『境界マンションの管理人
@pappajime
第1話から第90話まで一挙公開
第1話 管理人、着任す
駅から十五分ほど歩くと、住宅街の奥にぽつんと建つ灰色の建物が見えてきた。周囲の家々よりも背が高く、しかしどこか影が薄い。まるで、町の風景の中に無理やり押し込まれたような存在感だった。
三崎透は、肩にかけたカバンの紐を握り直し、建物を見上げた。
五階建てのそのマンションは、外壁のタイルがところどころ剥がれ、補修跡がまだらに残っている。古いが、完全に放置されているわけではない。手入れの痕跡があるぶん、逆に人の気配の薄さが際立っていた。
入口の横に埋め込まれたプレートには「境界マンション」とある。読み方は「きょうかい」だと、不動産会社の担当者は言っていた。
境界。きょうかい。
その言葉の響きが、透の胸の奥に小さなざわめきを残す。だが、それを深く考える余裕はなかった。今日からここが、自分の職場であり、住まいになる。
エントランスのドアを押すと、思ったよりも軽く開いた。中に入ると、外気とは違うひんやりとした空気が肌に触れる。玄関ホールは広く、郵便ポストが整然と並び、その奥に管理人室の小さな窓がある。
透はポストの列に目を向けた。
名札が貼られていないポストが多い。貼られている名前も、知らない姓ばかりだ。埋まっているポストよりも、空のポストのほうが多いように見える。
――入居率三割。
面接のときに聞いた数字が、現実味を帯びて胸に落ちた。
「三崎さんですね?」
声に振り向くと、管理人室の窓口から四十代ほどの女性が顔を出していた。淡い色のカーディガンを羽織り、首から名札を下げている。「管理会社 佐伯」と書かれていた。
「今日からお願いします。佐伯です。遠いところ、ありがとうございます」
「こちらこそ、お世話になります」
透は軽く頭を下げた。編集者として取材に回っていた頃、何度も繰り返した動作だ。だが今は、別の役割の挨拶になっている。
「まずは管理人室へどうぞ。鍵や書類の説明をしてしまいましょう」
案内されて入った管理人室は、四畳半ほどの狭い空間だった。机と椅子、書類棚、小さな流し台、古い金庫。部屋の隅には電気ポットとマグカップが二つ置かれ、インスタントコーヒーの匂いがわずかに残っている。
「ここが仕事場で、休憩場所でもあります。住まいは五階の管理人用の部屋ですね。荷物は後ほど運び込みます」
「分かりました」
「常駐といっても、難しいことはありませんよ。日中は清掃と簡単な補修、夜は巡回。住人さんからの相談がたまにあるくらいです」
佐伯は慣れた口調で説明を続ける。透は頷きながら、机の上の書類に目を落とした。
管理マニュアル、設備の説明書、住人名簿、緊急連絡先。どこにでもあるような紙の束だ。だが、透は無意識のうちにページの端を指でなぞっていた。紙の手触りは、編集者だった頃の癖を思い出させる。
「以前は、何をされてたんでしたっけ?」
「出版社で、編集の仕事を少し」
「本の編集? すごいじゃないですか」
「いえ。小さなところで。たいしたことはしてません」
透は笑って答えたが、その言葉が逃げ口上だと自分でも分かっていた。
本当は、たいしたことがなかったわけではない。むしろ、たいしたことをしようとして、うまくできなかった。その結果として、今ここにいる。
その説明をするには、まだ心の準備ができていなかった。
「本が好きな人は、ここ気に入りますよ。静かですから。いい意味でも、悪い意味でもね」
佐伯の言葉の最後だけが、少しだけ意味を含んでいた。
「前にいた方は、どのくらいこちらに?」
透は、前任の管理人について尋ねた。採用面接のときから気になっていたことだ。
「前の方ですか……一年くらいでしたかねえ」
「お名前、教えていただけますか。引き継ぎの書類も見ておきたいので」
「ああ……」
一瞬、佐伯の表情が曇った。ほんのわずかな陰り。それはすぐに笑みで覆い隠される。
「それがですね、前の方、あまり書類を残してなくて。記録もぐちゃぐちゃで、整理しているうちに何がなんだか。名前も……」
佐伯はファイルを開き、ページをめくりながら首を傾げた。
「おかしいですね。確かにいたんですけどね。連絡先も、辞めるときに全部削除してしまわれて」
「そんなこと、あるんですか」
「たまにいらっしゃるんですよ。急に連絡が取れなくなって、そのまま。住人さんの中にもね」
さらりと言われた言葉に、透は小さく息を呑んだ。
古いマンションなら、住人とのトラブルや孤独死のような出来事もあるだろう。だが、「連絡が取れなくなってそのまま」という表現が、かえって現実味を欠いていた。
「まあ、とにかく。今は三崎さんが管理人さんですから。やり方はお任せします。何かあれば連絡ください」
佐伯は話を締めくくるように言い、ファイルを棚に戻した。
「それと、ひとつだけ気をつけてほしいことがあります」
「気をつけること、ですか」
「ええ。このマンションは、夜中の二時から四時のあいだ、できるだけ廊下を歩かないでほしいんです」
透は言葉の意味を反芻した。
「……歩かないでほしい?」
「お願いみたいなものです。古い建物でしょう? 夜中に足音がすると、気になる方もいるみたいで」
説明はもっともらしい。だが、透の中で小さな違和感が膨らんでいく。
入居率三割のマンションで、そこまで神経質になる必要があるだろうか。
佐伯は、透の表情を読み取ったように微笑んだ。
「慣れれば気になりませんよ。最初は誰でも、ちょっと気味が悪いっておっしゃるんですけどね」
気味が悪い、という言葉を軽く口にした。
夕方、荷物の搬入が終わり、佐伯が帰った。
五階の管理人用の部屋は、ワンルームより少し広い程度だった。古いが清潔で、窓からは住宅街の屋根が重なって見える。
透は段ボールを壁際に積み上げ、カーテンを引いた。西日が部屋に橙色の光を落とし、細かな埃が漂うのが見えた。
東京で暮らしていた頃を思い出す。狭い部屋、隣室の音、締め切り前の徹夜。机の上には、出せなかった原稿と、送れなかったメール。
透は頭を振った。そこから先の記憶は、まだ形にならない。
今は、目の前の生活を整えることだ。
そう自分に言い聞かせ、管理人室へ戻るため部屋を出た。
五階の廊下は明るかった。蛍光灯が一定の間隔で並び、白い光を落としている。だが、音がない。足音以外の音が、まったくと言っていいほど聞こえない。
エレベーターで一階に降り、管理人室に戻る。机の上には、黒いノートが置かれていた。「管理日誌」と書かれている。
透はノートを開いた。
最初のページには、几帳面な字で日付と記録が並んでいた。ゴミ置き場の清掃、郵便物の仕分け、電球交換。
ページをめくるごとに、字の雰囲気が変わっていく。途中から筆圧の強い文字になり、走り書きのメモが挟まる。
〈夜中の廊下を確認〉
〈足音の主、不明〉
その行だけ、インクが滲んでいた。
最後のほうには、紙が破り取られた跡があった。何枚かまとめて剥ぎ取ったような、乱暴な跡だ。
残された最後のページには、一文だけ書かれていた。
〈ここは、境目だ〉
透はページを閉じた。
前任者の顔も名前も知らない。だが、この一文から伝わる切迫感だけは、否応なく胸に残った。
そのとき、蛍光灯がふっと瞬いた。
透は立ち上がり、廊下に出た。
エントランスは静まり返っている。誰もいない。だが、耳を澄ませると――
コツン。
乾いた音がした。
靴底が床を叩くような、小さな音。エントランスの奥から、ひとつだけ響いた。
透は息を止めた。
コツン。
今度は、少し近い。
住人だろうか。そう思おうとするが、身体が先にこわばる。
佐伯の言葉が蘇る。
――夜中の二時から四時は、廊下を歩かないでほしい。
今は九時前だ。それなのに、胸の奥の違和感は形を持ち始めていた。
「管理人です。どなたか、いらっしゃいますか」
声が廊下に響く。返事はない。
代わりに、足音がひとつ。
コツン。
今度は、頭上から。
二階。三階。四階。
足音は、透から距離を保つように移動していく。
やがて、五階で止まった。
透の住む階だ。
エレベーターの前まで歩いていた自分に気づき、透は立ち止まった。
追いかけるべきか。だが、初日から得体の知れないものを追うのは得策ではない。
透は管理人室へ戻り、ドアを閉めた。
机の上の管理日誌が、開いたまま置かれている。
透は新しいページを開き、ペンを握った。
〈新任。設備確認。住人との接触なし〉
〈二一時〇五分頃、足音を確認。姿は視認できず〉
〈ここでの仕事が、どんなものになるのかは、まだ分からない〉
書き終えると、インクがわずかに滲んだ。
透はページを閉じた。
外では、夜がゆっくりと深くなっていった。
第2話 204号室の少女
翌朝、透はいつもより早く目を覚ました。窓の外は薄い雲に覆われ、光が柔らかく拡散している。昨夜の足音のことを思い出すと、胸の奥に小さなざわめきが残っていたが、眠りを妨げるほどではなかった。
管理人としての初日は、清掃と設備点検から始まる。廊下を歩きながら、透は壁の汚れや電球の状態を確認していった。五階から順に降りていき、二階に差しかかったときだった。
――コン。
軽い音がした。ノックのような、何かが当たったような、曖昧な響き。
透は足を止めた。音のした方向を探ると、二〇四号室の前で止まる。
ドアの前には、小さな紙片が落ちていた。拾い上げると、そこには細い字で「管理人さんへ」と書かれている。
封筒ではなく、メモ用紙を折っただけの簡素なものだ。透はそっと開いた。
〈部屋の中で、変な音がします。見に来てください〉
短い文だった。だが、文字の震え方から、書いた人が相当迷った末に置いたことが伝わってくる。
透はドアをノックした。
「管理人です。メモを見ました。大丈夫ですか」
しばらく返事はなかった。透がもう一度声をかけようとしたとき、ドアの向こうで小さな気配が動いた。
「……開いてます」
かすかな声だった。幼いというより、力のない声。透はゆっくりとドアを押した。
部屋の中は薄暗かった。カーテンが半分だけ閉じられ、外の光が細い帯になって床に落ちている。家具は最低限で、生活感がほとんどない。
部屋の中央に、小柄な少女が座っていた。年齢は十代半ばだろうか。長い髪が肩にかかり、顔の半分を隠している。
「二〇四号室の方、ですか」
透が声をかけると、少女は小さく頷いた。
「音がするって、メモに……」
「……はい」
少女は膝を抱えたまま、視線を床に落とした。
「どんな音がしますか」
「……誰かが、歩いてるみたいな。夜中に、ずっと」
透は胸の奥がわずかに冷えるのを感じた。
「夜中の……何時ごろ?」
「二時とか、三時とか。毎日じゃないけど、たまに」
佐伯の言葉が頭をよぎる。
――夜中の二時から四時は、廊下を歩かないでほしい。
「廊下の音、ですか」
「……部屋の中です」
少女は、か細い声で言った。
「部屋の中?」
「はい。ここで、歩いてるみたいに……」
透は部屋の床に目を向けた。フローリングは古いが、特に歪みはない。家具も少なく、物が落ちている様子もない。
「いつから、その音が?」
「……ここに来た日から」
少女は膝に顔を埋めるようにして言った。
「最初は気のせいだと思ったんです。でも、何度も聞こえて……。怖くて、誰にも言えなくて……」
透は部屋の隅を見渡した。窓の鍵、換気口、天井の照明。どれも異常はないように見える。
「音は、今もしますか」
「……今日は、まだ」
「分かりました。しばらく部屋を見させてもらってもいいですか」
少女は小さく頷いた。
透はゆっくりと部屋を歩き、床を踏んでみた。軋む音はするが、少女の言うような「誰かが歩く音」とは違う。
壁に耳を当ててみても、特別な音は聞こえない。
だが、部屋の空気に、どこか引っかかるものがあった。
静かすぎる。生活の匂いがしない。少女がここで暮らしている気配が薄い。
「お名前、聞いてもいいですか」
透が尋ねると、少女は少しだけ顔を上げた。
「……あおい」
「蒼井さん?」
「……あおい、だけでいいです」
名字を言わないのは、警戒心からだろうか。あるいは――。
「蒼井さんは、学校には?」
少女は首を横に振った。
「行ってません。ここに来てから、ずっと」
「ご家族は?」
「……いません」
その言葉は、あまりにも軽く発せられた。まるで、何度も繰り返してきた答えのように。
透はそれ以上踏み込むのをやめた。
「音がしたとき、どんな感じでしたか。近い? 遠い?」
「……すぐそこに。歩いてるみたいに」
少女は床を指さした。
「ここを、ぐるぐる……」
透は床に視線を落とした。フローリングの木目が、光の角度でわずかに揺らいで見える。
「蒼井さん。もし、また音がしたら、すぐに管理人室に来てください。夜でも構いません」
「……行けません」
「どうして?」
「……外に出られないんです」
少女は、震える声で言った。
「怖くて。廊下に出ると、息が苦しくなる。だから……」
透はゆっくりと頷いた。
「分かりました。じゃあ、僕のほうから様子を見に来ます。何かあったら、ドアをノックしてください」
少女は小さく頷いた。
透は部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
少女は膝を抱えたまま、窓のほうを見ていた。光の帯が床に落ち、その中に少女の影が細く伸びている。
だが、その影は――ほんの一瞬、揺れたように見えた。
透は目を凝らした。だが、次の瞬間には、ただの影に戻っていた。
「また来ます」
透は静かにドアを閉めた。
廊下に出ると、空気がわずかに冷たく感じられた。階段のほうから、風のような気配が流れてくる。
透は管理人室へ戻り、管理日誌を開いた。
〈二〇四号室の少女より相談。室内で足音のような音を聞くとのこと〉
〈部屋内に異常は見当たらず。少女は外に出られない様子〉
〈影の揺れを確認。錯覚の可能性あり〉
最後の行を書き終えたとき、透はペンを置いた。
錯覚――そう書いたが、胸の奥では別の言葉が浮かんでいた。
昨夜の足音。前任者の残した「境目」という言葉。そして、少女の部屋の静けさ。
それらが、ひとつの線でつながり始めている気がした。
透は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
まだ二日目だ。だが、このマンションには、何かがある。
その“何か”が、透の足元に静かに影を落としていた。
第3話 管理人室の鍵
管理人として二日目の朝、透は管理人室の机に置かれた鍵束を手に取った。金属の冷たさが指先に伝わる。鍵は十本ほどあり、番号札がついているものもあれば、何の印もない古い鍵も混ざっていた。
昨日は荷物の整理と二〇四号室の少女の対応で終わってしまい、鍵束をきちんと確認する余裕がなかった。今日はまず、この鍵がどの扉に対応しているのかを把握する必要がある。
透は鍵束を机に並べ、番号札のついたものから順に確認していった。エントランス、ゴミ置き場、電気室、屋上。どれも管理人として必要な場所だ。
だが、ひとつだけ、他とは明らかに違う鍵があった。
黒ずんだ金属でできた、古い鍵。番号札もなく、形も他の鍵より細長い。鍵穴の規格が違うように見える。
透はその鍵を手に取り、光にかざした。表面には細かい傷が無数に刻まれている。長い年月を経てきたことが分かる。
「……これは、どこの鍵だ」
呟いた声が、管理人室の静けさに吸い込まれた。
マニュアルを確認しても、この鍵についての記述はない。前任者が残した管理日誌にも、鍵の詳細は書かれていなかった。
透は鍵束を持ち、管理人室を出た。
まずは一階の設備室を確認する。電気室、給水ポンプ室、倉庫。どの扉にも、この古い鍵は合わなかった。
二階、三階と順に見て回るが、鍵が合う扉は見つからない。
四階に上がったときだった。
廊下の突き当たりに、他の扉とは違う色のドアがあった。灰色の金属製で、塗装が剥げ、ところどころ錆びている。非常口の扉に似ているが、非常口の表示はない。
透は近づき、ドアノブに手をかけた。鍵穴の形が、古い鍵の先端とよく似ている。
試しに鍵を差し込むと、驚くほど滑らかに入った。
カチリ、と小さな音がして、鍵が回った。
透は息を呑んだ。
扉を押すと、重い金属音を立てて開いた。中は薄暗く、冷たい空気が流れ出してくる。
部屋の中には、階段があった。
下へ続く階段だ。
マンションの構造図には、地下室の記載はなかった。給水設備や電気設備はすべて一階に集約されているはずだ。
透は階段の上に立ち、暗闇を見下ろした。
階段は、途中で折れ曲がりながらさらに深く続いている。照明はついていない。手すりの金属は冷たく、触れるとわずかに湿っていた。
――こんな場所があるなんて、聞いていない。
透は階段を降りるべきか迷った。だが、管理人として無視するわけにもいかない。
携帯のライトを点け、ゆっくりと階段を降り始めた。
足音が、コツン、と階段に響く。
その音が、昨夜聞いた足音と重なった気がして、透は一瞬立ち止まった。
深呼吸をして、再び足を進める。
階段を降りきると、小さな空間に出た。コンクリートの壁と床。古い配管がむき出しになっている。倉庫のような、設備室のような、用途の分からない部屋だ。
部屋の奥に、机がひとつ置かれていた。
木製の古い机。引き出しが三つ。机の上には、埃をかぶったノートが一冊置かれている。
透はノートに近づき、そっと手に取った。
表紙には、薄く擦れた文字でこう書かれていた。
〈管理記録・補遺〉
補遺――追加の記録、という意味だ。
透はページを開いた。
最初の数ページは白紙だった。だが、ページをめくると、途中から文字が現れた。
〈二月十二日 境界の揺れ、再び確認〉
〈二月十五日 影の遅れ、顕著〉
〈二月二十日 管理人は境界を見守る者〉
〈三月一日 次の管理人が来る。私はもう限界だ〉
透は息を呑んだ。
前任者の記録だ。
ページの最後には、震える文字でこう書かれていた。
〈境界は、下から始まる〉
その瞬間、背後で音がした。
コツン。
透は振り返った。
階段の上から、誰かがこちらを見下ろしている――ような気配がした。
だが、ライトを向けても、そこには誰もいなかった。
透はノートを閉じ、胸に抱えた。
階段を上がり、扉を閉め、鍵をかける。
鍵を抜いた瞬間、金属がわずかに震えた。
透は鍵束を握りしめ、深く息を吐いた。
このマンションには、まだ知らない扉がある。
そして、その扉の向こうには、前任者が見た“境界”が確かに存在している。
透は管理人室に戻り、管理日誌を開いた。
〈四階奥の扉を確認。地下への階段あり〉
〈前任者の補遺ノートを発見〉
〈境界は下から始まる、との記述〉
書き終えたとき、透はペンを置いた。
胸の奥に、昨日とは違う種類の重さがあった。
それは恐怖ではなく、静かな確信に近い。
――ここは、ただの古いマンションではない。
透は鍵束を見つめた。
古い鍵が、わずかに光を反射していた。
第4話 消える郵便物
午前中の清掃を終え、透はエントランスの郵便ポストの前に立っていた。昨日から気になっていたことがある。ポストの数に対して、投函されている郵便物があまりにも少ないのだ。
入居率三割なら、多少は郵便物が届いていてもいいはずだ。だが、封筒が入っているのは数えるほどで、ほとんどのポストは空のままだった。
透は管理人室に戻り、住人名簿を確認した。名前が記載されている部屋は十室ほど。だが、郵便物が入っているポストは三つしかない。
「……少なすぎる」
透は名簿とポストを見比べながら、ひとつずつ確認していった。
そのとき、エントランスの自動ドアが開いた。
「郵便でーす」
配達員が台車を押しながら入ってきた。透は軽く会釈し、手伝うために近づいた。
「いつもありがとうございます。こちらで仕分けします」
「助かります。ここ、ちょっと変わってるんですよね」
「変わってる?」
「ええ。配達しても、戻ってくるんです。『宛先不明』で」
透は思わず聞き返した。
「宛先不明……ですか?」
「はい。住所も部屋番号も合ってるのに、戻ってくるんです。何度も。だから最近は、住人さんの分が減ってきて」
配達員は苦笑しながら封筒を渡してきた。
「今日も三通だけでした。じゃ、お願いします」
配達員が去り、エントランスが再び静かになる。
透は受け取った封筒を見た。三通とも、違う部屋番号が書かれている。だが、そのうち二通は、名簿では“空室”になっている部屋だった。
「……どういうことだ」
透は封筒を持ったまま、ポストの前に立った。
空室のはずの部屋に、郵便物が届く。
配達員は「宛先不明で戻ってくる」と言う。
名簿とポストの状況が一致しない。
透は封筒をポストに入れようとしたが、ふと手が止まった。
昨日、佐伯が言っていた。
――住人さんの中にも、急に連絡が取れなくなる方がいるんですよ。
透は封筒を持ったまま、管理人室に戻った。
机の上に封筒を置き、管理日誌を開く。
〈郵便物の数が少ない。名簿と一致せず〉
〈配達員より、宛先不明で戻るとの情報〉
〈空室の部屋に郵便物が届く〉
書き終えたとき、透は封筒のひとつを手に取った。
宛名は「三階・三〇三号室」。名簿では空室だ。
透は立ち上がり、三階へ向かった。
廊下は静かだった。蛍光灯の光が一定のリズムで並び、影が床に薄く伸びている。
三〇三号室の前に立つ。ドアは閉まっている。ポストの名札は空白だ。
透はノックした。
「管理人です。郵便物が届いています」
返事はない。
もう一度ノックする。
静寂が続く。
透は封筒をポストに入れようとした。だが、ポストの蓋を開けた瞬間、透は息を呑んだ。
ポストの中は――空ではなかった。
封筒が、ぎっしりと詰まっていた。
古いものから新しいものまで、十数通。どれも開封されていない。
「……なんで」
透は手を伸ばし、封筒を一枚取り出した。
宛名は、今日届いたものと同じ「三〇三号室」。差出人は違う。日付は一ヶ月前。
透はもう一枚取り出した。二ヶ月前のものだ。
ポストの奥には、さらに古い封筒が見える。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
――空室のはずの部屋に、郵便物が届き続けている。
――誰も受け取っていない。
透は封筒を戻し、ポストの蓋を閉めた。
その瞬間、廊下の空気がわずかに揺れた。
風は吹いていない。だが、何かが動いた気配がした。
透は振り返った。
廊下の奥に、影がひとつ立っているように見えた。
だが、瞬きをした次の瞬間には、影は消えていた。
透は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
管理人室に戻り、日誌を開く。
〈三〇三号室のポストに大量の未開封郵便物〉
〈空室のはずだが、長期間にわたり投函されている〉
〈廊下にて、影のような気配を確認〉
ペンを置いたとき、透は気づいた。
机の上に置いたはずの、今日届いた三通の封筒のうち――
一通が、消えていた。
透は机の上を見渡した。床にも落ちていない。
封筒は、跡形もなく消えていた。
透はしばらく動けなかった。
郵便物が消える。
空室に届く。
影が揺れる。
このマンションの“境界”は、昨日よりも確かに近づいている。
透は管理日誌を閉じ、静かに目を伏せた。
第5話 301号室の老人
三日目の朝、透は廊下の清掃を終え、三階へ向かっていた。昨日の郵便物の件が頭から離れず、名簿と実際の居住状況の不一致が気になっていた。
三〇三号室の前を通りかかると、ポストの蓋がわずかに開いているのが見えた。透は立ち止まり、そっと蓋を閉じた。中に詰まっていた大量の封筒の重みが、まだ指先に残っている気がした。
そのとき、背後から声がした。
「おや、管理人さんかね」
振り向くと、三〇一号室の前に老人が立っていた。白髪混じりの髪を短く刈り、背筋は年齢のわりにまっすぐだ。深い皺の刻まれた顔には、どこか穏やかな笑みが浮かんでいる。
「三崎透です。今日からこちらを担当しています」
「ほう、若いのに珍しい。わしは三〇一号室の桐谷という。よろしく頼むよ」
老人――桐谷は、ゆっくりと頭を下げた。
「何かお困りごとはありませんか」
「困りごと、ねえ……」
桐谷は廊下の奥を見やった。透もつられて視線を向ける。蛍光灯の光が一定のリズムで並び、影が床に薄く伸びている。
「ここは、静かすぎるんじゃよ」
「静か……ですか」
「うむ。静かというのは悪くない。だが、静かすぎると、いろいろなものが聞こえてくる」
透は胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。
「桐谷さんも、何か音を?」
「音というより……気配、かのう」
老人はゆっくりと廊下を指さした。
「夜中になると、あそこを誰かが歩いておる。足音はせん。だが、影が動く」
透は息を呑んだ。
「影が……動く?」
「そうじゃ。影というのは、本来は光があってこそ生まれるものじゃろう。だが、あれは光とは関係なく動く。まるで、影そのものが生きておるように」
老人の声は淡々としていた。恐怖を煽るような調子ではない。むしろ、長くここに住んでいる者の、静かな観察のようだった。
「前の管理人さんも、よく廊下を見ておったよ」
「前任者をご存じなんですか」
「顔は見たことがない。だが、夜中に廊下を歩く影を追いかけておった。あれは、あまり良いことではなかったようじゃが」
透は胸の奥が冷えるのを感じた。
「前任者は……どうされたんですか」
「さあな。ある日を境に、ぱたりと姿を見せなくなった。管理会社の人間が来て、荷物を片付けておったが……」
老人はそこで言葉を切り、透の顔をじっと見た。
「若いの。ここに来たからには、あまり深く覗き込まんほうがええ」
「覗き込まない、とは?」
「境界というものは、踏み越えるためにあるのではない。見守るためにあるんじゃ」
透はその言葉の意味を理解しようとしたが、すぐには掴めなかった。
「境界……ですか」
「そうじゃ。ここは、そういう場所じゃよ」
老人は穏やかに微笑んだ。
「わしは長く生きてきたが、こういう場所は初めてじゃ。だが、不思議と居心地が悪いわけでもない。むしろ、落ち着く」
「落ち着く、ですか」
「うむ。人は誰しも、どこかに境目を抱えて生きておる。過去と未来の境目、後悔と希望の境目、生と死の境目……。ここは、それが形になって現れる場所なんじゃろう」
透は言葉を失った。
老人の言葉は、どこか詩のようであり、同時に現実の観察でもあった。
「管理人さん。あんたは、ここに来た理由があるんじゃろう」
透は胸の奥がわずかに痛むのを感じた。
「……理由、ですか」
「うむ。人は理由もなく、境目には来んよ」
老人はそう言うと、ゆっくりと部屋に戻っていった。
扉が閉まる音が、廊下に静かに響く。
透はしばらくその場に立ち尽くした。
境目。
老人の言葉が、昨日見た地下室のノートと重なる。
〈境界は、下から始まる〉
〈ここは、境目だ〉
透は管理人室に戻り、管理日誌を開いた。
〈三〇一号室の桐谷氏より、夜中に影が動くとの証言〉
〈前任者は影を追っていたとの情報〉
書き終えたとき、透はペンを置いた。
老人の言葉は、ただの迷信ではない。
このマンションには、確かに“境界”が存在している。
そして――
透自身もまた、その境目に立っているのだと、静かに理解し始めていた。
第6話 マンションの規則
管理人として四日目の朝、透は管理人室の机に広げた書類の束を整理していた。昨日の老人・桐谷の言葉が頭から離れず、境界という言葉の意味を探るように、マニュアルや過去の記録を読み返していた。
そのとき、書類の間から一枚の紙が滑り落ちた。
古びた紙で、端が少し黄ばんでいる。他の書類とは明らかに年代が違う。透は拾い上げ、文字を確認した。
〈境界マンション 管理規則〉
表題の下には、細かい文字でいくつかの項目が並んでいた。だが、透の目を引いたのは、その中のひとつだった。
〈第四条 夜明け前の廊下歩行を禁ず〉
〈理由の如何を問わず、午前二時から四時の間は廊下に出ないこと〉
〈違反者は、影の揺れに注意せよ〉
透は息を呑んだ。
佐伯が言っていた「夜中に廊下を歩かないでほしい」という言葉。それが単なる“お願い”ではなく、正式な規則として存在していた。
しかも――
〈影の揺れに注意せよ〉
という文言は、明らかに普通のマンションの規則ではない。
透は紙を机に置き、深く息を吸った。
影。
桐谷が言っていた“光とは関係なく動く影”。
前任者の補遺ノートにあった“影の遅れ”。
そして、透自身が見た、廊下の揺れる影。
すべてが、この規則に結びついている。
透は管理人室を出て、廊下に出た。
午前十時。廊下は明るく、静かだ。だが、昨日までとは違う種類の緊張が透の中にあった。規則の存在を知ったことで、廊下の静けさが別の意味を帯びて見える。
透は階段を降り、一階の掲示板を確認した。住人向けの掲示物がいくつか貼られているが、管理規則の紙は見当たらない。
――住人には知らせていないのか。
それとも、以前は貼られていたが、誰かが剥がしたのか。
透は掲示板の裏側を確認したが、特に痕跡はなかった。
そのとき、エントランスの自動ドアが開いた。
「管理人さん?」
声のほうを見ると、三〇二号室の住人と思われる女性が立っていた。買い物袋を提げ、少し疲れた表情をしている。
「おはようございます。何かありましたか」
「ちょっと……相談があって」
女性は周囲を気にするようにして、透に近づいた。
「夜中に、廊下で誰かが歩いてるんです。足音じゃなくて……気配だけなんですけど」
透は胸の奥が冷えるのを感じた。
「何時ごろですか」
「二時過ぎです。毎日じゃないんですけど……。怖くて、眠れなくて」
女性は不安げに眉を寄せた。
「管理会社に言おうかと思ったんですけど、前の管理人さんのときも同じで……。結局、何も変わらなくて」
「前任者も、同じ相談を?」
「ええ。でも、前の管理人さん……急にいなくなってしまって」
透は言葉を失った。
前任者が消えた理由。
影の揺れ。
夜中の廊下。
そして、規則。
「分かりました。夜中の巡回は控えますが、何かあればすぐに管理人室に来てください」
「……来られたらいいんですけど」
女性は小さく呟いた。
「夜中に部屋のドアを開けるのが、怖いんです。廊下に出ると、何かに見られてる気がして」
透は静かに頷いた。
「無理はしないでください。僕のほうでできる限り確認します」
女性はほっとしたように息をつき、エレベーターに乗っていった。
透は管理人室に戻り、管理規則の紙をもう一度見つめた。
〈違反者は、影の揺れに注意せよ〉
この文言は、単なる注意喚起ではない。
“影の揺れ”が、何かの兆候であることを示している。
透は管理日誌を開き、今日の出来事を書き込んだ。
〈管理規則に夜間歩行禁止の条項を確認〉
〈影の揺れに注意せよ、との記述あり〉
〈三〇二号室の住人より、夜中の気配の相談〉
〈前任者も同様の相談を受けていた模様〉
書き終えたとき、透はペンを置いた。
このマンションには、表に出ていない“もうひとつの規則”がある。
それは、紙に書かれた条文ではなく――
境界そのものが持つ、見えないルールだ。
透は窓の外を見た。
昼間の光の中で、廊下の影は静かに伸びている。
だが、その静けさの奥に、わずかな揺らぎが潜んでいるように思えた。
第7話 境界の気配
夜明け前、透はふと目を覚ました。窓の外はまだ暗く、街の灯りが遠くに滲んでいる。時計を見ると、午前四時を少し過ぎていた。
――二時から四時のあいだは、廊下に出ないこと。
昨日見つけた管理規則の文言が、頭の中で静かに響く。規則を破るつもりはなかったが、目が覚めてしまった以上、眠りに戻るのは難しそうだった。
透は布団の中でしばらく天井を見つめていた。静けさが、耳の奥にじわりと広がる。マンション全体が息を潜めているような、そんな感覚だった。
やがて、遠くで何かが揺れるような気配がした。
音ではない。風でもない。だが、確かに“何か”が動いた。
透は身を起こし、耳を澄ませた。
――すう、と空気が引かれるような感覚。
その直後、部屋の壁にかかった影が、わずかに揺れた。
蛍光灯は点いていない。外の光も弱い。影が揺れる理由はないはずだった。
透は息を呑んだ。
影は、ほんの一瞬だけ形を変えたように見えた。人の形に近づいたような、遠ざかったような、説明のつかない揺らぎ。
だが、瞬きをした次の瞬間には、ただの影に戻っていた。
「……気のせい、か」
透は小さく呟いたが、胸の奥のざわめきは消えなかった。
朝になり、透は管理人室で昨日の続きの作業をしていた。書類の整理、設備点検の記録、住人からの問い合わせの確認。淡々とした作業だが、頭の片隅には、夜明け前の影の揺れが残っていた。
そのとき、管理人室の窓口がノックされた。
「管理人さん、ちょっといいかね」
桐谷老人だった。昨日と同じ穏やかな表情だが、どこか疲れが滲んでいる。
「どうされましたか」
「昨夜、また影が動いておった」
透は胸の奥が冷えるのを感じた。
「何時ごろですか」
「三時半じゃ。廊下の角のあたりで、影が揺れた。光源は変わっておらんのに、影だけが動く。まるで、誰かがそこに立っておるように」
透は昨夜の自分の部屋の影を思い出した。
「桐谷さんは、怖くないんですか」
「怖いとも。だが、怖いだけではない」
老人はゆっくりと廊下のほうを見やった。
「影が揺れるとき、わしはいつも思うんじゃ。あれは、何かを知らせようとしておるのではないかと」
「知らせる……?」
「うむ。境界というものは、ただの境目ではない。こちら側と向こう側の“接点”じゃ。揺れが大きくなるのは、接点が近づいておる証拠じゃよ」
透は言葉を失った。
接点。
境界。
影の揺れ。
それらが、ひとつの線でつながり始めている。
「管理人さん。あんたは、昨夜何か見なかったかね」
透は少し迷ったが、正直に答えた。
「……影が、揺れました。ほんの一瞬ですが」
「そうか」
老人は静かに頷いた。
「なら、気をつけることじゃ。影が揺れるとき、境界は近い。近づきすぎると、向こう側のものがこちらに触れてくる」
「向こう側……?」
「見えんほうがええ。知りすぎると、戻れん」
老人の声は穏やかだったが、その言葉には重みがあった。
昼過ぎ、透は二階の廊下を歩いていた。二〇四号室の少女――あおいの様子を見に行くためだ。
ドアの前に立ち、ノックする。
「管理人です。昨日の件、気になって」
しばらくして、ドアが少しだけ開いた。あおいが顔を半分だけ覗かせる。
「……来てくれたんですね」
「調子はどうですか」
「音は……昨日はしませんでした。でも……」
あおいは視線を床に落とした。
「夢を見ました」
「夢?」
「部屋の中に、誰かが立ってる夢。顔は見えないんです。でも、影だけが揺れてて……」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「怖かったら、いつでも言ってください。僕が来ます」
「……はい」
あおいは小さく頷き、ドアを閉めた。
透はしばらくその場に立ち尽くした。
影が揺れる。
夢に現れる。
境界が近づく。
それらが、ゆっくりと、しかし確実に重なり合っていく。
夕方、透は管理人室に戻り、管理日誌を開いた。
〈夜明け前、部屋の影が揺れるのを確認〉
〈三〇一号室の桐谷氏より、影の揺れの再証言〉
〈二〇四号室の少女、影の夢を見たとの報告〉
〈境界の接点が近づいている可能性〉
書き終えたとき、透はペンを置いた。
窓の外を見ると、夕暮れの光が廊下に長い影を落としている。
その影が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
透は目を凝らした。
だが、次の瞬間には、影は静かに元の形に戻っていた。
それでも――
胸の奥に残るざわめきは、昨日よりも確かだった。
第8話 消えた前任者
管理人として五日目の朝、透は管理人室の机に置かれた補遺ノートを開いていた。地下室で見つけた前任者の記録。そこに書かれた「境界は下から始まる」という言葉が、頭から離れなかった。
ページをめくると、途中から文字が急に乱れ始めていた。筆圧が強く、線が震えている。書き手の精神状態が不安定だったことが、文字の形から伝わってくる。
〈三月三日 影の遅れが大きい〉
〈三月五日 廊下の奥に誰かが立っている〉
〈三月七日 境界が開きかけている〉
〈三月八日 私は、もう〉
そこで文字は途切れていた。
透はページを閉じ、深く息を吸った。
前任者は、何を見たのか。
そして、どこへ消えたのか。
考えれば考えるほど、胸の奥に重いものが沈んでいく。
午前中、透は管理会社に電話をかけた。前任者について、何か情報が得られないかと思ったのだ。
「前任の方のことですか?」
電話口の佐伯の声は、いつもと変わらない穏やかさだった。
「はい。引き継ぎがほとんどなくて……。何かご存じでしたら」
「うーん……。あの方、急に連絡が取れなくなってしまって。荷物もほとんど残っていませんでしたし」
「退職の連絡は?」
「メールで一度だけ。“もう続けられません”と。それきりです」
透は眉を寄せた。
「ご家族は?」
「いらっしゃらないようでした。緊急連絡先も空欄で……。すみません、あまりお力になれなくて」
「いえ、ありがとうございます」
電話を切ったあと、透はしばらく受話器を見つめていた。
――“もう続けられません”。
その言葉は、ただの退職理由にしては重すぎる。
午後、透は三階の廊下を歩いていた。三〇一号室の桐谷に挨拶をしようと思ったのだが、部屋の前に立つと、扉が少しだけ開いていた。
「桐谷さん?」
声をかけると、老人がゆっくりと顔を出した。
「おお、管理人さんか。ちょうどいい。少し話がある」
老人は透を部屋に招いた。
部屋の中は整然としていた。古い家具が丁寧に手入れされ、窓際には小さな観葉植物が置かれている。老人の几帳面な性格がそのまま部屋に表れていた。
「前の管理人さんのことじゃが」
老人は椅子に腰掛け、静かに言った。
「わしは、あの人を一度だけ見たことがある」
透は息を呑んだ。
「姿を、ですか」
「うむ。夜中の三時ごろじゃ。廊下の奥で、あの人が立っておった」
「何をしていたんですか」
「影を見ておった。じっと、動かずにな」
老人は目を細め、記憶をたどるように続けた。
「声をかけようとしたが、やめた。あのときのあの人は……何かに取り憑かれたような目をしておった」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「そのあと、どうなりましたか」
「翌日には、もう姿を見せんかった。管理会社の人間が来て、部屋を片付けておったよ」
「部屋には……何か残っていましたか」
「何もなかった。まるで、最初から誰も住んでいなかったように」
透は言葉を失った。
前任者の痕跡が消えている。
荷物も、記録も、名前さえも曖昧。
残されていたのは、地下室の補遺ノートだけ。
「管理人さん」
老人の声が、透の思考を引き戻した。
「あんたは、あの人と同じ道を歩いてはならん」
「同じ道……?」
「境界に近づきすぎると、戻れん。あの人は、境界の向こうを覗き込みすぎたんじゃ」
透は胸の奥が重くなるのを感じた。
「境界の向こう……」
「見えんほうがええ。だが、避けても通れんときもある」
老人はゆっくりと立ち上がり、透の肩に手を置いた。
「若いの。あんたは、まだ戻れる」
その言葉は、励ましのようであり、警告のようでもあった。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈前任者は夜中に影を見ていたとの証言〉
〈翌日には姿を消し、部屋には何も残っていなかった〉
〈管理会社の記録も不自然に少ない〉
〈境界の向こうを覗き込むと戻れない可能性〉
書き終えたとき、透は深く息を吐いた。
前任者は、境界に触れすぎた。
そして――消えた。
透は窓の外を見た。
夕暮れの光が廊下に長い影を落としている。
その影が、ほんのわずかに揺れた。
透は目を凝らした。
だが、影は静かに元の形に戻った。
それでも――
胸の奥に残るざわめきは、昨日よりも確かだった。
第9話 境界の揺れ
夜の巡回を終えた翌朝、透はほとんど眠れないまま管理人室の机に向かっていた。昨夜、二階の廊下で見た影の揺れが頭から離れない。光源とは無関係に動き、形を変え、透の足元まで近づいてきたあの黒い影。あれは、ただの錯覚ではなかった。
透は管理日誌を開き、昨夜の記録を読み返した。
〈午前二時過ぎ、廊下にて影の揺れを確認〉
〈影は光に反応せず、独自に形を変える〉
〈境界の現象が強まっている可能性〉
文字は乱れていないが、書いたときの緊張が指先に蘇る。透は深く息を吸い、日誌を閉じた。
――境界が揺れている。
その言葉が、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。
午前中、透は三階の廊下を歩いていた。昨夜の影が現れた場所を確認するためだ。廊下は静かで、蛍光灯の光が均一に落ちている。だが、透の中には昨日とは違う緊張があった。
そのとき、三〇一号室の扉が開いた。
「管理人さんか」
桐谷老人が顔を出した。昨日よりも少し疲れた表情をしている。
「昨夜、何かありましたか」
「……影が、また動いた」
老人は廊下の奥を指さした。
「三時ごろじゃ。あそこに、誰かが立っておった。いや、正確には“影だけ”が立っておった」
「影だけ……?」
「うむ。人の形をしておるのに、身体がない。影だけが、そこにおる。光源とは関係なく、勝手に揺れる」
透は昨夜の光景を思い出した。
「桐谷さん。影は、何をしていたんですか」
「わしを見ておった」
老人の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。
「影が、わしのほうを向いておった。目はないはずなのに、確かに“見られている”と感じた」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「怖くはなかったんですか」
「怖かったとも。だが、それ以上に……気になった」
「気になった?」
「影は、わしに何かを伝えようとしておるように見えた。言葉ではなく、形で」
透は息を呑んだ。
「形で……?」
「うむ。影が揺れるとき、輪郭が変わるじゃろう。あれは、ただの揺れではない。何かの“形”を作ろうとしておる」
透は昨夜の影を思い出した。
確かに、影は人の形に近づいていた。
輪郭が曖昧で、揺れ続けていた。
「管理人さん」
老人は透の目をまっすぐに見た。
「あれは、向こう側の存在じゃ」
「向こう側……?」
「境界の向こうにいるもの。わしらとは違う場所にいるものじゃ」
透は言葉を失った。
「影は、向こう側の“痕跡”じゃよ。完全にこちらに来ることはできん。だが、境界が揺れると、影だけが漏れ出す」
透は胸の奥が重くなるのを感じた。
「影が漏れ出す……」
「そうじゃ。影は、向こう側の存在の“形の残りかす”みたいなものじゃ。だが、あれが濃くなれば、いずれ形を持つ」
透は息を呑んだ。
「形を……持つ?」
「うむ。影が濃くなり、揺れが大きくなれば、向こう側のものがこちらに触れてくる。前の管理人は、それを追いかけすぎたんじゃろう」
透は言葉を失った。
影は、ただの影ではない。
境界の向こう側の存在の“痕跡”。
それが揺れ、形を変え、こちらに近づいている。
午後、透は二階の廊下を歩いていた。二〇四号室の少女――あおいの様子を確認するためだ。
ドアをノックすると、あおいが顔を半分だけ覗かせた。
「……管理人さん?」
「昨日のことが気になって。大丈夫でしたか」
