方でも暗い。ビルとビルの隙間に落ちる光は、薄い刃のようだった。


 男はしゃがみ込み、片手を前に差し出していた。指先に、わずかな違和感がある。


 いや、違う。違和感ではない。重さだ。

 掌の奥に沈んでいたものが、ゆっくりと動き出す。皮膚の下をなぞるように、指先へと集まってくる。

 やがて、黒が滲み出た。煙のように、細く。液体でも、気体でもない。形を持たないまま、空気に揺れている。


 フチは、そのまま指先を前方に横たわる男の胸元へと伸ばした。触れた瞬間、黒が溶けるように消えていく。相手の体へ静かに吸い込まれていく。


――手が、少しだけ軽くなる。それが、仕事の終わりの合図だった。


 男は、ゆっくりと立ち上がった。しゃがんでいた時間のせいで、膝の裏がわずかに痺れている。


 表情は変わらない。コートの内側ポケットから、小さなメモ帳を取り出す。


 開いたページには、すでにいくつかの走り書きがあった。


《済》の下に短く線を引く。フチはページを閉じた。


「次は南公園、か」


誰に聞かせるでもなく、低く呟く。そのまま歩き出そうとしたときだった。


 かすかな気配。空気が、ほんのわずかに張りつめる。フチは足を止め、振り返った。


 路地の入り口に少女が立っていた。制服の上に薄いパーカー。肩から布製のトートバッグを下げている。


 ただこちらを見ていた。怖がっている様子も、驚いている様子もない。


 フチは、数秒、少女を見た。


 ……中学生か。


 それだけを判断して、すぐに興味を失った。見えるはずがない。そういう人間は、もっと別の顔をしている。


 フチは少女から視線を外し、踵を返した。ビルの反対側へ向かう細い通路へと歩き出す。


 足音は、追ってこなかった。

 振り返ることもしない。


その日は、それで終わった。



 翌日の夕方。路地は同じ匂いをしていた。ビルの影。薄い光。湿った空気。


 そこに、少女が立っていた。入り口でも、奥でもない。


 昨日、フチが「澱」を戻した地点。その境界線のすぐ外側。


 トートバッグを胸の前で抱え、足先はわずかに内側を向いている。逃げ腰にも見えるが、根を張ったような頑固さで、彼女はそこに留まっていた。


 視線は、空間の一点に固定されている。普通ならただの虚空にしか見えない場所。だが彼女は、そこに残る「空気の重み」をなぞるように見つめていた。


 路地の奥から規則的な靴音が響く。少女が顔を上げる。現れたのは、昨日の男だった。コートの襟を立て、黒い手袋をはめたまま、闇の底から染み出すように歩いてくる。


 フチは、数歩手前で足を止めた。


「……昨日の人ですよね」


先に口を開いたのは、少女の方だった。


 フチは答えなかった。肯定も否定もない。


「……やっぱり、いた」


少女の声は小さいが、確信を帯びている。


 フチは黙ったまま、少女の視線を確かめるように見た。自分ではなく、少しだけ後ろの、何もない空間を見ている。


「あの……」


少女が言いかけたところで、フチが口を開いた。


「お前、俺が見えるのか」


「はい? 見えますけど」


 即答だった。迷いも、冗談めかした響きもない。


 フチの眉が、わずかに動いた。一歩、近づく。少女は後ずさりしなかった。


 フチは目を細め、わずかに顔を寄せる。匂いを確かめる。


 生きている。澱の匂いはある。だが、異常な濃さではない。


 それでも――どこか薄い。


「お前、もしかして……」


 言いかけて、言葉を止めた。


「なんですか?」


 少女は問い返す。怯えよりも知りたいという気配が強い。


 フチは、しばらく少女の顔を見つめていたが、やがて視線を逸らした。


「……名前は」


「ユイです」


「苗字は」


「……言わなきゃだめですか」


「任意だ」


ユイは少しだけ考えたあと、小さく首を振った。


「ユイでいいです。それだけです」


 フチは、その言葉の意味を追わなかった。それ以上踏み込むのをやめた。代わりに、コートの内ポケットへ手を入れる。取り出したのは、小さな丸い通信機だった。ボタンを一度、短く押す。


