第2話 リステアの朝
昨日の狂乱が嘘のように、リステアの朝は冷ややかな静寂に包まれていた。
ルイは、宿屋『銀介の宴』の二階にある、端の部屋で目を覚ました。
使い古された毛布を跳ね除け、固いベッドから体を起こすと節々の古傷が小さく悲鳴を上げる。
ルイは枕元に置いてあった小さな木箱を引き寄せた。
中には先日薬屋の老婆から譲り受けた乾燥した葉が詰まっている。
まだ頭が霧に包まれているような感覚のまま、彼は指先で薄い紙を取り出した。
慣れた手つきで葉を並べ、均一な太さになるよう整えてから端を濡らして丁寧に丸める。
「……ふぅ」
器用に火を灯し、最初の一服を肺に深く流し込む。
吐き出されたけむりが窓から差し込む冬の柔らかな光に反射して白く踊った。
喉を焼くような独特の刺激がようやくルイの意識を覚醒させる。
窓の外を見下ろせば露天商の人たちの声が聞こえてきた。
昨日のスタンピードの痕跡はここまでは届いていない。
外壁の外では数千の肉片が転がっており、外壁も一部崩れ落ちてはいるが街の中ではいつも通りの「今日」が始まろうとしている。
ルイは壁に立てかけてあった「片刃」を手に取った。
鞘に収まった状態ではどこにでもある使い古した武器にしか見えない。
一階に下りると宿の主人が大きな鍋を火にかけていた。
「おはよう、ルイ。また朝からけむり吸ってんのか。朝飯はパンとスープだ。そこに座れ」
ウィストと呼ばれている宿の主人は、ぶっきらぼうに顎で椅子を指した。
この宿の名が『銀介の宴』なのは、かつて彼が冒険者だった頃、仲間に振る舞った宴席が忘れられなかったからだという。
「……ああ、頼む。最近、この葉の燃え方が少し早くてな。湿気り具合が難しい」
ルイはスープを啜り、無骨なパンを口に運んだ。
リステアでの生活は、単調で、穏やかで、そして贅沢だった。
「ごちそうさん。……さて、少し体を動かしてくるか」
「おい、ルイ。昨日の騒ぎすごかったな。北の壁の外がえらいことになってるらしいぜ」
ウィストが鍋をかき混ぜる手を止めずに言った。
「……そうなのか?そういえば騒がしかったな」
ルイは背中越しに答え、宿の扉を開けた。
冷たい空気が肺を満たす。
腰の片刃の重さを確かめながら、冒険者ギルドへと続く石畳の道を歩き出した。
リステアの街の北門近くには、ルイがよく利用する古い武器屋がある。
ギルドへ向かう前に、ルイはその店に立ち寄ることにした。
「親父、いるか」
店の扉を開けると、鉄の焼ける匂いと、油の混じった独特の空気が漂ってきた。
「なんだ、ルイか。また片刃の調子でも見に来たのか」
奥から現れた頑固そうな老人が、煤けた顔でルイを睨む。
「いや、今日はただの挨拶だ。……それと、この片刃に合う鞘の油があるかと思ってな」
「ふん。相変わらずその片刃とかいう不自由なもんに固執してやがる。普通の剣に変えろと言ってるだろうに。横から叩かれたら一発で終わりだぞ、それは」
「分かってる。……だが、俺にはこれが合ってるんだよ」
ルイは薄く笑い、片刃の柄を軽く叩いた。
折れやすく、脆く、しかし万物を断つ。
その危うさが、今の自分の生き方に似ているような気がしていた。
武器屋を出たルイは、ようやく冒険者ギルドの扉の前に立った。
中からは、朝から酒を煽る冒険者たちの喧騒が漏れてくる。
慣れ親しんだ雰囲気がなんとも心地よい。
ギルドの受付には、まだ若い娘が座っていた。
彼女はルイの姿を見ると、慣れた様子で愛想笑いを浮かべた。
「おはようございます、ルイさん。今日はまた一段と冷えますね」
