「お前みたいな聖人君子、つまらないんだよ」と、あまりに優しい彼を捨てた貴女へ。私の神様を壊してくれてありがとう。――あとは私が、彼を一生甘やかして廃人(かみさま)にするから
淡綴(あわつづり)
第一話:神様が地に落ちた日
叩きつけるような雨だった。
一月の冷たい雨は、アスファルトを深い鉛色に染め上げ、家路を急ぐ人々の足元から体温を奪っていく。
駅前のロータリー、高級外車のテールランプが滲む街灯の下で、一ノ
「――だからさ、陽。もういいんだよ。あんたのそういうところ、本当に息が詰まるの」
目の前で、
彼女が着ている真っ白なコートは、陽が三ヶ月間、食費を切り詰めて贈ったものだ。その白さが、今の陽の惨めさを嘲笑っているように見えた。
「……そっか。ごめんね、玲奈。僕、君を苦しめてたんだね」
陽の声には、怒りも、悲嘆もなかった。ただ、深い夜の底に沈むような、穏やかな諦念だけがあった。
玲奈は苛立ちを隠さずに鼻を鳴らす。
「ほら、またそれ。何があっても『ごめんね』。浮気されても『君が幸せならいい』。あんたさ、自分っていうものがないの? 聖人君子を気取ってるのか知らないけど、ただの空っぽなんだよ。つまんないの」
玲奈の隣では、派手なスーツを着た男が、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべて陽を見下ろしている。
陽は、自分の足元に雨水が溜まっていくのをぼんやりと眺めていた。玲奈の言う通りかもしれない。自分を犠牲にして他人に尽くすことが、いつの間にか自分のアイデンティティになっていた。だが、それが彼女にとっては、鏡のように自分の醜さを映し出す「重荷」でしかなかったのだ。
男が玲奈の肩を抱き、車のドアを開ける。
その時、玲奈が寒さに肩を震わせた。
「……あ、玲奈」
陽は、ずぶ濡れの手で自分の上着を脱いだ。
自分はシャツ一枚になり、冷雨に晒される。それでも彼は、迷うことなくその上着を玲奈に差し出した。
「これ、使って。車の中、冷房で冷えてるかもしれないから」
玲奈は目を見開いた。絶句した後の表情は、驚きではなく、猛烈な嫌悪だった。
「……あんた、本当に気持ち悪いわ」
彼女は上着をひったくるように奪うと、そのまま地面の泥水の中へ投げ捨てた。 バチャリ、と鈍い音がして、陽の唯一の防寒具が泥にまみれる。
車のドアが閉まり、エンジン音が雨音を切り裂いて遠ざかっていく。
陽は、一人になった。
泥の中に沈んだ上着を見つめ、彼は力なく微笑んだ。
「……幸せになってね、玲奈」
その言葉が、自分の肺の中から最後の熱を奪っていった。
視界が歪む。寒さのせいか、それとも心が壊れた音のせいか。
膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。
「――ようやく、地に落ちてくれたのですね。私の、神様」
頭上から、雨音が消えた。
代わりに、凛とした、けれどどこか熱を帯びた声が響く。
見上げれば、そこにはこの世のものとは思えないほど美しい、漆黒の傘を差した少女が立っていた。
かつて、陽が自分の人生を投げ打って救ったはずの、あの日の一輪の花。
「九条院……さん?」
彼女は、泥にまみれた陽の手を、汚れることなど微塵も厭わずに、そっと両手で包み込んだ。
彼女の手は、驚くほど熱かった。
(ああ、なんて美しい。絶望に濡れ、全てを失い、それでも尚、他人の幸せを祈るその瞳。やはりあなたは、私の想像通りの方でした)
栞那の瞳の奥で、ドロリとした濃密な愛が渦を巻く。
彼女にとって、今の陽は「壊れたガラクタ」ではない。
不要なノイズを全て削ぎ落とされ、ようやく自分のためだけに輝く準備が整った「完成品」だった。
「お疲れ様でした、陽くん。もう、誰もいない場所で自分を削る必要はありません。君を理解できないこの世界に、君を置いておくわけにはいきませんから」
栞那は、陽の頬を優しく撫でた。その指先は、陽の輪郭をなぞり、彼の存在そのものを自分の記憶に刻み込もうとしているようだった。
「……僕、もう、何も持ってないんだ。誰の役にも、立てないんだよ」
陽の弱々しい呟き。それは、世界に向けた遺言のようなものだった。
しかし、栞那はその言葉を、最高の甘露として飲み干した。
「ええ、それがいいのです。無能だと、つまらないと、そう呼び捨てた彼女に感謝しましょう。おかげで私は、心置きなく君を、私だけのものにできる」
彼女は陽の耳元に唇を寄せ、至福の吐息を漏らす。
「陽くん。君のこれからの仕事は、ただ私の隣で、私のために呼吸をすることだけ。君が生きている、その一秒ごとに、私は救われるのですから。……さあ、帰りましょう。私たちが、ずっと待ち望んでいた、あの静かな楽園へ」
栞那が合図を送ると、背後に控えていた数台の黒塗りの車から、無表情な男たちが降りてきた。
彼らは陽を抱きかかえるようにして、車内へと運び込んでいく。
車内の温度は、陽にとって最も心地よい二十六度に設定されていた。
陽を包む毛布は、彼がかつて「肌触りがいい」と零したカシミアと同じ質感を持ち、車内に漂う香りは、彼が最も深く眠れると分析されたサンダルウッドの微香だった。
陽の意識が、暖かさと安心感の中でゆっくりと遠のいていく。
最後に見たのは、隣で自分の手を握り、慈母のような、あるいは獲物を手に入れた魔女のような、美しすぎる栞那の微笑みだった。
(おやすみなさい、私の陽くん。明日、君が目覚める世界には、もう君を傷つけるものは何一つ存在しません。君の記憶も、君の心も、君の指先一本まで、私が、愛という名の檻で、完璧に守ってあげますから)
雨音はもう聞こえない。
一ノ瀬陽という聖者の人生は、この夜、一度死んだ。
そして、九条院栞那という深淵の中で、唯一無二の「神様」として、再び産声を上げようとしていた。
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