あおいは小さく頷いたが、その表情には疲れが滲んでいた。
「……眠れませんでした。部屋の空気が、ずっと重くて」
「影は?」
「……見えませんでした。でも、気配はありました」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「何かあったら、すぐに呼んでください」
「……はい」
あおいは静かに頷いた。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈影は向こう側の存在の痕跡である可能性〉
〈影が濃くなると形を持つ〉
〈境界の揺れが強まっている〉
〈住人の部屋にも影の気配が侵入〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
夕暮れの光が廊下に長い影を落としている。
その影が、ほんのわずかに揺れた。
透は目を凝らした。
影は、昨日よりも濃かった。
そして――
その揺れは、確かに“境界の揺れ”だった。
第10話 選ばれた管理人
影の揺れを目撃した翌朝、透は管理人室の机に突っ伏すようにして座っていた。眠れなかったわけではない。眠ろうとしても、昨夜の影の輪郭がまぶたの裏に浮かび続けたのだ。
光とは無関係に揺れ、形を変え、こちらへ近づいてくる影。
あれは、境界の向こう側の“痕跡”だと桐谷老人は言った。
透は深く息を吸い、補遺ノートを開いた。
〈境界の揺れが加速している〉
〈影の濃度が上がっている〉
〈管理人は、境界の揺れを記録し続ける者〉
その一文が、透の目に引っかかった。
――管理人は、境界の揺れを記録し続ける者。
前任者が書いた言葉だ。
だが、管理会社から渡されたマニュアルには、そんな役割は書かれていない。
透はノートを閉じ、椅子から立ち上がった。
午前中、透は三階の廊下を歩いていた。昨夜の影が現れた場所を確認するためだ。廊下は静かで、蛍光灯の光が均一に落ちている。だが、透の中には昨日とは違う緊張があった。
そのとき、三〇一号室の扉が開いた。
「管理人さんか」
桐谷老人が顔を出した。昨日よりも少し疲れた表情をしている。
「昨夜、何かありましたか」
「……影が、また動いた」
老人は廊下の奥を指さした。
「三時ごろじゃ。あそこに、誰かが立っておった。いや、正確には“影だけ”が立っておった」
「影だけ……?」
「うむ。人の形をしておるのに、身体がない。影だけが、そこにおる。光源とは関係なく、勝手に揺れる」
透は昨夜の光景を思い出した。
「桐谷さん。影は、何をしていたんですか」
「わしを見ておった」
老人の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。
「影が、わしのほうを向いておった。目はないはずなのに、確かに“見られている”と感じた」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「怖くはなかったんですか」
「怖かったとも。だが、それ以上に……気になった」
「気になった?」
「影は、わしに何かを伝えようとしておるように見えた。言葉ではなく、形で」
透は息を呑んだ。
「形で……?」
「うむ。影が揺れるとき、輪郭が変わるじゃろう。あれは、ただの揺れではない。何かの“形”を作ろうとしておる」
透は昨夜の影を思い出した。
確かに、影は人の形に近づいていた。
だが、完全な人の形ではなかった。
輪郭が曖昧で、揺れ続けていた。
「管理人さん」
老人は透の目をまっすぐに見た。
「あれは、向こう側の存在じゃ」
「向こう側……?」
「境界の向こうにいるもの。わしらとは違う場所にいるものじゃ」
透は言葉を失った。
「影は、向こう側の“痕跡”じゃよ。完全にこちらに来ることはできん。だが、境界が揺れると、影だけが漏れ出す」
透は胸の奥が重くなるのを感じた。
「影が漏れ出す……」
「そうじゃ。影は、向こう側の存在の“形の残りかす”みたいなものじゃ。だが、あれが濃くなれば、いずれ形を持つ」
透は息を呑んだ。
「形を……持つ?」
「うむ。影が濃くなり、揺れが大きくなれば、向こう側のものがこちらに触れてくる。前の管理人は、それを追いかけすぎたんじゃろう」
透は言葉を失った。
影は、ただの影ではない。
境界の向こう側の存在の“痕跡”。
それが揺れ、形を変え、こちらに近づいている。
午後、透は二階の廊下を歩いていた。二〇四号室の少女――あおいの様子を確認するためだ。
ドアをノックすると、あおいが顔を半分だけ覗かせた。
「……管理人さん?」
「昨日のことが気になって。大丈夫でしたか」
あおいは小さく頷いたが、その表情には疲れが滲んでいた。
「……眠れませんでした。部屋の空気が、ずっと重くて」
「影は?」
「……見えませんでした。でも、気配はありました」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「何かあったら、すぐに呼んでください」
「……はい」
あおいは静かに頷いた。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈影は向こう側の存在の痕跡である可能性〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
夕暮れの光が廊下に長い影を落としている。
その影が、ほんのわずかに揺れた。
透は目を凝らした。
影は、昨日よりも濃かった。
そして――
その揺れは、確かに“境界の揺れ”だった。
第11話 201号室・未来を書く青年
第二章に入る朝、透は管理人室の窓を開けた。冬の冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた昨夜の重さを少しだけ薄めてくれる。境界の揺れは確実に強まっている。影は濃くなり、住人の部屋にまで侵入し始めた。
だが、今日の透にはもうひとつ気になることがあった。
――二〇一号室の青年。
入居名簿には「佐野悠斗(さの・ゆうと)」とある。二十代前半。職業欄は空白。入居してから半年ほど経つが、管理会社の記録にはほとんど情報が残っていない。
そして、昨日。
郵便受けに、彼宛ての封筒が一通だけ届いていた。
差出人は「未来編集社」。
聞いたことのない出版社だった。
透は封筒を持ち、二階へ向かった。
二〇一号室の前に立ち、透はノックした。
「管理人です。郵便物が届いています」
しばらくして、ドアが静かに開いた。
現れたのは、細身の青年だった。黒髪は少し伸び、目の下には薄い影がある。だが、その瞳は妙に澄んでいた。透を見ると、青年は小さく会釈した。
「……ありがとうございます」
「佐野さんでよろしいですか」
「はい。悠斗で大丈夫です」
青年は封筒を受け取り、しばらく眺めていた。封筒の文字を指でなぞるようにして、何かを確かめるような仕草だった。
「差し支えなければ……お仕事、作家さんですか?」
透が尋ねると、青年は少しだけ笑った。
「作家……と言えるほどではありません。でも、書いています。未来のことを」
「未来?」
「はい。僕は“未来を書く”んです」
透は言葉の意味を測りかねた。
「未来を書く……とは?」
「そのままの意味ですよ。僕が書いた未来は、必ずどこかで現実になるんです」
青年は淡々と言った。冗談を言っているようには見えなかった。
「たとえば、昨日書いたことが今日起きたり。数ヶ月後に起きたり。時間はまちまちですけど……書いたことは、必ずどこかで現れるんです」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「それは……予知、ということですか」
「予知じゃありません。僕が“書く”んです。書いた未来が、現実になる」
青年は部屋の奥を指さした。
「見ますか?」
透は迷ったが、頷いた。
部屋の中は整然としていた。机の上にはノートが何冊も積まれ、壁にはカレンダーとメモが貼られている。どれも細かい文字で埋め尽くされていた。
青年は一冊のノートを開き、透に見せた。
〈二月十二日 管理人が影を見る〉
透は息を呑んだ。
「これ……昨日のことですよね」
「はい。書いたのは三日前です」
青年は淡々と答えた。
「僕は、未来を書くとき、必ず“誰かの視点”が浮かぶんです。昨日は、あなたの視点でした」
透は言葉を失った。
「どうして……僕の未来を?」
「分かりません。でも、最近はあなたの未来ばかり浮かぶんです。まるで、あなたが“中心”にいるみたいに」
青年はノートを閉じ、透を見た。
「管理人さん。あなたは、選ばれたんですよ」
「選ばれた……?」
「境界に触れる役目を。僕には、それが分かるんです」
透は胸の奥が冷えるのを感じた。
「どうして、僕が」
「理由は分かりません。でも、未来はあなたを中心に動いている。境界も、影も、住人たちの運命も」
青年は机の引き出しから、もう一冊のノートを取り出した。
「これを見てください」
透はノートを受け取り、ページを開いた。
〈三月三日 境界が開く〉
〈三月五日 管理人が“向こう側”を見る〉
〈三月七日 選別が始まる〉
透は息を呑んだ。
「これは……未来、なんですか」
「はい。まだ確定ではありません。でも、強い未来です。書いた瞬間に、胸の奥が重くなるような……そんな未来です」
青年は静かに続けた。
「管理人さん。あなたは、境界に選ばれたんです。前任者も、そうでした」
透はノートを閉じ、深く息を吸った。
「僕は……どうすればいいんですか」
「未来は変えられます。でも、書かれた未来は“必ず何かの形で現れる”。それをどう受け止めるかは、あなた次第です」
青年は透をまっすぐに見た。
「境界は、あなたを試しています」
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈二〇一号室の青年、未来を書く能力を持つ〉
〈管理人が影を見る未来を事前に記述〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに濃かった。
第12話 103号室・二つの未来を見た夫婦
201号室の青年――未来を書く悠斗との対話から一夜明け、透は管理人室の窓を開けた。冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。だが、胸のざわめきは消えなかった。
〈三月三日 境界が開く〉
〈三月五日 管理人が“向こう側”を見る〉
悠斗のノートに書かれていた未来。
それは、ただの予言ではなく“書かれた未来”だ。
必ず何かの形で現れる。
透は深く息を吸い、今日の巡回に出た。
一階の廊下を歩いていると、103号室の前で足が止まった。
ドアの前に、紙袋がひとつ置かれている。中には、花束と小さな箱が入っていた。
「……プレゼント?」
透が紙袋を手に取ろうとしたとき、ドアが静かに開いた。
「あ、管理人さん……」
顔を出したのは、若い女性だった。二十代後半ほど。髪を後ろで束ね、目の下には薄い影が落ちている。だが、その表情にはどこか優しさがあった。
「すみません、これ……夫への誕生日プレゼントなんですけど、渡すタイミングを逃してしまって」
「ご主人は……?」
「仕事です。今日は遅くなるみたいで」
女性は少しだけ笑ったが、その笑みはどこかぎこちなかった。
「よかったら、中で少しお話ししませんか。夫のことで……相談があって」
透は頷き、部屋に入った。
103号室は、温かい雰囲気の部屋だった。
壁には夫婦の写真が飾られ、テーブルには二人で使っているらしいマグカップが並んでいる。
だが、その温かさの奥に、わずかな“歪み”があった。
女性――美咲(みさき)は、ソファに座りながら言った。
「夫……最近、未来が二つ見えるって言うんです」
「未来が……二つ?」
「はい。ひとつは、私と一緒に笑っている未来。もうひとつは……私がいない未来」
透は息を呑んだ。
「ご主人は……どちらの未来を?」
「分からないって言うんです。どちらも“本物”に見えるって」
美咲は手を握りしめた。
「でも……最近は、もうひとつの未来のほうが強く見えるって」
「もうひとつの未来……?」
「私がいない未来です」
透は言葉を失った。
「夫は、私が死ぬ未来を見ているんです」
美咲の声は震えていた。
「でも、私は元気です。病気でもない。なのに……夫は“未来が二つに割れた”って」
透は静かに頷いた。
「ご主人は……その未来を信じているんですか」
「信じたくない。でも、見えてしまうんだと思います。夫は嘘をつく人じゃないから」
美咲は涙を拭い、続けた。
「昨日、夫が言ったんです。“美咲が消える未来が、近づいている”って」
透の胸に冷たいものが落ちた。
「消える……?」
「はい。死ぬんじゃなくて、“消える”って。存在が薄くなるように、未来から私が消えていくって」
透は、境界の影を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
「美咲さん。ご主人は今どちらに?」
「仕事です。でも……」
美咲は視線を落とした。
「最近、帰ってこない日があるんです。未来が二つに割れてから、夫は……どちらの未来にいるのか分からなくなるって」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「帰ってこない……?」
「はい。部屋の空気が、夫の“いる未来”と“いない未来”で変わるんです。昨日は……夫の気配が薄かった」
透は息を呑んだ。
気配が薄くなる。
存在が揺れる。
未来が二つに割れる。
それは、境界の揺れと同じ現象だった。
「美咲さん。ご主人は、未来が二つに割れた理由を何か……」
「言っていました。“境界が揺れている”って」
透は目を見開いた。
「境界……?」
「はい。夫は言いました。“境界が揺れると、人の未来も揺れる”って」
美咲は透を見つめた。
「管理人さん。夫は……このマンションの“揺れ”に巻き込まれているんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、人の未来さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈103号室の夫婦、未来が二つに分岐〉
〈妻が“消える未来”が強く見えるとの証言〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第13話 402号室・音のない世界の女性
103号室の夫婦の「二つの未来」の話を聞いた翌朝、透は管理人室の窓を開けた。冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来だけでなく“存在そのもの”に干渉している。
そう確信せざるを得ない出来事が続いていた。
今日の巡回は四階から始めることにした。
理由は分からない。だが、胸の奥で何かが「上へ行け」と囁いているような感覚があった。
エレベーターを降りると、四階の廊下は異様なほど静かだった。
蛍光灯の光が均一に落ちているのに、音が吸い込まれていくような感覚がある。
透は歩きながら、ふと気づいた。
――自分の足音が、聞こえない。
床を踏んでいる感覚はある。
だが、音がしない。
まるで、廊下そのものが音を拒んでいるようだった。
透は立ち止まり、耳を澄ませた。
静寂。
ただの静けさではない。
“音が存在しない”静寂。
そのとき、402号室のドアが静かに開いた。
「……管理人さん?」
現れたのは、三十代前半ほどの女性だった。
長い髪を後ろで束ね、白いカーディガンを羽織っている。
だが、その表情には深い疲れが滲んでいた。
「おはようございます。何かありましたか」
透が声をかけると、女性はゆっくりと首を振った。
「……聞こえないんです」
「聞こえない?」
「はい。昨日から……音が、全部」
透は息を呑んだ。
「全部……ですか」
「ええ。外の音も、部屋の音も、自分の声も。何も聞こえないんです」
女性は唇を震わせた。
「耳が悪くなったわけじゃありません。病気でもない。昨日までは普通に聞こえていました。でも……突然、世界から音が消えたんです」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「病院には?」
「行きました。でも、異常はないと言われました。聴力検査も問題なし。なのに……」
女性は透の口元を見つめた。
「あなたの声も、聞こえていません。口の動きで分かるだけです」
透は言葉を失った。
「……いつからですか」
「昨日の夜です。突然、ぱたりと。まるで、世界の音が“切り替わった”みたいに」
透は、昨夜の境界の揺れを思い出した。
影が濃くなり、廊下の空気が震えた瞬間があった。
「部屋の中で、何か変わったことは?」
「あります」
女性はドアを開き、透を部屋に招いた。
402号室は整然としていた。
白い家具、観葉植物、整えられた本棚。
だが、部屋に入った瞬間、透は違和感を覚えた。
――音が、ない。
廊下以上に、完全な静寂。
自分の呼吸音さえ聞こえない。
女性は机の上のノートを指さした。
「これを……見てください」
透はノートを開いた。
〈音が消えた〉
〈世界が遠い〉
〈影が揺れている〉
〈音が影に吸われている〉
透は息を呑んだ。
「影……?」
「はい。昨日の夜、部屋の隅に影がありました。揺れていて……その影の近くに行くと、音が消えるんです」
透は部屋の隅を見た。
そこには、黒い影が落ちていた。
光源はない。
家具の影でもない。
影は、ゆっくりと揺れていた。
透は近づいた。
その瞬間――
世界の音が、完全に消えた。
透は思わず後ずさった。
影から離れると、わずかに自分の呼吸音が戻ってくる。
「……影が、音を奪っている」
女性は唇を震わせた。
「そうなんです。影が揺れるたびに、音が消えていく。昨日は部屋の隅だけでした。でも今日は……廊下まで広がっている」
透は影を見つめた。
影は、昨日よりも濃かった。
輪郭が曖昧で、揺れ続けている。
まるで、何かが“形になろうとしている”ようだった。
「管理人さん……」
女性は透の袖を掴んだ。
「私の世界は、音が消えていくんです。このまま……全部、消えてしまうんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、人の感覚さえも奪う。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈402号室の女性、突然音が聞こえなくなる〉
〈聴力に異常なし〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第14話 305号室・死に際の声を聞く看護師
402号室の女性が「音を奪われた」翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来だけでなく、感覚にも干渉している。
そして――今日は、さらに深い領域へ踏み込むことになる。
巡回の途中、透は三階の廊下で足を止めた。
305号室の前に、誰かが立っていた。
白いナース服。
肩までの黒髪。
背筋の伸びた女性。
彼女は、ドアノブに触れたまま動かず、透のほうを振り返った。
「……管理人さん、ですよね」
落ち着いた声だったが、その奥に微かな震えがあった。
「はい。何かありましたか」
「……声が、聞こえるんです」
透は息を呑んだ。
「声?」
「ええ。死に際の声です」
女性は静かに言った。
「私は看護師です。病院で働いています。でも……ここに来てから、病院では聞こえない“声”が聞こえるようになったんです」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「どんな声なんですか」
「亡くなる直前の人の声です。息が途切れる瞬間の、最後の言葉。病院では何度も聞いてきました。でも……ここで聞こえる声は、病院のものじゃない」
女性はドアを開け、透を部屋に招いた。
305号室は整然としていた。
白い家具、整えられたベッド、机の上には医学書が並んでいる。
だが、部屋に入った瞬間、透は空気の重さを感じた。
女性――名札には「高梨(たかなし)」と書かれていた――は、窓際に立ち、外を見つめた。
「昨日の夜です。突然、部屋の中で声がしました」
「どんな声でしたか」
「……“助けて”と」
透は息を呑んだ。
「それは……誰の声なんですか」
「分かりません。でも、病院で聞いたどの声とも違う。もっと……遠い声でした。まるで、どこか別の場所から届いているみたいな」
高梨は静かに続けた。
「最初は気のせいだと思いました。でも、次の瞬間――」
彼女は部屋の隅を指さした。
「そこに、影が立っていました」
透は影を見た。
光源とは無関係に落ちている黒い影。
輪郭が曖昧で、揺れている。
昨日の402号室の影よりも濃い。
「影は……何を?」
「声を出していました」
透は言葉を失った。
「影が……声を?」
「ええ。影の中から、死に際の声が聞こえるんです。病院で亡くなった人の声じゃない。もっと……“消えた人”の声です」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「消えた人……?」
「はい。存在が薄れて、誰にも気づかれずに消えていく人。病院ではなく、どこにも記録されない死。そんな声が、影の中から聞こえるんです」
高梨は手を握りしめた。
「私は看護師です。死に際の声には慣れているつもりでした。でも……あの声は違う。あれは“死”ではなく、“消失”の声です」
透は影に近づいた。
その瞬間――
影が、わずかに揺れた。
そして、透の耳に、かすかな声が届いた。
〈……たす……け……〉
透は息を呑んだ。
声は、影の奥から聞こえていた。
人の声だ。
だが、どこか歪んでいる。
まるで、存在そのものが崩れかけているような声。
「これが……毎晩聞こえるんです」
高梨は震える声で言った。
「私は看護師として、誰かの最期を見届けることはできます。でも……“消える人”の声は、どうすればいいのか分からない」
透は影を見つめた。
影は、昨日よりも濃かった。
輪郭が曖昧で、揺れ続けている。
まるで、何かが“こちらへ来ようとしている”ようだった。
「管理人さん……」
高梨は透を見つめた。
「このマンションには、死に際の声ではなく、“消える声”が集まっているんじゃないでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、人の“死”ではなく、“存在の消失”に干渉している。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈305号室の看護師、高梨氏より“消える声”の証言〉
〈影が声を発している可能性〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第15話 502号室・逃げ続ける男
305号室の看護師が“消える声”を聞いた翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、さらに別の形でその影響が現れる。
巡回の途中、透は五階へ向かった。
502号室の住人――「逃げ続ける男」の噂が、管理会社の記録に残っていたからだ。
エレベーターを降りると、五階の廊下は異様なほど静かだった。
空気が張りつめ、どこか“追われている”ような緊張感が漂っている。
透は502号室の前に立ち、ノックした。
「管理人です。何かお困りごとはありませんか」
しばらくして、ドアが少しだけ開いた。
「……誰だ」
低く、かすれた声。
ドアの隙間から覗いた男の目は、異様に疲れていた。
黒いクマ、荒れた髪、痩せた頬。
だが、その瞳だけが異様に鋭い。
「管理人の三崎です。巡回で伺いました」
「……入れ」
男は短く言い、透を部屋に招いた。
502号室は、ほとんど家具がなかった。
ベッド、机、椅子。それだけ。
段ボール箱がいくつも積まれ、すぐにでも逃げ出せるような生活だった。
「……すみません、散らかってて」
男は椅子に座り、深く息を吐いた。
「俺は……逃げてるんです」
「逃げている?」
「はい。ずっと。何年も」
透は静かに頷いた。
「何から逃げているんですか」
男はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「“影”です」
透は息を呑んだ。
「影……?」
「ええ。俺を追ってくる影。どこへ行っても、必ず現れる。光とは関係なく、勝手に揺れる影です」
透は昨夜の影を思い出した。
「いつから……追われているんですか」
「三年前です。ある日突然、部屋の隅に影が立っていた。最初は気のせいだと思った。でも、影は俺のほうへ近づいてきた」
男は手を握りしめた。
「逃げても逃げても、影は追ってくる。引っ越しても、街を変えても、国を変えても……影は必ず現れる」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「このマンションに来てからは……どうですか」
「影は……近いです」
男は震える声で言った。
「ここに来てから、影の距離が縮まった。今までで一番近い。まるで……“ここが終点だ”と言われているみたいに」
透は部屋の隅を見た。
そこには、黒い影が落ちていた。
光源とは無関係に揺れ、輪郭が曖昧で、濃い。
「……あれですか」
「はい。あれが、俺を追ってきた影です」
男は立ち上がり、影を指さした。
「影は、俺の“罪”を追ってくるんです」
「罪……?」
「ええ。俺は……逃げたんです。大切な人を助けられなかった。あの日、俺は逃げた。だから影は、俺を追ってくる」
透は言葉を失った。
「影は、俺の後悔そのものなんです。逃げた罪が形になって、俺を追い続けている」
男は影を見つめた。
「でも……ここに来てから、影の形が変わったんです」
「変わった?」
「はい。影が……“人の形”に近づいている」
透は息を呑んだ。
「影は、俺を捕まえようとしている。ここが最後の場所なんです」
男は透を見つめた。
「管理人さん。俺は……逃げ切れると思いますか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、人の“罪”さえも形にする。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈502号室の男、影に追われ続けている〉
〈影は罪の形であり、逃げた過去を追ってくる〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第16話 101号室・忘れられた母親
502号室の男が“罪に追われている”と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、さらに別の形でその影響が現れる。
巡回の途中、透は一階の廊下で足を止めた。
101号室の前に、古いベビーカーが置かれていた。
埃をかぶっているが、最近動かしたような跡がある。
「……誰のだ?」
透がベビーカーを見ていると、101号室のドアが静かに開いた。
「管理人さん……?」
現れたのは、三十代半ばほどの女性だった。
髪は乱れ、目の下には深い影が落ちている。
だが、その瞳にはどこか“空白”のようなものがあった。
「おはようございます。何かありましたか」
透が声をかけると、女性はゆっくりと首を振った。
「……私、忘れられているんです」
「忘れられている?」
「はい。息子に」
透は息を呑んだ。
「息子さんは……?」
「います。小学生です。でも……最近、私のことを“知らない人”みたいに扱うんです」
女性は震える声で続けた。
「昨日なんて……“あなた誰?”って言われました」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「何か……きっかけは?」
「分かりません。でも、ここに引っ越してきてからです。息子の記憶が……少しずつ、私から離れていくんです」
女性はベビーカーを見つめた。
「これ、息子が赤ちゃんのときに使っていたものです。ずっと大切にしてきました。でも……昨日、息子に見せたら、“こんなの知らない”って」
透は静かに頷いた。
「息子さんは……他のことは覚えているんですか」
「はい。学校のことも、友達のことも、好きなアニメも。でも……“私との記憶だけ”が消えていくんです」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「それは……記憶喪失というより……」
「“私が消えていく”みたいなんです」
女性は透を見つめた。
「息子の世界から、私だけが薄くなっていく。存在が……揺れているみたいに」
透は影の現象を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
「部屋の中で、何か変わったことは?」
「あります」
女性はドアを開き、透を部屋に招いた。
101号室は、どこか“空白”の多い部屋だった。
家具は揃っているが、壁に飾られた写真の多くが“ぼやけて”いる。
透は写真を手に取った。
母親と幼い息子が写っている。
だが――息子の顔だけが、ぼんやりと滲んでいた。
「これ……」
「全部、こうなってしまったんです。息子の顔だけが、写真から消えていくんです」
透は息を呑んだ。
「息子さんは……今どちらに?」
「学校です。でも……」
女性は視線を落とした。
「昨日、息子が言ったんです。“お母さんは、前にいた人だよね?”って」
透は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「前にいた人……?」
「はい。まるで、私が“過去の誰か”みたいに」
女性は震える声で続けた。
「管理人さん……私は、息子の記憶から消えてしまうんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、人の“記憶”さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈101号室の母親、息子の記憶から消えつつある〉
〈写真から息子の顔が消える現象〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第17話 403号室・写真を撮り続ける青年
101号室の母親が「記憶から消えつつある」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“記録”にまで影響が及ぶ。
巡回の途中、透は四階の廊下で足を止めた。
403号室の前に、三脚が立てられていた。
カメラが固定され、廊下の一点を向いている。
「……誰のだ?」
透が三脚を覗き込んだとき、部屋のドアが開いた。
「あ、すみません。そこ、撮影中で」
現れたのは、二十代前半ほどの青年だった。
黒いパーカー、無造作な髪、首からはカメラが下がっている。
だが、その瞳は異様に鋭く、何かを“追いかけている”ようだった。
「管理人の三崎です。撮影……ですか?」
「はい。僕、写真を撮ってるんです。ずっと」
青年は軽く笑ったが、その笑みはどこか張りつめていた。
「よかったら、中で話しませんか。見せたいものがあるんです」
透は頷き、部屋に入った。
403号室は、壁一面に写真が貼られていた。
廊下、階段、エントランス、郵便受け、影。
どれも、このマンションの内部を撮ったものだった。
「すごい量ですね……」
「はい。毎日撮ってます。ここに来てから、写真が“変わる”ようになったので」
青年は机の上のアルバムを開いた。
「これ、三日前に撮った廊下です」
透は写真を見た。
普通の廊下の写真――のはずだった。
だが、写真の奥に、黒い影が写っていた。
「……影が」
「そうです。でも、これを見てください」
青年は同じ場所を翌日に撮った写真を見せた。
影が、少しだけ“前に”出ていた。
「位置が……違う?」
「はい。僕はカメラを固定して撮っています。設定も同じ。でも、影だけが動くんです」
透は息を呑んだ。
「さらに、昨日の写真がこれです」
青年は三枚目の写真を見せた。
影は、明らかに“人の形”に近づいていた。
「……これは」
「影が、近づいてきてるんです。僕に」
青年は静かに言った。
「最初は気のせいだと思いました。でも、写真を撮るたびに影が前に出てくる。まるで、僕を追っているみたいに」
透は影の現象を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
「どうして……影を撮り続けているんですか」
「撮らないと、もっと近づいてくるからです」
青年は壁の写真を指さした。
「影は、撮ると“少しだけ”動きが遅くなるんです。写真に記録されると、影の進行が止まる。だから僕は、毎日撮り続けてるんです」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「影は……あなたを狙っている?」
「はい。僕は……“見てしまった”んです」
「何を?」
「境界の向こう側を」
透は息を呑んだ。
「三ヶ月前、夜中に廊下で影を見ました。揺れていて、形が曖昧で……でも、その奥に“何か”がいたんです。影の向こう側に、別の世界が」
青年は震える声で続けた。
「その日から、影は僕を追ってくるようになりました。僕が見たものを“消すため”に」
透は言葉を失った。
「だから、写真を撮り続けてるんです。影を記録して、動きを遅らせるために。でも……」
青年はカメラを握りしめた。
「最近、影の動きが速くなってきたんです。写真に写っても、すぐに前に出てくる。まるで……境界が揺れているみたいに」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「管理人さん。影は……僕を消しに来てるんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“記録”さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈403号室の青年、影を撮り続けている〉
〈写真の中で影が前に出てくる〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第18話 202号室・夢を売る占い師
403号室の青年が「影を撮り続けている」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶・記録へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“夢”にまで影響が及ぶ。
巡回の途中、透は二階の廊下で足を止めた。
202号室の前に、奇妙なカードが落ちていた。
〈夢、買います〉
〈あなたの見た夢、査定します〉
〈202号室 夢占い・夢買取〉
「……夢を買う?」
透がカードを拾い上げたとき、202号室のドアが静かに開いた。
「それ、私のです」
現れたのは、三十代前半ほどの女性だった。
長い黒髪、深い紫のワンピース、指にはいくつもの指輪。
その瞳はどこか“夢の奥”を見ているようだった。
「管理人の三崎です。こちらは……?」
「夢を扱う仕事をしています。占い師、と言えば分かりやすいでしょうか」
女性は微笑んだ。
「よかったら、中でお話ししませんか。あなたに見せたいものがあります」
透は頷き、部屋に入った。
202号室は、まるで異国の部屋のようだった。
薄暗い照明、香の匂い、壁にはタロットカードが並び、机の上には水晶玉が置かれている。
「私は、夢を“読む”ことができます」
女性は椅子に座り、透を見つめた。
「そして、夢を“買う”ことも」
「買う……?」
「はい。人が見た夢には価値があります。未来の断片、過去の残響、心の奥の願い……夢は、その人の“境界”を映す鏡です」
透は息を呑んだ。
「最近、このマンションの住人の夢が……変なんです」
女性は机の引き出しからノートを取り出した。
「これ、住人の方々から買い取った夢の記録です」
透はノートを開いた。
〈影が揺れている夢〉
〈廊下の奥に誰かが立っている夢〉
〈部屋の隅に黒い穴が開く夢〉
〈境界が開く夢〉
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「これは……」
「ええ。みなさん、同じ夢を見るんです。影、揺れ、境界……。まるで、夢の中に“同じ場所”があるみたいに」
女性は静かに続けた。
「そして、最近はもっと奇妙な夢が増えてきました」
彼女は別のページを開いた。
〈管理人が境界に立っている夢〉
〈管理人が影に触れる夢〉
〈管理人が向こう側を見る夢〉
透は息を呑んだ。
「これは……僕?」
「はい。住人の多くが、あなたの夢を見ています」
透は言葉を失った。
「あなたは、境界に選ばれた人です。夢の中で、住人たちはそれを“見ている”んです」
女性は透を見つめた。
「そして……あなた自身の夢も、変わってきているはずです」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「……確かに、最近は変な夢を見ます。影が揺れていたり、廊下が歪んでいたり」
「それは、境界があなたに近づいている証拠です」
女性は水晶玉に手を置いた。
「夢は、境界の“予告”です。現実よりも先に、夢が揺れる。だから私は、夢を集めているんです」
「何のために?」
「境界が開く日を知るために」
透は息を呑んだ。
「境界が……開く?」
「はい。夢の揺れが強くなっている。影の濃度も上がっている。住人の夢が同じ方向を向いている。これは……“前兆”です」
女性は静かに続けた。
「管理人さん。あなたは、境界が開く瞬間に立ち会うことになります」
透は言葉を失った。
「そして……あなたの夢も、もうすぐ“向こう側”に触れるでしょう」
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈202号室の占い師、住人の夢を買い取っている〉
〈住人の夢に共通して“影・揺れ・境界”が現れる〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第19話 303号室・時間が止まった男
202号室の占い師が「夢は境界の予告」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶・記録・夢へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“時間”にまで影響が及ぶ。
巡回の途中、透は三階の廊下で足を止めた。
303号室の前に、古い腕時計が落ちていた。
秒針は、ぴたりと止まっている。
「……壊れてる?」
透が腕時計を拾い上げたとき、303号室のドアが静かに開いた。
「それ……僕のです」
現れたのは、三十代前半ほどの男性だった。
白いシャツ、無精ひげ、疲れた目。
だが、その瞳にはどこか“時間の外”にいるような空虚さがあった。
「管理人の三崎です。時計が落ちていたので」
「ありがとうございます。でも……それ、壊れてるんじゃなくて、“止まってる”んです」
透は首をかしげた。
「壊れているのと、止まっているのは……違うんですか」
「違います。僕の時間が、止まってるんです」
透は息を呑んだ。
「よかったら、中で話しませんか」
男性は静かに言い、透を部屋に招いた。
303号室は、どこか“時間が流れていない”ような部屋だった。
カーテンは閉じられ、空気は動かず、時計はすべて止まっている。
壁のカレンダーは、三ヶ月前のままだった。
「……全部、止まってるんですか」
「はい。僕が触るものは、全部」
男性は机の上の置時計を指さした。
「これ、昨日までは動いていました。でも、僕が触った瞬間に止まったんです」
透は時計を手に取った。
秒針は、ぴたりと止まっている。
だが、壊れているようには見えない。
「いつから……こうなったんですか」
「三週間前です。突然、時間が“遅く”感じるようになりました。周りの人の動きが速く見える。自分だけが、ゆっくりになっていく」
男性は手を握りしめた。
「そして……ある日、完全に止まったんです」
「止まった?」
「はい。僕の時間だけが、止まった。周りは動いているのに、僕だけが動けない。息をするのも遅くなる。心臓の鼓動も……遠くなる」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「病院には?」
「行きました。でも、異常なし。脳も心臓も問題ない。でも……僕の“時間”だけが止まっている」
男性は窓の外を見つめた。
「そして……影が現れたんです」
透は息を呑んだ。
「影……?」
「はい。部屋の隅に、黒い影が立っていました。揺れていて、形が曖昧で……でも、影の中だけは“時間が動いていた”んです」
透は影の現象を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
「影は……何を?」
「僕を見ていました。まるで、僕の時間が止まるのを“待っている”みたいに」
男性は震える声で続けた。
「影が近づくと、僕の時間はさらに遅くなる。影が離れると、少しだけ戻る。でも……最近は、影がずっと近くにいるんです」
透は影の位置を確認した。
部屋の隅に、黒い影が落ちていた。
光源とは無関係に揺れ、輪郭が曖昧で、濃い。
「……あれですか」
「はい。あれが、僕の時間を止めているんです」
透は影に近づいた。
その瞬間――
影の揺れが、わずかに速くなった。
そして、透の腕時計が“止まった”。
透は息を呑んだ。
「……今、止まりましたよね」
「はい。影の近くでは、時間が止まるんです」
男性は透を見つめた。
「管理人さん。僕は……このまま“時間の外”に落ちてしまうんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“時間”さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈303号室の男性、時間が止まる現象〉
〈影の近くで時間が停止〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第20話 501号室・双子の片割れ
303号室の男が「時間が止まった」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶・記録・夢・時間へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“関係性”にまで影響が及ぶ。
巡回の途中、透は五階の廊下で足を止めた。
501号室の前に、古い写真が落ちていた。
幼い双子の兄弟が写っている。
だが――片方の顔だけが、ぼんやりと滲んでいた。
「……また、顔が消えている」
透が写真を拾い上げたとき、501号室のドアが静かに開いた。
「それ……僕のです」
現れたのは、二十代後半ほどの男性だった。
黒いパーカー、疲れた目、だがその奥に深い孤独があった。
「管理人の三崎です。写真が落ちていたので」