「ああ。……何か、手頃な依頼はあるか。薬草採取か、せいぜい街の近くの害獣駆除くらいがいい」
「ふふ、相変わらずですね。ルイさんならもっと難しい依頼も受けられるのに」
「勘弁してくれ。俺はもう、そんなに若くないんだ」
ルイは手渡された依頼書を眺め、一番簡単な、街の裏手にある森での薬草採取の紙を抜き取った。
報酬は雀の涙だが、一日の煙草代と酒代には十分だ。
ギルドを出て、薬屋へと足を向ける。
手作り煙草の葉を仕入れる必要がある。
薬屋の店主は、腰の曲がった老婆だった。
彼女はルイが店に入るなり、黙ってカウンターの下から一包みの葉を取り出した。
「あんたの分は取っておいたよ。最近はこの葉も手に入りにくくなってね。貴族様たちが、観賞用に買い占めてるらしいんだ」
「……観賞用、か。贅沢な趣味だな」
ルイは老婆に代金を支払い、包みを懐に収めた。
この葉は、東の国との貿易が盛んだった頃に持ち込まれた希少な植物の生き残りだ。
今ではこの大陸の隅々で細々と自生しているに過ぎない。
それをルイは、独自の製法で乾燥させ、紙で巻いて吸っている。
「気をつけなよ。あんたの吸ってるそのけむり、最近の治癒師たちがうるさく言ってるよ。肺が汚れるだの、生命力が削れるだのってね」
「はは、どうせ治癒魔法で治る程度の傷だ。……それより最近の街の様子はどうだ?」
「……不穏だね。スタンピードだけじゃない。遠くの空に嫌な色の雲が立ち込めてる。嵐が来るよ、ルイ。十年前みたいな大きな嵐がね」
老婆の言葉に、ルイは何も答えなかった。
ただ、店を出た後に再び器用に火を灯し、空を仰いだ。
青く澄んだ冬の空。
だがその先には、確かに何かが蠢いている。
ルイは再び歩き出した。
薬草採取の森へ。
けむりが風に消える。
リステアの朝は、ゆっくりと、しかし確実に更けていった。
街の裏手に広がる森は、まだ朝霧が深く立ち込めていた。
ルイは慣れた足取りで獣道を進み、依頼された薬草を探す。
治癒師たちが薬の原料として重宝するその草は、湿り気のある大樹の根元にひっそりと生えている。
ルイは腰を下ろし、丁寧に薬草を摘み取った。
不意に、森の奥から微かな物音が聞こえた。
枝が折れるような、小さな音。
ルイは摘み取る手を止め、音のした方へ視線を向けた。
気配は一つ。
人間ではない、低く、湿った唸り声が霧の向こうから漏れてくる。
「……昨日の余り物か。随分と熱心なことだ」
茂みを割って姿を現したのは、黒い毛並みに覆われた大型の野犬のような魔物だった。
昨日の群れからはぐれた個体だろう。
その瞳は濁り、牙からは粘り気のある唾液が滴っている。
ルイは立ち上がり、最後の一口を吸い切ったけむりを吐き出した。
魔物はルイを獲物と定め、音もなく距離を詰める。
喉元を食い破ろうと、魔物が地面を蹴った。
ルイは静かに、腰の片刃に手をかけた。
キィィンッ!
一瞬、刀身が赤く輝く。
ルイは踏み込みもせず、ただ一閃。
魔物の牙がルイに触れるより早く、熱を帯びた刃がその首筋を撫でる。
短い絶叫。
魔物の巨体はルイの横を通り過ぎ、勢いそのままに地面を転がった。
焼かれた断面から、焦げた匂いと煙が漏れている。
ルイは片刃をゆっくりと鞘に収めた。
「……さて、仕事の続きをするか」
ルイは倒れた魔物を一瞥もせず、再び腰を下ろして薬草を摘み始めた。
森は再び静寂を取り戻した。
薬草を籠に入れ終えた頃、ようやく朝霧が晴れ始めた。
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