「おい、アード」


 わずかな間。


『なんだ』


耳の奥に、直接響くような声。


「リストに抜けがあるか確認しろ。中学生くらいのガキだ。名前はユイ」


『ワシは聞いてない。確認する。少し待て』


通信が切れる。フチは通信機をポケットに戻し、再びユイを見る。


「今の、誰ですか」


「関係ない」


「……そうですか」


 ユイはそれ以上は追及しなかった。ただ、少しだけ視線を落とし、フチの手袋を見た。


「その手」


「なんだ」


「昨日からずっと気になってて」


フチは言葉を返さなかった。ユイはしばらく迷ったようだったが、それでも続けた。


「倒れていた人に何してたんですか?」


ユイの声は、強くもなければ、責める調子でもなかった。ただ、確かめるような静けさだった。


 フチは答えなかった。沈黙が路地に落ちる。ユイはそれでも引かなかった。


「あなたのこと、あとを追いました」


 フチの視線が、わずかに動く。


「でも途中で見失って、それで今日ここ」


ユイは足元を見たまま、続ける。


「事故も事件もなかったって。ニュースにも何も出てませんでした」


顔を上げる。


「なのに、昨日あの人、確かに倒れてましたよね」


問いかけというより確認だった。


 フチは何も言わなかった。コートの内ポケットへ手を入れる。通信機。


『確認した』


先ほどよりも声が低い。


『ゼゼのやつだ。狩りすぎた分を処理せずに隠していた』


フチの口元が、わずかに歪む。


『今、副署長室に呼び出されている』


舌打ちが、ひとつ、落ちた。


「あのバカ」


新米のマヌケ顔が頭に浮かび、短く吐き捨てる。


 通信が切れる。フチはしばらくそのまま立っていたが、やがて顔を上げた。


 フチは、ユイを見た。ほんの一瞬だけ。


「見たことは忘れろ。お前に意味はない」


ユイの眉が、わずかに動く。だが、何も言わなかった。


 フチはそれ以上言葉を足さず、踵を返した。ビルの反対側へ抜ける細い通路へ、迷いなく歩き出す。足音は、やがて路地の闇に吸い込まれた。


 夕方の街は、どこも似た匂いをしている。人の数、ネオンの光、排気の熱。


 だがフチには、それらの奥にある「重さ」だけが見えていた。


 歩道橋の下。自販機の並ぶ影の濃い場所。


ベンチに座ったまま、動かない男がいる。酔っているわけでも、眠っているわけでもない。ただ、空っぽの目で前だけを見ていた。


 フチは近づき、しゃがみ込む。手袋越しに、自分の掌を確かめる。皮膚の奥で、澱が微かに脈打つ。


 指先に集める。黒が滲み出る。そして、相手の胸元へと伸ばした。


 黒が溶けるように消え、男の体へと吸い込まれていく。


 手がわずかに軽くなる。


「何してるんですか」


 背後から声がした。フチの体が一瞬、硬直した。


 驚いたのは作業中に声を掛けられたからではない。声をかけられること自体がありえないからだ。


 人間には「澱狩り」の姿は見えない。


 ユイが立っていた。少し離れた位置。街灯の光の縁に、ちょうど収まる場所で。


「ついてきたのか」


フチが言うと、ユイは小さくうなずいた。


「気になるから」


 フチはしばらくユイを見ていたが、やがて視線を逸らした。


「帰れ」


「いやです」


即答だった。フチの動きが、ほんのわずかに止まる。


「今の……その人に何したんですか」


ユイは、さっきの男の方をちらりと見た。


「触っただけにしか見えないけど……空気が変わった気がした」


 フチは答えなかった。ユイは一歩、近づいた。


「さっきの黒いの。あれ、あなたの手から出てましたよね」


フチの視線が、再びユイへ戻る。


「澱だ」


「澱?」


「人間の中に溜まる、感情の滓だ。恐怖、後悔、執着……そういうもの」