「ありがとうございます。でも……それ、最近こうなるんです」
男性は写真を受け取り、滲んだ部分を指でなぞった。
「弟の顔だけが、消えていくんです」
透は息を呑んだ。
「弟さんは……?」
「います。双子です。でも……最近、弟の存在が“薄く”なってきているんです」
男性は部屋の中へ透を招いた。
501号室は、どこか“空白”の多い部屋だった。
家具は揃っているが、壁に貼られた写真の多くが“片方だけ”滲んでいる。
「これ、全部……?」
「はい。弟と写っている写真は、全部こうなります。弟の顔だけが、ぼやけていく」
男性は深く息を吐いた。
「最初は写真だけでした。でも……最近は、もっとおかしなことが起きているんです」
「どんなことですか」
「弟の声が、聞こえなくなってきたんです」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「電話をしても、声が遠い。まるで、別の場所から話しているみたいに。いや……別の“世界”から、かもしれません」
男性は窓の外を見つめた。
「そして……影が現れたんです」
透は息を呑んだ。
「影……?」
「はい。弟の部屋に。弟が送ってきた写真に、影が写っていたんです。揺れていて、形が曖昧で……でも、影の中に“誰か”が立っているように見えた」
透は影の現象を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
「弟さんは……何か言っていましたか」
「“最近、時間がずれる”って。僕と話しているとき、突然沈黙したり、声が遅れたりする。まるで……弟の時間だけが揺れているみたいに」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「弟さんは、どこに?」
「地方に住んでいます。でも……」
男性は震える声で続けた。
「昨日、弟からメッセージが来たんです。“お前の世界と、俺の世界がずれてきてる”って」
透は言葉を失った。
「そして……最後のメッセージがこれです」
男性はスマートフォンを見せた。
〈影が、近い〉
〈お前のほうへ行くかもしれない〉
〈片割れは、つながってるから〉
透は息を呑んだ。
「弟さんは……影に?」
「はい。弟は、影に“触れた”んです。だから、弟の存在が揺れている。写真から消え、声が遠くなり、時間がずれ……そして、影がこちらに来ようとしている」
男性は透を見つめた。
「管理人さん。僕は……弟の“片割れ”です。双子は、どこかでつながっている。だから……弟が消えれば、僕も消えるんじゃないかって」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“つながり”さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈501号室の男性、双子の弟の存在が揺れている〉
〈写真から弟の顔が消える〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第21話 102号室・嘘しか言えない男
501号室の男性が「双子の片割れが揺れている」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶・記録・夢・時間・関係性へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“言葉”にまで影響が及ぶ。
巡回の途中、透は一階の廊下で足を止めた。
102号室の前に、メモが落ちていた。
〈本当のことが言えない〉
〈口を開くと嘘になる〉
〈助けてほしい〉
「……これは」
透がメモを拾い上げたとき、102号室のドアが静かに開いた。
「……管理人さん?」
現れたのは、三十代前半ほどの男性だった。
スーツ姿だが、ネクタイは乱れ、目の下には深い影が落ちている。
その瞳はどこか怯えていた。
「おはようございます。メモが落ちていたので」
「……ああ、それは……違います。僕のじゃありません」
透は眉をひそめた。
「でも、あなたの名前が書いてあります」
「いえ、書いてません。僕は字が読めないんです」
透はメモを見た。
はっきりと、男性の名前が書かれている。
「……読めてますよね?」
「読めません。僕は……目が悪いので」
男性は視線を逸らした。
その瞬間、透は気づいた。
――この男は、嘘をついている。
だが、それは“意図的な嘘”ではない。
「よかったら、中で話しませんか」
「いえ、忙しいので暇です」
矛盾した言葉。
男性自身も気づいていないようだった。
透は静かに言った。
「……あなた、嘘しか言えないんですか」
男性は一瞬だけ目を見開き、そして――笑った。
「そんなことありません。僕は嘘なんてつけませんよ」
その言葉も、嘘だった。
102号室は、整然としていた。
だが、どこか“空白”の多い部屋だった。
机の上にはメモが散乱している。
〈本当のことを書け〉
〈口にすると嘘になる〉
〈書けば真実になる〉
透はメモを手に取った。
「これは……?」
「僕が書いたんじゃありません。勝手に増えるんです」
男性は震える声で言った。
「僕は……嘘しか言えないんです。口を開くと、全部嘘になる。真実を言おうとしても、言葉が勝手に嘘に変わる」
「いつからですか」
「昨日からです。いや……もっと前かもしれません。僕は嘘なんてついたことがありませんから」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「嘘をついたことがない……?」
「はい。僕は正直者です。誰にも嫌われたことがありません」
その言葉も、嘘だった。
「病院には?」
「行きました。でも、医者は僕を褒めてくれました。“あなたは健康そのものだ”って」
透は息を呑んだ。
「本当に……?」
「ええ。本当です。僕は病気です」
男性は頭を抱えた。
「分かるんです。自分が嘘をついていることは。でも……止められない。口を開くと、真実が“反転”するんです」
透は影の現象を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
「部屋の中で、何か変わったことは?」
「あります」
男性は部屋の隅を指さした。
「影が……笑ってるんです」
透は息を呑んだ。
部屋の隅に、黒い影が落ちていた。
だが――影の“口元”だけが、わずかに歪んでいた。
「影は……僕の言葉を“反転”させているんです。僕が真実を言おうとすると、影が揺れて……言葉が嘘になる」
透は影に近づいた。
その瞬間――
影が、わずかに揺れた。
そして、男性が言った。
「管理人さん。あなたは……僕のことが嫌いですよね」
透は驚いた。
「そんなことは――」
「ほら、また嘘になった」
男性は笑った。
その笑みは、泣き出しそうなほど歪んでいた。
「管理人さん。僕は……真実を言えなくなるんでしょうか。このまま……“言葉の外”に落ちてしまうんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“言葉”さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈102号室の男性、嘘しか言えない現象〉
〈真実を言おうとすると言葉が反転する〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第22話 401号室・影のない女
102号室の男が「嘘しか言えない」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶・記録・夢・時間・関係性・言葉へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“影”そのものに異常が現れる。
巡回の途中、透は四階の廊下で足を止めた。
401号室の前に、女性が立っていた。
だが――
彼女の足元には、影がなかった。
「……え?」
透は思わず声を漏らした。
蛍光灯の光が均一に落ちている。
廊下には透自身の影も、壁の影も、手すりの影もある。
なのに、女性の足元だけが“空白”だった。
女性はゆっくりと振り返った。
「管理人さん……ですよね」
落ち着いた声だったが、その奥に微かな不安があった。
「おはようございます。何か……ありましたか」
「影が、ないんです」
透は息を呑んだ。
「いつから……?」
「昨日の夜です。突然、影が消えました」
女性は自分の足元を見つめた。
「最初は気のせいだと思いました。でも、どこへ行っても影ができない。光の下でも、夕日でも、部屋の灯りでも……影ができないんです」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「よかったら、中で話しませんか」
女性は静かに頷き、透を部屋に招いた。
401号室は整然としていた。
だが、部屋に入った瞬間、透は異様な違和感を覚えた。
――影が、少ない。
家具の影はある。
観葉植物の影もある。
だが、女性の影だけが、どこにもなかった。
「病院には?」
「行きました。でも、異常なし。光の問題でも、視覚の問題でもないと言われました」
女性は窓際に立ち、外を見つめた。
「影がないと……自分が“ここにいる”感じがしないんです。世界に触れていないような……そんな感覚になります」
透は影の現象を思い出した。
光とは無関係に揺れ、形を変え、存在が曖昧になる影。
あれは、向こう側の“痕跡”だった。
だが――
影が“ない”というのは、別の異常だ。
「部屋の中で、何か変わったことは?」
「あります」
女性は部屋の隅を指さした。
「影が……集まってくるんです」
透は息を呑んだ。
部屋の隅に、黒い影がいくつも重なっていた。
光源とは無関係に揺れ、輪郭が曖昧で、濃い。
まるで、女性の“影の代わり”がそこに集まっているようだった。
「影が……あなたから離れている?」
「はい。影が私から“剥がれて”いくんです。歩くたびに、影が遅れてついてきて……やがて、完全に離れてしまった」
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「影は……何を?」
「私を見ています」
女性は震える声で続けた。
「影は、私の“形”を真似しようとしているんです。揺れながら、少しずつ……私の輪郭に近づいていく」
透は影の塊を見つめた。
影は、ゆっくりと揺れていた。
その揺れは、女性の呼吸と同じリズムだった。
「管理人さん……」
女性は透を見つめた。
「私は、このまま“影のない存在”になってしまうんでしょうか。影が私の代わりに形を持って……私は、世界から薄れていくんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“存在の輪郭”さえも揺らす。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈401号室の女性、影が消失〉
〈影が本人から剥がれ、部屋の隅に集まる〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第23話 302号室・未来の自分からの手紙
401号室の女性が「影が剥がれた」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、未来・存在・感覚・生死・罪・記憶・記録・夢・時間・関係性・言葉・影へと干渉の範囲を広げている。
そして今日は、“未来そのもの”がこちらへ干渉してくる。
巡回の途中、透は三階の廊下で足を止めた。
302号室の前に、封筒が落ちていた。
〈三崎透 様〉
透は息を呑んだ。
「……僕宛て?」
封筒は古びており、紙はわずかに黄ばんでいる。
だが、差出人の欄には――
〈三崎透(未来)〉
透は手が震えるのを感じた。
302号室のドアが静かに開いた。
「それ……届きましたか」
現れたのは、四十代ほどの男性だった。
落ち着いた雰囲気だが、その瞳には深い疲れがあった。
「管理人の三崎です。これは……?」
「僕の部屋に、勝手に届くんです。未来からの手紙が」
透は封筒を見つめた。
「よかったら、中で話しませんか」
男性は静かに言い、透を部屋に招いた。
302号室は整然としていた。
だが、机の上には大量の封筒が積まれていた。
〈未来の自分からの手紙〉
〈未来の自分へ〉
〈未来の警告〉
透は息を呑んだ。
「これ……全部?」
「はい。ここに引っ越してきてから、毎日のように届くんです」
男性は一通の封筒を手に取った。
「最初は、未来の自分が書いた“予言”のような内容でした。仕事のこと、家族のこと、些細な出来事……全部、当たりました」
「未来が……書かれている?」
「はい。でも、最近は内容が変わってきたんです」
男性は別の封筒を開いた。
〈影が近づいている〉
〈境界が揺れている〉
〈管理人に伝えろ〉
〈三月三日、境界が開く〉
透は息を呑んだ。
「これは……」
「あなたに渡すように書かれていました。未来のあなたが、未来の僕に書いた手紙です」
透は言葉を失った。
「未来の僕が……?」
「はい。あなたは未来で“境界の管理人”になっている。手紙にはそう書かれています」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「未来の僕は……何を?」
「境界の崩壊を止めようとしている。手紙には、そう書かれています」
男性はさらに一通を開いた。
〈影は形を持つ〉
〈少女を守れ〉
透は息を呑んだ。
「少女……?」
「204号室の子です。未来のあなたは、彼女が“鍵”になると言っています」
透はあおいの顔を思い浮かべた。
影に怯え、部屋の空気が重くなり、存在が揺れ始めている少女。
「未来の僕は……どうしてこんな手紙を?」
「未来が“壊れかけている”からです」
男性は静かに言った。
「未来のあなたは、境界の崩壊を止められなかった。だから、過去のあなたに警告を送っている。未来を変えるために」
透は封筒を握りしめた。
「未来は……変えられるんですか」
「分かりません。でも、未来のあなたは“変えられる”と信じている。だから、手紙を送り続けている」
男性は透を見つめた。
「管理人さん。未来のあなたは、こう書いています」
男性は最後の封筒を開いた。
〈境界が開くとき、あなたは選ばれる〉
〈逃げるな〉
透は息を呑んだ。
未来の自分が書いた言葉。
未来から届いた警告。
境界の揺れが加速している証拠。
「管理人さん。未来は……あなたを中心に動いています」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“未来そのもの”をこちらへ押し出している。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈302号室に未来からの手紙が届く〉
〈未来の管理人(透)からの警告〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――確かに深かった。
第24話 404号室・存在しない部屋
302号室の男が「未来の自分からの手紙」を差し出した翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、頭の奥に残っていた重さを少しだけ薄めてくれる。
だが、胸のざわめきは消えなかった。
未来が過去へ干渉し始めている。
影は形を持とうとしている。
住人の存在は揺れ、時間は歪み、言葉は反転し、記憶は消え、夢は境界を映し始めた。
そして今日は――
“部屋そのもの”が揺らぐ。
巡回の途中、透は四階の廊下で足を止めた。
404号室の前に、ドアがなかった。
「……え?」
昨日まで確かにあったはずのドアが、跡形もなく消えている。
壁は綺麗に塗られ、最初から“部屋など存在しなかった”かのようだった。
透は壁に触れた。
冷たい。
固い。
ただの壁だ。
「404号室……」
名簿には確かに存在する。
鍵も渡されている。
管理会社の図面にも載っている。
だが、目の前には――何もない。
そのとき、背後から声がした。
「管理人さん」
振り返ると、桐谷老人が立っていた。
いつもの穏やかな表情だが、その目だけが鋭かった。
「404号室は……“存在しない部屋”じゃよ」
「存在しない……?」
「そうじゃ。あの部屋は、境界が揺れるたびに“現れたり消えたり”する。わしが若い頃にも、何度か見たことがある」
透は息を呑んだ。
「どういうことですか」
「境界が強く揺れると、向こう側の“空白”がこちらに滲み出す。404号室は、その空白の出口じゃ」
老人は壁を指さした。
「今は消えておるが、夜になれば現れるじゃろう。だが……開けてはならん」
「なぜですか」
「向こう側とつながっておるからじゃ。あそこは“部屋”ではない。“境界の穴”じゃよ」
透は壁を見つめた。
ただの壁。
だが、そこに“何か”がある気配がした。
管理人室に戻った透は、管理会社の図面を広げた。
404号室は確かに存在する。
部屋番号も、面積も、間取りも記載されている。
だが――
図面のその部分だけ、紙がわずかに波打っていた。
まるで、図面そのものが“揺れている”ように。
「……どういうことだ」
透は404号室の鍵を取り出した。
銀色の鍵は冷たく、重い。
だが、鍵の刻印が――揺れていた。
〈404〉
その数字が、見ているうちにぼやけ、
〈40〉
〈4〉
〈…〉
と、形を失っていく。
「……!」
透は思わず鍵を落とした。
床に落ちた鍵は、金属音を立てず、
“沈むように”床に吸い込まれた。
透は目を見開いた。
「……消えた?」
鍵は跡形もなく消えていた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
夜。
透は四階の廊下に立っていた。
蛍光灯の光が揺れ、廊下の影が長く伸びている。
昼間はただの壁だった場所に――
ドアがあった。
404号室のドア。
古びた木製の扉。
取っ手は黒く、鍵穴は深い。
透は息を呑んだ。
「……本当に、現れた」
桐谷老人の言葉どおりだった。
透はドアに近づいた。
ドアの表面は冷たく、湿っている。
まるで、向こう側の空気が滲み出しているようだった。
そのとき――
ドアの向こうから、音がした。
〈……たす……け……〉
透は背筋に冷たいものが走った。
死に際の声を聞く看護師が聞いた声。
影の奥から聞こえる“消える声”。
未来の手紙に書かれていた警告。
すべてが、この部屋につながっている。
透はドアノブに手を伸ばした。
だが――
その瞬間、背後から声がした。
「開けてはならん!」
桐谷老人だった。
老人は透の腕を掴み、強く引き戻した。
「開ければ……戻れんぞ」
透は息を呑んだ。
「……中には何が?」
「“向こう側”じゃ。境界の穴じゃ。あれは部屋ではない。存在しない部屋じゃ。開ければ……お前も存在を失う」
透はドアを見つめた。
ドアは静かに揺れていた。
まるで、呼吸しているように。
そして――
ドアの隙間から、黒い影が漏れ出した。
透は息を呑んだ。
影は、ゆっくりと廊下に広がり、
透の足元まで伸びてきた。
その影は、昨日よりも――
確かに濃かった。
第25話 201号室・戻ってきた青年
404号室が“存在しない部屋”として姿を現した翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込むが、胸のざわめきは消えなかった。
昨夜、404号室のドアの向こうから聞こえた声。
〈……たす……け……〉
あれは、影の奥から聞こえる“消える声”と同じ響きだった。
境界は確実に揺れている。
そして――誰かが、こちらへ近づいている。
透は深く息を吸い、巡回へ向かった。
二階の廊下に差しかかったとき、透は足を止めた。
201号室の前に、青年が立っていた。
未来を書く青年――悠斗。
だが、その姿は以前とは違っていた。
頬はこけ、目の下には深い影が落ちている。
手には、破れたノートが握られていた。
「……戻ってきたんですね」
透が声をかけると、青年はゆっくりと振り返った。
「管理人さん……話があります」
その声は、かすれていた。
「中で話しましょう」
透は青年を部屋へ招いた。
201号室は、以前よりも荒れていた。
机の上には破れたノートが散らばり、壁に貼られていたメモは剥がれ落ちている。
青年は椅子に座り、深く息を吐いた。
「……未来が、書けなくなりました」
透は息を呑んだ。
「書けない?」
「はい。ペンを持っても、何も浮かばない。未来が“閉じている”んです」
青年は破れたノートを差し出した。
「これ……昨日の夜に書こうとしたページです」
透はノートを開いた。
そこには、黒いインクが滲んだような跡があるだけだった。
文字ではない。
ただの“黒い揺れ”。
「これは……影?」
「はい。未来を書こうとすると、影が邪魔をするんです。ページの上に影が落ちて、文字が書けない」
青年は震える声で続けた。
「未来が……“閉じられている”んです。境界が揺れすぎて、未来が形を保てなくなっている」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「どうして戻ってきたんですか」
「未来の僕が……“戻れ”と言ったんです」
透は息を呑んだ。
「未来のあなたが?」
「はい。夢の中で、未来の僕が言いました。“管理人に伝えろ。境界が開く。鍵は少女だ”と」
204号室の少女――あおい。
未来の手紙にも書かれていた言葉。
「そして……もうひとつ言われました」
青年は透を見つめた。
「“管理人が消える未来が近い”と」
透は言葉を失った。
「未来の僕は……あなたが“境界に触れる”未来を見たと言いました。だから、戻ってきたんです。あなたを止めるために」
透は深く息を吸った。
「……僕は、どうすればいい」
「未来の僕は、こう言いました」
青年は破れたノートの別のページを開いた。
そこには、かろうじて読める文字が残っていた。
〈影に触れるな〉
〈少女を守れ〉
透は息を呑んだ。
「前任者の部屋……?」
「はい。未来のあなたは、前任者が“境界の中心”に関する記録を残していると言っています」
青年は透を見つめた。
「管理人さん。未来は……あなたを中心に崩れ始めています」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――未来を書く青年が戻ってきたのは、未来が“閉じ始めた”からだ。
そして、境界の揺れは、昨日よりも――
確かに深かった。
第26話 301号室・老人の遺言
201号室の青年が「未来が閉じた」と告げた翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込むが、胸のざわめきは消えなかった。
未来が書けない。
影が形を持ち始めている。
404号室は夜になると現れ、声を漏らす。
そして――
桐谷老人が、昨日から姿を見せていない。
透は不安を抱えたまま、三階へ向かった。
301号室の前に立つと、ドアがわずかに開いていた。
「桐谷さん……?」
透が声をかけると、部屋の奥からかすかな声が返ってきた。
「……入ってきなさい」
透は胸の奥がざわつくのを感じながら、部屋に入った。
301号室は薄暗かった。
カーテンは閉じられ、部屋の空気は重い。
ベッドの上に、桐谷老人が横たわっていた。
顔色は悪く、呼吸は浅い。
だが、その目だけははっきりと透を見ていた。
「……来たか、管理人さん」
「桐谷さん、大丈夫ですか」
「大丈夫ではない。わしは……もう長くない」
透は息を呑んだ。
「医者は呼びましたか」
「呼んでも無駄じゃ。これは病ではない。境界に触れすぎた者の“終わり”じゃよ」
老人はゆっくりと手を伸ばし、枕元の古い木箱を指さした。
「それを……開けなさい」
透は木箱を手に取り、蓋を開けた。
中には、古い鍵が一本と、封筒が一通入っていた。
「これは……?」
「わしの遺言じゃ」
老人は静かに言った。
「管理人さん。お前さんは、境界に選ばれた。わしは……それをずっと見ておった」
透は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「どうして……僕を?」
「選んだのはわしではない。境界じゃ。境界は、お前さんの“目”を気に入ったんじゃよ」
「目……?」
「お前さんは、影を恐れながらも、見つめ続けた。境界は、それを見逃さん」
老人は苦しそうに息を吐いた。
「わしは……前任の管理人と同じ道を辿った。境界に触れすぎて、存在が薄れていった。いずれ……わしは消える」
透は言葉を失った。
「だが、お前さんには……まだ道がある」
老人は封筒を指さした。
「それを読め。わしが境界で見たもの、前任者が残したもの、すべて書いてある」
透は封筒を開いた。
中には、震える文字でこう書かれていた。
〈境界は開く〉
〈影は形を持つ〉
透は息を呑んだ。
「“下”……?」
「そうじゃ。境界の中心は、このマンションの“下層”にある。前任者はそこへ行った。そして……戻らなかった」
老人は透の手を握った。
「管理人さん。お前さんは、わしの代わりに“下”へ行かねばならん。境界の揺れを止めるために」
「僕が……?」
「そうじゃ。お前さんしかおらん。未来の管理人も、未来の住人も……みな、お前さんを待っておる」
老人の声は弱くなっていった。
「最後に……ひとつだけ言っておく」
透は老人の言葉を待った。
「影に触れるな。触れれば……戻れん」
老人はゆっくりと目を閉じた。
呼吸が、静かに止まった。
透は管理人室に戻り、管理日誌を開いた。
〈301号室の桐谷老人、死去〉
〈境界に触れすぎた者の“消失”〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――
確かに深かった。
第27話 203号室・名前を失った少女
301号室の桐谷老人が遺言を残して息を引き取った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込むが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の中心は“下層”にある。
影に触れてはならない。
少女を守れ。
老人の言葉が、頭の奥で何度も反響していた。
巡回の途中、透は二階の廊下で足を止めた。
203号室の前に、少女が座り込んでいた。
小柄で、髪は肩まで。
年齢はあおい(204号室)と同じくらいに見える。
だが、その表情には深い“空白”があった。
「大丈夫ですか」
透が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。
「……あなたは、誰ですか」
「管理人の三崎です。君は……?」
少女は首をかしげた。
「……分かりません」
透は息を呑んだ。
「名前は?」
「……思い出せません」
少女は自分の胸に手を当てた。
「昨日までは、ちゃんとあったんです。名前も、家族も、学校も……全部。でも、朝起きたら……“私”が分からなくなっていました」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「部屋には入れますか」
「はい。でも……」
少女はドアノブに触れた。
「この部屋が、本当に“私の部屋”なのかも分からないんです」
透は少女を部屋へ招いた。
203号室は、整然としていた。
だが、どこか“誰の部屋でもない”ような空気があった。
家具は揃っている。
ベッドも机もある。
だが――
壁に貼られた写真の人物の顔が、すべて“ぼやけて”いた。
「これ……全部?」
「はい。昨日までは、ちゃんと写っていたんです。私と……誰かが」
少女は写真を手に取った。
「でも、今は……誰もいないみたい」
透は写真を見つめた。
人物の輪郭だけが残り、顔は白く滲んでいる。
まるで、存在そのものが消えていくように。
「他に何か変わったことは?」
「あります」
少女は机の引き出しを開けた。
中には、ノートが一冊だけ入っていた。
「これ……私の日記です。でも……」
少女はノートを開いた。
ページの文字が、ところどころ“消えて”いた。
〈今日は――〉
〈――と話した〉
〈私の名前は――〉
透は息を呑んだ。
「名前の部分が……全部消えている」
「はい。書いたはずなのに、朝起きたら消えていました」
少女は震える声で続けた。
「私……本当に“いた”んでしょうか。昨日までの私は……本物だったんでしょうか」
透は言葉を失った。
そのとき――
部屋の隅で、黒い影が揺れた。
透は反射的に少女を庇った。
「下がって!」
影は、光源とは無関係に揺れ、輪郭が曖昧で、濃い。
だが、他の影とは違う“形”をしていた。
――少女の輪郭。
透は息を呑んだ。
「これは……君の影?」
「違います。私の影は……」
少女は自分の足元を見た。
影がなかった。
「……影が、ない?」
「はい。朝起きたら、影が消えていました。名前と一緒に」
透は背筋に冷たいものが走った。
影が剥がれた401号室の女性。
記憶が消えた101号室の母親。
存在が揺れた住人たち。
そして今――
名前と影を失った少女。
「管理人さん……」
少女は透の袖を掴んだ。
「私……消えてしまうんでしょうか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、“名前”という存在の核さえも奪う。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈203号室の少女、名前を喪失〉
〈写真から人物が消える〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――
確かに深かった。
第28話 502号室・戻ってきた男
203号室の少女が「名前を失った」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込むが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、存在の核にまで干渉している。
名前、影、未来、時間――すべてが揺らぎ始めている。
そして今日は、もうひとりの“揺れた住人”が戻ってくる。
巡回の途中、透は五階へ向かった。
502号室の前に、見覚えのある男が立っていた。
逃げ続ける男――502号室の住人。
だが、その姿は以前とは違っていた。
痩せこけ、目の下には深い影。
肩は震え、手には破れたバッグを握りしめている。
「……戻ってきたんですか」
透が声をかけると、男はゆっくりと振り返った。
「逃げられなかったんです」
その声は、かすれていた。
「中で話しましょう」
透は男を部屋へ招いた。
502号室は、以前よりも荒れていた。
段ボールは開けられたまま、衣服は床に散乱している。
だが、部屋の隅にある“影”だけは、以前よりも濃く、形を持ち始めていた。
「……影が、変わっている」
「はい。逃げても逃げても、影は追ってきました。どこへ行っても、必ず現れる。駅でも、ホテルでも、実家でも……」
男は震える声で続けた。
「昨日、ついに気づいたんです。逃げ道が……なくなっているって」
「逃げ道?」
「はい。影は、僕の“行く先”を先回りするようになったんです。まるで……僕の未来を知っているみたいに」
透は息を呑んだ。
「未来を書く青年が言っていました。未来が閉じている、と」
「そうです。未来が閉じている。だから、逃げ道が消えたんです」
男は床に座り込み、頭を抱えた。
「影は……僕の“罪”を追ってきました。でも、昨日気づいたんです。影はもう、僕の罪だけを追っているんじゃない」
透は男の言葉を待った。
「影は……“僕そのもの”を追っている」
透は背筋に冷たいものが走った。
「罪を追う影は、まだ距離がありました。でも……今の影は違う。僕の動きに合わせて揺れ、僕の呼吸に合わせて形を変える。まるで……僕の“影そのもの”になろうとしている」
透は部屋の隅を見た。
影は、確かに以前よりも“人の形”に近づいていた。
肩のような膨らみ、腕のような伸び、そして――
顔の位置に、黒い穴があった。
「これは……」
「僕の“罪”が形になったんじゃない。僕の“存在”が影に吸われているんです」
男は震える声で続けた。
「昨日、鏡を見たんです。そしたら……」
男は鏡を指さした。
「僕の影が、映っていなかった」
透は息を呑んだ。
「影が……消えた?」
「はい。僕の影は、もう僕の足元にはありません。全部……あそこに集まっている」
男は部屋の隅の影を指さした。
「影は、僕の“代わり”になろうとしているんです。僕が逃げれば逃げるほど、影は僕に近づく。僕が弱れば弱るほど、影は形を持つ」
透は影に近づいた。
その瞬間――
影が、わずかに動いた。
透のほうへ。
「下がってください!」
透が叫ぶと、男は後ずさった。
「管理人さん……僕は、もう逃げられません。影は……僕の“終わり”を知っているんです」
透は男を見つめた。
「どうして戻ってきたんですか」
「未来の僕が……“戻れ”と言ったんです」
透は息を呑んだ。
「未来のあなたが?」
「はい。夢の中で言われました。“管理人のそばにいろ。影は管理人を中心に動く”と」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「管理人さん。影は……あなたを中心に集まっています。僕の影も、他の住人の影も……全部」
男は震える声で続けた。
「あなたが“境界の中心”に近づいているからです」
透は言葉を失った。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の揺れは、住人の影を“管理人のもとへ”集め始めている。
管理人室に戻った透は、管理日誌を開いた。
〈502号室の男、逃げ道を失い戻る〉
〈影が本人の影を吸収し、形を持ち始める〉
書き終えたとき、透は窓の外を見た。
廊下の影が、ゆっくりと揺れた。
その揺れは、昨日よりも――
確かに深かった。
第29話 マンションの“もう一つの地図”
502号室の男が「影は管理人を中心に集まっている」と語った翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込むが、胸のざわめきは消えなかった。
境界の揺れは、住人の影を統合し始めている。
未来は閉じ、名前は消え、影は剥がれ、時間は止まり、記録は歪む。
そして――
桐谷老人の遺言が、頭の奥で響いていた。
〈前任者の部屋へ行け〉
〈境界の中心は“下層”にある〉
透は管理会社から渡された“公式の図面”を広げた。
だが、そこには“下層”の記載はない。
「……本当に、そんな場所があるのか」
透は図面をめくりながら、ふと気づいた。
紙の端が、わずかに浮いている。
「……?」
透は指先で紙をつまみ、そっとめくった。
図面が――二重になっていた。
透は慎重に上の紙を剥がした。
糊付けされていたわけではない。
ただ、重ねられていた。
下から現れたのは、見たことのない図面だった。
〈境界管理棟・内部構造図〉
〈下層階:B1〜B3〉
透は息を呑んだ。
「……地下がある?」
公式の図面には存在しない階層。
管理会社からも説明されていない。
だが、図面は明らかに古く、そして――
“本物”だった。
透は図面を広げた。
B1階には、見慣れた部屋番号が並んでいた。
だが、B2階には――
〈404号室(下層)〉
透は背筋に冷たいものが走った。
「……404号室は、地下にもある?」
そして、B3階にはこう書かれていた。
〈管理人室(前任者)〉
〈境界観測室〉
〈影保管庫〉
〈中心部〉
透は言葉を失った。
桐谷老人の遺言。
未来の手紙。
住人たちの影の異常。
すべてが、この“下層”につながっている。
そのとき、管理人室のドアがノックされた。
「……管理人さん?」
透が振り返ると、203号室の少女が立っていた。
名前を失い、影を失った少女。
「どうしたんですか」
「……これ、あなたの部屋の前に落ちていました」
少女は小さな紙片を差し出した。
透は受け取り、広げた。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
〈下へ来い〉
〈影が集まっている〉
透は息を呑んだ。
「前任者が……呼んでいる?」
少女は不安そうに透を見つめた。
「管理人さん……行くんですか」
透は答えられなかった。
だが、胸の奥では確信に近い感覚があった。
――境界の中心へ行かなければならない。
透は図面を握りしめた。
そのとき、管理人室の床がわずかに揺れた。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第30話 境界の扉が開く
502号室の男が「影は管理人に集まっている」と語り、
もう一つの地図が“下層”の存在を示した翌朝、透は管理人室の窓を開けた。
冷たい空気が流れ込む。
だが、胸のざわめきは、もはや薄まることさえなかった。
〈前任者の部屋へ行け〉
〈境界の中心は“下層”にある〉
〈影に触れるな〉
〈少女を守れ〉
桐谷老人の遺言と、未来からの手紙と、
201号室の青年が持ち帰った“書けない未来”。
すべてが同じ場所を指している。
――下へ。
透は机の上に広げた「もう一つの地図」を見つめた。
公式の図面の下から現れた、古い内部構造図。
〈B1階〉
〈B2階 404号室(下層)〉
〈B3階 管理人室/境界観測室/中心部〉
紙はわずかに波打ち、インクの線が震えているように見えた。
「……本当に、行くしかないのか」
透は呟いた。
そのとき、管理人室の蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。
床の影が、わずかに揺れた。
揺れは、昨日よりも深い。
午前の巡回を終え、透は二階の廊下へ向かった。
204号室の前に、あおいが立っていた。
「……管理人さん」
あおいの声はかすれていた。
黒いクマ、こわばった肩、手は小さく震えている。
「昨夜、また……影が来ました」
透は胸の奥がざわつくのを感じた。
「部屋の隅で揺れてて、近づいてこなくて……でも、分かるんです。あれ、前より“重くなってる”。息が苦しくなって、頭の中が、ぎゅっと締めつけられて」
あおいは胸に手を当てた。
「夢でも、同じ廊下を見るんです。真っ暗で、ずっと下に続く階段。そこに、誰かが立ってて……」
透は、あおいの言葉を継いだ。
「“管理人がいる”夢、だろ?」
あおいは目を見開いた。
「どうして、知ってるんですか」
「他の住人も、同じ夢を見ている。夢を買う占い師が言っていた。
――みんなの夢の中に、“境界の階段と管理人”が出てくるって」
あおいは唇を噛んだ。
「……管理人さん、行くんですよね」
透は一瞬だけ目を伏せ、やがて頷いた。
「行かなきゃいけない場所がある。ここにいる全員の“揺れ”が、同じところを指している気がする」
「危ないところ、なんですよね」
「たぶん、そうだ」
あおいは透の袖を強く掴んだ。
「だったら……戻ってきてください」
透は、掴まれた袖を見下ろした。
細い指。震える手。
「……約束するよ」
自分で言いながら、その言葉がどれほど不確かなものか、分かっていた。
だが、それでも口にするしかない。
あおいは小さく頷き、部屋へ戻っていった。
昼過ぎ。
管理人室の時計が、短く止まった。
秒針が、ひと呼吸ぶんだけ動かない。
次の瞬間、何事もなかったように再び進み出す。
透は、その一瞬の“空白”の意味を知っていた。
――時間が、揺れた。
303号室の男が言っていた現象。
影の近くで時間が止まる。
今、その影が管理人室にまで届いている。
「……今だな」
透は立ち上がり、「もう一つの地図」を畳んでポケットに入れた。
懐中電灯、古い鍵束、メモ帳、ペン。
最低限のものだけを身につける。
桐谷老人の木箱の底に残っていた、小さな金属片が目に入った。
短い棒状の金属。
先端に、小さく「B3」と刻まれている。
「これも、持っていこう」
透は金属片をポケットに滑り込ませた。
マンションの一階。
エレベーターの前を通り過ぎ、非常階段へ向かう。
地上階の表示は「1〜5F」まで。
地下の表示は――ない。
だが、「もう一つの地図」には、こう記されている。
〈地上一階 階段下部:封鎖扉あり〉
〈扉の先に、下層階段〉
非常階段を降りていく。
1階より下――本来なら、何もないはずの場所。
最後の段を降りたとき、透は息を呑んだ。
そこに、扉があった。
コンクリートの壁の中に埋め込まれた、古い鉄の扉。
表面は錆びつき、取っ手は黒く、中央にはかすれた文字が刻まれている。
〈立入禁止〉
その下に、小さく――
〈境界管理棟〉
「……本当に、あった」
扉の前の空気は冷たく、重かった。
かすかに鉄と湿気の匂いが混ざっている。
透は扉に手を伸ばそうとして、桐谷老人の声を思い出した。
〈影に触れるな〉
足元を見る。
非常階段から伸びる影が、扉の前で“途切れて”いた。
扉の前だけ、影が薄い。
――影が届いていない。
透は、ほんの少しだけ安堵した。
扉の横には、小さな鍵穴があった。
管理人室から持ってきた鍵束を取り出し、一つずつ差し込んでみる。
三つ目の鍵が、静かに回った。
カチリ、と重い音が響く。
同時に、蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。
足元の影が、かすかに震える。
「……開くぞ」
透は息を整え、鉄の取っ手を握った。
冷たい。
まるで、地下の空気が金属に染み込んでいるかのようだ。
ゆっくりと押す。
ギィィ……と、金属が軋む音が階段に響いた。
扉の向こうから、冷たい風が流れ込んでくる。
そして――
〈……きた……〉
かすかな声がした。
あの、死に際の声を聞く看護師が聞いたような、
影の奥から聞こえてきた“消える声”に似た響き。
だが、今度は、はっきりと透の名を呼んだ。
〈みさき……〉
透はのどの奥が強く締めつけられるのを感じた。
――誰だ。
未来の自分か。
前任の管理人か。
それとも、“向こう側”の誰かなのか。
扉は、半分ほど開いていた。
その隙間から、暗闇が覗いている。
階段が下へと続き、その先は見えない。
透は、一歩だけ踏み出した。
足先が、境界の“内側”に触れる。
その瞬間、マンション全体が、かすかに揺れた。
蛍光灯が一斉に瞬き、
廊下の影が、同じ方向へ“引き寄せられる”。
上階のどこかで、誰かが小さく叫ぶ声がした。
夢を売る占い師の水晶玉がひび割れ、
時間の止まった男の部屋の時計が一斉に止まり、
名前を失った少女の部屋の写真から、残っていた輪郭までもが薄れていく。
境界の扉が――開いたのだ。
透は振り返らなかった。
扉の向こうから吹き上がる冷気が、額の汗を奪っていく。
下へ続く階段。
見えない闇。
呼ぶ声。
透は、階段の一段目に足を置いた。
それが、第2章の終わりであり、
“境界の向こう側”への、最初の一歩だった。
第31話 境界の扉の向こうへ
境界の扉が開いた瞬間、マンション全体がかすかに揺れた。
蛍光灯が一斉に瞬き、廊下の影が同じ方向へ引き寄せられる。
透は振り返らず、暗闇へ続く階段の一段目に足を置いた。
冷たい空気が、肌を刺すように流れ込んでくる。
