青いスリッパと左手の熱

Side:七瀬紗月


​世界が、ゆっくりと白くなっていく。

​入学式。

新しい制服の硬い襟元。履き慣れない靴。そして、体育館を埋め尽くす見知らぬ人たちの熱気と、ざわめき。

人混みに酔ったのか、それとも朝から何も食べていなかったせいか。

私の体は、自分のものじゃないみたいに重くなっていた。


​(……外に、出なきゃ……)


​式が終わった直後。

祝辞も校歌も、何も頭に入ってこなかった。

私は逃げるように体育館を抜け出し、建物の影にあるベンチを目指した。

あそこまで行けば、座れる。休める。

​けれど、あと一歩というところで、膝の力がふっと抜けた。

視界がぐにゃりと歪み、地面が迫ってくる。


「あ……」


声も出なかった。情けないことに、私はここで倒れて、誰かに迷惑をかけてしまうんだと、絶望的な気持ちで目を閉じた。

​その時だった。


​「――おっと。危ない」


​低い、落ち着いた声。

それと同時に、左肩をガッシリとした強い力で支えられた。

倒れるはずだった私の体は、その大きな手に誘導されるようにして、ゆっくりとベンチに下ろされる。


​「大丈夫か?」


​視界が白くて、相手の顔はよく見えない。

ただ、すぐ隣に誰かが立っていて、私の肩を支え続けてくれていることだけが分かった。

伝わってくるのは、自分より温かい体温。

そのぬくもりが、不安でパニックになりそうだった私の心を静めてくれた。


​「……すみ、ません……ありがとうございます……」

「いいよ。しばらく座ってな。無理に動くとまた倒れるぞ」


​ぶっきらぼうだけど、突き放すような冷たさはない。

むしろ、私が気を使わないように、わざとそっけないふりをしてくれているような――そんな、不器用な優しさを感じた。


​「……あ、の……名前……」


​聞かなきゃ、と思った。

でも、口がうまく回らない。

相手は「じゃあな」とだけ短く言って、すぐに歩き出してしまった。

​ぼやける視界の中で、必死にその背中を追う。

見えたのは、校舎へと向かう後ろ姿と。

​そして、その足元の、青いスリッパだけだった。


​「…………」


​数分後。ようやく視界がはっきりしてきた頃には、もうその人の姿はどこにもなかった。

手元に残ったのは、ベンチに座っている自分の体と、肩に残ったあの手の感触だけ。


​(同じ、学年の人……だよね)


​胸の奥が、トクンと跳ねた。

それは、体調が悪いせいだけじゃない気がした。

​顔も名前も分からない。

けれど、あんなに真っ直ぐに、迷いなく私を助けてくれた人。

特別な恩返しがしたいわけじゃない。

ただ……あの不器用な手の温もりに、もう一度だけ触れて、ちゃんとお礼が言いたい。


​「……見つけなきゃ」


​私は、自分の肩にそっと手を置いた。

そこにはまだ、あの人の熱が残っているような気がした。

​これが、私の「探しもの」の始まり。

そして――いつか、あの空き教室で「彼」に出会うまでの、長い長いプロローグ。

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恋愛相談に乗っていただけなのにいつの間にか本命になっていた件 はるさめ14 @haruharu14

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