 言ってから、自分でも少し意外だった。説明するつもりはなかったはずなのに。


 ユイは、黙ってその言葉を咀嚼しているようだった。


「感情の……滓」


小さく、なぞるように繰り返す。


「じゃあ、もともとあの人の中にあったもの?」


「多すぎた」


フチは淡々と言った。


「多すぎると人は壊れる。動けなくなる。考えなくなる。だから、狩る」


 ユイはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと問いを落とした。


「……あなた、何者なんですか」


 ほんのわずか、考える間があった。そして、


「フチだ」


「名前、ですか?」


「ああ」


「じゃなくて……そうじゃなくて」


ユイは言葉を探すように視線を揺らす。


「そういうことができる人って……なんていうか……天使とか、精霊とか……そういう存在なんじゃないんですか」


「違う」


「じゃあ」


「ただの罪人だ」


ユイの眉が、わずかに寄った。


「……罪人?」


「そういう分類になっている」


 ユイはフチの顔を見つめたまま、言葉を失っていた。


「悪いこと、した人ってことですか」


「ああ」


 しばらくの沈黙。ユイは困ったように口を開いた。


「……じゃあ、その……罰として……人を助けてる、みたいな……?」


「助けているつもりはない。仕事だ」


 ユイがさらに問いかけようとしたそのとき、通りを歩く人間が、ちらちらとこちらを見るようになってきていることにフチは気づいた。


 自分ではない。ユイの方だ。正確には、ユイが誰もいない空間に向かって話している様子を不審がっている。


「……来い」


「え?」


 フチはユイの腕を軽く掴む。強くはない。だが、有無を言わせない動きだった。


「目立つ」


「え、ちょ……」


 フチはすでに歩き出している。人の流れから外れる方向へ。建物の影が濃くなる方へ。


「ど、どこ行くんですか」


「説明する」


「……説明してくれるんですか」


 フチは答えなかった。ユイは一瞬、気まずそうに口を閉じたが、それでも引かなかった。


「……じゃあ」


 少しだけ、躊躇いを挟んでから続ける。


「……私の家、来ますか」


 フチの足がわずかに止まった。


「親、まだ仕事なので。誰もいません」


 言い訳のように付け足してから、ユイはフチを見た。

「ここよりは、落ち着いて話せると思います」


 フチは、数秒、ユイを見ていた。値踏みでも警戒でもなく、ただ事実を測るような目だった。


 やがて、小さく息を吐く。


「場所は好きに選べ」



 ユイの家は古い集合住宅の一室だった。

 廊下に敷かれたカーペットは擦り切れていて、階段には昼間の熱がまだ残っている。


 鍵を開け、ユイが先に中へ入る。

「……どうぞ」

 フチは靴を履いたまま上がっていった。ユイは一瞬、口を開きかけたが、フチがそういう存在なのだと思い直し、何も言わなかった。


 室内は静かだった。生活音がない、というより、人の気配が薄い。


 リビングを抜け、ユイは奥の部屋のドアを開けた。


「ここです」


 フチが中へ足を踏み入れた瞬間、空気の質がわずかに変わった。


 六畳ほどの部屋。机。ベッド。壁際に積まれたスケッチブック。床に転がる筆と鉛筆と、消しゴム。


 机の上には、描きかけの紙が何枚も広がっている。

人物。風景。スケッチ。


 線は細く、迷いが多い。

 だが、その中に――わずかに「生きた線」が混じっていた。


 ユイはフチの視線に気づき、少しだけ気まずそうに言った。


「……絵、描くんです」


 それは言い訳でも、誇りでもない。ただの事実の報告だった。


「ずっと……描けなかったんですけど、最近、少しだけ……線が出てくるようになった」