地上の空気とは違う。
湿り気と鉄の匂い、そして――“静けさ”があった。
階段を降りるたび、背後の世界が遠ざかっていくような感覚があった。
〈……みさき……〉
声がした。
だが、方向が分からない。
上からでも、下からでもない。
まるで、階段そのものが声を発しているようだった。
透は懐中電灯を点け、階段を照らした。
古いコンクリート。
壁には、かすれた文字が刻まれている。
〈境界管理棟〉
〈B1〉
〈立入禁止〉
公式の図面には存在しない階層。
だが、ここには確かに“何か”がある。
階段を降りきると、広い空間に出た。
そこは、地上のマンションとはまったく違う雰囲気だった。
天井は低く、蛍光灯は半分が切れている。
壁は古く、ところどころに黒い染みが広がっている。
床はコンクリートで、足音が鈍く響いた。
透は地図を取り出した。
〈B1階:管理通路〉
〈B2階:404号室(下層)〉
〈B3階:管理人室(前任者)/境界観測室/中心部〉
「……まずは、B1を確認する」
透は通路を進んだ。
通路の両側には、古い扉が並んでいる。
だが、どれも錆びつき、番号は読めない。
そのとき――
足元の影が、わずかに揺れた。
透は立ち止まった。
影は、光源とは無関係に“前へ”伸びている。
まるで、透を誘導するように。
「……こっちへ行け、ってことか」
透は影の伸びる方向へ歩いた。
通路の奥に、ひとつだけ新しい扉があった。
他の扉とは違い、金属がまだ生きている。
取っ手も錆びていない。
扉には、こう書かれていた。
〈管理記録室〉
「……記録?」
透は扉を押した。
部屋の中は薄暗かった。
棚が並び、古いファイルやノートが積まれている。
壁には、見覚えのある図面が貼られていた。
――マンションの構造図。
だが、地上階の図面とは違う。
〈境界管理棟〉
〈影の流入経路〉
〈揺れの発生源〉
透は息を呑んだ。
「……こんなものが、地下に?」
棚の一番奥に、ひときわ古いノートがあった。
表紙には、震える文字でこう書かれている。
〈前任管理人 記録〉
透はノートを開いた。
最初のページには、こう書かれていた。
〈境界は揺れている〉
〈影は形を持ち始めた〉
〈住人の存在が薄れる〉
〈管理人は“中心”へ行かねばならない〉
透はページをめくった。
〈私は行く。戻れないかもしれない〉
〈次の管理人へ〉
〈影に触れるな〉
〈少女を守れ〉
〈中心部で待つ〉
透は息を呑んだ。
「……中心部で待つ?」
前任者は、まだ“向こう側”にいるのか。
そのとき――
部屋の奥から、かすかな音がした。
カサ……カサ……
紙が擦れるような音。
透は懐中電灯を向けた。
棚の影が、揺れていた。
光源とは無関係に、ゆっくりと、確実に。
透は後ずさった。
「……ここにも、影が」
影は、透の足元へ伸びてくる。
だが、触れる直前で止まった。
まるで、境界の“外側”から透を観察しているように。
〈……みさき……〉
声がした。
今度は、はっきりと。
透は懐中電灯を握りしめた。
「……前任者、なのか?」
影は答えなかった。
ただ、揺れ続けていた。
だが、その揺れは――
昨日よりも深かった。
透はノートを閉じ、部屋を出た。
通路の奥へ続く階段がある。
地図によれば、そこがB2階――
〈404号室(下層)〉
透は階段の前に立った。
上からは、地上の空気がかすかに流れ込んでくる。
下からは、冷たい風が吹き上がってくる。
透は深く息を吸った。
「……行くしかない」
階段を降りる。
一段、また一段。
暗闇が濃くなる。
空気が重くなる。
影が、足元で震える。
そして――
階段の先に、扉が見えた。
〈404〉
地上の404号室と同じ番号。
だが、こちらは“存在しない部屋”ではなく、確かにそこにあった。
透は扉の前に立った。
扉の向こうから、声がした。
〈……まっていた……〉
透は息を呑んだ。
――境界の扉の向こうへ。
ここから先が、第3章の本当の始まりだった。
第32話 前任管理人の部屋
下層404号室の前に立つと、透は息を呑んだ。
地上の404号室は“存在しない部屋”だった。
だが、ここにある扉は確かに存在し、冷たい空気を吐き出している。
〈……まっていた……〉
扉の向こうから聞こえた声は、かすれていたが、確かに“人の声”だった。
透は扉に手をかけようとして――やめた。
桐谷老人の遺言が頭をよぎる。
〈影に触れるな〉
〈中心へ行け〉
〈前任者の部屋へ〉
404号室は“通過点”だ。
ここを開けるべきではない。
透は地図を取り出し、B3階への階段を探した。
404号室の横に、狭い通路が続いている。
その奥に、古い鉄階段があった。
「……こっちだな」
透は階段を降りた。
B3階は、B1やB2とは空気が違った。
湿気が濃く、冷気が肌にまとわりつく。
蛍光灯はほとんど切れており、通路は闇に沈んでいる。
足元の影が、わずかに震えた。
〈……みさき……〉
声がした。
今度は、はっきりと近い。
透は懐中電灯を構え、通路を進んだ。
通路の突き当たりに、古い木製の扉があった。
地上の管理人室と同じ形。
だが、こちらは何十年も放置されたように朽ちている。
扉には、かすれた文字が刻まれていた。
〈管理人室〉
その下に、小さく――
〈前任者〉
透は息を呑んだ。
「……ここか」
扉の前に立つと、空気が変わった。
冷たさではなく、重さ。
まるで、扉の向こうに“誰か”がいるような圧。
透は取っ手に手をかけた。
ギィ……と、扉が軋む。
部屋の中は暗かった。
懐中電灯の光が、埃の舞う空気を照らす。
机、椅子、棚。
配置は地上の管理人室とほとんど同じ。
だが、すべてが古く、色が抜け、時間が止まっているようだった。
透は机に近づいた。
机の上には、ノートが一冊だけ置かれていた。
表紙には、震える文字でこう書かれている。
〈管理人 三崎〉
透は息を呑んだ。
「……僕の名前?」
ノートを開く。
最初のページには、こう書かれていた。
〈私は“向こう側”へ行く〉
〈戻れないかもしれない〉
〈次の管理人へ〉
〈境界は開く〉
〈影は形を持つ〉
〈少女を守れ〉
透はページをめくった。
〈私は失敗した〉
〈影に触れた〉
〈存在が薄れる〉
〈声だけが残る〉
〈中心で待つ〉
透は背筋に冷たいものが走った。
「……声だけが残る?」
そのとき――
部屋の奥から、かすかな音がした。
カサ……カサ……
透は懐中電灯を向けた。
部屋の隅に、黒い影があった。
光源とは無関係に揺れ、輪郭が曖昧で、濃い。
だが、他の影とは違う。
影の“中心”に、白い点があった。
――目だ。
透は息を呑んだ。
「……前任者?」
影は揺れた。
そして、声がした。
〈……みさき……〉
〈……にげろ……〉
〈……ちゅうしん……は……〉
声は途切れ、影が震えた。
透は一歩踏み出した。
「中心はどこだ。どうすれば――」
影が突然、激しく揺れた。
〈……くる……〉
〈……かげ……が……〉
〈……おまえ……に……〉
透は後ずさった。
影は、透の足元へ伸びてくる。
だが、触れる直前で止まった。
まるで、境界の“規則”に縛られているように。
透はノートを握りしめ、部屋を飛び出した。
通路に戻ると、空気が変わっていた。
冷気が強くなり、影が壁に沿って流れている。
まるで、何かが“動き始めた”ように。
透は地図を取り出した。
〈中心部〉
B3階の最奥。
前任者が最後に向かった場所。
「……行くしかない」
透は通路の奥へ向かった。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第33話 境界の階段
前任管理人の部屋を出た瞬間、透は空気の変化に気づいた。
冷たさではない。
重さでもない。
“方向”が変わったのだ。
通路の影が、すべて同じ方向へ流れている。
まるで、見えない川のように。
「……中心部だな」
透は地図を取り出した。
〈B3階:中心部〉
〈境界階段〉
前任者が最後に向かった場所。
そして、未来の手紙が示した場所。
通路の奥へ進むと、空気がさらに冷たくなった。
壁の黒い染みが増え、蛍光灯はほとんど点いていない。
足元の影が震えた。
〈……みさき……〉
声がした。
だが、前任者の声とは違う。
もっと若い。
もっと近い。
「……誰だ」
透は懐中電灯を構えた。
通路の突き当たりに、階段があった。
地上へ続く階段とは違う。
幅は狭く、段差は不規則で、手すりは錆びている。
階段の先は闇に沈み、どこまで続いているのか分からない。
階段の上には、古い看板がかかっていた。
〈境界階段〉
〈Authorized Personnel Only〉
〈立入禁止〉
透は息を呑んだ。
「……ここが、境界の階段」
そのとき、背後で音がした。
カサ……カサ……
透は振り返った。
通路の影が、ゆっくりと“立ち上がって”いた。
人の形。
だが、輪郭は揺れ、顔は黒い穴のように空いている。
「……502号室の男の影か?」
影は答えない。
ただ、透のほうへ伸びてくる。
だが、階段の前で止まった。
まるで、階段の“境界”に阻まれているように。
「……ここから先は、影でも入れないのか」
透は階段を見つめた。
階段の一段目だけ、影が落ちていなかった。
光源がないのに、影ができない。
――影が拒絶されている。
透は深く息を吸った。
「行くしかない」
階段の一段目に足を置いた。
その瞬間、世界が揺れた。
蛍光灯が一斉に瞬き、
通路の影が階段の方向へ“吸い寄せられる”。
だが、階段の境界で弾かれ、床に散った。
透は二段目へ進んだ。
空気が変わる。
耳鳴りがする。
胸の奥がざわつく。
〈……みさき……〉
〈……こっち……〉
声が、階段の下から聞こえる。
前任者か。
未来の自分か。
それとも、別の誰かか。
透は三段目へ足を置いた。
視界がわずかに歪む。
階段の壁が波打ち、影が逆方向へ流れる。
「……これが、境界の揺れ」
透は手すりを掴んだ。
冷たい。
だが、確かに“現実”に触れている感触がある。
四段目。
五段目。
降りるたびに、世界が遠ざかる。
地上の音が消え、マンションの気配が薄れていく。
〈……まっている……〉
〈……ちゅうしん……で……〉
声が近づく。
透は懐中電灯を下へ向けた。
階段の先に、扉が見えた。
古い鉄の扉。
中央には、かすれた文字。
〈中心部〉
透は息を呑んだ。
「……ここが、境界の中心」
扉の前の空気は、異様に冷たかった。
影が一切存在しない。
光も、音も、匂いも薄い。
まるで、世界の“端”に立っているようだった。
透は扉に手を伸ばした。
その瞬間――
扉の向こうから、はっきりと声がした。
〈……三崎透……〉
〈……来るな……〉
〈……まだ……早い……〉
透は手を止めた。
「……前任者?」
声は答えなかった。
ただ、扉の向こうで揺れていた。
透は扉に手を置いた。
「……開ける」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分自身に言い聞かせるように。
透は取っ手を握った。
扉が、わずかに震えた。
――境界の中心が、すぐそこにある。
第34話 消えた住人たちの声
境界階段の最深部。
透は「中心部」と刻まれた鉄の扉の前に立っていた。
扉の向こうから聞こえた声――
〈……三崎透……来るな……まだ……早い……〉
あれは前任者の声だったのか、それとも別の“誰か”なのか。
透は取っ手に手を置いたまま、動けずにいた。
そのときだった。
――カサ……カサ……
背後の階段から、微かな音がした。
透は振り返った。
階段の上から、黒い影がゆっくりと降りてきていた。
人の形をしているが、輪郭は揺れ、顔は黒い穴のように空いている。
「……また影か」
だが、違った。
影は透に近づくと、突然――
“声”を発した。
〈……たすけて……〉
透は息を呑んだ。
「……誰だ?」
影は揺れ、声が重なった。
〈……みた……〉
〈……おちる……〉
複数の声。
男の声、女の声、子どもの声。
聞き覚えのある声ばかりだった。
「……住人たちの声?」
影は震え、さらに声が重なった。
〈103号室……〉
〈402号室……〉
透は背筋に冷たいものが走った。
――消えた住人たちの声だ。
未来が二つに割れた夫婦。
音のない世界に閉じ込められた女性。
双子の片割れが揺れた兄。
名前を失った少女。
彼らの声が、影の中から漏れ出している。
「……どうして、ここに?」
影は答えず、ただ揺れ続けた。
だが、声は続いた。
〈……みさき……〉
〈……いかないで……〉
透は拳を握った。
「戻れない場所……?」
影は震え、声が一斉に重なった。
〈……ちゅうしん……は……〉
透は息を呑んだ。
「中心部は……人を消す?」
影は揺れ、最後の声を漏らした。
〈……まもれ……〉
透は目を見開いた。
「……あおいを?」
影は、透の足元に触れそうになり――
境界階段の“境界線”で弾かれた。
影は形を崩し、霧のように散っていった。
残ったのは、冷たい空気と、消えた声の余韻だけ。
透は鉄の扉を見つめた。
〈中心部〉
その文字は、かすれているのに、なぜか“強く”見えた。
住人たちの声は警告していた。
前任者も警告していた。
未来の手紙も警告していた。
〈……来るな……〉
〈……まだ早い……〉
〈……中心は人を消す……〉
だが――
〈……少女を守れ……〉
〈……あおい……〉
その言葉だけは、すべての声が一致していた。
透は深く息を吸った。
「……行くしかない」
扉に手を置く。
冷たい。
だが、確かに“現実”の感触がある。
透は取っ手を握り、ゆっくりと押した。
ギィィ……と、鉄が軋む音が響く。
扉の隙間から、冷たい風が吹き出した。
そして――
〈……まっていた……〉
声がした。
透は一歩、闇の中へ踏み込んだ。
――消えた住人たちの声を背にして。
第35話 マンション建設の秘密
中心部の扉の前に立ったまま、透は深く息を吸った。
〈……来るな……〉
〈……まだ早い……〉
扉の向こうから聞こえた声は、前任者のものか、あるいは別の“存在”か。
だが、透は扉を開ける前に、どうしても確かめなければならないことがあった。
――このマンションは、何のために建てられたのか。
地上の住人たちの異常は、偶然ではない。
未来、記憶、影、時間、名前、存在。
すべてが“境界”に引き寄せられている。
そして、地下には公式図面にない階層が存在する。
「……建設の経緯を知らないまま、中心へ行くわけにはいかない」
透は地図を握りしめ、B3階の別の通路へ向かった。
通路の奥に、ひとつだけ他とは違う扉があった。
鉄製ではなく、厚い木製。
表面には古い金属板が打ち付けられている。
〈建設記録室〉
「……こんな部屋が」
透は扉を押した。
部屋の中は広かった。
壁一面に古い図面が貼られ、棚には分厚いファイルが並んでいる。
机の上には、黄ばんだ書類が積まれていた。
透は一番上のファイルを開いた。
〈境界管理棟 建設計画書〉
〈昭和四十七年〉
「……境界管理棟?」
マンションではない。
最初から“境界を管理する施設”として建てられたのだ。
透はページをめくった。
〈目的:境界現象の観測および封じ込め〉
〈対象:影の発生源/揺れの中心〉
透は息を呑んだ。
「……住人は、観測対象?」
さらにページをめくる。
〈管理人の役割:境界の揺れを記録し、中心部へのアクセスを制御する〉
〈管理人は“選ばれた者”であること〉
透は手が震えた。
「……僕は、最初から“選ばれていた”?」
さらに奥のファイルを開く。
〈建設責任者:三崎 遼〉
透は目を見開いた。
「……三崎?」
自分と同じ姓。
偶然とは思えない。
ファイルには続きがあった。
〈三崎遼:境界研究者〉
〈境界の揺れにより失踪〉
透はページを握りしめた。
「……僕と同じ名前の研究者が、ここを建てた?」
そのとき、部屋の奥で紙が落ちる音がした。
透は懐中電灯を向けた。
棚の下に、一冊だけ黒いファイルが落ちていた。
表紙には、こう書かれている。
〈極秘:中心部計画〉
透はファイルを開いた。
〈中心部は“境界の核”である〉
〈影は中心部から流出する〉
透は息を呑んだ。
「……中心部は、影の源?」
さらにページをめくる。
〈中心部は“人の存在”を吸収する〉
〈長時間の滞在は危険〉
透は手を止めた。
「……前任者は、ここで……?」
最後のページには、震える文字でこう書かれていた。
〈管理人は必ず来る〉
〈境界は管理人を選ぶ〉
透はファイルを閉じた。
「……前任者は、僕を待っている」
そのとき――
部屋の照明が一瞬だけ瞬いた。
足元の影が、ゆっくりと揺れた。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
声がした。
透は深く息を吸った。
「……行くよ。中心部へ」
建設の秘密を知った今、
もう迷う理由はなかった。
透は部屋を出て、中心部の扉へ向かった。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第36話 境界研究者の娘
建設記録室を出た透は、中心部の扉へ向かう通路の途中で立ち止まった。
三崎遼――
境界管理棟の建設責任者。
境界研究者。
そして、失踪した人物。
自分と同じ姓。
偶然とは思えない。
「……本当に、僕と関係が?」
透は胸の奥にざわつくものを感じながら、通路を進んだ。
そのとき――
背後で、かすかな足音がした。
コツ……コツ……
透は振り返った。
暗い通路の奥から、ひとりの女性が歩いてきた。
白いコート。
肩までの黒髪。
年齢は二十代後半ほど。
だが、その瞳は透を“知っている”ような深さを持っていた。
「……あなたが、三崎透さんですね」
透は息を呑んだ。
「誰だ?」
女性は静かに頭を下げた。
「私は、三崎遼の娘――三崎 澪(みお)です」
透は言葉を失った。
「……三崎遼の、娘?」
「はい。あなたの……父にあたる人です」
透の心臓が強く跳ねた。
「父……? 僕の父は――」
「記憶にありませんよね。境界に関わった家系は、記憶が“削られる”ことがあるんです」
澪は透に近づいた。
「あなたは、境界に選ばれた“次の管理人”。
そして私は、境界研究者の家系に生まれた“観測者”。
ここに来たのは、あなたに伝えるべきことがあるからです」
透は息を整えた。
「……何を伝えに?」
澪は懐から古いノートを取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
〈境界研究記録 三崎遼〉
「これは、父が残した最後の研究記録です。
あなたに渡すよう、遺言で言われていました」
透はノートを受け取った。
ページを開くと、震える文字が並んでいた。
〈境界は“人の存在”を糧にしている〉
〈影は境界の副産物〉
透は息を呑んだ。
「……境界は、人を糧に?」
「はい。影に触れた住人が消えるのは、境界が“存在を吸収している”からです」
澪は静かに続けた。
「父は、境界の揺れを止めようとして中心部へ向かいました。
でも……戻ってこなかった」
透は前任者の影を思い出した。
〈……声だけが残る……〉
〈……中心で待つ……〉
「父は……中心部で“声だけの存在”になったんです」
澪は透を見つめた。
「あなたが聞いた声は、父のものです」
透は拳を握った。
「……どうして僕を呼んだ?」
「父は、あなたなら“境界を止められる”と信じていました。
あなたは境界に最も近い体質を持っている。
だから、管理人に選ばれた」
透は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……僕に、何をしろと言うんだ」
澪はゆっくりと答えた。
「中心部へ行き、境界の核を“閉じて”ください。
それができるのは、あなたしかいません」
透は中心部の扉を見つめた。
冷たい鉄の扉。
その向こうに、父の声がある。
「……父は、本当にそこに?」
「はい。
そして、あなたを待っています」
澪は透の手を握った。
「行ってください。
でも――」
澪の声が震えた。
「影に触れないで。
触れたら……あなたも父と同じになります」
透は深く息を吸った。
「……分かった」
中心部の扉の前に立つ。
澪は一歩下がり、静かに言った。
「三崎透さん。
境界の揺れは、もう限界です。
あなたが行かなければ、マンションは……崩れます」
透は扉に手を置いた。
「行くよ。
父のところへ」
扉が、わずかに震えた。
影が、足元で揺れた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第37話 管理人の役割
中心部の扉の前に立つ透の背後で、澪は静かに息を整えていた。
「……透さん。
あなたに伝えなければならない“最後のこと”があります」
透は扉から手を離し、澪のほうを向いた。
「まだ何かあるのか」
「はい。
“管理人の役割”についてです」
澪は白いコートのポケットから、もう一冊の古いノートを取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
〈管理人制度 極秘〉
透は息を呑んだ。
「……管理人制度?」
「このマンション――いえ、“境界管理棟”には、最初から管理人が必要でした。
境界に最も近い場所で、揺れを観測し、影の流出を抑えるために」
澪はノートを開いた。
〈管理人は境界に触れられる唯一の存在〉
〈影の影響を受けにくい体質を持つ〉
透は眉をひそめた。
「……吸収?」
「はい。
住人たちの異常――未来の閉鎖、名前の喪失、影の剥離、時間の停止。
あれらはすべて、境界の揺れが“住人に流れ込んだ”結果です」
澪は透を見つめた。
「本来、その揺れは“管理人”が受け止めるはずでした」
透は胸の奥がざわついた。
「……じゃあ、僕がここに来てから、揺れが住人に向かったのは……?」
「前任者が消えたからです。
管理人が不在になった瞬間、揺れは行き場を失い、住人へ向かいました」
透は息を呑んだ。
「……僕が来る前から、住人たちは揺れに晒されていた?」
「はい。
あなたが着任した日、揺れは一度だけ弱まりました。
でも、あなたが“中心部に近づくほど”、揺れは強くなる」
「どうしてだ」
「管理人は、境界に“呼ばれる”存在だからです。
中心部は、管理人を求めています。
あなたが近づくほど、揺れは活性化する」
透は拳を握った。
「……じゃあ、僕がここに来たせいで、住人たちの異常が加速したのか?」
澪は首を横に振った。
「違います。
あなたが来なければ、もっと早く崩壊していました。
あなたは揺れを“遅らせて”いるんです」
透は息を吐いた。
「……管理人って、結局何なんだ」
澪はノートの最後のページを開いた。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
〈管理人とは、“境界を閉じる者”である〉
透はその言葉を見つめた。
「……閉じる?」
「はい。
境界は、自然に開き続ける存在です。
放っておけば、影は世界へ溢れ、住人は消え、マンションは崩壊します」
澪は透の目をまっすぐ見た。
「境界を閉じられるのは、管理人だけ。
あなたは、そのために選ばれたんです」
透は中心部の扉を見つめた。
冷たい鉄。
その向こうに、父の声。
そして、境界の核。
「……閉じる方法は?」
澪は静かに答えた。
「中心部にある“核”に触れること。
ただし――」
澪の声が震えた。
「核に触れれば、あなたの存在は“境界に吸われる”可能性があります」
透は目を閉じた。
消えるかもしれない。
声だけの存在になるかもしれない。
前任者のように。
だが――
あおいの顔が浮かんだ。
名前を失った少女の涙。
未来を書けなくなった青年。
逃げ続ける男。
影のない女。
消えた住人たちの声。
「……僕が行かなきゃ、みんなが消える」
澪は小さく頷いた。
「はい。
あなたが行くしかありません」
透は中心部の扉に手を置いた。
「……管理人の役割、分かったよ」
扉が、わずかに震えた。
影が、足元で揺れた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第38話 境界の揺れが加速する
中心部の扉に手を置いたまま、透は深く息を吸った。
境界を閉じる。
そのために自分は選ばれた。
父も、前任者も、同じ道を歩んだ。
だが――
その瞬間、マンション全体が震えた。
ゴォォォ……ッ!
地鳴りのような低い音が、地下階を揺らす。
天井の蛍光灯が一斉に明滅し、影が壁を走った。
「……始まった」
澪が小さく呟いた。
「境界の揺れが……加速しています。
中心部が“開きかけている”証拠です」
透は階段を振り返った。
影が、階段の上から流れ落ちてくるように揺れていた。
まるで、重力とは逆方向へ引き寄せられている。
「……地上は?」
「揺れの影響が出ているはずです。
住人たちの“存在”が、境界に引かれ始めている」
澪の声は震えていた。
「急がないと……本当に、全員が消えます」
そのとき――
透のポケットの中で、管理人用インターホンが震えた。
地上階からの呼び出しだ。
「……こんな場所で?」
透はインターホンを取った。
ザザ……ザ……ッ……
雑音の奥から、かすかな声が聞こえた。
〈……かんりにん……さん……?〉
透は息を呑んだ。
「……あおい?」
〈……へや……が……ゆれて……〉
〈……かげ……が……はいって……くる……〉
声は途切れ途切れで、今にも消えそうだった。
「落ち着け! 部屋から出るな、影に触れるな!」
〈……こわ……い……〉
〈……たす……け……〉
透は拳を握った。
「……すぐ行く。絶対に行くから」
通信が途切れた。
澪が透を見つめた。
「……透さん。
地上の揺れは、もう限界です。
影が“住人の存在”を引き抜こうとしている」
「……あおいが危ない」
「はい。
でも、地上へ戻っても揺れは止まりません。
止められるのは――」
「中心部だけ、だろ」
透は中心部の扉を見つめた。
扉の表面が、わずかに波打っている。
まるで、向こう側の空気が滲み出しているように。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
父の声が聞こえた。
そのとき、階段の上から別の声が響いた。
〈……管理人さん!〉
透は振り返った。
階段の上に、未来を書く青年――悠斗が立っていた。
息を切らし、手には破れたノートを握りしめている。
「未来が……完全に閉じました!
もう、何も書けない!
未来が“存在しない”んです!」
透は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……未来まで?」
「はい。
未来が閉じると、影は“現在”を奪い始めます。
住人たちの存在が……消え始めている!」
澪が顔を強張らせた。
「境界の揺れが……限界点に達したんです」
青年は透を見つめた。
「管理人さん……あなたしか止められない。
未来の僕が言っていました。
“中心部へ行け。管理人が揺れを止める”って」
透は中心部の扉に手を置いた。
冷たい。
だが、その奥に“父の気配”がある。
そして、あおいの声が頭の奥で響いていた。
〈……たすけて……〉
透は深く息を吸った。
「……行くよ」
澪が頷いた。
「境界の揺れが加速している今しかありません。
扉を開ければ、中心部へ入れます」
青年は震える声で言った。
「気をつけてください……管理人さん。
中心部は……“存在を奪う場所”です」
透は扉の取っ手を握った。
「分かってる。
でも、行くしかない」
扉が、低く唸った。
影が、足元で震えた。
昨日よりも――
確かに深かった。
透は、中心部の扉を押し開けた。
第39話 消えた少女の痕跡
中心部の扉を押し開けようとした瞬間、
透の胸の奥に、あおいの声が微かに残響した。
〈……たすけて……〉
その声は、もう“声”と呼べるほどの形を保っていなかった。
風のように薄く、影のように揺れ、今にも消えそうだった。
「……あおい」
透は扉から手を離した。
「澪、地上へ戻る。あおいが……危ない」
澪は驚いたように目を見開いた。
「戻るんですか?
でも、中心部を閉じなければ――」
「分かってる。
でも、あおいが消えたら……僕は前へ進めない」
澪は数秒だけ黙り、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。
ですが、揺れは加速しています。
地上はもう“境界の外側”ではありません。
気をつけてください」
透は階段を駆け上がった。
B1階に戻ると、空気が変わっていた。
冷たさではない。
“薄さ”だ。
空気そのものが、どこかへ吸い込まれているような感覚。
影が壁に張り付き、ゆっくりと脈打っている。
「……嫌な感じだ」
透は懐中電灯を握りしめ、地上階へ向かった。
階段を上がるたび、世界が歪む。
蛍光灯が明滅し、影が逆方向へ流れ、
壁の模様が波のように揺れる。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
父の声が遠くで響いた。
「分かってる……でも今は、あおいだ」
地上一階に戻った瞬間、透は息を呑んだ。
マンションの廊下が――“薄く”なっていた。
壁の色が褪せ、床の模様がぼやけ、
天井の蛍光灯は半分以上が消えている。
まるで、世界そのものが“存在を失いかけている”。
「……揺れがここまで」
透は二階へ駆け上がった。
204号室の前に立つと、ドアがわずかに開いていた。
「……あおい?」
透はドアを押した。
204号室の中は、静まり返っていた。
家具はそのまま。
机の上には、あおいが描いた絵が散らばっている。
だが――
あおいの姿がなかった。
「……いない?」
透は部屋の中を見渡した。
ベッドの上には、あおいの髪留めが落ちていた。
床には、小さなスリッパが片方だけ転がっている。
そして――
壁に貼られた絵のひとつが、透の目を引いた。
〈管理人さん〉と書かれた絵。
透とあおいが並んで笑っている絵。
その絵の“あおいの部分”だけが、白く抜け落ちていた。
「……消えてる?」
透は絵を手に取った。
紙の上の色が、まるで“存在ごと剥がれた”ように消えている。
輪郭も、色も、影もない。
ただの白い空白。
「……あおい……」
透は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
そのとき、部屋の隅で影が揺れた。
透は反射的に身構えた。
「……誰だ」
影はゆっくりと形を変えた。
小さな影。
子どもの影。
だが、輪郭は揺れ、顔は黒い穴のように空いている。
〈……かんりにん……さん……〉
透は息を呑んだ。
「……あおい?」
影は震え、声が漏れた。
〈……ここ……じゃない……〉
〈……ひっぱられる……〉
「下……?」
透は影に近づこうとしたが、影は後ずさった。
〈……ふれたら……だめ……〉
影は、透の手が触れそうになると、
まるで“境界の規則”に従うように弾かれた。
「……あおい、どこにいる?」
影は震え、最後の声を漏らした。
〈……ちゅうしん……に……いる……〉
透は目を見開いた。
「中心部……?」
影は形を崩し、霧のように散っていった。
残ったのは、冷たい空気と、
白く抜け落ちた絵だけ。
透は絵を握りしめた。
「……あおいを取り戻す。
絶対に」
透は階段へ向かった。
中心部へ。
あおいのいる場所へ。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第40話 境界の番人
あおいの影が消えた部屋を後にし、透は階段を駆け下りた。
地上の空気は薄く、壁は褪せ、影は逆流している。
世界そのものが“中心部へ吸い込まれている”ようだった。
「……あおいを取り戻す。必ず」
透は拳を握りしめ、地下階へ向かった。
B1階に戻ると、澪が待っていた。
「透さん……あおいさんは?」
「中心部にいる。影がそう言った」
澪は目を閉じ、静かに頷いた。
「……やはり。
境界は“存在の薄い者”から吸い込む傾向があります。
あの子は……境界に近すぎた」
「だからこそ、助ける」
透は迷いなく答えた。
澪は透の目を見つめ、決意を確かめるように言った。
「中心部の扉の前には、“番人”がいます。
境界そのものが生み出した存在です。
管理人以外は通さない。
そして――管理人であっても、試されます」
「試される?」
「はい。
番人は、あなたの“存在の強度”を測ります。
弱ければ……影に変えられる」
透は息を整えた。
「行くよ。あおいが待ってる」
澪は小さく頷き、透の背中を押した。
「……気をつけてください。
番人は“人ではありません”。」
境界階段を降りるたび、世界が歪んでいく。
壁の模様が波打ち、影が逆方向へ流れ、
空気が冷たく、重く、薄くなる。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
父の声が遠くで響く。
透は階段を降り続けた。
そして――
中心部の扉が見えた。
だが、その前に“何か”が立っていた。
それは、人の形をしていた。
だが、人ではなかった。
黒い影の塊。
輪郭は揺れ、顔は黒い穴のように空いている。
だが、他の影とは違い――“立っていた”。
透を待つように。
〈……管理人……〉
声がした。
透は息を呑んだ。
「……お前が、番人か」
影はゆっくりと頷いた。
〈……ここから……さき……は……〉
〈……けして……とおれぬ……〉
「通る。あおいを助けるために」
影は揺れ、低い声を漏らした。
〈……たすける……?〉
〈……むだ……〉
「まだ間に合う!」
透が叫ぶと、影は一瞬だけ動きを止めた。
そして――
影の中心に、白い点が浮かんだ。
“目”だ。
透を見ている。
〈……みさき……〉
〈……おまえ……は……〉
透は拳を握った。
「何も捨てない。
全部守る。
あおいも、住人も、マンションも」
影は揺れ、低く唸った。
〈……それは……できぬ……〉
「なら、僕が止める!」
影は透に近づいた。
足元の影が逆流し、透の影を引き抜こうとする。
だが――
透の影は動かなかった。
影は驚いたように揺れた。
〈……なぜ……うごかぬ……〉
「僕は管理人だ。
境界に選ばれた存在だ。
影に奪われるわけにはいかない」
影は震え、声を漏らした。
〈……ためす……〉
影が透に迫る。
冷気が肌を刺し、視界が揺れ、
世界が暗く沈む。
だが――透は一歩も引かなかった。
「僕は……消えない!」
影が弾かれた。
まるで、透の存在そのものに押し返されたように。
影は後退し、やがて静かに頭を垂れた。
〈……とおれ……〉
影は霧のように消えた。
残ったのは、中心部の扉だけ。
透は深く息を吸った。
「……あおい、今行く」
扉に手を置いた。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第41話 選別の儀
中心部の扉の前に立つと、透は深く息を吸った。
番人は消えた。
だが、扉の向こうからは、まだ“何か”が透を見つめている気配があった。
〈……みさき……〉
〈……まだ……はやい……〉
父の声が、遠くで揺れている。
「……行くよ。あおいを助けるために」
透が取っ手に手をかけた瞬間――
世界が、静かに“裏返った”。
視界が白く染まり、音が消えた。
次の瞬間、透は“どこでもない場所”に立っていた。
床も壁も天井もない。
ただ、白い空間が広がっている。
「……ここは?」
声が響いた。
〈……選別の儀……〉
透は振り返った。
白い空間の中央に、ひとつの“影”が立っていた。
番人とは違う。
形は人に近く、輪郭は揺れず、顔には“穴”がなかった。
ただ、黒い。
透は息を呑んだ。
「……お前は誰だ」
影は静かに言った。
〈……境界……そのもの……〉
〈……わたしは……境界の意思……〉
透は拳を握った。
「……僕を止めに来たのか」
影は首を横に振った。
〈……ちがう……〉
〈……ためす……〉
「試す……?」
影は透の胸に手を伸ばした。
触れられた瞬間、透の視界が揺れた。
景色が変わった。
透は、マンションの廊下に立っていた。
だが――
そこに住人の姿はなかった。
部屋の扉はすべて開き、家具は消え、
影だけが床に残っている。
「……これは……?」
影の声が響いた。
〈……おまえが……なにを……まもるのか……〉
透は歩き出した。
201号室。
未来を書く青年の部屋。
机の上のノートは真っ白で、影だけが揺れている。
103号室。
二つの未来を見た夫婦の部屋。
写真立ての中身は消え、影だけが残っている。
204号室。
あおいの部屋。
絵は白く抜け落ち、スリッパは片方だけ。
透は胸の奥が締めつけられた。
「……全部、消えていくのか」
影の声が答えた。
〈……そう……〉
「だから僕が閉じる」
影は揺れた。
〈……なぜ……?〉
「守りたいからだ。
あおいも、住人も、マンションも。
僕は管理人だ。
選ばれたとか、血筋とか、そんなことはどうでもいい。
ここにいる人たちを……守りたい」
影は静かに透を見つめた。
〈……それが……おまえの……こたえ……〉
景色が揺れた。
白い空間に戻る。
影は透の前に立ち、ゆっくりと頭を垂れた。
〈……みとめる……〉
透は息を吸った。
「……選別は終わりか」
影は頷いた。
〈……だが……きをつけろ……〉
透は影を見つめた。
「それでも行く。
あおいを取り戻すために」
影は静かに消えた。
白い空間が崩れ、視界が暗転する。
透は中心部の扉の前に戻っていた。
扉は、先ほどよりも深く、黒く、重く見えた。
だが――
透の足は、もう止まらなかった。
「行くよ、あおい」
透は扉を押し開けた。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第42話 罪の断片
選別の儀が終わり、白い空間が崩れ落ちると、透は再び中心部の扉の前に立っていた。
扉は、先ほどよりも黒く、深く、重く見える。
まるで、透が通過することを理解したうえで、次の段階を待っているようだった。
「……あおい、必ず助ける」
透は扉を押し開けた。
扉の向こうは、長い通路だった。
壁は黒く、床は濡れたように光り、
天井には光源がないのに、薄い明かりが漂っている。
空気は冷たく、重く、そして――“濁って”いた。
「……ここが、中心部へ続く通路」
透が歩き出すと、足元の影がゆっくりと揺れた。
〈……みさき……〉
〈……きをつけろ……〉
父の声が遠くで響く。
透は通路を進んだ。
そのとき――
壁が、わずかに“膨らんだ”。
「……?」
透が近づくと、壁の黒い表面が波打ち、
やがて“映像”のようなものが浮かび上がった。
それは――
住人たちの姿だった。
最初に浮かんだのは、502号室の男。
逃げ続ける男が、暗い部屋で震えている。
その背後に、黒い影がゆっくりと伸びていく。
〈……あれは……〉
透が見つめると、映像が歪み、
男の影が“罪の形”へと変わった。
――逃げた過去。
――向き合わなかった責任。
――見捨てた誰か。
影はそれらを象徴するように、男の背中に貼りついていた。
「……罪を、吸い上げているのか」
壁の声が答えた。
〈……そう……〉
透は息を呑んだ。
次に浮かんだのは、101号室の母親。
忘れられた母親が、空っぽの部屋で泣いている。
その涙は影となり、床に落ちて広がっていく。
〈……わたし……の……こ……〉
影は、彼女の“喪失の罪”を形にしていた。
――忘れられたこと。
――忘れさせたこと。
――記憶の断絶。
透は胸が痛んだ。
「……罪なんかじゃない。
ただ、苦しんでいただけだ」
壁は静かに揺れた。
〈……つみ……とは……けっして……わる……だけでは……ない……〉
透は言葉を失った。
さらに進むと、203号室の少女の姿が浮かんだ。
名前を失った少女が、白い空間で膝を抱えている。
彼女の影は剥がれ、別の場所で揺れていた。
〈……わたし……だれ……〉
影は、彼女の“存在の不安”そのものだった。
――自分が誰か分からない罪。
――存在が揺らぐ罪。
――名前を持てなかった罪。
透は拳を握った。
「……罪じゃない。
そんなもの、誰にだってある」
壁は静かに答えた。
〈……つみ……とは……ひとの……よわさ……〉
透は息を呑んだ。
「……境界は、人の弱さを吸い上げて影にする……?」
〈……そう……〉
透は通路を見渡した。
壁のあちこちに、住人たちの“罪の断片”が浮かんでいる。
未来を書けなくなった青年の焦燥。
音のない世界の女性の孤独。
双子の片割れの喪失。
嘘しか言えない男の後悔。
影のない女の恐怖。
すべてが影となり、境界に吸い込まれている。
「……これが、境界の正体か」
透は呟いた。
「人の弱さを吸い上げ、影に変え、中心部へ集める……」
壁が震えた。
〈……だから……おまえ……が……とじる……〉
透は深く息を吸った。
「……あおいはどこだ」
壁は静かに揺れ、ひとつの映像を浮かび上がらせた。
白い空間。
その中央に、小さな影が座っている。
〈……かんりにん……さん……〉
あおいの声だ。
透は走り出した。
「待ってろ、あおい!」
通路の奥へ向かう。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第43話 境界の下層へ
罪の断片が壁に浮かび上がる通路を抜けると、
透の前に、もうひとつの階段が現れた。
境界階段とは違う。
幅は狭く、段差は不規則で、
まるで“人が降りることを想定していない”ような造りだった。
「……ここが、下層への階段」
透は懐中電灯を向けた。
階段の先は、完全な闇。
光が吸い込まれ、底が見えない。
〈……みさき……〉
〈……きをつけろ……〉
父の声が、遠くで揺れている。
透は階段の一段目に足を置いた。
その瞬間、空気が変わった。
冷たさではない。
“重さ”だ。
まるで、階段そのものが透の存在を測っているようだった。
「……選別は終わったはずだろ」
透が呟くと、階段の奥から声が返ってきた。
〈……これは……べつ……〉
〈……かくにん……〉
「確認……?」
〈……おまえが……ほんとうに……おりる……か……〉
透は息を吸い、階段を降り始めた。
一段降りるごとに、世界が歪む。
壁が波打ち、影が逆流し、
空気が薄くなり、音が遠ざかる。
〈……みさき……〉
〈……もどれ……〉
父の声が近づいたり、遠ざかったりする。
「戻らない。
あおいが下にいるんだ」
透は階段を降り続けた。
やがて、壁に“影の文字”が浮かび上がった。
〈罪〉
〈喪失〉
〈記憶〉
〈未来〉
〈名前〉
〈影〉
透は拳を握った。
「……住人たちの弱さが、全部ここに集まっている」
階段はさらに深く続く。
しばらく降りると、階段が途切れた。
その先には、広い空間が広がっていた。
天井は高く、壁は黒く、
床には無数の“影の水たまり”が揺れている。
透は息を呑んだ。
「……ここが、境界の下層……」
影の水たまりは、まるで呼吸するように脈打っている。
近づくと、かすかな声が聞こえた。
〈……たすけて……〉
〈……どこ……〉
消えた住人たちの声だ。
透は胸が締めつけられた。
「……みんな、ここに吸い込まれているのか」
そのとき――
空間の奥で、何かが動いた。
透は懐中電灯を向けた。
そこにいたのは――
小さな影だった。
子どもの影。
輪郭は揺れ、顔は黒い穴のように空いている。
だが、その声は透が知っている声だった。
〈……かんりにん……さん……〉
「……あおい!」
透は駆け寄ろうとした。
だが、影は後ずさった。
〈……ちかづいちゃ……だめ……〉
「大丈夫だ。迎えに来た」
〈……だめ……〉
その瞬間、空間全体が震えた。
ゴォォォ……ッ!
