第2話 イゾルデ

 カセニア王国暦二百二十六年、春。


 この世界に生を受けてから、早六ヶ月が過ぎた。

 今では短い四肢を使って絨毯の上を器用にハイハイし、この国の言葉――カセニア語も、たどたどしいながら覚え始めていた。


 初めて母に向かって「ママ」と呼びかけた時のことは忘れられない。彼女はかつてないほどの輝きを放った。

 信じられないといった様子でその美貌の瞳を見開くと、次の瞬間には俺を強く抱きしめ、喜びの涙を零したのだ。あの時の彼女の幸せそうな表情は、窓外の陽光よりも眩しかった。


 俺は新たな名を得た――ドリアン。


 だが、その由来は尋常ではないほど適当だった。

 なんと、母が愛読している小説から取られたのだ。


 作中の「ドリアン」は、永遠の美貌を持ち、人々を震え上がらせる堕落した貴族。

 その生涯を極致の享楽、尽きせぬ情欲と背徳の中に沈め、危険で致命的な魅力を体現する存在だという。

 そして俺の父、これまで数回しか顔を合わせていないその男は、母の提案を聞くと、どうでもよさそうに肩をすくめ、あっさりと承諾したのだった。


 ここで改めて、今世の母を紹介させていただこう――イゾルデ・キャベンディッシュ。

 目が覚めた瞬間に、その美貌で俺を鷲掴みにした女性だ。

 メイドたちの雑談で、母上がつい先日十九歳の誕生日を迎えたばかりだと知った時、あまりの衝撃に揺り籠から転げ落ちそうになった。


 この事実は、自分が異世界に転生したと気づいた時よりも強烈だった。

 俺の母は、前世の俺よりも遥かに年下で、「美少女」と呼んでも何ら差し支えない年齢だったのだ。


 この国では十八歳になれば婚姻を結び、子を成すことが法的に認められている。だから母の年齢に驚きはしたが、決して道徳に反することではないらしい。


 さて、ここからが重要だ。母の高貴なる家名、「キャベンディッシュ」。

 これはただの貴族の姓ではない。そう、母イゾルデは純正な血統を誇る、身分高き王族の血筋なのだ。


 現王妃陛下の実姉と、権勢を誇る公爵との間に生まれた末娘、正真正銘の「公女」様である。


 そんな傾国の美貌と超然たる地位を持つ王族の公女を娶ったのだから、俺の父も当然、只者であるはずがない。


 父――ケルス・グレアム。彼は世襲の伯爵として領地と爵位を持つだけでなく、もう一つの顔を持っていた。王宮騎士団における最精鋭、王族の警護を担う近衛騎士だ。

 その身分こそが、母との運命的な出会いのお膳立てとなった。


 話の始まりは、まるで吟遊詩人が歌う叙事詩のようだった。三年前、敵国の周到な奇襲により、王族はかつてない危機に瀕した。

 その混乱の最中、父ケルスは自らの肉体を盾とし、母を背に庇いながら、千軍万馬の中から血路を開いたという。


 鮮血に染まりながら戦う姿、その不屈の眼差しは、当時まだ十六歳だった母の心に深く刻み込まれた。


「英雄が美女を救う」という王道展開が、恋に恋する少女の心を射止めたわけだ。

 その後は順風満帆。危難の中で生まれたときめきは、次第に愛へと熟成されていった。

 最終的には各方面の力関係や思惑も絡み合い、二人は身分の差を乗り越えて結ばれたのだ。

 使い古されて手垢のついた小説みたいな筋書きだが、事実はかくも単純なものらしい。


 とはいえ、もうすぐ三十路の父と十九歳の母という微妙な年齢差には、少しばかり複雑な気分になるが。

 結婚後、父の爵位は伯爵から侯爵へと昇格し、ハム地方の領主に任命された。

 ここが、今俺が住んでいる場所だ。


 ハム地方は王国の南方に位置し、王都からは離れている。だが、ここは王国随一の経済的支柱であり、物産は豊かで商業も盛ん。名実ともに繁栄を極める土地だ。


 実権を握る侯爵領主の父、高貴な血を引く王族公女の母――そんな家庭に転生したかと思うと、笑いが止まらない。


 俺は今や、正真正銘の領主の息子!侯爵家の御曹司なのだ!

 前世の、希望もなく仕事に搾取され窒息しそうだった社畜生活を思えば、目の前の現実は嘘のように美しい。


 酒池肉林、美女に囲まれた素晴らしい未来が、すぐそこで手招きしている。俺がすべきことは、ただしっかりと生きて、その全てを享受することだけだ。


 だが、「ドリアン」という名はあっても、俺の姓はまだ決まっていなかった。

 この世界ではかなり珍しいことに、我が家は「夫婦別姓」を貫いているからだ。


 理由は二つ。一つは「キャベンディッシュ」という名の持つ重みが凄まじすぎること。もう一つは、父ケルスの中に揺るぎない自尊心があり、妻の姓を名乗るために自身のグレアム姓を捨てることを由としなかったからだ。


 そこで二人は、「俺が成長してから自分で決める」という合意に達したらしい。


 だが俺に言わせれば、そんなものは考えるまでもない問題だ。

「キャベンディッシュ」――この黄金に輝く姓に、何か不都合でもあるというのか?

 それはまさに、権力、富、そして無上の栄光へと続く黄金の鍵なのだから!|

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