 フチは机の上のスケッチを静かに見ていた。上手くはない。技術としても、未熟だ。だが、そこには確かに「個人の感情の揺れ」が滲んでいた。


 ユイは続ける。


「前は真っ白で。何も浮かばなくて。描こうとすると、頭が空っぽで」


 指先がわずかに震える。


「でも今は……まだ下手でも、線が出る」


 フチはしばらく黙っていた。机の上の紙から、視線を動かさない。


「あ……すいません、聞かれてもないのに……勝手にしゃべって」


 返事はない。


「あの……」


 フチはやはり絵を見たままだった。長い沈黙。


 ようやく口が開いた。


「お前の澱も、狩った」


「え?」


「正確には……狩りすぎた。うちの新入りがな」


 ユイの眉がわずかに寄った。


「さっきの電話みたいなので話してたことですか」


「ああ」


 それだけだった。ユイは、しばらく言葉を探すように黙ったまま立っていた。


 やがて、ぽつりとこぼす。


「それは、私の中から感情の滓が出ていたってことですか」


 フチは絵から視線を外さなかった。

 机の上の一枚。放課後の校庭のようだった。小さな制服姿がいくつも散らばっている。


「……また描けるようになったのは、いつだ」


 ユイは一瞬考え、答えた。


「先週です」


「そのときに狩った。うちのバカがな」


「じゃあ……ストレスがなくなったから、描けるようになったってことですか」


「そういうことになる」


「でもさっきの人には、狩るんじゃなくて入れてましたよね」


「ああ」


「なんでですか」


フチはようやく絵から視線を外し、ユイを見た。


「そういうもんなんだ」


「説明になってないです」


「お前の納得は俺には関係ない」


 ユイはしばらく黙っていたが、それでも言葉を続けた。

「でも……」


「お前にもいずれ戻す」


 ユイの表情が、はっきりと強張った。

「……え」


「狩りすぎた分は返す。遅かれ早かれだ」


「でも、それって……また、描けなくなるってことですよね」


「……かもな」


ユイの指先が机の縁を強く掴んだ。


「……嫌です」


 声は小さいが、はっきりしていた。フチの視線がわずかに動く。


「……嫌です」


 繰り返した瞬間だった。


 ユイの右手が淡く光った。強い光ではない。眩しいほどでもない。


 だが確かにそこだけ、空気の密度が変わった。

 フチの目が初めて大きく見開かれる。


「それは……。お前……」


フチがユイの手の光に触れようとした、その瞬間。コートの内ポケットが微かに震えた。通信機。


 フチは舌打ちしながら、それを取り出す。


『近くで予兆が出た。これもゼゼのポカ。少し大きい』


 アードの声は切迫していた。


『すぐ向かえ』


「場所は」


『霧坂町。対象の名は……伊藤歩いとう あゆむ


その名前に反応したのは、ユイだった。


「……え」


 フチが、ユイを見る。


「知っているのか」


「……中学校の先輩です。今は星翔高に」


通信機越しにアードが続ける。


『外見などの詳細は、まだ上がっていない。急すぎる』


「……そうか」


フチは通信機を切り、短く息を吐いた。そしてユイを見る。


「……来い」


 ユイが目を見開く。


「え……? なんで」


 フチはほんのわずか間を置いてから言った。


「知りたいんだろ」


 ユイは言葉を失ったままフチを見つめた。


 数秒。そして、小さくうなずく。


 フチはそれ以上何も言わず、踵を返した。ユイもその背を追って歩き出した。



 霧坂町のホール裏は異様なほど静かだった。静かなのではない。


 音が死んでいるのだと、ユイは直感した。空調の微かな振動も、壁越しのざわめきも、ここでは途中で断ち切られている。息を吸う音さえ、吸い込まれて消える。