影の水たまりが一斉に波打ち、
黒い霧が天井へ向かって立ち上がる。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
父の声が響いた。
透はあおいの影に手を伸ばした。
「行こう、あおい!」
だが――
あおいの影は、透の手が触れる直前で弾かれた。
〈……ふれたら……だめ……〉
透は息を呑んだ。
「……どうすれば……」
そのとき、空間の奥から別の声が響いた。
〈……管理人……〉
透は振り返った。
黒い霧の向こうに、
“人影”が立っていた。
前任者だ。
透は拳を握った。
「……あおいを助けるために、行く」
前任者の影は静かに頷いた。
〈……ついて……こい……〉
透はあおいに向かって言った。
「必ず迎えに来る。絶対に」
あおいの影は小さく頷いた。
〈……まってる……〉
透は前任者の影の後を追い、
境界の下層の奥へ進んだ。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第44話 過去の扉
前任者の影に導かれ、透は境界の下層を進んだ。
足元の影は脈打ち、壁は波打ち、
空気は冷たく、重く、薄い。
〈……ついて……こい……〉
前任者の影は、ゆっくりと歩いていく。
その背中は揺れ、輪郭は曖昧で、
今にも消えてしまいそうだった。
「……前任者さん。
あおいはどこに?」
影は答えなかった。
ただ、奥へ奥へと進んでいく。
やがて、通路の先に“扉”が現れた。
古い木製の扉。
境界の下層には似つかわしくないほど、
人間的で、温かみのある扉だった。
透は息を呑んだ。
「……これは……」
扉には、金属のプレートがついていた。
〈三崎家〉
透の心臓が跳ねた。
「……僕の家……?」
前任者の影が振り返った。
〈……みさき……〉
「過去……?」
影は頷いた。
〈……ちゅうしん……へ……すすむ……まえに……〉
透は扉に手を伸ばした。
その瞬間、扉がひとりでに開いた。
中は、透が幼い頃に住んでいた家だった。
狭いリビング。
古いソファ。
壁に貼られた落書き。
小さな食卓。
すべてが、記憶のままだった。
「……なんで、こんな場所が……」
透は部屋の中へ足を踏み入れた。
懐かしい匂いがした。
温かい空気。
夕方の光。
だが――
何かが違う。
部屋の中央に、黒い影が立っていた。
小さな影。
子どもの影。
透は息を呑んだ。
「……僕……?」
影は振り返った。
〈……どうして……〉
透の胸が締めつけられた。
「……置いていった?
僕は……」
影は透に近づいた。
〈……ぼくは……ひとりだった……〉
透は拳を握った。
「……それは……」
影は透の胸に手を伸ばした。
〈……ぼくは……きえたかった……〉
透は目を見開いた。
「……消えたかった……?」
影は頷いた。
〈……ぼくは……よわかった……〉
透は影を見つめた。
「……僕の弱さが……影になったのか」
影は透の手を握った。
冷たく、軽く、今にも消えそうな手。
〈……でも……いまの……みさき……は……ちがう……〉
透は静かに頷いた。
「……分かった。
僕はもう逃げない。
弱さも、罪も、全部抱えて進む」
影はゆっくりと透の手を離した。
〈……なら……いけ……〉
影は光に溶けるように消えた。
透は扉の外へ戻った。
前任者の影が静かに頷いた。
〈……みとめる……〉
透は深く息を吸った。
「……行こう。
あおいを助けるために」
前任者の影が通路の奥を指した。
〈……つぎは……ちゅうしん……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第45話 境界の上層へ
前任者の影が指し示した通路の奥へ進むと、
透の足元の影が、まるで“逆流”するように揺れ始めた。
〈……みさき……〉
〈……きをつけろ……〉
父の声が遠くで響く。
「……上へ行けってことか?」
透が呟くと、前任者の影が静かに頷いた。
〈……ちゅうしん……は……した……では……ない……〉
〈……うえ……に……ある……〉
「上……?」
透は眉をひそめた。
「でも、中心部は地下に――」
影は首を横に振った。
〈……ちがう……〉
〈……きょうかい……は……かたち……を……もたない……〉
透は息を呑んだ。
「……境界は、方向の概念が通用しない……?」
影はゆっくりと通路の奥を指した。
〈……すすむ……ほど……うえ……に……ちかづく……〉
透は歩き出した。
通路の先には、階段があった。
だが、それは“上へ続く階段”だった。
境界の下層にいるはずなのに、
なぜか上へ向かう階段が現れている。
「……これが、境界の上層へ続く階段」
透は階段を見上げた。
階段の上は白く霞み、
光が揺れ、影が逆流している。
〈……みさき……〉
〈……のぼれ……〉
父の声が近づいた。
透は階段を上り始めた。
一段上がるごとに、世界が変わる。
壁が白くなり、
床が柔らかくなり、
空気が軽くなる。
だが同時に、
影が濃くなり、
声が増え、
揺れが強くなる。
〈……たすけて……〉
〈……どこ……〉
消えた住人たちの声が、階段の上から聞こえてくる。
「……みんな、上に吸い上げられているのか」
透は階段を上り続けた。
やがて、階段の途中で“扉”が現れた。
白い扉。
境界の下層の黒い扉とは対照的な、
光を帯びた扉だった。
扉には、かすれた文字が刻まれていた。
〈上層観測室〉
「……観測室?」
透は扉を押した。
中は、白い空間だった。
壁には無数の“窓”があり、
それぞれに住人たちの姿が映っている。
未来を書く青年が、真っ白なノートを見つめている。
二つの未来を見た夫婦が、互いの手を探している。
音のない世界の女性が、耳を押さえて震えている。
名前を失った少女が、白い空間で泣いている。
透は息を呑んだ。
「……ここは……住人たちの“上層の影”が集まる場所……?」
そのとき、部屋の奥から声がした。
〈……管理人……〉
透は振り返った。
白い空間の中央に、
“人影”が立っていた。
黒い影ではない。
白い影だった。
透は息を呑んだ。
「……誰だ?」
白い影は静かに言った。
〈……わたしは……上層の番人……〉
「見せるもの……?」
白い影は透に近づき、
透の胸に手を当てた。
その瞬間、視界が揺れた。
透の目の前に、
“あおいの姿”が浮かび上がった。
白い空間で、
小さな影が膝を抱えている。
〈……かんりにん……さん……〉
透は息を呑んだ。
「あおい……!」
白い影の声が響いた。
〈……みさき……〉
透は拳を握った。
「全部守る。
あおいも、住人も、マンションも。
僕は管理人だ」
白い影は静かに頷いた。
〈……ならば……すすむがいい……〉
白い影が消えた。
透は扉の外へ戻った。
階段の上には、
さらに強い光が揺れていた。
「……あおい、今行く」
透は階段を上り始めた。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第46話 未来の管理人
境界の上層へ続く階段を上りきると、
透の前に、白い霧が広がる空間が現れた。
下層の黒い影とは対照的に、
ここは光が満ち、空気が軽く、
まるで“現実の上位層”に踏み込んだような感覚があった。
「……ここが、中心部の手前」
透が一歩踏み出した瞬間、
霧が静かに揺れた。
〈……みさき……〉
父の声ではない。
あおいの声でもない。
もっと――自分に近い声。
「……誰だ?」
霧が割れ、
ひとりの“人影”が姿を現した。
透は息を呑んだ。
それは――
透自身だった。
だが、今の透よりも年上で、
表情は疲れ、
影は薄く、
存在そのものが揺れている。
「……僕……?」
未来の透は静かに頷いた。
〈……三崎透……〉
「間違える……?」
未来の透はゆっくりと近づいた。
〈……ちゅうしん……は……おまえを……けす……〉
透は拳を握った。
「……それでも助ける。
あおいは僕を呼んだ。
僕は管理人だ。
守るためにここに来た」
未来の透は首を横に振った。
〈……それが……まちがい……だ……〉
「どういう意味だ」
未来の透は胸に手を当てた。
〈……おまえは……すべてを……しょいこむ……〉
透は息を呑んだ。
「……それが管理人の役割だろ」
未来の透は静かに言った。
〈……ちがう……〉
透は言葉を失った。
「……選ぶ……?」
未来の透は頷いた。
〈……ちゅうしん……は……ひとつしか……とじられない……〉
「……僕が消える?」
〈……そう……〉
未来の透は透の肩に手を置いた。
〈……それでも……すすむか……〉
透は迷わなかった。
「進む。
あおいを助けるために」
未来の透は目を閉じた。
〈……やはり……おまえは……おれだ……〉
そして、静かに言った。
〈……ならば……これを……〉
未来の透は懐から“鍵”を取り出した。
古い金属の鍵。
先端には「CORE」と刻まれている。
「……これは?」
〈……ちゅうしん……の……かぎ……〉
透は鍵を受け取った。
冷たく、重く、
まるで“存在そのもの”を握っているような感触があった。
未来の透はゆっくりと後ずさった。
〈……いけ……〉
透は深く息を吸った。
「……ありがとう。
未来の僕」
未来の透は微笑んだ。
〈……おまえなら……できる……〉
その姿は霧に溶けるように消えた。
透は鍵を握りしめ、
中心部へ続く最後の通路へ向かった。
「……あおい、今行く」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第47話 境界の中心
未来の自分から受け取った“CORE”の鍵を握りしめ、
透は中心部へ続く最後の通路を進んだ。
通路は白と黒が混ざり合い、
光と影がゆっくりと渦を巻いている。
〈……みさき……〉
〈……きをつけろ……〉
父の声が、遠くで揺れていた。
「……行くよ。あおいを助けるために」
透は歩き続けた。
通路の先に、巨大な扉が現れた。
黒でも白でもない。
光と影が混ざり合ったような、
“色のない扉”。
扉の中央には、鍵穴がひとつ。
〈CORE〉と刻まれている。
「……ここが、境界の中心」
透は鍵を差し込んだ。
カチリ。
扉が静かに震えた。
次の瞬間――
世界が、音もなく“開いた”。
透は広い空間に立っていた。
天井はなく、
壁もなく、
床もない。
ただ、光と影が渦を巻く“中心”がある。
その中心には――
黒い球体が浮かんでいた。
大きさは人の頭ほど。
表面は滑らかで、
影が絶えず流れ込み、
光が吸い込まれていく。
「……これが、境界の核……」
透が近づくと、球体が脈打った。
ドクン……
ドクン……
まるで心臓のように。
〈……みさき……〉
〈……くるな……〉
父の声が響いた。
「……父さん?」
声は続いた。
〈……ここは……ひとを……けす……〉
「分かってる。でも、あおいを助けるために来た」
透が一歩踏み出した瞬間――
空間が揺れた。
光が裂け、
影が溢れ、
世界が歪む。
そして――
“あおいの声”が響いた。
〈……かんりにん……さん……〉
透は振り返った。
白い霧の中に、
小さな影が立っていた。
あおいだ。
「……あおい!」
透は駆け寄ろうとした。
だが――
あおいの影は、透の手が触れる直前で弾かれた。
〈……だめ……〉
透は息を呑んだ。
「……中心が、あおいを吸っている……?」
あおいは震えながら言った。
〈……わたし……もう……すこしで……きえる……〉
透は拳を握った。
「絶対に助ける。
あおいを取り戻す」
そのとき――
中心の核が激しく脈打った。
ドクンッ!
影が渦を巻き、
光が吸い込まれ、
空間が震えた。
〈……みさき……〉
父の声が叫んだ。
〈……ちゅうしん……が……ひらく……〉
透は核を見つめた。
影の源。
揺れの中心。
住人たちの罪と弱さが吸い込まれる場所。
そして――
あおいの存在を奪っている場所。
「……閉じる。
僕が、ここを閉じる」
透は核へ手を伸ばした。
その瞬間、
核が叫ぶように震えた。
〈……やめろ……〉
「構わない!」
透は叫んだ。
「僕は管理人だ!
ここを閉じるために選ばれたんだ!」
核が裂け、
光と影が爆発した。
透の体が引き裂かれそうな痛みに包まれる。
だが――
透は手を離さなかった。
「……あおいを……返せ!」
光が弾けた。
影が崩れた。
世界が――
沈黙した。
透は、核の中心に手を置いたまま、
静かに息を吸った。
〈……みさき……〉
父の声が、優しく響いた。
〈……よく……ここまで……きた……〉
透は目を閉じた。
「……父さん……」
中心部が、ゆっくりと閉じ始めた。
影が消え、
光が収束し、
世界が静かに形を変えていく。
透は最後の力を振り絞った。
「……あおい……戻ってこい……!」
核が完全に閉じた。
光が消えた。
影が消えた。
そして――
透の意識も、静かに闇へ沈んでいった。
第48話 マンションの核
――暗闇。
透は、深い水の底に沈んでいるような感覚の中で目を覚ました。
光も、音も、匂いもない。
ただ、静寂だけが広がっている。
「……ここは……?」
声は自分のものなのに、どこか遠くで響いているようだった。
そのとき――
闇の奥で、微かな光が揺れた。
光はゆっくりと形を成し、
やがて“部屋”の輪郭をつくり始めた。
透は息を呑んだ。
「……管理人室……?」
だが、それは地上の管理人室ではなかった。
壁は白く、床は黒く、
家具は影のように揺れ、
窓の外には何もない。
まるで、管理人室の“影”だけを抽出したような空間だった。
〈……みさき……〉
声がした。
透は振り返った。
そこに立っていたのは――
前任者の影だった。
「……前任者さん」
影は静かに頷いた。
〈……ここが……マンションの……かく……〉
「マンションの……核?」
影は透の胸に手を当てた。
〈……マンション……は……ただの……たてもの……では……ない……〉
透は息を呑んだ。
「……境界を封じるために建てられた……?」
影は頷いた。
〈……そう……〉
透は思い出した。
住人たちの異常。
影の剥離。
未来の閉鎖。
名前の喪失。
時間の停止。
「……全部、核の揺れが原因だったのか」
影は静かに言った。
〈……かく……は……ひとの……つみ……よわさ……を……すいこむ……〉
「……じゃあ、マンションは……」
〈……つみ……を……あつめ……〉
透は胸が締めつけられた。
「……住人たちは、ただ巻き込まれただけじゃないか」
影は首を横に振った。
〈……ちがう……〉
「選ばれている……?」
〈……かく……に……ちかい……ひと……〉
透は息を呑んだ。
「……だから、あの人たちが集まったのか」
未来を書けなくなった青年。
名前を失った少女。
影のない女。
嘘しか言えない男。
時間が止まった男。
みんな、境界に“選ばれた”住人だった。
〈……そして……〉
影は透を見つめた。
〈……かんりにん……は……かく……に……もっとも……ちかい……そんざい……〉
「……僕が、核に最も近い……?」
〈……そう……〉
透は拳を握った。
「……じゃあ、僕が核を閉じれば……」
影は静かに頷いた。
〈……たてもの……は……すくわれる……〉
「……あおいを助けられるんだな」
〈……ただし……〉
影の声が低くなった。
〈……かく……を……とじれば……〉
「……未来の僕が言っていた」
〈……そう……〉
透は目を閉じた。
恐怖はあった。
だが、それ以上に――
あおいの声が胸に残っていた。
〈……かんりにん……さん……〉
透は目を開いた。
「……構わない。
あおいを助けるためなら、僕は――」
そのとき、空間が激しく揺れた。
ゴォォォ……ッ!
核が再び脈打ち、
影が渦を巻き、
光が裂けた。
〈……みさき……〉
父の声が響いた。
透は前任者の影を見つめた。
「……行くよ。
マンションの核を閉じるために」
影は静かに頷いた。
〈……いけ……〉
透は核の中心へ向かって走り出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも――
確かに深かった。
第49話 前任者の真実
境界の中心へ向かう階段を下りた先――
透は、薄暗い部屋の前に立っていた。
扉には、かすれた文字でこう刻まれている。
――前任管理人室。
透は、深く息を吸い、扉に手をかけた。
軋む音とともに扉が開く。
部屋の中は、
まるで時間が止まったように静かだった。
机。
椅子。
散らばった書類。
そして――
壁一面に貼られた「住人の影の記録」。
「……ここが……」
透は、足を踏み入れた。
部屋の奥に、
一冊の黒いノートが置かれていた。
表紙には、
“管理人記録”とだけ書かれている。
透は震える手でノートを開いた。
最初のページには、
見覚えのある筆跡が並んでいた。
――三崎亮。
透の父の名前だった。
「……父さん……?」
透は、ページをめくった。
そこには、
父が境界マンションで何を見て、
何を守り、
何に苦しんだのかが記されていた。
〈……境界は、弱さを集める場所だ……〉
〈……住人たちの影は、彼らの“見たくない部分”……〉
透は息を呑んだ。
父は、
住人たちの弱さを一人で抱え続けていた。
ページをめくる。
〈……しかし、境界は変質し始めている……〉
「……崩壊……」
透は、父の言葉を追い続けた。
〈……私は、境界を守れなかった……〉
そこで、文字が途切れていた。
インクがにじみ、
書きかけのまま止まっている。
「……父さん……何があったんだ……?」
透は、ノートの最後のページを開いた。
そこには、
短い一文だけが残されていた。
〈……次の管理人は、“境界の中心”へ行け……〉
「……中心……」
透は、ノートを閉じた。
その瞬間――
部屋の奥から、低い声が響いた。
〈……みさき……〉
透は振り返る。
そこに立っていたのは、
“番人”だった。
「……父さんは……どうなったんだ……?」
番人は、ゆっくりと透に近づいた。
〈……みさきりょうは……“よわさ”にのまれた……〉
透は拳を握った。
「……だから、消えたのか……?」
番人は静かに首を振った。
〈……きえたのではない……〉
「……境界の……一部……?」
〈……みさきりょうのよわさは……“かたち”になった……〉
透は息を呑んだ。
「……父さんが……境界の歪みを……?」
番人は、透を見つめた。
〈……みさき……〉
透は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……父さんの終わり……
そして、僕の始まり……」
番人は、静かに頷いた。
〈……つぎは……“きょうかいのほうかい”……〉
透は、ノートを胸に抱きしめた。
「……行くよ。
父さんが見た“中心”へ」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
**“前任者の真実”** を帯びていた。
第50話 境界の崩壊
マンションの核の空間が、低く唸り始めた。
ゴォォォォ……ッ。
光と影が渦を巻き、空間そのものがねじれるように揺れている。
透は、前任者の影が消えた場所に立ち尽くしながら、拳を握りしめた。
「……時間がない」
核は黒く濁り、脈打つたびに影が溢れ出す。
その影は、住人たちの“罪”や“弱さ”を吸い上げて膨張していた。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
父の声が、遠くで揺れている。
「分かってる。終わらせる」
透は未来の自分から託された“CORE”の鍵を握りしめ、核へ向かって歩き出した。
突然、視界が反転した。
透はマンションの廊下に立っていた。
だが、それはもう“マンション”とは呼べないほど歪んでいた。
壁は透け、床は波打ち、天井は影のように揺れている。
扉の隙間からは黒い霧が漏れ、外の景色は完全に消えていた。
「……崩壊が始まってる」
そのとき、廊下の奥から声がした。
「管理人さん!」
201号室の青年・悠斗が駆け寄ってくる。
手に持つノートは真っ白で、ページだけが風もないのにめくれていた。
「未来が……全部消えていくんです!
“起こるはずだった未来”が、影に飲まれていく!」
廊下の窓ガラスがひび割れ、外の世界が黒い霧に溶けていく。
〈……みさき……〉
〈……かくが……ゆれている……〉
父の声が響いた。
〈……マンションそのものが……くずれはじめた……〉
「……核が限界を超えたんだ」
管理人用インターホンが震えた。
ザザ……ッ。
〈……かんりにんさん……〉
あおいの声だ。
「大丈夫か、あおい!」
〈……へやが……しろくなって……〉
〈……わたし……うすくなって……〉
〈……このままだと……きえる……〉
透は歯を食いしばった。
「核を閉じれば――」
〈……ちがう……〉
あおいの声が震える。
〈……かくが……こわれはじめてる……〉
〈……“とじるまえに”……ぜんぶ……きえる……〉
「……閉じるより早く、崩壊が進んでる……?」
廊下の向こうから、澪が現れた。
白いコートの裾は、すでに黒い影に侵食されている。
「透さん……核の揺れが限界を超えました。
“封じる器”としてのマンションが、もう耐えられません」
「どうすればいい」
「二つに一つです」
澪は静かに言った。
「一つは、崩壊を受け入れること。
境界もマンションも、すべてを終わらせる」
「ありえない。もう一つは?」
「核と“一体化”することです。
あなた自身を、新しい“器”として差し出す。
そうすれば、マンションの代わりに“あなた”が境界を抱え込む」
透は息を呑んだ。
「……僕ひとりが、マンションの代わりになる……?」
澪は頷いた。
「だから、あなたは選ばれたんです」
そのとき、インターホンからあおいの声がした。
〈……かんりにんさん……〉
〈……こんどは……“わたしたち”にも……もたせて……〉
「……“わたしたち”?」
廊下の扉が一斉に軋んだ。
201号室。
103号室。
203号室。
302号室。
すべての部屋から、住人たちの気配が漏れ出す。
〈……のぞんだ……〉
〈……ここに……きたことを……〉
透の足元の影が揺れた。
それはもう“透ひとりの影”ではなかった。
あおいの影、青年の影、少女の影――
いくつもの影が重なり、透の影を支えている。
「……みんな……」
天井が崩れ落ちる。
だが瓦礫は床に触れる前に影となって溶け、透の足元へ流れ込んだ。
マンションの崩壊が、境界そのものの崩壊へ移行していく。
澪が震える声で言った。
「選んでください、透さん。
“崩壊に飲まれるか”、
“崩壊を抱え込んで立つか”」
透は目を閉じた。
〈かんりにんさん〉
〈三崎さん〉
〈透さん〉
呼び方は違っても、願いは同じだった。
――消えたくない。
――忘れられたくない。
――ここで生きたことを、なかったことにされたくない。
透は目を開いた。
「……だったら、決まりだ」
崩壊の振動の中で、透は静かに宣言した。
「崩壊は止めない。
“流れを変える”。
マンションが壊れてもいい。
でも――ここで生きた“存在”だけは、絶対に消さない」
澪が息を呑む。
「それは……」
「境界の崩壊を利用する。
器としてのマンションを一度壊して、“別の形”で受け止め直す」
透は核の方向を見据えた。
「みんなの影も、罪も、弱さも――全部僕のところへ流れて来い。
その上で、“次の器”を決める」
インターホンから、あおいの笑う気配がした。
〈……それが……かんりにんさんの……みち……〉
「ああ。だから――」
透は崩壊する廊下を、光と影の渦へ向かって走り出した。
「――僕は、境界の崩壊を“管理”する!」
足元の影が、透の一歩ごとに寄り添う。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、重く、
“一人ではない”色を帯びていた。
第51話 消えた住人の帰還
崩壊するマンションの廊下を、透は核の方向へ走り続けた。
壁は透け、床は波打ち、天井は影のように揺れている。
外の景色は完全に消え、黒い霧が世界を覆っていた。
〈……かんりにんさん……〉
インターホン越しに聞こえるあおいの声は、先ほどよりも弱い。
「もう少しだ、あおい。絶対に間に合う」
そのとき――
廊下の奥で、何かが“立ち上がる”気配がした。
透は足を止めた。
「……誰だ?」
黒い霧の中から、ひとつの影が現れた。
小さな影。
揺れながらも、確かに“人の形”をしている。
〈……かんりにん……さん……〉
透は息を呑んだ。
「……凛(りん)?」
203号室――名前を失った少女。
影となって消えたはずの彼女が、揺れながら立っていた。
〈……なまえ……まだ……ない……〉
〈……でも……もどって……きた……〉
透は胸が熱くなるのを感じた。
「……帰ってきたんだな」
少女の影は小さく頷いた。
〈……かんりにんさん……が……よんだから……〉
その言葉と同時に、廊下の別の扉が軋んだ。
――201号室。
未来を書く青年・悠斗の部屋だ。
扉の隙間から、黒い影がゆっくりと溢れ出し、
やがて青年の姿を形づくった。
〈……管理人さん……〉
〈……未来……まだ……しろいけど……〉
〈……ぼく……もどってきた……〉
「悠斗……!」
影の青年は、透の足元の影に寄り添うように揺れた。
〈……あなたが……“存在を消さない”って……いったから……〉
〈……だから……もどれた……〉
次々と扉が開く。
103号室――二つの未来を見た夫婦。
101号室――忘れられた母親。
402号室――音のない世界の女性。
502号室――逃げ続ける男。
彼らは完全な姿ではない。
影の輪郭をまとい、声も揺れ、存在は不安定だ。
だが――
〈……かんりにんさん……〉
〈……もどった……〉
〈……まだ……きえたくない……〉
その“願い”だけは、確かに透へ届いていた。
透は拳を握った。
「……帰ってきてくれたんだな。
みんな……」
影の住人たちは、透の影に寄り添うように集まってくる。
影が重なり、揺れ、ひとつの大きな流れとなって透の足元へ吸い込まれていく。
〈……みさき……〉
父の声が響いた。
〈……これが……“帰還”だ……〉
〈……そんざいが……かえってくる……〉
「……まだ完全じゃない。でも、戻ってきてる」
透は影の住人たちを見渡した。
「みんな……僕と一緒に来てくれ。
核を閉じるために、力を貸してほしい」
影たちは揺れながら、静かに頷いた。
〈……いく……〉
〈……かんりにんさんと……〉
そのとき、廊下の奥で大きな音がした。
ドォォォンッ!
マンションの構造がさらに崩れ、
天井が裂け、黒い霧が吹き出す。
〈……みさき……〉
〈……はやく……〉
父の声が急かす。
透は深く息を吸った。
「行こう。
“帰ってきたみんな”と一緒に、境界を修復する」
影の住人たちが透の後ろに続く。
崩壊するマンションの奥へ――
核のある中心部へ――
透は影を従えて走り出した。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに強く、深く、
“帰還した存在の重み”を帯びていた。
第52話 境界の修復
崩壊するマンションの奥へ、透は影の住人たちを従えて走り続けた。
壁は透け、床は波打ち、天井は影のように揺れている。
外の世界は黒い霧に溶け、マンションは“器”としての形を失いつつあった。
〈……かんりにんさん……〉
〈……まってる……〉
あおいの声が、核の方向から微かに響く。
「もうすぐだ、あおい。必ず間に合う」
透は拳を握りしめた。
中心部へ続く最後の通路に入ると、
影の住人たちが透の背後で揺れながらついてくる。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の少女・凛。
402号室の女性。
502号室の男。
彼らは完全な姿ではない。
影の輪郭をまとい、声も揺れ、存在は不安定だ。
だが――
“帰還した”という事実だけが、透の背中を強く押していた。
〈……みさき……〉
父の声が響く。
〈……かくは……まだ……とじられる……〉
「分かってる。修復が必要なんだろ」
〈……そうだ……〉
父の声は、どこか誇らしげだった。
中心部に到達すると、
黒い核は先ほどよりもさらに膨張し、
光と影が激しくぶつかり合っていた。
ドクンッ……ドクンッ……!
核の脈動は、もはや“心臓”というより“爆発寸前の塊”だった。
「……これが、崩壊の中心」
透が近づくと、核の表面が裂け、
中から黒い霧が吹き出した。
〈……やめろ……〉
〈……おまえを……けす……〉
核そのものの声が、透の頭に流れ込む。
「消されるわけにはいかない。
僕は“修復”しに来たんだ」
透は“CORE”の鍵を握りしめた。
そのとき――
影の住人たちが、透の前に立った。
〈……かんりにんさん……〉
〈……わたしたち……も……てつだう……〉
「みんな……?」
201号室の青年が言う。
〈……ぼくたちの……つみも……よわさも……〉
103号室の夫婦が続く。
〈……わたしたちの……未来も……〉
203号室の少女・凛が震える声で言う。
〈……なまえ……まだ……ないけど……〉
透は息を呑んだ。
「……みんなの“影”を、核に返す……?」
〈……そう……〉
〈……かんりにんさん……ひとりじゃ……むり……〉
影の住人たちは、透の影に寄り添い、
その影がゆっくりと核へ向かって伸びていく。
黒い核の表面が揺れ、
影が吸い込まれるたびに、核の脈動が弱まっていく。
ドクン……
ドクン……
透は叫んだ。
「無理するな! お前たちの存在が――」
〈……だいじょうぶ……〉
〈……かんりにんさんが……いるから……〉
透の胸が熱くなる。
「……ありがとう。
みんなの力で、境界を修復するんだ」
影が核へ吸い込まれるたび、
崩壊していたマンションの構造が、わずかに“形”を取り戻していく。
透けていた壁に色が戻り、
波打っていた床が平らになり、
黒い霧が薄れていく。
〈……みさき……〉
父の声が優しく響いた。
〈……これが……しゅうふく……だ……〉
「……まだ終わってない。
核を“閉じる”には、もう一段階必要なんだろ」
〈……そうだ……〉
「罪の中心……?」
父の声は静かに告げた。
〈……おまえが……むかうばしょ……〉
透は核の奥を見つめた。
そこには、白い光が揺れている。
あおいの気配だ。
「……行くよ。
境界を修復して、あおいを取り戻す」
透は影の住人たちに振り返った。
「ありがとう。
ここから先は、僕が行く」
影たちは静かに頷いた。
〈……いって……〉
透は核の中心へ向かって歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに穏やかで、
“修復の光”を帯びていた。
第53話 罪の核心
核の修復が進むにつれ、黒い霧は薄れ、
マンションの崩壊は一時的に“静止”した。
だが、それは安定ではなく――
“嵐の前の静けさ”だった。
透は核の中心へ続く白い光の道を進んでいた。
足元の影は穏やかに揺れ、
背後には、影の住人たちの気配が静かに寄り添っている。
〈……みさき……〉
父の声が、光の奥から響いた。
〈……つぎは……“つみのちゅうしん”……〉
「罪の中心……」
透は息を吸い、光の中へ踏み込んだ。
光が消えると、そこは“白い部屋”だった。
壁も床も天井も白。
影すら落ちない、無機質な空間。
その中央に――
黒い“穴”があった。
穴は丸く、深く、底が見えない。
そこから、かすかな声が漏れている。
〈……たすけて……〉
〈……こわい……〉
透は息を呑んだ。
「……住人たちの“罪”が、ここに集まっているのか」
〈……そう……〉
父の声が答えた。
〈……つみ……よわさ……かなしみ……〉
「……罪って言っても、悪いことをしたわけじゃない。
ただ、弱かっただけだ」
〈……だが……かくは……それを……“罪”として……あつめる……〉
透は穴の縁に近づいた。
穴の奥から、住人たちの声が次々と響く。
〈……わたしのこ……どこ……〉
〈……にげた……わたしが……わるい……〉
それは、誰かを傷つけた罪ではない。
自分自身を責め続けた罪。
弱さを抱えたまま生きた罪。
誰にも言えなかった痛みの罪。
透は拳を握った。
「……こんなもの、罪じゃない。
ただの“人間らしさ”だ」
穴の奥が揺れた。
〈……ちがう……〉
声は、住人たちのものではなかった。
透は息を呑んだ。
「……誰だ?」
穴の奥から、黒い影がゆっくりと立ち上がった。
人の形をしている。
だが、顔は黒い穴のように空いている。
〈……わたしは……つみのけっしょう……〉
「……罪の核心……」
影は透に近づいた。
〈……おまえも……つみを……もっている……〉
「……僕の罪?」
〈……そう……〉
透の胸が痛んだ。
父を救えなかったこと。
前任者を救えなかったこと。
あおいを守れなかった瞬間。
住人たちの苦しみに気づけなかった日々。
全部、自分の中に沈んでいた。
「……それでも僕は、前に進む。
罪を抱えたままでも、守りたいものがある」
影は揺れた。
〈……それでは……とじられない……〉
「どういう意味だ」
〈……つみを……“みとめる”だけでは……たりない……〉
「分かち合う……?」
影は透の胸に手を伸ばした。
〈……おまえのつみ……しょうじょのつみ……じゅうにんのつみ……〉
透は息を呑んだ。
「……罪を混ぜる……?」
〈……そう……〉
そのとき――
白い空間の奥から、あおいの声が響いた。
〈……かんりにんさん……〉
透は振り返った。
白い光の中に、
小さな影が立っていた。
あおいだ。
だが、その影は揺れ、
今にも消えそうだった。
〈……わたしの……つみ……も……ここに……ある……〉
「……あおいの罪……?」
少女は静かに頷いた。
〈……わたし……“しってた”……〉
透は胸が締めつけられた。
「……それは罪じゃない。
あおいは悪くない」
〈……でも……わたし……“たすけて”って……いえなかった……〉
透はあおいの影に手を伸ばした。
「……じゃあ、一緒に混ぜよう。
僕の罪も、あおいの罪も、住人たちの罪も。
全部まとめて――“境界の新しい形”にする」
罪の核心が揺れた。
〈……それが……おまえの……こたえ……〉
「そうだ。
罪を消すんじゃない。
罪を抱えたまま、生きられる場所を作る」
影は静かに頭を垂れた。
〈……ならば……すすむがいい……〉
透は深く息を吸った。
「行くよ、あおい」
少女の影は小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は白い空間の奥へ進んだ。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに重く、深く、
“罪を抱えたまま進む強さ”を帯びていた。
第54話 失われた人物
罪の核心を後にし、透は白い空間の奥へ進んだ。
足元の影は静かに揺れ、
あおいの影がその隣で寄り添っている。
〈……かんりにんさん……〉
〈……このさき……こわいよ……〉
「大丈夫だ。あおいが一緒にいてくれるから」
少女の影は小さく頷いた。
白い空間は、進むほどに“色”を失っていく。
壁も床も天井も、輪郭が曖昧になり、
まるで世界そのものが“記憶の底”へ沈んでいくようだった。
〈……みさき……〉
父の声が、遠くで揺れている。
〈……つぎは……“うしなわれたひと”……〉
「……僕が失った人……」
透は息を呑んだ。
父か。
前任者か。
それとも――。
白い空間の奥に、ひとつの“扉”が現れた。
古い木製の扉。
どこか懐かしい匂いがする。
扉には、かすれた文字が刻まれていた。
〈三崎家〉
透の心臓が跳ねた。
「……また、ここか」
以前、過去の扉で見た“家”と同じ表記。
だが、今回は雰囲気が違う。
前は“記憶”だった。
今回は――“喪失”だ。
透は扉に手を伸ばした。
ギィ……。
扉が静かに開く。
中は、透が幼い頃に住んでいた家だった。
だが、前に見たときとは違う。
家具は色を失い、
壁の落書きは白く抜け落ち、
食卓には誰もいない。
“誰かが消えた後”の家。
透はゆっくりと部屋に入った。
「……父さん……?」
返事はない。
代わりに、部屋の奥から小さな影が現れた。
子どもの影。
透が幼い頃の姿だ。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……また君か」
幼い透の影は、静かに首を振った。
〈……ちがう……〉
「……え?」
影は透の後ろを指さした。
透が振り返ると――
そこに“もうひとつの影”が立っていた。
小さな影。
透と同じくらいの背丈。
だが、輪郭は揺れ、顔は黒い穴のように空いている。
〈……みさき……〉
透は凍りついた。
「……まさか……」
影は静かに言った。
〈……ぼくは……“おまえのきょうだい”……〉
透の胸が締めつけられた。
「……兄弟……?」
影は頷いた。
〈……おまえが……ちいさいころ……〉
「……そんな……僕に兄弟なんて……」
〈……おまえは……わすれた……〉
透は息を呑んだ。
「……境界が……?」
影は静かに頷いた。
〈……ぼくは……よわかった……〉
透の視界が揺れた。
「……父さんは……?」
〈……しってた……〉
透は膝が震えるのを感じた。
自分には、
“失われた兄弟”がいた。
その存在は、境界に吸い込まれ、
記憶ごと消されていた。
〈……みさき……〉
兄弟の影が透に近づく。
〈……おまえは……わるくない……〉
「……違う。
君は罪じゃない。
僕は……君のことを……」
言葉が詰まる。
思い出せない。
でも、確かに“いた”と分かる。
影は透の手を握った。
〈……ぼくを……みとめて……〉
透は震える声で言った。
「……分かった。
君は――僕の兄弟だ。
僕は君を忘れていた。
でも、今は……覚えている」
影は静かに微笑んだように見えた。
〈……それで……いい……〉
「帰れる……?」
〈……おまえが……みとめたから……〉
影は光に溶けるように消えていった。
透は静かに目を閉じた。
胸の奥に、温かい痛みが残っている。
あおいが透の手を握った。
〈……かんりにんさん……〉
「泣いてないよ。
ただ……少しだけ、軽くなった」
少女の影は微笑んだ。
〈……じゃあ……いこう……〉
「……境界の再構築か」
透は深く息を吸い、白い空間の奥へ進んだ。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
“失われた存在を取り戻した重み”を帯びていた。
第55話 境界の再構築
“失われた兄弟”の影が光に溶けて消えたあと、
白い空間は静かに揺れ始めた。
透の胸の奥には、痛みと温かさが同時に残っている。
あおいが透の手を握った。
〈……かんりにんさん……〉
〈……つぎは……“かたち”を……つくるばしょ……〉
「境界の……再構築か」
少女の影は小さく頷いた。
白い空間の奥へ進むと、
世界はゆっくりと“色”を取り戻し始めた。
黒でも白でもない。
淡い灰色の光が、霧のように漂っている。
〈……みさき……〉
父の声が響いた。
〈……ここが……“さいこうそう”……〉
「……器を作る?」
〈……そうだ……〉
透は息を呑んだ。
「形を選ぶ……?」
〈……おまえが……つくる……〉
灰色の霧が晴れると、
透の前に“巨大な空洞”が現れた。
底の見えない深い穴。
その周囲には、無数の“影の糸”が揺れている。
糸は住人たちの影。
罪、弱さ、願い、記憶――
すべてが細い線となって空間に漂っている。
あおいが透の袖を引いた。
〈……これ……ぜんぶ……〉
「……これを、どうするんだ」
〈……つなぐ……〉
父の声が答えた。
〈……おまえが……“つなぎなおす”……〉
透は影の糸に手を伸ばした。
糸は冷たく、軽く、
触れた瞬間に“声”が流れ込んでくる。
〈……わたしのこ……〉
〈……にげた……〉
住人たちの痛みと願いが、糸の中に宿っている。
透は目を閉じた。
「……全部、つなぎ直す。
罪も弱さも、消さない。
そのまま抱えられる“形”にする」
影の糸が静かに震えた。
透が糸を束ねると、
空洞の底から光が立ち上がった。
光は糸を包み込み、
ゆっくりと“形”を作り始める。
最初は球体。
次に立方体。
塔のような形にも変わり、
やがてまた崩れて霧に戻る。
〈……かたちが……きまらない……〉
あおいが不安そうに言う。
〈……どうしたら……いいの……〉
透は静かに答えた。
「形を“決める”んじゃない。
“選ばせる”んだ」
〈……えらばせる……?〉
「住人たちに。
ここに戻ってきたみんなの“影”に。
彼らが望む形を、境界に選ばせる」
影の糸が一斉に揺れた。
〈……かんりにんさん……〉
「もちろんだ。
これは“みんなの境界”なんだから」
影の糸が光に触れ、
空洞の中心に“新しい形”が生まれ始めた。
それは――
マンションのようで、
家のようで、
部屋のようで、
影のようで、
光のようで。
どれでもあり、どれでもない。
〈……これが……〉
父の声が震えた。
〈……みさき……〉
「まだ終わってない。
この形を“守る”存在が必要だ」
その瞬間――
空洞の奥から、黒い影がゆっくりと立ち上がった。
人の形。
だが、黒でも白でもない。
灰色の影。
〈……かんりにん……〉
透は息を呑んだ。
「……番人……?」
影は静かに頷いた。
〈……あたらしい……きょうかいを……まもるため……〉
透は影を見つめた。
「……話をしよう。
境界の“新しい役割”について」
影は静かに歩み寄った。
〈……みさき……〉
透は深く息を吸った。
「行こう。
次は――“番人との対話”だ」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに強く、静かで、
“新しい境界の形を支える重み”を帯びていた。
第56話 番人との対話
境界の再構築が始まり、
灰色の光が空洞を満たしていく。
影の糸は透の手によって束ねられ、
住人たちの罪も弱さも願いも、
ひとつの“新しい形”へと収束しつつあった。
その中心に――
灰色の影が立っていた。
〈……かんりにん……〉
透はゆっくりと歩み寄った。
「……君が、新しい番人か」
影は静かに頷いた。
〈……そう……〉
透は影を観察した。
黒い影でも、白い影でもない。
境界の下層の“罪の影”とも違う。
上層の“光の影”とも違う。
そのどちらでもあり、どちらでもない――
“灰色の存在”。
「……境界そのものが、形を変えたのか」
〈……そう……〉
透は息を呑んだ。
「じゃあ、君は……住人たちの影でもあり、僕の影でもある?」
影は静かに揺れた。
〈……わたしは……“みんな”だ……〉
「……結晶」
〈……そう……〉
透は影の前に立った。
「話そう。
境界の“新しい役割”について」
影はゆっくりと透の方へ歩み寄った。
〈……きょうかいは……かわる……〉
「じゃあ、何になる?」
影は透の胸に手を当てた。
〈……“つみを……わかちあうばしょ”……〉
透は息を呑んだ。
「……わかちあう?」
〈……ひとは……よわい……〉
影の声は、どこか優しかった。
〈……だから……わたしは……“わかちあう”……〉
「……消さない?」
〈……そう……〉
透は胸が熱くなるのを感じた。
「……それが、新しい境界の役割か」
影は静かに頷いた。
〈……そう……〉
「僕か」
〈……おまえ……だけでは……ない……〉
「……え?」
影は透の背後を指さした。
透が振り返ると――
そこには、影の住人たちが立っていた。
201号室の青年。
103号室の夫婦。
203号室の少女・凛。
402号室の女性。
502号室の男。
彼らは影の姿のまま、
しかし確かに“存在”としてそこにいた。
〈……わたしたちも……かんりにん……〉
透は目を見開いた。
「……みんなが?」
〈……そう……〉
透はゆっくりと頷いた。
「……そうだな。
僕ひとりじゃ、何も守れなかった」
影の住人たちは静かに揺れた。
〈……だから……いっしょに……まもる……〉
そのとき、空洞の奥で光が揺れた。
あおいの影が透の手を握る。
〈……かんりにんさん……〉
「境界の新たな役割……」
透は深く息を吸った。
「行こう。
次は――“境界の新たな役割”だ」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに穏やかで、強く、
“共に守る境界”の色を帯びていた。
第57話 境界の新たな役割
灰色の光が満ちる空洞の中心で、
透は“新しい番人”と向かい合っていた。
影の住人たちは透の背後に寄り添い、
あおいは透の手を握っている。
再構築された境界は、まだ不安定だ。
形は揺れ、光は脈打ち、影はゆっくりと流れている。
〈……みさき……〉
父の声が、空洞全体に響いた。
〈……これから……きょうかいは……“あたらしいやくわり”を……もつ……〉
「新しい役割……」
透は息を呑んだ。
「罪を集める場所でも、弱さを裁く場所でもない。
じゃあ……何になるんだ」
番人の影が静かに歩み寄った。
〈……“よりそうばしょ”……〉
「寄り添う……?」
〈……そう……〉
透は胸が締めつけられた。
「……だから、境界が受け止めるのか」
〈……うけとめ……わかちあい……そして……“かえす”……〉
「返す?」
番人は透の胸に手を当てた。
〈……よわさを……けして……けさない……〉
透は息を呑んだ。
「弱さを……力に?」
〈……そう……〉
透は思い出した。
住人たちの影を受け取り、
罪を混ぜ、
弱さを抱え、
それでも前に進んできた自分。
あれは、境界が“変わる”ための過程だったのだ。
あおいが透の袖を引いた。
〈……かんりにんさん……〉
「何が?」
〈……きょうかいは……“こわいばしょ”じゃない……〉
透は目を見開いた。
「帰ってくる場所……」
少女の影は静かに頷いた。
〈……よわくなったとき……〉
透の胸が熱くなる。
「……それが、新しい境界の役割か」
番人が続けた。
〈……そう……〉
「……あずける場所」
〈……そして……また……もどっていく……〉
透は深く頷いた。
「……それなら、守る価値がある。
僕は、この境界を守りたい」
番人は静かに言った。
〈……だが……それには……“かんりにん”が……ひつよう……〉
「僕がやる」
〈……おまえだけでは……ない……〉
透は息を呑んだ。
「……住人たちも、か?」
影の住人たちが一斉に揺れた。
〈……わたしたちも……まもる……〉
透は微笑んだ。
「……ありがとう。
じゃあ、みんなで守ろう。
“帰ってこられる境界”を」
そのとき、空洞の奥で光が強く脈打った。
番人が透に告げる。
〈……つぎは……“きょうかいのさいしゅうてん”……〉
「境界の最深部……」
あおいが透の手を握りしめた。
〈……いっしょに……いく……〉
「もちろんだ」
透は光の奥へ歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに強く、優しく、
“帰る場所を守る覚悟”を帯びていた。
第58話 住人たちの帰還
境界の新たな役割が定まり、
灰色の光が空洞全体に満ちていく。
影の糸は静かに揺れ、
再構築された境界は、ゆっくりと“安定”へ向かっていた。
透は番人と向かい合ったまま、
背後にいる影の住人たちの気配を感じていた。
〈……かんりにんさん……〉
あおいが透の手を握る。
〈……そろそろ……“かえる”ひとたちが……でてくる……〉
「帰る……?」
番人が静かに頷いた。
〈……きょうかいが……かわった……〉
透は息を呑んだ。
「……住人たちが、戻ってくるのか」
〈……そう……〉
空洞の奥で、光が揺れた。
最初に姿を現したのは――
201号室の青年・悠斗だった。
影の姿ではない。
輪郭がはっきりし、
色が戻り、
声も震えていない。
「……管理人さん」
透は目を見開いた。
「悠斗……戻ったのか」
青年は静かに頷いた。
「はい。
未来が……また“書ける気がする”んです。
白紙だったページに、少しだけ……色が戻ってきました」
透の胸が熱くなる。
「……よかった」
次に現れたのは、103号室の夫婦だった。
妻が夫の手を握り、
夫は涙をこらえながら言った。
「……二つの未来を見て、どちらも怖くて……
でも今は、“選べる”気がします」
「未来は一つじゃない。
でも、選ぶのは自分だって……やっと思えたの」
透は深く頷いた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
203号室の少女・凛が現れた。
影ではなく、
小さな体に色が戻り、
瞳が揺れている。
「……わたし……名前……思い出した……」
透は息を呑んだ。
「本当か」
少女は小さく頷いた。
「……“凛”って……呼ばれてた……
お母さんが……そう呼んでくれた……」
透は微笑んだ。
「おかえり、凛」
少女は涙をこぼしながら、透に抱きついた。
〈……かんりにんさん……ありがとう……〉
次々と住人たちが現れる。
402号室の女性は、耳を押さえていた手をゆっくりと下ろし、
502号室の男は、逃げるように震えていた足を止め、
101号室の母親は、胸に抱いた“思い出”を取り戻していた。
彼らは皆、影ではなく“存在”として戻ってきていた。
透は胸がいっぱいになった。
「……みんな……帰ってきたんだな」
番人が静かに言った。
〈……きょうかいが……かわったから……〉
透は深く息を吸った。
「……これが、新しい境界の力か」
〈……そう……〉
そのとき、あおいが透の袖を引いた。
〈……かんりにんさん……〉
透は少女の影を見つめた。
あおいはまだ影のまま。
存在は揺れ、輪郭は不安定だ。
「……あおいは、どうしたい?」
少女は少しだけ考え、
小さな声で言った。
〈……かえりたい……〉
透は優しく答えた。
「怖くていい。
弱さを抱えたまま帰る場所が、ここにはある」
あおいの影が震えた。
〈……じゃあ……いく……〉
透は少女の手を握りしめた。
「一緒に帰ろう。
みんなのところへ」
その瞬間――
空洞の奥で、光が強く脈打った。
番人が透に告げる。
〈……つぎは……“さいごのせんたく”……〉
透は息を呑んだ。
「……最後の選択……」
あおいが透の手を握り返す。
〈……いっしょに……いこう……〉
透は頷いた。
「行こう。
次は――“最後の選択”だ」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに強く、温かく、
“帰還した命の重み”を帯びていた。
第59話 最後の選択
住人たちが次々と“存在”として帰還し、
再構築された境界は、灰色の光の中でゆっくりと安定しつつあった。
透はあおいの手を握りながら、
空洞の奥で脈打つ光を見つめていた。
〈……みさき……〉
父の声が、深いところから響く。
〈……つぎは……“さいごのせんたく”……〉
「最後の選択……」
透は息を呑んだ。
番人が静かに歩み寄る。
〈……きょうかいは……かわった……〉
「僕がやる。
それはもう決めている」
番人は首を横に振った。
〈……おまえだけでは……ない……〉
「……どういう意味だ」
〈……“だれが”……きょうかいを……ささえるのか……〉
透は息を呑んだ。
「……僕じゃない選択肢があるのか」
〈……ある……〉
番人は透の背後を指さした。
そこには――
帰還した住人たちが立っていた。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の少女・凛。
402号室の女性。
502号室の男。
そして――
あおい。
彼らは透を見つめていた。
〈……かんりにんさん……〉
透は目を見開いた。
「……みんなが、管理人に?」
番人が静かに言う。
〈……きょうかいは……“ひとり”では……まもれない……〉
「中心に立つ……」
〈……そう……〉
透は理解した。
「……つまり、“核”と繋がる存在になるということか」
〈……そう……〉
あおいが透の袖を引いた。
〈……かんりにんさん……〉
「……あおい?」
少女は震えながらも、まっすぐ透を見つめた。
〈……わたし……よわいけど……〉
透は胸が締めつけられた。
「……あおいにそんなこと、させられない」
少女は首を振った。
〈……かんりにんさん……ひとりで……しょわないで……〉
透は言葉を失った。
番人が静かに告げる。
〈……“さいごのせんたく”は……みっつ……〉
透は息を呑んだ。
「三つ……?」
〈……ひとつ……〉
透は拳を握った。
〈……ふたつ……〉
透は震えた。
「……あおいを犠牲にするなんて、絶対にできない」
〈……みっつ……〉
番人の声が、静かに深く響いた。
〈……“みんな”で……かんりにんになる……〉
「……みんなで?」
〈……そう……〉
透は息を呑んだ。
「……そんなことができるのか」
〈……できる……〉
番人は透を見つめた。
〈……“きょうかいからはなれる”……〉
透の胸が凍りついた。
「……僕が、境界から離れる……?」
〈……そう……〉
透は言葉を失った。
あおいが透の手を握りしめる。
〈……かんりにんさん……〉
透は深く息を吸った。
住人たちが見つめている。
あおいが震えている。
番人が静かに待っている。
そして――
境界そのものが、透の答えを待っている。
「……僕の選択は――」
透はゆっくりと口を開いた。
その瞬間、空洞の奥で光が強く脈打った。
〈……みさき……〉
父の声が響く。
〈……そこで……こたえを……だせ……〉
透は頷いた。
「行こう。
次は――“境界の最深部”だ」
あおいが透の手を握り返す。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに重く、深く、
“選択の重み”を帯びていた。
第60話 境界の最深部
灰色の光が揺れる空洞を抜け、
透はあおいと手をつないだまま、
境界のさらに奥へと進んでいった。
足元の影は静かに揺れ、
背後には、帰還した住人たちの気配が遠くに感じられる。
だが、ここから先は――
“透ひとり”の領域だった。
〈……みさき……〉
父の声が、深い深い底から響いた。
〈……ここが……“さいしんぶ”……〉
「……境界の最深部」
透は息を呑んだ。
空間は、白でも黒でも灰でもなかった。
“色がない”のではなく、
“色という概念が存在しない”場所。
上下も左右もなく、
前も後ろも曖昧で、
ただ“中心”だけが存在している。
その中心に――
ひとつの“影”が浮かんでいた。
透は歩み寄った。
「……これは……」
影は透と同じ形をしていた。
だが、輪郭は揺れ、
顔は黒い穴のように空いている。
〈……みさき……〉
声は、透自身の声だった。
〈……おまえの……“ほんとうのつみ”……〉
透は息を呑んだ。
「……僕の罪……?」
影は静かに頷いた。
〈……おまえは……ずっと……“ひとりでしょおう”としてきた……〉
透は胸が痛んだ。
「……僕は、誰かを守りたかっただけだ」
〈……それが……つみ……〉
「どうしてだ」
影は透に近づいた。
〈……“ひとりでしょおう”とすることは……〉
透は言葉を失った。
〈……おまえは……よわさを……みとめなかった……〉
「……違う。
僕は弱さを抱えてきた。
住人たちの弱さも、あおいの弱さも――」
影は首を横に振った。
〈……“しょって”いただけ……〉
透は息を呑んだ。
〈……だから……おまえは……ここにきた……〉
透は影を見つめた。
「……じゃあ、僕はどうすればいい」
影は透の胸に手を当てた。
〈……“えらべ”……〉
「選ぶ……?」
〈……おまえが……きょうかいをささえるのか……〉
透は拳を握った。
「……僕は――」
その瞬間、
空間が大きく揺れた。
あおいが透の手を強く握る。
〈……かんりにんさん……〉
「大丈夫だ。僕がいる」
少女の影は震えながらも、透を見上げた。
〈……わたし……しってる……〉
透は胸が熱くなるのを感じた。
「……あおい……」
少女は静かに言った。
〈……だから……“えらんで”……〉
影が透に問いかける。
〈……おまえは……“なにをまもる”……?〉
透は深く息を吸った。
父の声が響く。
〈……みさき……〉
透は目を閉じた。
住人たちの声。
あおいの声。
父の声。
前任者の声。
そして、自分自身の声。
すべてが胸の奥で重なり合う。
「……僕は――」
透が答えを口にしようとした瞬間、
空間が強く脈打ち、
光が爆ぜた。
〈……つぎは……〉
父の声が告げる。
〈……そこで……こたえを……しめせ……〉
透は目を開いた。
「行こう、あおい。
僕の答えを――境界に伝えるために」
少女は強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は最深部を後にし、
再構築された境界の中心へ向かって歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
“答えを出す覚悟”を帯びていた。
第61話 最深部の再会
境界の最深部を後にし、
透はあおいと手をつないだまま、
再構築された境界の中心へ向かって歩いていた。
足元の影は静かに揺れ、
空間は灰色の光に満ちている。
だが、その光はどこか不安定で、
“何かを待っている”ように脈打っていた。
〈……みさき……〉
父の声が、深いところから響く。
〈……さいしんぶを……こえた……〉
「再会……?」
透は息を呑んだ。
あおいが透の袖を引く。
〈……かんりにんさん……〉
「誰が?」
少女は首を横に振った。
〈……わからない……〉
透の胸がざわついた。
光の道を進むと、
空間がゆっくりと“色”を変え始めた。
灰色から白へ。
白から淡い青へ。
そして――
懐かしい“夕暮れの色”へ。
透は息を呑んだ。
「……この色……」
あおいが小さく呟く。
〈……きれい……〉
透は震える声で言った。
「……僕の、子どもの頃の……夕方の色だ」
その瞬間、
空間の奥に“影”が現れた。
人影。
背の高い男性の影。
透は足を止めた。
「……まさか……」
影はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
輪郭が揺れ、
光がまとわりつき、
やがて――
“顔”が見えた。
透の胸が締めつけられた。
「……父さん……?」
三崎亮。
透の父。
境界に飲まれ、
声だけの存在になっていたはずの男が、
今、目の前に立っていた。
〈……透……〉
父は微笑んだ。
〈……おまえは……よく……ここまで……きた……〉
透は言葉を失った。
「……父さん……本当に……?」
〈……ああ……〉
「どうして……?」
父は透の胸に手を当てた。
〈……おまえが……“つみをまぜ”……〉
透の目に涙が滲んだ。
「……僕は……父さんを救えなかったのに……」
父は首を横に振った。
〈……ちがう……〉
「……何を?」
〈……“みんなのよわさ”を……〉
透は震えた。
父は続けた。
〈……だから……わたしは……おまえに……あいにきた……〉
「……会いに……?」
〈……そうだ……〉
透は息を呑んだ。
「……何を?」
父は透の肩に手を置いた。
〈……“えらべ”……〉
「……僕の道……」
〈……おまえは……ずっと……ひとりでしょおうとしてきた……〉
透はあおいの手を握りしめた。
少女は静かに頷いた。
〈……かんりにんさん……〉
父は優しく言った。
〈……“だれと”すすむのか……〉
透は深く息を吸った。
「……父さん。
僕は――」
言いかけた瞬間、
空間が強く脈打った。
番人の声が響く。
〈……みさき……〉
父は透の背を押した。
〈……いけ……透……〉
透は頷いた。
「……行くよ、あおい」
少女は透の手を握り返した。
〈……いっしょに……〉
透は父に振り返った。
「……ありがとう。
また会えるよね」
父は静かに微笑んだ。
〈……いつでも……“かえってこい”……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“再会の力”を帯びていた。
第62話 大切な人の真実
父との再会を終え、
透はあおいと手をつないだまま、
再構築された境界の中心へ向かって歩いていた。
灰色の光は穏やかに揺れ、
影は静かに足元に寄り添っている。
だが、透の胸の奥には、
まだ“答えを出せていない重さ”が残っていた。
〈……かんりにんさん……〉
あおいが透の袖を引く。
〈……このさき……“ほんとうのこと”が……ある……〉
「本当のこと……?」
少女は小さく頷いた。
〈……わたしも……しりたい……〉
透は息を呑んだ。
光の道を進むと、
空間がゆっくりと“色”を変え始めた。
淡い青。
夕暮れの橙。
そして――
“夜の色”。
透は足を止めた。
「……この色……」
あおいが透の手を握りしめる。
〈……こわくない……?〉
「大丈夫だ。あおいがいるから」
少女は小さく微笑んだ。
〈……じゃあ……いこう……〉
夜の色に染まった空間の中心に、
ひとつの“部屋”が現れた。
見覚えのある扉。
古い木製の取っ手。
そして、表札には――
〈204号室〉
透は息を呑んだ。
「……あおいの部屋……」
少女は静かに頷いた。
〈……わたしの……“はじまり”……〉
透は扉に手を伸ばした。
ギィ……。
扉が開く。
中は、透が初めて見たときの204号室と同じだった。
小さな机。
古いベッド。
窓から差し込む淡い光。
だが――
部屋の中央に、ひとりの少女が立っていた。
透は息を呑んだ。
「……あおい……?」
隣にいるあおいとは違う。
影ではなく、
“生きていた頃の姿”の少女。
少女は透を見つめ、
静かに微笑んだ。
「……管理人さん」
透の胸が締めつけられた。
「……君は……」
少女は言った。
「わたしは――“生きていた頃のあおい”」
影のあおいが透の手を握りしめる。
〈……わたし……?〉
少女は優しく頷いた。
「そう。あなたは“わたしの影”。
わたしが消えたあとに残った、最後の“願い”」
透は震える声で言った。
「……あおいは……どうして……消えたんだ」
少女は静かに目を伏せた。
「わたしは……“境界に近すぎた”の。
生きているときから、ずっと」
透は息を呑んだ。
「……境界に……?」
少女は頷いた。
「見えてはいけないものが見えて、
聞こえてはいけない声が聞こえて……
でも、誰にも言えなかった」
影のあおいが震える。
〈……わたし……しってる……〉
少女は影のあおいに微笑んだ。
「あなたは、わたしの“弱さ”そのもの。
わたしが言えなかった言葉、
わたしが抱えたまま消えた願い」
透は胸が痛んだ。
「……じゃあ、あおいは……」
少女は透を見つめた。
「わたしは、消えたんじゃない。
“境界に吸い込まれた”の」
透は息を呑んだ。
「……父さんと同じ……?」
「ううん。
わたしは“自分から近づいた”の」
透は凍りついた。
「……どうして……そんなことを……」
少女は静かに言った。
「――あなたを助けたかったから」
透は言葉を失った。
「……僕を……?」
少女は頷いた。
「あなたは、ずっと“ひとりでしょおう”としていた。
小さい頃からずっと。
誰にも言えない弱さを抱えて、
誰も頼らず、
誰にも頼らせず……」
透は震えた。
「……あおい……」
「だから、わたしは境界に触れた。
あなたを助ける方法を探すために。
でも――」
少女は胸に手を当てた。
「わたしは弱かった。
境界に触れた瞬間、
“影だけ”が残ってしまった」
影のあおいが透の手を強く握る。
〈……わたし……“のこった”……〉
少女は優しく微笑んだ。
「そう。
あなたは、わたしの“願い”そのもの。
――『管理人さんを助けたい』という願い」
透は涙がこぼれそうになった。
「……あおい……君は……」
少女は透に近づき、
そっと手を伸ばした。
「透さん。
あなたは、もう“ひとりじゃない”。
わたしの影も、住人たちも、番人も……
みんな、あなたと一緒にいる」
透は震える声で言った。
「……僕は……」
少女は静かに言った。
「――だから、“選んで”。
あなたが進む道を。
わたしの願いは……あなたが“ひとりで苦しまないこと”」
透は深く息を吸った。
「……あおい。
君の真実を知って……僕は……」
言いかけた瞬間、
空間が強く脈打った。
番人の声が響く。
〈……みさき……〉
透はあおいの影と、生前のあおいを見つめた。
「……行くよ。
君たちと一緒に」
影のあおいは頷き、
生前のあおいは静かに微笑んだ。
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“大切な人の真実”を帯びていた。
第63話 境界の崩壊が始まる
204号室で“生前のあおい”と向き合い、
透は胸の奥に重く、しかし確かな光を抱えていた。
――選ばなければならない。
自分が管理人として境界を支えるのか。
あおいが中心に立つのか。
それとも、住人たちと“分かち合う”道を選ぶのか。
その答えを胸に抱えたまま、
透は境界の中心へ向かって歩き出した。
あおいの影が手を握り、
生前のあおいは静かに寄り添っている。
〈……かんりにんさん……〉
〈……こわくない……?〉
「怖いよ。でも、逃げない」
少女は小さく頷いた。
〈……いっしょに……いく……〉
境界の中心へ近づくにつれ、
空間の色が不穏に揺れ始めた。
灰色の光が脈打ち、
影がざわめき、
空間そのものが“呼吸”しているように見える。
透は足を止めた。
「……これは……」
あおいが透の袖を引く。
〈……きょうかいが……ゆれてる……〉
生前のあおいも静かに言った。
「境界が……あなたの“答え”を待っているの」
透は息を呑んだ。
その瞬間――
空間が大きく揺れた。
ドォォォォンッ!
足元の影が跳ね、
光が弾け、
境界全体が震え上がる。
「っ……!」
透はあおいを抱き寄せた。
〈……かんりにんさん……!〉
生前のあおいが叫ぶ。
「透さん、境界が――“崩れ始めてる”!」
透は周囲を見渡した。
壁のようなものがひび割れ、
光の層が剥がれ、
影が逆流するように渦を巻いている。
「……再構築が……間に合わない……?」
番人の声が響いた。
〈……みさき……〉
「……まだ選んでいないから……?」
〈……そう……〉
透は拳を握った。
「……僕が選ばないと、境界は崩壊する……」
あおいが透の手を握りしめる。
〈……かんりにんさん……〉
「大丈夫だ。絶対に守る」
少女は震えながらも頷いた。
〈……しんじてる……〉
空間の奥で、光が裂けた。
その裂け目から――
“黒い霧”が吹き出す。
罪の核心で見たものとは違う。
もっと深く、もっと重く、
“境界そのものの負荷”が形になったような黒。
透は息を呑んだ。
「……これは……」
番人が告げる。
〈……“さいしんぶのよどみ”……〉
「……崩壊が始まったんだな」
〈……そう……〉
「どうすればいい」
〈……“えらべ”……〉
透は深く息を吸った。
あおいの影が震え、
生前のあおいが静かに寄り添い、
境界そのものが透の答えを待っている。
「……僕は――」
言いかけた瞬間、
黒い霧が一気に広がった。
ドォォォンッ!
透はあおいを抱き寄せ、
霧の衝撃を受け止めた。
〈……かんりにんさん……!〉
少女の声が震える。
透は歯を食いしばった。
「……もう時間がない……!」
番人の声が響く。
〈……つぎは……“さいこうそうのさいかい”……〉
透は頷いた。
「行こう。
境界が崩れる前に、僕の答えを伝える」
あおいの影が透の手を握り返す。
〈……いっしょに……〉
生前のあおいも静かに言った。
「透さん。
あなたの答えが、境界を救う」
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに重く、鋭く、
第64話 番人の最後の試練
境界の中心へ向かう道は、
先ほどまでの穏やかな灰色ではなく、
黒と白が激しく混ざり合う“嵐”のような光に変わっていた。
透はあおいの手を握りしめ、
その光の中を進んでいく。
〈……かんりにんさん……〉
〈……きょうかいが……くずれはじめてる……〉
「分かってる。急ごう」
生前のあおいも静かに言った。
「透さん……境界があなたの“答え”を求めているの」
透は深く息を吸った。
中心へ近づくにつれ、
空間の揺れはさらに激しくなった。
光が裂け、
影が逆流し、
境界そのものが悲鳴を上げているようだった。
その中心に――
“番人”が立っていた。
灰色の影。
境界そのものの意思を宿した存在。
透は歩み寄った。
「番人……来たよ」
番人は静かに頷いた。
〈……みさき……〉
「分かってる。僕は――」
言いかけた瞬間、
番人が透の前に手をかざした。
〈……まだ……だ……〉
「……え?」
〈……おまえは……まだ……“ためされていない”……〉
「試されていない……?」
番人はゆっくりと透に近づいた。
〈……“さいごのしれん”……〉
透は息を呑んだ。
「……試練って、何をするんだ」
番人は透の胸に手を当てた。
〈……“おまえのよわさ”を……みせろ……〉
「弱さ……?」
〈……そう……〉
透は胸が痛んだ。
「……それが僕の罪だって、最深部で言われた」
〈……だが……まだ……“みせていない”……〉
「何を?」
番人は透の目を見つめた。
〈……“ほんとうにこわいもの”を……〉
透は息を呑んだ。
空間が揺れ、
透の足元に“影の穴”が開いた。
その穴の奥から、
透自身の声が響く。
〈……まもれなかった……〉
透は震えた。
「……これは……僕の……」
〈……“ほんとうのよわさ”……〉
番人の声が重なる。
〈……おまえは……ひとをまもりたいといいながら……〉
透は胸を押さえた。
「……違う……僕は……」
〈……“まもれなかったじぶん”を……みたくなかった……〉
透は言葉を失った。
影の穴から、
幼い透の声が響く。
〈……ぼくは……よわい……〉
透は膝をついた。
「……やめろ……」
〈……みせろ……〉
番人の声は厳しく、しかしどこか優しかった。
〈……よわさをみせられないものに……〉
透は拳を握りしめた。
「……僕は……弱いよ……」
影の穴が揺れる。
「父さんを救えなかった。
前任者も救えなかった。
あおいも……守れなかった瞬間があった」
影が透の足元に絡みつく。
「僕は……弱い。
ずっと、弱いままだ」
あおいの影が透の手を握った。
〈……それで……いい……〉
生前のあおいも静かに言った。
「弱さを認めることは、負けじゃない。
“分かち合う準備”なの」
透は涙をこぼした。
「……僕は……弱い。
だから……みんなと一緒じゃないと……前に進めない」
影の穴が静かに閉じていく。
番人が透に告げた。
〈……それが……“こたえ”のいしずえ……〉
透は立ち上がった。
「……じゃあ、僕は――」
番人は静かに頷いた。
〈……つぎは……“こたえをしめすとき”……〉
透は深く息を吸った。
「行こう、あおい。
境界に……僕の答えを伝える」
少女は強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
第65話 住人たちの願い
境界の中心へ向かう道は、
黒と白が混ざり合う嵐のような光に包まれていた。
透はあおいの手を握りしめ、
その光の中を進んでいく。
〈……かんりにんさん……〉
〈……きょうかい……くずれちゃう……〉
「大丈夫だ。まだ間に合う」
生前のあおいも静かに言った。
「透さん……“答え”を出す前に、聞かなきゃいけない声があります」
「……声?」
少女は頷いた。
「“住人たちの願い”。
あなたが守ってきた人たちの、本当の気持ち」
透は息を呑んだ。
光が裂け、
境界の中心手前に“広場”のような空間が現れた。
そこには――
帰還した住人たちが集まっていた。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の少女・凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、まだ影のままの者たちも。
彼らは透を見つめていた。
〈……かんりにんさん……〉
〈……きいて……〉
透は歩み寄った。
「……みんな。
僕は、境界をどうするか選ばなきゃいけない。
その前に……君たちの願いを聞かせてほしい」
最初に口を開いたのは、201号室の青年・悠斗だった。
「管理人さん。
僕は……“未来を書きたい”です。
白紙のままじゃなくて、
誰かと一緒に、選びながら生きたい」
透は頷いた。
次に、103号室の夫婦。
「私たちは……未来を恐れずにいたい。
二つの未来を見て、どちらも怖かったけど……
“選べる”なら、もう一度やり直したい」
「未来は一つじゃない。
でも、選ぶのは自分だって……やっと思えたの」
透は胸が熱くなる。
203号室の少女・凛が前に出た。
「……わたし……なまえ……とりもどした……
だから……“いきたい”……
ここで……みんなと……」
透は微笑んだ。
「凛。君はもう“消えない”。
僕が保証する」
少女は涙をこぼした。
〈……ありがとう……〉
402号室の女性が静かに言った。
「音のない世界は怖かった。
でも……“聞こえないままでも生きていい”って、
あなたが教えてくれた」
502号室の男は震える声で言った。
「逃げ続けてきた俺でも……
“帰ってきていい場所”があるって……
初めて思えたんだ」
101号室の母親は胸に手を当てた。
「忘れられた私でも……
“思い出してくれる人”がいるって……
それだけで、生きていける」
透は拳を握った。
「……みんな……」
そのとき、
影のままの住人たちが一斉に揺れた。
〈……わたしたちも……〉
〈……きえたくない……〉
透は胸が締めつけられた。
「……そうだよな。
弱さは消すものじゃない。
抱えて、分かち合って、生きていくものだ」
影たちは静かに頷いた。
〈……だから……〉
透は息を呑んだ。
生前のあおいが透の前に立った。
「透さん。
みんなの願いは――
“あなたと一緒に生きたい”ということ」
影のあおいも透の手を握った。
〈……わたしも……〉
透は震えた。
「……僕は……」
番人の声が響く。
〈……みさき……〉
透は深く息を吸った。
「……分かった。
みんなの願いを聞いた。
あとは――僕が決める番だ」
あおいが頷く。
〈……いっしょに……いこう……〉
透は境界の中心へ向かって歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに強く、温かく、
第66話 境界の中心で
境界の中心へ向かう道は、
黒と白、そして灰色の光が渦を巻く“嵐”のような空間へと変わっていた。
透はあおいの手を握りしめ、
その光の中を一歩ずつ進んでいく。
〈……かんりにんさん……〉
〈……こわい……〉
「大丈夫だ。僕がいる」
生前のあおいも寄り添うように歩きながら言った。
「透さん……境界が、あなたの“答え”を受け止める準備を始めています」
透は深く息を吸った。
中心へ近づくにつれ、
空間の揺れはさらに激しくなった。
光が裂け、
影が逆流し、
境界そのものが“呼吸”しているように脈打つ。
その中心に――
巨大な“核”が浮かんでいた。
以前見た黒い核とは違う。
黒でも白でもなく、
灰色の光と影が混ざり合った“新しい核”。
透は息を呑んだ。
「……これが……再構築された境界の中心……」
番人が透の前に現れた。
〈……みさき……〉
「分かってる。僕は――」
言いかけた瞬間、
核が大きく脈打った。
ドクンッ……!
光が弾け、
影が渦を巻き、
空間全体が震え上がる。
〈……はやく……〉
番人の声が焦りを帯びる。
〈……“こたえ”を……しめせ……〉
透は拳を握った。
「……僕の答えは――」
だが、その瞬間。
空間の奥から、
住人たちの声が一斉に響いた。
〈……かんりにんさん……〉
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、まだ影のままの者たちも。
彼らは透の背後に集まり、
静かに透を見つめていた。
〈……まもってくれて……ありがとう……〉
透は胸が熱くなる。
「……みんな……」
生前のあおいが透の横に立った。
「透さん。
あなたはずっと“ひとりで背負おう”としてきた。
でも、もう違う」
影のあおいが透の手を握りしめる。
〈……わたしたちも……いる……〉
透は深く息を吸った。
「……僕は……」
そのとき、
核がさらに大きく脈打った。
ドクンッ……!
ドクンッ……!
光が裂け、
影が吹き荒れ、
境界全体が悲鳴を上げる。
〈……みさき……〉
父の声が響く。
〈……“こたえ”を……しめすんだ……〉
透は核の前に立った。
あおいが手を握り、
住人たちが背中を支え、
番人が静かに見守っている。
透は目を閉じた。
――僕は、どうしたいのか。
――誰と生きたいのか。
胸の奥に、
ひとつの答えが浮かび上がる。
透は目を開いた。
「……僕の答えは――」
その瞬間、
核が強烈な光を放ち、
空間が一気に白く染まった。
〈……つぎは……〉
番人の声が響く。
〈……そこで……すべてが……ながれこむ……〉
透は頷いた。
「行こう、あおい。
僕の答えを――境界に刻むために」
少女は強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は光の中へ歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに深く、強く、
第67話 記憶の奔流
境界の中心で、灰色の核が激しく脈打っていた。
光と影が渦を巻き、
空間そのものが悲鳴を上げている。
透はあおいの手を握りしめ、
核の前に立った。
〈……かんりにんさん……〉
〈……こわい……〉
「大丈夫だ。僕がいる」
生前のあおいも寄り添い、静かに言った。
「透さん……ここから先は、“あなたの記憶”が試されます」
透は息を呑んだ。
番人が透の前に現れた。
〈……みさき……〉
「記憶の奔流……?」
〈……おまえが……これまでに……みてきたもの……〉
透は拳を握った。
「……受け止めるよ。全部」
番人は静かに頷いた。
〈……ならば……はじめよう……〉
核が強烈な光を放った。
ドクンッ……!