「伊藤歩はどんなやつだ」


「……同じ中学の先輩です。二つ上で、音楽科に進んで……。最近、コンクールで賞を取ったって聞きました」


 言いながらどこか違和感が残る。聞いた話としてなら、確かにそうなのだ。神童の再来。努力の人。ようやく才能が花開いた。


 けれど――今、この空間にいる伊藤歩は。


 ユイの記憶の中の先輩とは、あまりにも重ならなかった。


 出番直前の舞台袖。椅子に座る少年がそこにいた。背筋は真っ直ぐで、姿勢は整っている。


 だがそれだけだった。人形のように動かない。


「……先輩」


ユイが小さく声をかける。歩は、ゆっくりと首を動かした。


 視線はユイに向いた――はずだった。けれど、どこを見ているのか、わからない。焦点が合っていない。


 ユイの視線は自然と彼の手へと落ちた。膝の上に揃えられた両手。


 驚くほど白く、滑らかで、血の気がない。綺麗な手。まるで、彫刻のように整っている。


――けれど。


 どこか背景の壁と溶けている。輪郭が曖昧で、「そこにある」と確信できない。存在の境界がぼやけている。


 ユイの背筋に冷たいものが走った。


「……おかしい」


 自分でも気づかないうちに呟いていた。フチが背後で静かに言った。


「ああ」


 短い肯定だった。それだけで十分だった。


 この空間で起きている異常が、ユイの感覚だけの問題ではないのだとはっきりわかった。



 フチが一歩、前へ出た。その瞬間、死んでいた音が悲鳴を上げた。


 舞台の幕が内側からはち切れんばかりに膨らむ。


「下がれ、ユイ!」


 フチの叫びと同時に、歩の指先から黒が噴出した。それは液体のように床を這い、気体のように空間を侵食し、瞬く間に巨大な「質量」へと膨れ上がる。


 ゼゼに狩り尽くされ、空っぽになった歩の心という真空に、周囲の空気が猛烈な勢いで吸い込まれていく。


 逆流現象。バックドラフト。


 抑え込まれていた「恐怖」や「焦燥」が、圧縮された闇となって、歩自身を飲み込もうとしていた。


「あ……ああ……っ」


 歩の口から、声にならない音が漏れる。白かったはずの手は、今や黒い泥に埋もれ、自分の意志とは無関係に鍵盤を叩くような動きを繰り返していた。


 音は出ない。ただ、虚空を掻きむしる指の動きだけが、見るに堪えない速度で加速していく。


「チッ……空洞が深すぎる……近づけない」


 噴き上がる澱の圧力に、フチの足が床を削る。だがその瞳は冷徹なまま、荒れ狂う闇の芯を捉えていた。


 罪人の烙印を刻み、幾多の絶望をその身に受けてきた彼にとって、この嵐さえも己が背負う罪の重さに比べれば、ただの微風に過ぎない。


 フチは懐から緑色の刃のナイフを引き抜き、澱を切り裂いて進む。だが伊藤歩へ辿り着くには、黒の層はあまりにも分厚かった。


 歩を中心とした闇の渦に引き寄せられ、足元が浮く。無理に踏み込めば、フチという存在そのものが、歩の絶望に食い破られる。



 ユイは震えながらその光景を見ていた。


 渦の中心で固まっている歩。


 だが同時にユイの瞳には、もう一人の歩が映っていた。


 手を伸ばし、何かを必死に掴もうとする姿。――描けなくなったときの、自分の手と同じだ。


 誰かに決められ、心を削られ、輪郭を失っていく痛み。


「……こんなの、ダメです」


ユイは一歩を踏み出した。


「勝手に決めないで。自分の場所は、自分で決めます」


叫びとともにユイは右手を突き出した。


 瞬間、彼女の右手が燃えるような白光を放つ。


 それは「拒絶」の光。他者が踏み込むことを許さない、強固な心の境界線。


 光は闇の渦を真っ二つに割り、フチの目の前に一本の「道」を切り拓いた。


「お前……」


フチが目を見開く。そのとき、耳元で風が鳴った。


「待たせたな。ホイ、これ。伊藤歩の〈過狩り澱〉《かかりおり》だ」


 紫色の翼を持つ小妖魔が、フチに向かって黒い玉を放る。フチは片手でそれを掴み取った。


「……間に合ったか」


フチは顔を上げ、叫ぶ。


「ガキ、そのまま支えてろ!」


 光のトンネルを、フチが駆け抜ける。彼は迷いなく黒い手袋を脱ぎ捨てた。


 露わになったのは、生身の人間の手。かつて親友を信じず、自分を許せなかった「罪人」の熱を宿した手だ。


「戻れ、伊藤歩。自分自身に」


 フチは歩の白く死んだ右手を力いっぱい掴んだ。


 ジリ、と焼けるような音がした。ゼゼが隠し持っていた歩の本来の重み――泥のような劣等感も、震えるほどの恐怖も、音楽への執着も。


 そのすべてを、フチは無理やり、歩の内側へ叩き込んだ。


 歩の瞳に色が戻った。次の瞬間、衝撃と「痛み」に耐えきれず、歩は絶叫した。


 視界を覆っていた闇が、彼の内側へと猛烈な勢いで収束していく。


 膨大な情報の重さに耐えきれず、歩は床に膝をついた。



――静寂が戻る。今度は血の通った静寂だった。


 歩はガタガタと震える自分の右手を、ただ見つめていた。


 ユイは膝をついた歩を見つめたまま、動けずにいた。


「先輩……」


 声はほとんど息だった。歩は顔を上げない。ただ、自分の右手を見つめ続けている。それが涙なのか、ただの呼吸の乱れなのか、ユイには判別できなかった。


「おい、行くぞ」


ユイは振り返った。


「でも」


言いかけて、再び歩を見る。一人にしていいのか。そんな迷いが、そのまま表情に出ていた。


 フチは歩を一瞥した。


「すぐ落ち着く」


 断言でも慰めでもない。ただ事実として告げる声だった。


「そのあとは……そいつが、自分で決めることだ」


 ユイはしばらく黙っていた。歩の震える手。それを見つめ続ける瞳。


――戻ったのだと、ユイにはわかった。怖さも、迷いも、それを抱えたまま立つ力も。


 ユイはゆっくりと頷いた。


「……はい」


 フチはそれ以上何も言わず、踵を返した。ユイは最後にもう一度だけ歩を見た。


 そして、小さく息を吸ってから、フチの背を追った。舞台袖の影に、二人の姿が溶けていく。



 街はもう完全に日を落としていた。

 車のライトが舗道に細い線を描き、人の声は遠く、膜を一枚隔てたように聞こえる。


 ユイはフチの少し後ろを歩きながら、ぽつりと口を開いた。


「……先輩、ひとりで悩んでたんですね。苦しかったんですね。優しい人だから皆に気を遣ってたのかな。親とかピアノの先生とか」


「かもな」


 それだけだった。


「……澱を取り除いたままっていうわけには、いかなかったんですか」


 フチは前を見たまま答える。


「見ただろ。あれを」


ユイは小さく頷いた。


「いっときは良くなる。楽にもなる。だがそのうち、必ず不安になる」


 街灯の下で、フチの横顔がわずかに浮かび上がる。


「これが、本当の自分なのか、と」


 ユイは息を止めたように、静かに聞いていた。


「人間はそういう生き物だ」


 少しだけ間を置いて、ユイが尋ねる。


「……私も、ですか」


 フチは一瞬だけ、ユイの方を見た。そして視線を前に戻し、短く言った。


「……たぶんな」


 それだけの言葉だったのに、ユイの胸の奥に、ゆっくりと沈んでいく重さがあった。



 古い集合住宅の前まで戻ってきたとき、ユイは足を止めた。


自動販売機の光が影を作る。薄い輪郭なのにやけにくっきりする場所。


 ユイはそっと自分の右手を見た。さっきまで、確かに光っていたはずの手。今はもう、ただの手に戻っている。


 けれど――まだ、奥のほうが熱い気がした。指を開いたり、握ったりしてみる。


「私の手、なんなんですか」


 フチはすぐには答えなかった。ユイの手を見て、それから視線を上げる。