その瞬間、
透の視界が白く染まり――
次の瞬間、世界が“記憶”に変わった。
――父の背中。
夕暮れの公園。
小さな透の手を引く父の姿。
〈……みさき……〉
透は胸が痛んだ。
「……父さん……」
――前任者の影。
境界の奥で、
透に鍵を託した男の姿。
〈……頼む……〉
「……守れなかった……」
――住人たちの苦しみ。
201号室の青年の白紙の未来。
103号室の夫婦の二つの未来。
203号室の凛の失われた名前。
402号室の女性の消えた音。
502号室の男の逃げ続けた日々。
〈……たすけて……〉
透は胸を押さえた。
「……全部……僕が……」
――あおいの影。
小さな少女が、
透の背中を見つめている。
〈……かんりにんさん……〉
透は震えた。
「……あおい……」
――生前のあおい。
204号室で、
透を助けようと境界に触れた少女。
「透さん。
あなたを助けたかった。
ひとりで苦しまないでほしかった」
透は涙をこぼした。
「……僕は……」
記憶が次々と流れ込み、
透の胸を締めつける。
後悔。
罪悪感。
弱さ。
孤独。
そして――
“守りたい”という願い。
透は膝をついた。
「……僕は……弱い……
でも……弱いままでも……
みんなと一緒なら……前に進める……」
記憶の奔流が静かに収まり始めた。
番人の声が響く。
〈……みさき……〉
透はゆっくりと立ち上がった。
「……僕は、もう逃げない。
弱さも、後悔も、全部抱えて――
それでも、守りたいものがある」
あおいの影が透の手を握る。
〈……いっしょに……〉
生前のあおいも微笑んだ。
「透さん。
あなたの答えを、境界に伝えてください」
透は核を見つめた。
「……行こう。
次は――“境界の答え”だ」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
第68話 大切な人の選択
記憶の奔流が静まり、
境界の中心は、ふたたび“今”を取り戻した。
灰色の核が、ゆっくりと脈打っている。
透は、あおいの手を握ったまま、
核の前に立ち尽くしていた。
胸の奥には、
父との記憶、前任者の願い、住人たちの声、
そして――あおいの真実が、重なり合っていた。
〈……かんりにんさん……〉
あおいの影が、そっと袖を引く。
〈……こたえ……きめた……?〉
透はゆっくり頷いた。
「……ああ。
でも、それは“僕だけの答え”じゃない。
“大切な人の選択”も、一緒に必要だ」
あおいは小さく首を傾げた。
〈……たいせつなひと……?〉
「……あおい。君のことだよ」
少女の影が、かすかに震えた。
番人が、核の影から現れた。
灰色の人影。
境界そのものの意思を宿した存在。
〈……みさき……〉
透は深く息を吸った。
「三つの選択肢――覚えているよ」
指を折りながら、ゆっくりと口にする。
「一つ。僕が管理人として、ひとりで境界とつながる道。
二つ。あおいが管理人となり、中心に立つ道。
三つ。“みんな”で管理人となり、弱さも役割も分かち合う道――」
番人は静かに頷いた。
〈……そう……〉
透は首を振った。
「……違う。“ひとつ”じゃ足りない」
番人の影が揺れた。
〈……どういう……いみだ……〉
「“誰が”境界を支えるかだけじゃない。
“誰がどこで生きるか”を、決めなくちゃいけない」
透は、隣にいるあおいの影を見つめた。
「だからこれは、僕だけの選択じゃない。
――あおいの選択でもあるんだ」
生前のあおいが、透の反対側に現れた。
204号室で見た姿のまま。
少し不安そうに、それでもまっすぐに透を見上げている。
「透さん……」
透は、影のあおいと、生前のあおいを見比べた。
「三つの道、それぞれに“失うもの”がある」
静かに言葉を紡ぐ。
「一つめ――僕がひとりで境界を支えるなら。
みんなは“帰れる場所”を得られるけど、
僕は、完全に境界と一体になって、人としての時間を失う」
あおいの影が震えた。
〈……それ……いや……〉
「二つめ――あおいが中心に立つなら。
境界は、きっと今以上に“優しい場所”になる。
でも、君はずっとここから出られない。
“生きる時間”を取り戻す可能性も、ほとんどなくなる」
生前のあおいが、唇を噛んだ。
「……それも……ちょっと……いやかも」
「三つめ――みんなで管理人になる道。
境界を、みんなで分かち合って支えるなら……」
透は、番人の言葉を思い出す。
〈……そのばあい……“おまえは”……きょうかいからはなれる……〉
「……そのとき“僕は”、境界から離れることになる。
ただの人間に戻って、“ここ”とは切り離される」
あおいの影が、ぎゅっと透の手を握りしめた。
〈……それ……いちばん……いや……〉
生前のあおいも震える声で言った。
「透さんが、いなくなるなんて……
そんなの、わたし……」
透は静かに首を振った。
「だからこそ、“君の選択”が必要なんだ」
透は、あおいの前にしゃがみ込んだ。
影のあおいと、生前のあおい。
二人の瞳を、まっすぐに見つめる。
「あおい。
君は、どう生きたい?」
少女は目を瞬いた。
〈……どう……いきたい……?〉
「境界に残って、ここを守る道もある。
僕と同じように、“見えすぎる世界”の中で、誰かの弱さを受け止める役割もある」
あおいは黙って聞いている。
「でも、それは“君の人生”を奪うことでもある。
君には、204号室で生きていた時間があって、
まだ見ていない世界が、たくさんあるはずなんだ」
影のあおいが、小さく首を振る。
〈……でも……〉
透は、そっと言葉を重ねた。
「――それでも、“僕と一緒にここに残りたい”って言うなら。
僕は、君の選択を尊重する」
あおいの瞳が揺れる。
〈……のこったら……〉
「境界の形は変わる。
でも、ここが“帰ってこられる場所”である限り――
僕は、何度だって君に会いに来る」
生前のあおいが、小さく息を呑んだ。
「……透さんは……“帰る側”になっても……
ここを忘れない……?」
透は力強く頷いた。
「忘れない。
境界も、住人たちも、君のことも。
――僕の“帰る場所”のひとつとして、ここを残したい」
あおいはしばらく黙っていた。
影のあおいと、生前のあおい。
その輪郭が、少しずつ重なり始める。
〈……わたし……〉
小さな声が、ゆっくりと形を取っていく。
〈……わたしは……“かんりにんさんを……たすけたかった”……〉
「……知ってるよ」
〈……ひとりで……くるしんでほしくなかった……〉
「もう、ひとりじゃない」
〈……だから……いまは……〉
あおいは、透をまっすぐに見つめた。
〈……“かんりにんさんに……いきてほしい”……〉
透は息を呑んだ。
「……あおい……」
生前のあおいが、静かに言葉を継いだ。
「透さん。
わたしの選択は――
“あなたに、人としての時間を生きてほしい”ってことです」
透の胸が締めつけられた。
「……じゃあ、君は……」
影と生前のあおいが、ゆっくりと重なっていく。
「わたしは――」
その声は、ひとつになっていた。
「“ここ”に残ります。
境界で、みんなと一緒に、弱さを受け止める側に立ちたい」
透は首を振った。
「でも、それは――」
あおいは小さく笑った。
不思議と、大人びた表情だった。
「透さん。
これは、“わたし自身の選択”です」
影の手が、透の手をきゅっと握る。
〈……かんりにんさんが……“たすかる”なら……〉
透は目を閉じた。
溢れそうになる言葉を、
ゆっくりと、ひとつにまとめる。
「……ありがとう。
君の選択を――僕は、絶対に無駄にしない」
番人が、静かに告げる。
〈……“だいせつなひとのせんたく”……〉
「……ああ。
僕は、“三つめ”を選ぶ」
透は核を見据えた。
「境界を――“みんなで”支える。
住人たちも、あおいも、番人も。
ひとりだけが犠牲になるんじゃない、“分かち合う境界”にする」
番人の影が揺れる。
〈……そのばあい……おまえは……〉
「分かってる。
僕は“境界から離れる”。
でも、それは“見捨てる”ことじゃない。
“帰ってくる場所を信じて、生きる”ってことだ」
あおいが笑った。
〈……それが……かんりにんさんの……こたえ……?〉
「違うよ」
透は、そっと言い直した。
「“僕たちの答え”だ」
核が、静かに輝きを増していく。
光が、灰色から、少しだけ温かい色を帯び始めた。
境界は――
大切な人が選んだ答えを、
確かに受け止めようとしていた。
第69話 境界の新たな形
透が「僕たちの答え」を告げたあと、
境界の核は、しばらくのあいだ、何も反応を示さなかった。
灰色の光が、静かに脈打っているだけ。
あおいが、不安そうに透の袖を引く。
〈……かんりにんさん……〉
〈……きょうかい……おこってる……?〉
「大丈夫。
怒ってるんじゃない。――“考えてる”んだ」
透自身にも、確信はなかった。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
やがて、核がゆっくりと明滅を始めた。
ドクン……。
ドクン……。
そのリズムは、
人間の心臓の鼓動に、どこか似ていた。
番人が、核の影から現れる。
〈……みさき……〉
「……じゃあ、境界は――」
〈……“かたち”を……かえる……〉
番人の声に呼応するように、
核の灰色が、少しずつ色を帯びていく。
黒でも白でもない。
灰に、ほのかに“温度”が混ざり始めたような色。
あおいの影が、息を呑む。
〈……あったかい……〉
境界全体が、静かに揺れ始めた。
これまでのような、崩壊の前触れではない。
硬く固まっていた何かが、
ほぐされていくような揺れ。
足元の床が、
壁のようなものが、
天井のようなものが――
すべて“輪郭”を失っていく。
透は、周囲を見渡した。
「……境界の“構造”が、崩れていく……?」
番人が首を横に振る。
〈……ちがう……〉
「混ざり合う……?」
〈……うえとした……〉
透は、ゆっくりと息を吐いた。
“選別”する境界から、
“分かち合う”境界へ。
その変化が、
いま、目の前で起きている。
光が一度、すべてを白く塗りつぶした。
視界が戻ったとき――
そこにあったのは、“マンション”だった。
だが、以前の境界に現れた、黒い模造のマンションとは違う。
廊下があり、階段があり、郵便受けがあり、
おなじみの扉が並んでいるのに――
壁のあちこちに、
淡い光と影が、静かに“染み込んで”いた。
あおいが、透の袖をつまむ。
〈……これ……〉
よく見ると、
ひとつひとつの染みには、ささやかな“情景”が浮かんでいた。
白紙のノート。
二つの分かれ道。
消えた音の波。
止まった時計。
逃げ出した足跡。
忘れられた手紙。
住人たちの“影”が、
マンションの“内装”そのものとして刻み込まれている。
番人が言う。
〈……これが……“あたらしいきょうかい”……〉
透は息を呑んだ。
「……“弱さ”が、マンションそのものの一部になっている……」
〈……よわさを……かくすのではなく……〉
透は、廊下の壁に触れてみた。
指先に、微かなざらつきと温度が伝わる。
自分が受け取った罪や後悔さえも、
この建物のどこかに、
きっと刻まれているのだと思えた。
エレベーターホールの向こうから、
住人たちが顔を出した。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、まだ“輪郭のあいまいな”影たちも。
彼らは、不思議そうに廊下と壁を見回していた。
「……なんだ、これ……」
「私たちの……“跡”……?」
「消えない、けど……重くない……」
凛が、小さな手で壁を撫でた。
「ここ……あったかい……」
その声に、
廊下の光が、少しだけ明るくなった気がした。
透は、あおいの方に向き直った。
「……これが、“境界の新たな形”か」
あおいの影が、嬉しそうに頷く。
〈……“こわいばしょ”じゃなくて……〉
「誰かが弱くなったとき、
ここに来て、“自分の跡”を確かめられる」
透は、壁に刻まれた影の模様を見上げた。
「“ここに、自分の弱さがある。
それでも、自分の部屋に帰っていい”って、
思える場所なんだ」
番人が静かに続ける。
〈……そして……〉
番人の影が、ふっと揺れた。
その輪郭は、
ほんの少しだけ“人間”に近づいているように見えた。
〈……わたしだけでは……まもれない……〉
201号室の青年が、苦笑混じりに言う。
「いきなり、“管理人見習い”ですか……」
103号室の妻が、肩をすくめる。
「みんなで分担、ってことね」
502号室の男は、頭を掻いた。
「まあ……ひとりで背負うよりは、性に合ってるかもな」
301号室の老人の影が、
静かに笑ったように見えた。
〈……わしらも……やっと……“ここで生きる”ことを……えらべるんじゃな……〉
透は、ひとりひとりの顔を見渡した。
「これからの境界は――
“管理人が上から見張る場所”じゃない。
“元・住人たち”が、
新しく来る誰かの弱さに、そっと寄り添う場所だ」
あおいが、小さく手を挙げた。
〈……じゃあ……わたしも……〉
「もちろん。
あおいは、ここで一番の“案内人”だ」
少女は、嬉しそうに笑った。
〈……ここが……こわくないばしょだって……おしえてあげる……〉
透は、廊下の突き当たり――
エントランスの方角を見た。
そこだけが、まだ“ぼんやりとした霧”に包まれている。
番人が言う。
〈……そこが……“おまえのいりぐち”……〉
「……現実への、出口でもあるんだな」
〈……そう……〉
透は、ゆっくり頷いた。
このマンションが、
世界のどこかに存在し続ける限り――
ここに、自分の足跡も、
住人たちの弱さも、
あおいの選択も、刻まれたままになる。
「……また、帰ってきてもいいか」
番人は静かに答えた。
〈……いつでも……〉
あおいが、透の手を握りしめる。
〈……まってる……〉
透は、少しだけ笑った。
「……そのときは、“おかえり”って言ってくれよ」
少女は、力強く頷いた。
〈……ぜったい……〉
境界は、もはや“上下のない異空間”ではなかった。
それは、
弱さと罪と願いが、
壁や床や扉に溶け込んだ――
“新しい形のマンション”だった。
“境界マンション”は、
ようやく本当の意味で、
「帰ってこられる場所」になろうとしていた。
第70話 大切な人の願い
境界が“新たな形”へと変わったあと、
マンションの廊下には、静かな光が満ちていた。
壁に刻まれた影の模様は、
住人たちの弱さや願いを映し出しながら、
どこか温かい空気を漂わせている。
透は、あおいと並んで歩いていた。
〈……かんりにんさん……〉
少女の影が、そっと袖を引く。
〈……すこし……はなしたい……〉
「……あおいの“願い”だね」
少女は小さく頷いた。
〈……うん……〉
二人が向かったのは、
新しい境界マンションの“中庭”のような場所だった。
以前の境界には存在しなかった空間。
光と影が混ざり合い、
柔らかい風のような気配が流れている。
あおいは、透の前に立った。
〈……かんりにんさん……〉
「うん。
“ここに残る”って、君は言った」
少女は静かに頷いた。
〈……でも……それだけじゃ……たりない……〉
「……足りない?」
〈……“ねがい”が……まだ……いってない……〉
透は息を呑んだ。
あおいは、胸の前で小さな手を握りしめた。
〈……わたし……かんりにんさんに……“いきてほしい”……〉
「……あおい……」
〈……でも……それだけじゃ……ない……〉
少女は、透の目をまっすぐに見つめた。
〈……“ひとりでいきないで”……〉
透は言葉を失った。
〈……かんりにんさん……ずっと……ひとりで……がんばってた……〉
少女の影が震える。
〈……わたし……それ……ずっと……みてた……〉
透は胸が締めつけられた。
「……あおい……」
〈……だから……ねがいは……ひとつ……〉
少女は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
〈……“かんりにんさんが……だれかといっしょに……いきてくれますように”……〉
透は息を呑んだ。
〈……わたしじゃなくても……いい……〉
その言葉は、
あおい自身の“弱さ”と“優しさ”が混ざった、
まっすぐな願いだった。
透は、少女の前にしゃがみ込んだ。
「あおい。
君は……自分がここに残るのに、
僕が“誰かと生きること”を願うのか」
少女は小さく頷いた。
〈……わたし……かんりにんさんのこと……すき……〉
透は息を呑んだ。
〈……でも……それは……“ここにのこるわたし”のきもち……〉
少女は、少しだけ寂しそうに笑った。
〈……だから……かんりにんさんは……“いきてるせかい”で……〉
透は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……あおい。
君は……本当にそれでいいのか」
少女は、透の手を握った。
〈……うん……〉
その言葉は、
生前のあおいが境界に触れた理由と、
影のあおいが残った理由を、
ひとつに結びつけていた。
透は、少女の手を握り返した。
「……ありがとう。
君の願いは、ちゃんと受け取った」
あおいは、ほっとしたように微笑んだ。
〈……よかった……〉
「でも、ひとつだけ言わせてほしい」
透は、少女の目をまっすぐに見つめた。
「――僕は、君を“置いていく”んじゃない。
“君が選んだ場所に、君を送り出す”んだ」
あおいの影が震えた。
〈……うん……〉
「そして、僕は……
君が願ったように、誰かと生きるよ。
でも――」
透は、そっと少女の頭に手を置いた。
「“帰ってきたいときは、必ず帰ってくる”。
君がここにいる限り」
あおいは、涙をこぼしながら笑った。
〈……うん……!〉
そのとき、
境界マンション全体が、静かに光を帯びた。
番人の声が響く。
〈……みさき……〉
「……ああ」
〈……つぎは……“きょうかいのほうかい・だいにば”……〉
透は立ち上がった。
「行こう、あおい。
君の願いを胸に、最後まで進む」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、温かく、
“大切な人の願い”を帯びていた。
第71話 境界の崩壊・第二波
境界が“新たな形”へと変わり、
マンションの廊下には穏やかな光が満ちていた。
壁に刻まれた影の模様は、
住人たちの弱さや願いを静かに抱きしめるように輝いている。
透は、あおいと並んで歩きながら、
新しい境界の空気を確かめていた。
「……これなら、きっと大丈夫だ」
あおいが嬉しそうに頷く。
〈……うん……〉
そのときだった。
――ドクン。
境界の核が、鈍い音を立てた。
透は足を止めた。
「……今のは……?」
番人が、廊下の奥から姿を現した。
〈……みさき……〉
「第二波……?」
〈……きょうかいの……“のこりかす”……〉
透は息を呑んだ。
マンション全体が、突然大きく揺れた。
ドォォォォンッ!
壁の影の模様が震え、
床に走る光の筋が乱れ、
天井の奥から黒い霧が吹き出す。
あおいが透の腕にしがみつく。
〈……かんりにんさん……!〉
「大丈夫、離れないで!」
住人たちも廊下に飛び出してきた。
「な、なんだこれ……!」
「また崩れるの……?」
「せっかく戻れたのに……!」
透は叫んだ。
「落ち着いて! これは“境界の残滓”だ!
完全に混ざりきっていない影が、外に溢れ出している!」
番人が続ける。
〈……“だいにば”は……“しんか”のための……さいごのゆれ……〉
「どうすればいい!」
〈……“かんりにんのさいしゅうにんむ”……〉
透は息を呑んだ。
――「管理人の最終任務」。
その言葉が、胸の奥で重く響く。
黒い霧が、廊下の奥から押し寄せてきた。
影のようで、
煙のようで、
叫び声のようなざわめきを含んでいる。
〈……たすけて……〉
住人たちが後ずさる。
「これ……俺たちの……影……?」
「まだ……残ってたの……?」
「どうすれば……」
透は前に出た。
「――僕が止める!」
あおいが叫ぶ。
〈……かんりにんさん……!〉
「大丈夫だ。
これは“僕たちが選んだ境界”のための、最後の揺れだ!」
黒い霧が、透の足元に迫る。
番人が告げる。
〈……みさき……〉
透は深く息を吸った。
「……分かった。
僕がやる。
――管理人としての、最後の任務を」
あおいが透の手を握る。
〈……いっしょに……いく……〉
「ありがとう。
でも、ここから先は……僕が前に立つ」
少女は震えながらも頷いた。
〈……まってる……〉
透は黒い霧の中心へ向かって歩き出した。
住人たちが、透の背中を見つめる。
「……頼む……管理人さん……」
「あなたが選んだ道を……信じる……」
「どうか……この場所を……」
透は振り返らずに言った。
「――必ず守る。
ここは、みんなの“帰ってこられる場所”だから」
黒い霧が、透を包み込む。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに鋭く、深く、
“崩壊の第二波”を帯びていた。
第72話 管理人の最終任務
黒い霧が、境界マンションの廊下を埋め尽くしていた。
影のざわめき。
罪の残滓。
混ざりきれなかった弱さの破片。
それらが渦を巻き、
新しい境界を飲み込もうとしている。
透は、その中心へと歩みを進めていた。
〈……かんりにんさん……!〉
あおいの声が背中から響く。
〈……いかないで……!〉
透は振り返らずに答えた。
「行くよ。
これが――僕の“最終任務”だから」
少女の影が震える。
〈……でも……〉
「大丈夫。
君が“ここに残る”と選んでくれたから、
僕は前に進める」
あおいは、唇を噛んだまま、
それ以上言葉を返せなかった。
黒い霧の中心に近づくと、
空気が重く、冷たく変わっていく。
影の声が、透の耳に直接流れ込んだ。
〈……たすけて……〉
透は胸を押さえた。
「……これは……住人たちの“残った弱さ”……」
番人が、霧の奥から姿を現した。
〈……そう……〉
「それを……僕が回収するんだな」
番人は静かに頷いた。
〈……それが……“かんりにんのさいしゅうにんむ”……〉
透は深く息を吸った。
「……分かった。
全部、僕が受け取る」
黒い霧が、透の足元から絡みついてくる。
影の声が、次々と胸に流れ込む。
〈……まもれなかった……〉
透は歯を食いしばった。
「……全部、分かるよ。
僕も、同じ弱さを抱えてきた」
霧が、透の胸に吸い込まれていく。
影のざわめきが、
透の心臓の鼓動と混ざり合う。
〈……ひとりで……しょわないで……〉
その声は、あおいの声に似ていた。
透は目を閉じた。
「……ひとりじゃない。
僕は、みんなと一緒に生きる。
だから――」
透は、胸に手を当てた。
「――君たちの弱さも、一緒に連れていく」
黒い霧が、一気に透へと流れ込んだ。
ドォォォォンッ!
衝撃が走り、
透の体が大きく揺れる。
住人たちが叫ぶ。
「管理人さん!」
「大丈夫なの……!?」
「無茶だ……!」
あおいが、透へ向かって走り出す。
〈……かんりにんさん……!〉
だが、番人がその前に立ちはだかった。
〈……いくな……〉
〈……これは……“みさきだけのにんむ”……〉
あおいは涙をこぼしながら叫ぶ。
〈……でも……!〉
番人は静かに首を振った。
〈……“よわさをわかちあう”とは……〉
あおいは、拳を握りしめたまま立ち尽くした。
透の体から、黒い霧が抜け落ちていく。
霧は、透の胸の奥に吸い込まれ、
やがて静かに消えていった。
透は、ゆっくりと目を開いた。
「……終わった……」
番人が近づく。
〈……みさき……〉
透は、深く息を吐いた。
「……これで、境界は……」
〈……“たもたれる”……〉
「……まだ?」
〈……つぎは……“じゅうにんたちのせんたく”……〉
透は頷いた。
「……分かった。
最後までやり遂げるよ」
あおいが、透の手を握った。
〈……かんりにんさん……〉
透は微笑んだ。
「ありがとう、あおい。
君がいてくれたから、ここまで来られた」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
“最終任務を終えた重み”を帯びていた。
第73話 住人たちの選択
黒い霧が透の胸へと吸い込まれ、
境界マンションの空気が、ゆっくりと静けさを取り戻していった。
影のざわめきは消え、
壁に刻まれた弱さの模様は、
再び穏やかな光を帯びている。
透は深く息を吐いた。
「……終わった。
これで、“残った弱さ”はすべて回収した」
あおいが駆け寄り、透の手を握る。
〈……かんりにんさん……!〉
「大丈夫だよ。
君がいてくれたから、最後までやれた」
少女はほっとしたように微笑んだ。
〈……よかった……〉
そのとき、
マンションの廊下の奥から、住人たちがゆっくりと歩いてきた。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、まだ輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは透の前に集まり、
静かに、しかし確かな表情で立っていた。
悠斗が口を開いた。
「管理人さん……
あなたが“全部”を受け止めてくれたの、見ていました」
透は頷いた。
「……みんなの弱さは、僕だけのものじゃない。
“ここで生きる人たち”のものでもある」
103号室の妻が言った。
「だからこそ……
私たちも、選ばなきゃいけないのよね」
透は息を呑んだ。
「……選ぶ?」
夫が続ける。
「“ここで生きるかどうか”。
“新しい境界で、どんな役割を持つか”。
それを決めるのは、あなたじゃなくて……俺たちだ」
番人が、透の横に現れた。
〈……そう……〉
透は住人たちを見渡した。
「……みんなは、どうしたい?」
最初に前へ出たのは、201号室の青年・悠斗だった。
「僕は……“ここに残りたい”。
未来を書くために、
自分の弱さを忘れない場所が必要なんです」
透は微笑んだ。
「……ありがとう。
君の未来は、ここから始まるんだな」
次に、103号室の夫婦。
「私たちも残るわ。
未来を選び直すために、
“揺れた自分たち”を忘れたくないから」
「ここなら、怖くても……一緒に選べる気がする」
透は頷いた。
「二人なら、きっと大丈夫だ」
203号室の凛が、小さく手を挙げた。
「……わたし……ここにいたい……
なまえ……とりもどしたから……
ここで……“いきたい”……」
透は優しく言った。
「凛。
君の名前は、もう消えないよ」
少女は嬉しそうに笑った。
〈……うん……〉
402号室の女性は、静かに言った。
「音がなくても……
ここなら、怖くない。
“聞こえないままの私”を、受け入れてくれるから」
502号室の男は、照れくさそうに頭を掻いた。
「逃げ続けてきた俺でも……
ここなら、もう逃げなくていい気がする」
101号室の母親は、胸に手を当てた。
「忘れられた私でも……
“思い出してくれる場所”があるなら……
ここで生きたい」
301号室の老人の影が、静かに言った。
〈……わしも……ここにおる……〉
透は胸が熱くなった。
「……みんな……ありがとう」
だが、影の住人の中には、
静かに首を振る者もいた。
〈……わたしは……かえる……〉
〈……ぼくも……〉
透は頷いた。
「……それも、立派な選択だよ。
境界は“帰ってくる場所”であって、
“閉じ込める場所”じゃない」
番人が続ける。
〈……えらんだものは……かえる……〉
透は、あおいの方を見た。
少女は静かに頷いた。
〈……わたしは……ここにいる……〉
透は微笑んだ。
「……ありがとう。
君がそう言ってくれるなら、僕は安心して“生きていける”」
あおいは、少し照れたように笑った。
〈……うん……〉
番人が、透の前に立つ。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……あおいの……?」
番人は静かに頷いた。
〈……“えらんだもの”が……かならずしも……しあわせとはかぎらない……〉
透は、あおいの手を握った。
「行こう。
君の涙も、僕が受け止める」
少女は小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
“住人たちの選択”を帯びていた。
第74話 大切な人の涙
住人たちがそれぞれの“選択”を終え、
境界マンションには、静かな余韻が漂っていた。
残る者。
現実へ帰る者。
迷いながらも、前へ進もうとする者。
そのすべてが、
新しい境界の空気を満たしていた。
透は、あおいと並んで廊下を歩いていた。
〈……かんりにんさん……〉
少女の影が、そっと袖をつまむ。
〈……すこし……いい……?〉
「もちろん。
あおいの話なら、いつでも聞くよ」
少女は小さく頷いた。
〈……“なみだ”が……でそう……〉
透は息を呑んだ。
二人が向かったのは、
境界マンションの“中庭”だった。
光と影が混ざり合う、
新しい境界の象徴のような場所。
あおいは、透の前に立つと、
胸の前で小さな手を握りしめた。
〈……かんりにんさん……〉
「うん」
〈……わたし……“ここにのこる”って……えらんだ……〉
「そうだね。
君は、自分の意思で選んだ」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
〈……でも……〉
透は静かに待った。
〈……“えらんだのに”……こわい……〉
その声は震えていた。
〈……かんりにんさんが……“いきてるせかい”に……かえるって……〉
透は胸が締めつけられた。
「……あおい……」
〈……わたし……“かんりにんさんをたすけたい”って……ずっとおもってた……〉
少女は、透の服をぎゅっと握った。
〈……“さみしい”って……おもっちゃう……〉
その瞬間――
あおいの頬を、一粒の涙が伝った。
透は息を呑んだ。
〈……ごめん……〉
「違うよ」
透は、少女の肩にそっと手を置いた。
「それは“間違った気持ち”じゃない。
君が選んだ道が、本物だからこそ……怖くなるんだ」
あおいは涙をこぼしながら首を振る。
〈……でも……〉
「君は、僕のために“残る”と選んだ。
その選択は、誰よりも強い。
でも――」
透は、あおいの涙を指でそっと拭った。
「強い選択をした人ほど、涙が出るんだよ」
少女は、透の胸に顔を埋めた。
〈……かんりにんさん……〉
「言っていいよ」
〈……でも……〉
「言ってもいい。
でも、僕は“行く”。
君が選んだ未来を守るために」
あおいは、透の服をぎゅっと握りしめた。
〈……やだ……〉
その矛盾した言葉は、
あおいの心そのものだった。
〈……わたし……かんりにんさんに……“いきてほしい”……〉
透は、少女の頭を優しく撫でた。
「……ありがとう。
その気持ちを、全部受け取るよ」
あおいは、涙を流しながら、
透の胸にしがみついた。
〈……かんりにんさん……〉
「うん。
必ず帰ってくる」
〈……ほんとう……?〉
「本当だよ。
“ただいま”って言いに来る」
少女は、涙の中で小さく笑った。
〈……じゃあ……わたし……“おかえり”っていう……〉
透は頷いた。
「それが、僕の“帰る場所”だ」
そのとき、
境界マンション全体が、静かに揺れた。
番人の声が響く。
〈……みさき……〉
「……ああ」
〈……つぎは……“きょうかいのしんじつ”……〉
透は、あおいの手を握った。
「行こう。
君の涙を無駄にしないために」
少女は、涙を拭いながら頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“大切な人の涙”を帯びていた。
第75話 境界の真実
境界マンションの廊下を、
透とあおいはゆっくりと歩いていた。
住人たちの選択は終わり、
涙も、決意も、すべてが“新しい境界”に刻まれた。
だが――
まだ終わりではない。
番人が、廊下の奥から静かに姿を現した。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……境界の真実……」
あおいが透の手を握る。
〈……こわい……?〉
「怖いよ。でも、知りたい。
ここが何なのか。
僕たちが、なぜここに来たのか」
少女は小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
番人に導かれ、
二人はマンションの“最奥”へ向かった。
そこは、以前の境界には存在しなかった場所。
白でも黒でも灰でもない、
“色の概念が揺らぐ空間”。
中心に、ひとつの“扉”があった。
表札には――
〈管理人室〉
透は息を呑んだ。
「……ここは……」
番人が言う。
〈……“ほんとうのかんりにんしつ”……〉
透は扉に手を伸ばした。
ギィ……。
扉が開く。
中は、驚くほど“普通の部屋”だった。
机。
棚。
古いノート。
そして――
壁一面に貼られた、無数の“影の記録”。
透は近づいた。
「……これは……」
番人が静かに言った。
〈……“きょうかいにのまれたものたち”の……きおく……〉
影の形は、
住人たちの弱さや後悔の断片。
だが、その中に――
透は見覚えのある影を見つけた。
「……父さん……?」
小さな影が、
父・三崎亮の姿を象っていた。
透は胸が締めつけられた。
「父さんも……ここに……」
番人が頷く。
〈……“かんりにん”とは……〉
「……じゃあ、父さんは……」
〈……おまえのちちも……“かんりにん”だった……〉
透は息を呑んだ。
「……やっぱり……」
〈……そして……“まえのかんりにん”も……〉
壁の別の影が、
前任者の姿を象っていた。
透は、ゆっくりと理解していく。
「……境界は……
“弱さを預かる場所”であり……
“管理人は、その中心に立つ者”……」
番人は静かに続けた。
〈……だが……それだけではない……〉
「……?」
〈……“きょうかい”とは……〉
透は目を見開いた。
「……人間の……弱さ……?」
〈……そう……〉
透は震えた。
「じゃあ……境界は……
誰かが作ったものじゃなくて……
“人間そのもの”が生み出した……?」
番人は頷いた。
〈……にんげんが……よわさをかくしつづけるかぎり……〉
透は、壁に刻まれた影を見つめた。
住人たちの弱さ。
父の弱さ。
前任者の弱さ。
そして――
自分自身の弱さ。
「……だから、管理人が必要なんだ」
〈……そう……〉
透は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……境界は……
弱さを閉じ込める場所じゃない。
弱さを“見つめ直す場所”なんだ」
番人は静かに頷いた。
〈……そして……〉
透は、あおいの手を握った。
少女は、少し照れたように微笑んだ。
〈……わたし……すこしだけ……やくにたてた……?〉
「少しどころじゃないよ。
君がいなかったら、ここまで来られなかった」
あおいは、嬉しそうに頷いた。
〈……よかった……〉
番人が、透の前に立つ。
〈……みさき……〉
「……次は?」
〈……“みらいのとうとのさいかい”……〉
透は深く息を吸った。
「行こう、あおい。
境界の真実を知った今、
僕は――前へ進む」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
“境界の真実”を帯びていた。
第76話 未来の透との再会
境界の真実を知ったあと、
透とあおいは、番人に導かれて
マンションの奥へと進んでいた。
廊下は静かで、
壁に刻まれた影の模様が
淡い光を帯びて揺れている。
〈……かんりにんさん……〉
あおいが透の手を握る。
〈……“みらいのひと”って……こわい……?〉
「怖いよ。
でも、会わなきゃいけない相手だ」
少女は小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
番人が立ち止まった。
〈……ついた……〉
そこは、境界マンションの“最上階”。
以前は存在しなかった階層。
扉には、こう書かれていた。
〈未来管理人室〉
透は息を呑んだ。
「……未来の……管理人……?」
番人が静かに言う。
〈……“おまえのみらい”が……ここにいる……〉
透は扉に手を伸ばした。
ギィ……。
扉が開く。
部屋の中は、
透がいつも使っていた管理人室とよく似ていた。
だが――
机の前に、ひとりの男が座っていた。
透は息を呑んだ。
「……僕……?」
男はゆっくりと振り返った。
透より少し年上。
疲れた目。
優しい笑み。
そして――
どこか“諦め”の影を宿した顔。
「やあ、透。
ようやく来たね」
透は震える声で言った。
「……未来の……僕……?」
男は頷いた。
「そう。
“ひとりで境界を背負い続けた未来の透”だよ」
あおいが透の袖を握る。
〈……かんりにんさん……〉
未来の透は、ゆっくりと立ち上がった。
「君は、三つの選択肢のうち……
“ひとりで背負う道”を選ばなかった。
それは正しい。
でも――」
未来の透は、壁に貼られた影を指さした。
「僕は、選べなかった。
“誰にも頼れない”と思い込んで、
全部を抱え込んだ」
透は息を呑んだ。
「……それで……どうなったんだ」
未来の透は、静かに笑った。
「境界は守れたよ。
でも、僕は……“人間としての時間”を失った」
あおいが震える。
〈……そんなの……いや……〉
未来の透は、あおいに優しく微笑んだ。
「君が選んだ道は、正しいよ。
“透を生かす道”だから」
透は拳を握った。
「……じゃあ、僕は……
君みたいにはならない……?」
未来の透は首を横に振った。
「違う。
“ならない”んじゃない。
“ならなくていい未来を選んだ”んだ」
透は息を呑んだ。
未来の透は、机の上のノートを手に取った。
「これは、僕が書いた“境界の記録”だ。
弱さを抱えた人たちの声。
君が出会った住人たちの影。
そして――」
未来の透は、ノートを透に差し出した。
「“あおいの願い”も、全部書いてある」
透はノートを受け取った。
ページの端には、
小さな文字でこう書かれていた。
――『透さんが、生きていてくれますように』
透は胸が熱くなった。
「……あおい……」
少女は、透の手をぎゅっと握った。
〈……わたし……ほんとうに……そうおもってる……〉
未来の透は、静かに言った。
「透。
君は、僕とは違う未来を選んだ。
だから――」
未来の透は、透の肩に手を置いた。
「“生きてくれ”。
僕ができなかった分まで」
透は息を呑んだ。
「……未来の僕……」
未来の透は、優しく微笑んだ。
「君ならできる。
あおいがいるから」
あおいは、涙をこぼしながら頷いた。
〈……うん……〉
部屋が、ゆっくりと光に包まれていく。
未来の透の姿が、薄れていく。
「……もう行くよ。
君の未来は、君が選ぶんだ」
透は叫んだ。
「ありがとう……!
僕は――生きるよ!」
未来の透は、最後に微笑んだ。
「それでいい。
それが、僕の願いだ」
光が弾け、
未来の透は消えた。
透は、あおいの手を握りしめた。
「……行こう。
未来を選ぶために」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
“未来の透との再会”を帯びていた。
第77話 境界の崩壊・最終段階
未来の透が光の中へ消えたあと、
境界マンションの空気は、しばらく静かだった。
透は、あおいの手を握りしめたまま、
深く息を吸った。
「……行こう。
ここからが、本当の“最終局面”だ」
あおいは小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
その瞬間だった。
――ドォォォォンッ!