「壊れかけのやつの反応だ」


 淡々とした声だった。


「壊れ……かけ」


「澱を抜かれすぎた人間は、たまにそうなる」


フチはそれ以上近づかず、距離を保ったまま続ける。


「中身を削られすぎると、輪郭だけが残る。境界がむき出しになる」


 ユイは自分の指先を見つめたまま聞いていた。


「お前のあれは……『ここから先は入るな』っていう意志が、外に漏れてる状態だ」


 ユイの喉が、わずかに鳴った。


「……悲しい力ですね」


 ユイはそう言って、目を細めた。自嘲でも、皮肉でもない。ただ、事実を確かめるような声だった。


「……そうかもな」


 フチは短く返した。しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。



 遠くで電車の音がした。ここには届かない、くぐもった振動だけ。


 フチがぽつりと言った。


「お前の澱は明日戻す」


 ユイは顔を上げた。


「……私、また、描けなくなるんですね」


 声は揺れていなかった。もう答えを知っている声だった。


「かもな」


 フチは否定しなかった。


「だが、さっきの光が、お前の中にあるってことも覚えておけ。お前の、お前だけの光だ」


 ユイは言葉を返せなかった。ただ、静かに聞いている。


 フチは、ふと、自分の右手を見た。手袋の奥の、自分の手。誰かを信じきれなかった手。


 わずかに指先が動く。


「逃げるなよ」


 低く、誰に向けたのかわからない声だった。


「自分自身から」


 ユイは、息を呑んだ。フチは、ユイを見ていなかった。それでも、言葉だけは、確かに彼女に届いていた。


「じゃないと……俺のようになる」


 フチは顔を上げた。いつもの無表情に戻っていたが、どこか、ほんのわずかだけ違っていた。


 しばらく沈黙のあと、ユイがぽつりと言った。


「ねえ。あなたの罪って、何なんですか」


 フチは答えない。ユイは言い直すように続ける。


「それって、閻魔さまみたいなのが決めたんですか」


 フチは小さく息を吐いた。


「罪には大きく分けて二つある。死後、審判院が裁く罪と、それ以外が裁く罪」


 ユイは眉を寄せた。


「……それ以外?」


「俺の場合は、そっちだ」


 ユイは間を詰めた。


「どういうことですか」


 フチは前を見たまま、声だけを落とす。


「信じてくれた人を、信じられなかった」


 ユイの喉が小さく鳴った。


「それが……罪?」


「ああ」


「でも、それって……誰が裁くんですか」


 フチは一瞬だけ黙り、言葉を選ぶように吐き出す。


「裁くのは、俺だ」


「……え」


「この仕事は、審判院が与えた罰じゃない。俺が俺に与えた罰だ」


 ユイは何か言いかけて、飲み込んだ。街の雑音が、膜の向こうへ遠ざかる。


「……自分で、決めたんですね」


 フチは答えを告げず、ただ歩き出した。



 鍵を開け、部屋へ入る。


 机。散らばったスケッチブック。白いキャンバス。何も変わらない部屋だった。


 ユイは椅子に座り、キャンバスを見つめた。


 頭の中は、まだ静かだ。それでも、そっと筆を取る。


 指先が震える。怖い。それでも、筆を置かなかった。


 白の上に、細い線を落とす。


 歪んでいて、頼りない線。


 けれど、それは確かに自分の線だった。


 ユイは息を吸い、もう一本、線を重ねた。



 夜の部屋に、かすかな音だけが残っていた。

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不適合者の澱狩り(おりがり) 斬条 伊織 @zanjo_iori

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