境界マンション全体が、大きく揺れた。
壁に刻まれた影の模様が震え、
床の光が乱れ、
天井の奥から黒い裂け目が走る。
透は息を呑んだ。
「……これは……!」
番人が、廊下の奥から現れた。
〈……“さいしゅうだんかい”……〉
あおいが透の腕にしがみつく。
〈……かんりにんさん……!〉
「大丈夫。離れないで」
黒い裂け目は、
境界マンションの天井から床へと伸び、
まるで“世界そのものが割れていく”ようだった。
影のざわめきが、
透の耳に直接流れ込む。
〈……たすけて……〉
透は胸を押さえた。
「……これは……住人たちの“残った恐怖”……」
番人が頷く。
〈……“よわさ”は……うけとめられた……〉
「……恐怖……」
〈……“よわさ”は……わかちあえる……〉
透は息を呑んだ。
「じゃあ……この崩壊は……」
〈……“きょうふ”が……かたちになったもの……〉
あおいが震える。
〈……じゃあ……どうすれば……〉
番人は、透をまっすぐに見つめた。
〈……“みさき”……〉
透は拳を握った。
「……僕の未来……」
〈……“ひとりでしょわない”と……えらんだ……〉
透は、住人たちのいる階層へ目を向けた。
「……みんなを呼ぶんだな」
番人は静かに頷いた。
〈……そう……〉
透は、マンション全体に響くように声を上げた。
「みんな!
聞こえるか!」
廊下の奥から、住人たちが次々と姿を現した。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、まだ輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは、透の前に集まった。
「管理人さん……!」
「どうすればいいの……?」
「また崩れるの……?」
透は叫んだ。
「――“恐怖”を、ひとりで抱え込まないでくれ!」
住人たちは息を呑んだ。
「弱さは、僕が預かった。
でも、“恐怖”は……僕ひとりじゃ受け止められない!」
あおいが透の隣で頷く。
〈……“こわい”って……いっていい……〉
透は続けた。
「恐怖は、誰かに見せることで、初めて“形”になる。
形になれば、僕たちはそれを“分かち合える”。
だから――」
透は手を差し出した。
「――“怖い”と思ったら、僕に言ってくれ。
“怖い”と思ったら、隣の人に言ってくれ。
“怖い”と思ったら、あおいに言ってくれ!」
住人たちが、互いに顔を見合わせた。
そして――
ひとり、またひとりと声を上げ始めた。
「……怖い……!」
「私も……怖い……!」
「消えるのが……怖い……!」
「また間違えるのが……怖い……!」
「未来が……怖い……!」
その声が重なった瞬間――
黒い裂け目が、ゆっくりと“止まった”。
番人が静かに言った。
〈……“きょうふ”は……“こえ”にしたとき……ちからをうしなう……〉
透は息を吐いた。
「……よかった……」
だが――
番人の影が、わずかに揺れた。
〈……だが……まだ……さいごがある……〉
「……最後?」
〈……“かんりにん”としての……さいごのしれん……〉
透は息を呑んだ。
あおいが、透の手を握る。
〈……かんりにんさん……〉
透は少女の手を握り返した。
「行こう、あおい。
君の手を――僕が離さないために」
少女は、小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、鋭く、
“境界の崩壊・最終段階”を帯びていた。
第78話 大切な人の手
境界マンション全体が、
黒い裂け目と光の揺れに包まれていた。
恐怖の声は弱まりつつある。
だが、完全には消えていない。
透は、あおいの手を握りながら、
最上階へと続く階段を上っていた。
〈……かんりにんさん……〉
少女の影が、そっと袖を引く。
〈……“て”って……なに……?〉
「番人が言っていた“最後の試練”だよ。
“大切な人の手”――
それをどう扱うかで、境界の未来が決まる」
あおいは不安そうに透を見上げた。
〈……わたしの……て……?〉
「そうだよ」
少女は小さく息を呑んだ。
〈……はなしたら……だめ……?〉
「離すか、離さないか――
それを決めるのは、僕だ」
階段を上りきると、
そこには“境界の核”があった。
以前の黒い核ではない。
灰色に光り、
住人たちの弱さと願いが混ざり合った“新しい核”。
だが――
その表面には、深い亀裂が走っていた。
番人が現れる。
〈……みさき……〉
「……あおいの手、だな」
〈……そう……〉
透は、あおいの手を握り直した。
少女は震えていた。
〈……かんりにんさん……〉
「僕も怖いよ」
〈……じゃあ……〉
「でも、怖いからこそ――
“手をどうするか”を決めなきゃいけない」
番人が、核の前に立つ。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……あおいと手をつなぐと、僕は境界から離れる……?」
〈……そう……〉
あおいが透の袖をつまむ。
〈……じゃあ……はなしたら……?〉
番人は静かに言った。
〈……“てをはなせば”……〉
透は目を閉じた。
――あおいと手をつなげば、現実へ戻る。
――あおいの手を離せば、境界に残る。
どちらも、重い選択だった。
あおいが、透の手をぎゅっと握った。
〈……かんりにんさん……〉
透は驚いた。
「……あおい……?」
少女は涙をこぼしながら言った。
〈……だって……〉
透は胸が締めつけられた。
「……でも、君はここに残るんだぞ」
〈……うん……〉
透は息を呑んだ。
〈……てをはなしても……〉
少女は、涙を流しながら微笑んだ。
〈……だから……“てをつないで”……〉
透は、あおいの手を見つめた。
小さくて、
温かくて、
ずっと守りたいと思ってきた手。
――この手を離すことは、
あおいの選択を否定することになる。
――この手を握ることは、
あおいの願いを受け入れることになる。
透は、ゆっくりと息を吸った。
「……あおい」
少女は涙の中で頷いた。
〈……うん……〉
「僕は――」
透は、あおいの手を強く握った。
「――君の手を“離さない”。
でも、境界からは“離れる”。
君が選んだ未来を、僕が生きるために」
あおいは、涙をこぼしながら笑った。
〈……うん……!〉
その瞬間――
境界の核が、強烈な光を放った。
亀裂が閉じ、
光が溢れ、
マンション全体が震えた。
番人が叫ぶ。
〈……“けってい”が……くだされた……!〉
透は、あおいの手を握ったまま、光に包まれた。
少女の声が響く。
〈……かんりにんさん……〉
「もちろんだよ。
必ず帰ってくる」
光が、二人を包み込んだ。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、温かく、
“大切な人の手”を帯びていた。
第79話 住人たちの声
境界の核が光に包まれ、
透とあおいの“選択”が境界に刻まれたあと――
マンション全体は、
しばらくのあいだ静寂に包まれていた。
光はまだ揺れている。
崩壊の余韻は残っている。
だが、先ほどまでのような“恐怖のざわめき”はない。
透は、あおいの手を握ったまま、
ゆっくりと廊下へ戻った。
〈……かんりにんさん……〉
少女が透を見上げる。
〈……これで……おわり……?〉
「まだだよ。
“新しい境界”が本当に成立するには――
住人たちの声が必要なんだ」
あおいは小さく頷いた。
〈……みんなの……こえ……〉
そのとき、
廊下の奥から足音が響いた。
住人たちが、ひとり、またひとりと姿を現す。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは、透とあおいの前に集まった。
悠斗が口を開いた。
「管理人さん……
あなたが“手をつないだ”の、見ていました」
透は頷いた。
「……僕は、あおいの選択を受け入れた。
そして、あおいの願いを生きると決めた」
103号室の妻が言った。
「それは……“あなたが境界に残らない”ってことよね」
「そうだ。
僕は、現実へ戻る。
でも――」
透は、住人たちを見渡した。
「境界は、みんなで支える。
“弱さを預ける場所”じゃなくて、
“弱さを分かち合う場所”にするんだ」
住人たちは、互いに顔を見合わせた。
そして――
ひとり、またひとりと声を上げ始めた。
402号室の女性が、胸に手を当てて言う。
「……私、音が聞こえなくても……
ここなら、怖くない。
“聞こえない私”を受け入れてくれるから」
502号室の男が続ける。
「逃げ続けてきた俺でも……
ここなら、逃げなくていい気がする。
弱さを隠さなくていい場所なんて、初めてだ」
101号室の母親は、涙をこぼしながら言った。
「忘れられた私でも……
“思い出してくれる人”がいるなら……
ここで生きたい」
203号室の凛が、小さく手を挙げた。
「……わたし……ここで……“なまえ”をいきたい……
わすれられないように……
ここで……“こえ”をのこしたい……」
透は胸が熱くなった。
影の住人たちも、
ゆっくりと声を上げ始めた。
〈……わたしも……〉
〈……きえたくない……〉
〈……ここなら……“よわさ”をいっていい……〉
透は、彼らの声をひとつひとつ受け止めた。
「……ありがとう。
みんなの声が、境界を支えるんだ」
番人が静かに言った。
〈……“こえ”とは……“いきるいし”……〉
透は頷いた。
「弱さは僕が預かった。
恐怖は、みんなで乗り越えた。
そして――」
透は、あおいの手を握った。
「“声”は、みんなが持つものだ」
あおいが微笑む。
〈……みんなのこえが……きょうかいをつくる……〉
その瞬間――
境界マンション全体が、静かに光を帯びた。
壁に刻まれた影の模様が、
住人たちの声に呼応するように輝き始める。
光は、
恐怖を押し返し、
弱さを包み込み、
新しい境界を形作っていく。
番人が告げる。
〈……“こえ”が……あつまった……〉
透は深く息を吸った。
「行こう、あおい。
みんなの声を――境界の中心へ届けるために」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、温かく、
“住人たちの声”を帯びていた。
第80話 境界の中心へ再び
住人たちの声が境界マンション全体に響き渡り、
壁に刻まれた影の模様が、
その声に呼応するように淡く輝いていた。
透は、その光景を胸に刻みながら、
あおいの手を握って歩き出した。
「……行こう。
“新しい境界”の中心へ」
あおいは小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
廊下を進むにつれ、
空気が少しずつ変わっていく。
光と影が混ざり合い、
まるで呼吸するように揺れている。
透は、以前ここを通ったときのことを思い出した。
――あのときは、崩壊の気配が満ちていた。
――今は、住人たちの声が満ちている。
あおいが透の袖をつまむ。
〈……かんりにんさん……〉
「うん。
弱さも、恐怖も、涙も……
全部“声”になったから、境界は変われたんだ」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
〈……みんな……がんばった……〉
階段を上りきると、
そこには“境界の中心”が広がっていた。
以前の中心とは違う。
黒い核でも、
灰色の核でもない。
光と影が渦を巻き、
住人たちの声が層になって響き、
まるで“生きている心臓”のように脈打っている。
透は息を呑んだ。
「……これが……“新しい境界の中心”……」
あおいが透の手を握りしめる。
〈……あったかい……〉
確かに、中心からは
ほんのりとした温度が伝わってくる。
弱さの温度。
涙の温度。
声の温度。
それらが混ざり合い、
境界そのものを支えていた。
番人が、中心の奥から姿を現した。
〈……みさき……〉
「住人たちの声を届けに来た。
これで……境界は保たれるんだろう?」
番人は静かに首を振った。
〈……まだ……おわりではない……〉
「……まだ?」
〈……“こえ”はあつまった……〉
透は息を呑んだ。
「未来……」
番人は、中心の光を指し示した。
〈……“みらい”とは……〉
透は、あおいの手を握り直した。
「……僕が、決めるんだな」
〈……そう……〉
あおいが透を見上げる。
〈……かんりにんさん……〉
「怖いよ。
でも、君がいてくれるから……前に進める」
少女は、小さく微笑んだ。
〈……わたしも……〉
透は、中心の光の前に立った。
光は、
住人たちの声を抱きしめるように揺れ、
未来を問うように脈打っている。
透は深く息を吸った。
「……行こう、あおい。
“未来の消失”が何を意味するのか――
確かめに行く」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は光の中へ歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
第81話 未来の消失
境界の中心へ踏み込んだ瞬間、
透とあおいの視界は、白い光に包まれた。
光は柔らかく、
しかしどこか“重さ”を帯びている。
透は、あおいの手を握りしめたまま、
ゆっくりと目を開いた。
「……ここは……?」
あおいが透の袖をつまむ。
〈……なんにも……ない……〉
そこは、
境界マンションのどの部屋とも違う空間だった。
床も壁も天井もない。
ただ、白い光が広がり、
遠くで“何か”が揺れている。
番人の声が響いた。
〈……みさき……〉
「未来の……消失……」
〈……おまえが……なにをのこし……なにをすてるか……〉
透は息を呑んだ。
白い光の奥から、
“影”がゆっくりと姿を現した。
それは――
透自身だった。
だが、未来の透とは違う。
もっと若く、
もっと不安定で、
“可能性の塊”のような姿。
「……これは……僕の……未来……?」
影の透は、声を持たなかった。
ただ、揺れている。
あおいが透の手を握りしめる。
〈……かんりにんさん……〉
「大丈夫。
これは“僕の未来の形”だ」
番人が言う。
〈……“みらい”とは……けっしてひとつではない……〉
透は影の透を見つめた。
「……僕が“ひとりで背負う未来”を選ばなかったから……
その未来は、ここで“消えようとしている”……?」
番人は静かに頷いた。
〈……そう……〉
あおいが震える。
〈……じゃあ……かんりにんさんの……みらい……なくなっちゃう……?〉
「違うよ、あおい」
透は少女の手を握り返した。
「“いらない未来”が消えるだけだ。
僕が選んだ未来は――
“君が守る境界に、帰ってくる未来”だ」
あおいは涙をこぼしながら頷いた。
〈……うん……〉
影の透が、ゆっくりと近づいてくる。
その姿は、
透が抱えてきた“可能性の重さ”そのものだった。
〈……たすけて……〉
声なき声が、透の胸に響く。
透は拳を握った。
「……分かってる。
君は、僕が“選ばなかった未来”だ」
影の透は揺れる。
〈……きえたくない……〉
透は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……消えるんじゃない。
“僕の中に戻る”んだ」
影の透は、驚いたように揺れた。
「未来は、選ばなかったからって“無駄”じゃない。
僕が生きるための糧になる。
だから――」
透は影の透の胸に手を当てた。
「――戻ってきてくれ。
僕の未来の一部として」
影の透は、
ゆっくりと光に溶けていった。
白い光が透の胸へ吸い込まれ、
影は静かに消えた。
番人が告げる。
〈……“みらいのしょうしつ”……かんりょう……〉
透は深く息を吐いた。
「……これで、僕の未来は……」
〈……“ひとつ”になった……〉
あおいが透の手を握りしめる。
〈……かんりにんさん……〉
透は微笑んだ。
「ただいま、あおい」
白い光がゆっくりと薄れ、
境界マンションの廊下が戻ってきた。
番人が静かに言う。
〈……つぎは……“だいせつなひとのさけび”……〉
透は頷いた。
「行こう、あおい。
君の声を――僕が受け止める」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
“未来の消失” を帯びていた。
第82話 大切な人の叫び
境界の中心へ戻った透とあおいを、
光と影の渦が静かに迎えた。
住人たちの声は、
まだ中心の奥で脈打っている。
だが――
その奥に、別の“ざわめき”があった。
〈……みさき……〉
番人が姿を現す。
〈……つぎは……“だいせつなひとのさけび”……〉
透は息を呑んだ。
「あおいの……叫び……」
少女は透の手を握りしめた。
〈……わたし……なにを……さけぶの……?〉
「分からない。
でも、それは“君の心の奥にあるもの”だ」
あおいは小さく頷いた。
〈……こわい……〉
「大丈夫。僕がいる」
中心の光が揺れ、
あおいの影が、ゆっくりと浮かび上がった。
影のあおいは、
少女の姿をしているのに、
どこか“幼い泣き声”を抱えているようだった。
〈……かんりにんさん……〉
影が震える。
〈……こえ……でない……〉
透は少女の肩に手を置いた。
「大丈夫。
君の声は、必ず届く」
あおいは、涙をこぼしながら首を振った。
〈……ちがう……〉
透は息を呑んだ。
「……本当の気持ち……?」
少女は、胸の前で小さな手を握りしめた。
〈……わたし……“かんりにんさんをたすけたい”って……いった……〉
「うん。
それは、君の願いだ」
〈……でも……〉
あおいは、透の服をぎゅっと握った。
〈……ほんとうは……〉
透は胸が締めつけられた。
〈……“そばにいて”って……いいたい……〉
少女の声は震え、
涙がぽろぽろと落ちていく。
〈……でも……そんなこと……いっちゃ……〉
透は、少女の肩を抱き寄せた。
「……あおい。
君の叫びは、僕を縛るものじゃない。
君の叫びは――君の“本当の心”だ」
少女は透の胸に顔を埋めた。
〈……こわい……〉
「壊れない。
君の声は、境界を壊すんじゃない。
境界を“作る”んだ」
中心の光が、
あおいの影を包み込むように揺れた。
番人が告げる。
〈……“だいせつなひとのさけび”とは……〉
透は、あおいの手を握りしめた。
「……あおい。
君の叫びを、僕に聞かせてほしい」
少女は震えながら顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、
透をまっすぐに見つめる。
〈……かんりにんさん……〉
〈……わたし……〉
〈……“いかないで”……!〉
その瞬間――
境界の中心が大きく揺れた。
光が弾け、
影が震え、
マンション全体が共鳴する。
〈……“そばにいて”……!〉
〈……“わたしをおいていかないで”……!〉
少女の叫びは、
涙と震えと願いが混ざった、
まっすぐな“心の声”だった。
透は、あおいを抱きしめた。
「……ありがとう。
その声を聞けて、僕は……生きていける」
あおいは、透の胸で泣き続けた。
〈……かんりにんさん……〉
透は、少女の頭を優しく撫でた。
「僕もだよ。
君の声は、僕の未来を支えてくれる」
番人が静かに告げる。
〈……“だいせつなひとのさけび”……かんりょう……〉
透は、あおいの手を握り直した。
「行こう、あおい。
君の叫びが――境界を変える」
少女は涙を拭い、
小さく頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“大切な人の叫び” を帯びていた。
第83話 境界の奇跡
あおいの叫びが境界の中心に響き渡ったあと、
マンション全体は、しばらくのあいだ静まり返っていた。
光も影も、
まるで息を潜めているようだった。
透は、あおいの肩を抱き寄せたまま、
少女の震えが落ち着くのを待っていた。
〈……かんりにんさん……〉
あおいが、涙の跡を残したまま顔を上げる。
〈……わたし……さけんじゃった……〉
「うん。
でも、それでよかったんだよ」
少女は、少しだけ不安そうに透を見つめた。
〈……きょうかい……こわれない……?〉
「壊れない。
むしろ――君の叫びが、境界を変える」
その瞬間だった。
――ドクン。
境界の中心が、
まるで心臓のように脈打った。
光が揺れ、
影が震え、
マンション全体に“温度”が広がっていく。
透は息を呑んだ。
「……これは……」
番人が姿を現す。
〈……“きせき”が……はじまった……〉
「奇跡……?」
〈……“よわさ”……“こわさ”……“なみだ”……〉
あおいが透の手を握る。
〈……わたしの……こえ……?〉
「そうだよ。
君の叫びが、境界の中心に届いたんだ」
光が、中心から溢れ出した。
それは、
これまでの境界にはなかった“色”だった。
白でも黒でも灰でもない。
淡い桃色のような、
夕暮れの空のような、
人の心の温度を思わせる色。
住人たちが、廊下の奥から駆け寄ってきた。
「な、なんだこの光……」
「暖かい……」
「怖くない……」
「これ……私たちの声……?」
凛が、光に手を伸ばした。
「……あったかい……
これ……“わたしのなまえ”のあかり……?」
透は頷いた。
「そうだ。
君たちの声が、境界を照らしているんだ」
光は、マンション全体へ広がっていく。
壁に刻まれた影の模様が、
ひとつひとつ淡い光を帯び、
まるで“住人たちの記憶”が息を吹き返したようだった。
201号室の青年・悠斗が言う。
「……これ……僕の“未来を書けなかった日”の影だ……
でも、今は……重くない……」
103号室の妻が続ける。
「私たちの“二つの未来”の影も……
こんなに優しい光になるなんて……」
502号室の男は、照れくさそうに笑った。
「逃げ続けた俺の影まで……
こんなふうに照らされるのかよ……」
101号室の母親は、涙をこぼした。
「忘れられた私の影が……
“ここにいていい”って言ってくれてる……」
透は胸が熱くなった。
「……これが、“境界の奇跡”なんだ」
番人が、中心の光の前に立つ。
〈……“きせき”とは……〉
透は、あおいの手を握りしめた。
「……あおい。
君の叫びが、この奇跡を起こしたんだ」
少女は、涙をこぼしながら微笑んだ。
〈……わたし……なにか……できた……?〉
「できたよ。
君がいなかったら、この奇跡は起きなかった」
あおいは、胸に手を当てた。
〈……よかった……〉
光が、さらに強くなる。
境界マンション全体が、
まるで“新しい世界”へ生まれ変わるように震えた。
番人が告げる。
〈……“きせき”は……おわった……〉
透は深く息を吸った。
「行こう、あおい。
境界がどう生まれ変わるのか――
この目で見届けよう」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“境界の奇跡” を帯びていた。
第84話 再生するマンション
境界の中心で起きた“奇跡”の光が、
マンション全体へと広がっていった。
光は、壁に刻まれた影の模様を照らし、
床のひび割れを癒し、
天井の黒い裂け目をゆっくりと閉じていく。
透は、あおいの手を握りながら、
その光景を見つめていた。
「……始まったんだな。
“再生”が」
あおいは、小さく頷いた。
〈……きれい……〉
少女の瞳には、
光に染まるマンションが映っていた。
廊下の奥から、住人たちが姿を現した。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは、光に包まれるマンションを見上げていた。
「……これが……」
「境界の……新しい姿……?」
「こんなに……あったかい……」
凛が、壁に触れた。
「……ここ……“わたしのなまえ”のひかり……
でも……もう、こわくない……」
透は頷いた。
「弱さも、恐怖も、涙も……
全部“声”になったからだよ。
声は、境界を壊さない。
境界を“作る”んだ」
光が、マンションの構造そのものを変えていく。
廊下は少し広くなり、
階段は柔らかい光を帯び、
扉の表札には、住人たちの“影の模様”が刻まれていく。
それは、
“弱さを隠すための扉”ではなく、
“弱さを持ったまま帰ってこられる扉”だった。
402号室の女性が言った。
「……音が聞こえなくても……
この光なら、怖くない……」
502号室の男は、照れくさそうに笑った。
「逃げ続けた俺でも……
ここなら、戻ってこられる気がする」
101号室の母親は、涙をこぼした。
「忘れられた私でも……
“ここにいていい”って言ってくれてる……」
透は胸が熱くなった。
「……これが、“再生するマンション”なんだ」
番人が、中心の光の中から姿を現した。
〈……みさき……〉
「……本当に、変わったんだな」
〈……“よわさ”をかくすばしょではなく……〉
透は、あおいの手を握りしめた。
「……あおい。
君が選んだ未来が、ここにある」
少女は、涙をこぼしながら微笑んだ。
〈……わたし……うれしい……〉
〈……かんりにんさんが……“かえってくるばしょ”が……できた……〉
透は、少女の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。
君がいたから、このマンションは再生できた」
光が、ゆっくりと収まっていく。
再生したマンションは、
以前の境界とはまったく違う姿だった。
暗さも、恐怖も、孤独もない。
弱さと声が混ざり合い、
“帰ってこられる場所”としての温度を持っていた。
番人が告げる。
〈……つぎは……“ばんにんのしょうたい”……〉
透は深く息を吸った。
「行こう、あおい。
境界の真実を――最後まで見届けよう」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“再生するマンション” を帯びていた。
第85話 番人の正体
再生した境界マンションは、
光と影が穏やかに混ざり合う、
“帰ってこられる場所”としての姿を取り戻していた。
透は、あおいと手をつないだまま、
中心へと続く廊下を歩いていた。
〈……かんりにんさん……〉
あおいが透を見上げる。
〈……“ばんにん”って……なにもの……?〉
「……それを、これから確かめるんだ」
少女は小さく頷いた。
〈……こわい……?〉
「怖いよ。
でも、知るべきことだ」
中心の間に入ると、
番人が静かに立っていた。
光の中に溶け込むような姿。
影のようで、
人のようで、
境界そのものの意思のようでもある。
透は一歩前に出た。
「番人……
あなたは、いったい何者なんだ?」
番人は、ゆっくりと透の方へ向き直った。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……弱さ……?」
〈……そう……〉
透は、胸が締めつけられた。
「じゃあ……あなたは……
“誰かの弱さ”が形になった存在……?」
番人は静かに首を振った。
〈……“だれかひとり”ではない……〉
あおいが透の袖をつまむ。
〈……じゃあ……ばんにんさんは……“ひと”じゃない……?〉
番人は、あおいの方を向いた。
〈……わたしは……“ひと”ではない……〉
透は、番人の姿を見つめた。
「……だから、あなたは“境界を守る”ことができたんだな」
〈……そう……〉
透は、胸の奥に重いものが落ちるのを感じた。
「……じゃあ、あなたは……
“僕の弱さ”も知っていたんだな」
番人は頷いた。
〈……おまえのよわさ……〉
あおいが、透の手をぎゅっと握った。
〈……かんりにんさん……〉
透は、少女の手を握り返した。
「……ありがとう。
あなたがいたから、僕はここまで来られた」
番人は、静かに揺れた。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……どういうことだ?」
〈……“よわさ”は……おまえがうけとめた……〉
〈……だから……“ばんにん”は……もう……ひつようない……〉
あおいが震える。
〈……じゃあ……ばんにんさん……いなくなっちゃう……?〉
番人は、少女に向かって静かに言った。
〈……“きえる”のではない……〉
「……帰る?」
〈……わたしは……“よわさ”からうまれた……〉
透は、番人の言葉の意味を理解した。
「……あなたは、“人の心の中”へ戻るんだな」
番人は、静かに頷いた。
〈……そう……〉
番人の輪郭が、
ゆっくりと光に溶け始めた。
透は一歩前に出た。
「……番人。
あなたがいたから、境界は守られてきた。
あなたがいたから、僕はここまで来られた」
番人は、最後に透へ向けて言った。
〈……みさき……〉
〈……これからは……“にんげんとして”……いきよ……〉
透は、深く頷いた。
「……ありがとう」
番人は、あおいの方を向いた。
〈……あおい……〉
少女は涙をこぼしながら微笑んだ。
〈……ありがとう……ばんにんさん……〉
番人は、光の中へ溶けていった。
〈……さようなら……〉
光が消えた。
透は、あおいの手を握りしめた。
「……行こう。
次は――“最後の揺れ”だ」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、静かで、
“番人の正体” を帯びていた。
第86話 大切な人との最後の会話
番人が光の中へ消えたあと、
境界マンションには、深い静寂が訪れた。
再生したばかりの廊下は、
淡い光を帯びて脈打ち、
まるで“呼吸している”ようだった。
透は、あおいの手を握ったまま、
ゆっくりと歩き出した。
〈……かんりにんさん……〉
少女が、透の袖をそっとつまむ。
〈……“さいごのゆれ”って……なに……?〉
「……境界が完全に安定する前に起きる、最後の揺れだよ。
その前に――君と話したいことがある」
あおいは、小さく頷いた。
〈……うん……〉
二人が向かったのは、
再生したマンションの“中庭”だった。
光と影が混ざり合い、
柔らかい風のような気配が流れている。
透は、あおいの前にしゃがみ込んだ。
「……あおい。
君に、どうしても伝えたいことがある」
少女は、透の顔をまっすぐに見つめた。
〈……なに……?〉
透は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「――ありがとう。
君がいてくれたから、僕は“生きる未来”を選べた」
あおいは、少し驚いたように目を瞬いた。
〈……わたし……?〉
「そうだよ。
君が“生きてほしい”と言ってくれたから、
僕は未来を選べた。
君が“そばにいてほしい”と叫んでくれたから、
僕は自分の弱さを受け入れられた」
少女は、胸の前で小さな手を握りしめた。
〈……わたし……そんなに……できた……?〉
「できたよ。
君は、僕の“救い”だった」
あおいの瞳が揺れた。
〈……かんりにんさん……〉
透は、あおいの手をそっと包んだ。
「……あおい。
僕は、境界を離れる。
でも――君を置いていくんじゃない」
少女は、唇を噛んだ。
〈……でも……“いなくなる”……〉
「違うよ。
“帰ってくる場所”がここにあるから、
僕は現実で生きていけるんだ」
あおいは、涙をこぼしながら首を振った。
〈……でも……さみしい……〉
「僕も寂しいよ。
でも、君が選んだ未来を、僕は生きる。
そして――」
透は、少女の手を強く握った。
「――必ず帰ってくる。
“ただいま”って言いに来る」
あおいは、涙の中で微笑んだ。
〈……じゃあ……わたし……“おかえり”っていう……〉
「うん。
それが、僕の“帰る場所”だ」
あおいは、透の胸に顔を埋めた。
〈……かんりにんさん……〉
透は、少女の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。
君がそう言ってくれるなら、僕はどこへでも行ける」
あおいは、涙を拭いながら言った。
〈……かんりにんさん……〉
透は、静かに答えた。
「僕もだよ。
君の声が、僕の未来を支えてくれる」
そのとき――
境界マンション全体が、静かに揺れた。
――ドクン。
光が脈打ち、
影が震え、
空気がわずかに歪む。
透は立ち上がった。
「……来た。
“最後の揺れ”だ」
あおいが透の手を握る。
〈……いっしょに……いく……〉
「もちろんだよ」
透は、少女の手を握り返した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“大切な人との最後の会話” を帯びていた。
第87話 境界の新管理人
境界マンションが再生し、
番人が光の中へ帰っていったあと――
マンション全体は、
静かで、温かく、
まるで“新しい息吹”を宿したように輝いていた。
透は、あおいと手をつないだまま、
ゆっくりと廊下を歩いていた。
〈……かんりにんさん……〉
少女が透を見上げる。
〈……“さいごのゆれ”がきたら……
かんりにんさん……かえるんだよね……〉
「……ああ。
でも、境界には“新しい管理人”が必要だ」
あおいは、小さく息を呑んだ。
〈……だれ……?〉
透は、少女の手を優しく握り返した。
「――君だよ、あおい」
少女は、驚いたように目を見開いた。
〈……わたし……?〉
「そうだ。
君は、境界の声を聞ける。
弱さも、恐怖も、涙も……
全部“自分のことのように”受け止められる」
あおいは、胸の前で小さな手を握りしめた。
〈……でも……わたし……こども……〉
「関係ないよ。
境界は“強い人”が守る場所じゃない。
“弱さを知っている人”が守る場所なんだ」
少女は、透の言葉を噛みしめるように俯いた。
〈……わたし……できる……?〉
「できる。
君は、もうずっと前から――
“境界の管理人”だったんだよ」
あおいの影が、わずかに揺れた。
〈……わたし……かんりにん……〉
透は頷いた。
「君がここに残ると選んだときから、
境界は君を“管理人”として受け入れていたんだ」
そのとき、
再生したマンションの中心から光が溢れた。
住人たちが、廊下の奥から姿を現す。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは、あおいの前に集まった。
悠斗が言う。
「……僕たちは、見ていました。
あなたが“声”をあげてくれたことを」
103号室の妻が続ける。
「あなたの涙が、境界を救ったのよ」
凛が、小さく手を挙げた。
「……あおい……“なまえ”をくれた……
だから……わたし……ここにいられる……」
502号室の男は、照れくさそうに笑った。
「管理人ってのは、
“誰かの弱さを受け止める人”だろ?
あんたは、それができてる」
101号室の母親は、涙をこぼした。
「あなたがいてくれるなら……
私は、ここに帰ってこられる……」
301号室の老人の影が、静かに言った。
〈……あおい……〉
あおいは、胸に手を当てた。
〈……わたし……みんなの……よわさ……すき……〉
〈……だから……まもりたい……〉
透は微笑んだ。
「それが、“管理人の心”だよ」
中心の光が、あおいの足元へ集まり始めた。
光は、少女の影を包み込み、
ゆっくりと“管理人の印”を形作っていく。
透は、あおいの手を握った。
「……あおい。
君が新しい管理人だ」
少女は、涙をこぼしながら頷いた。
〈……かんりにんさん……〉
「うん。
君ならできる」
〈……でも……〉
あおいは、透の手をぎゅっと握った。
〈……かんりにんさん……“かえってくる”って……やくそく……〉
「もちろんだよ。
君がここにいる限り、僕は必ず帰ってくる」
少女は、涙の中で微笑んだ。
〈……じゃあ……“おかえり”っていう……〉
「うん。
その言葉を聞くために、僕は生きるよ」
そのとき――
境界マンション全体が、静かに揺れた。
――ドクン。
光が脈打ち、
影が震え、
空気がわずかに歪む。
番人の声が、遠くから響いた。
〈……みさき……〉
透は深く息を吸った。
「行こう、あおい。
“新しい管理人”として、最後を見届けよう」
少女は力強く頷いた。
〈……いっしょに……〉
透は歩き出した。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
影は、確かに深く、温かく、
“境界の新管理人” を帯びていた。
第88話 最後の揺れ
境界マンション全体が、
静かに、しかし確かに震え始めた。
――ドクン。
光が脈打ち、
影が揺れ、
空気がわずかに歪む。
透は、あおいの手を握りしめた。
「……来た。
これが“最後の揺れ”だ」
あおいは、透の袖をぎゅっとつまんだ。
〈……こわい……〉
「大丈夫。
君はもう“管理人”だ。
この揺れを受け止められる」
少女は、小さく息を呑んだ。
〈……でも……〉
「僕がそばにいる。
最後まで一緒に乗り越える」
揺れは次第に大きくなり、
マンション全体が波のようにうねり始めた。
住人たちが廊下に集まり、
それぞれの影が光に照らされて揺れている。
「管理人さん……!」
「これ……大丈夫なの……?」
「また崩れるの……?」
透は声を張った。
「大丈夫だ!
これは“壊れる揺れ”じゃない。
“生まれ変わる揺れ”だ!」
住人たちは息を呑んだ。
〈……“さいせい”のゆれ……〉
あおいが、透の隣で小さく呟いた。
〈……こわいけど……あったかい……〉
「そうだ。
これは、境界が“新しい姿”になるための揺れなんだ」
中心の光が、
まるで心臓の鼓動のように強く脈打ち始めた。
――ドクン。
――ドクン。
光が広がり、
影が震え、
マンション全体が呼吸するように揺れる。
透は、あおいの手を握り直した。
「……あおい。
ここから先は、君が“管理人”として立つ場所だ」
少女は、涙をこぼしながら首を振った。
〈……でも……かんりにんさん……〉
「いなくならないよ。
“ここにはいない”だけで、
“君の声は届く”」
あおいは、透の胸に顔を埋めた。
〈……さみしい……〉
「僕も寂しい。
でも――」
透は、少女の肩を抱き寄せた。
「君がここにいる限り、
僕は必ず帰ってくる。
“ただいま”って言いに来る」
あおいは、涙の中で微笑んだ。
〈……じゃあ……わたし……“おかえり”っていう……〉
「うん。
それが、僕の帰る場所だ」
揺れが、最高潮に達した。
光が弾け、
影が舞い、
マンション全体が一瞬、白く染まる。
住人たちの声が重なる。
「ここにいる!」
「帰ってくる!」
「忘れない!」
「生きたい!」
その声が、境界の中心へ吸い込まれていく。
あおいが、透の手をぎゅっと握った。
〈……かんりにんさん……〉
「行くよ。
でも――」
透は、少女の手をそっと包んだ。
「――必ず帰ってくる」
あおいは、涙をこぼしながら頷いた。
〈……まってる……〉
光が収まり、
揺れが静かに止まった。
境界マンションは、
完全に“新しい姿”へと生まれ変わっていた。
透は、あおいの手を最後に握りしめた。
「……ありがとう、あおい。
君がいたから、ここまで来られた」
少女は、涙の中で微笑んだ。
〈……かんりにんさん……〉
「僕もだよ」
透は、光の中へ歩き出した。
あおいの声が、背中に届く。
〈……かならず……かえってきて……〉
透は振り返らずに答えた。
「――約束する」
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
“最後の揺れ” を帯びていた。
第89話 静かな朝
“最後の揺れ”が収まったあと、
境界マンションには、深い静寂が訪れた。
光は穏やかに脈打ち、
影は柔らかく揺れ、
まるで世界そのものが大きく息を吐いたようだった。
透は、ゆっくりと目を開けた。
そこは――
再生した境界マンションの“朝”だった。
境界に“朝”という概念があるのか、
透は今まで考えたこともなかった。
だが、今は確かに感じる。
――これは、朝だ。
暗さではなく、
光の始まりを告げる気配。
終わりではなく、
始まりの静けさ。
透は、隣に立つあおいの手を握った。
少女は、淡い光に包まれながら、
静かに透を見上げた。
〈……かんりにんさん……〉
「……あおい。
これが、“新しい境界の朝”なんだね」
少女は、小さく頷いた。
〈……うん……〉
〈……あさって……“はじまり”のこと……〉
「そうだね。
ここから、君の管理人としての時間が始まる」
あおいは胸に手を当てた。
〈……わたし……できるかな……〉
「できるよ。
君は、もうずっと前から“管理人”だった」
少女は、少し照れたように微笑んだ。
〈……かんりにんさん……〉
透は、あおいの頭を優しく撫でた。
「ありがとうを言うのは、僕の方だよ」
廊下の奥から、住人たちが姿を現した。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは、静かな朝の光を浴びながら、
透とあおいの前に集まった。
悠斗が言う。
「……これが、境界の“朝”なんですね」
透は頷いた。
「そうだ。
君たちが声をあげ、
あおいが選び、
境界が再生した――
その結果が、この朝だ」
103号室の妻が微笑む。
「なんだか……懐かしい気持ちになるわね」
凛が、光に手を伸ばした。
「……あったかい……
“なまえ”をもらったときみたい……」
101号室の母親は、涙をこぼした。
「忘れられた私でも……
この光は、ちゃんと照らしてくれる……」
透は、胸が熱くなるのを感じた。
「……みんな。
君たちが“ここにいたい”と願ったから、
この朝が生まれたんだ」
あおいが、透の袖をつまんだ。
〈……かんりにんさん……〉
透は、静かに頷いた。
「……ああ。
僕は、現実へ戻る時間だ」
少女は、唇を噛んだ。
〈……さみしい……〉
「僕もだよ。
でも――」
透は、あおいの手を握りしめた。
「君がここにいる限り、
僕は必ず帰ってくる」
あおいは、涙をこぼしながら微笑んだ。
〈……“おかえり”って……いう……〉
「うん。
その言葉を聞くために、僕は生きる」
光が、透の足元に集まり始めた。
住人たちが、透の周りに集まる。
「管理人さん……ありがとう」
「あなたがいたから、ここまで来られた」
「また戻ってきてください」
「忘れません」
透は、深く息を吸った。
「……ありがとう。
みんなの声が、僕を支えてくれた」
あおいが、透の手をぎゅっと握った。
〈……かんりにんさん……〉
透は微笑んだ。
「行ってきます」
光が、透を包み込んだ。
境界マンションの“朝”が、
静かに広がっていく。
影が、足元で震えていた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、静かで、
“静かな朝” を帯びていた。
第90話 境界の管理人
光が収まり、
境界マンションに“朝”が満ちていた。
透の身体を包んでいた光は、
ゆっくりと薄れていく。
現実へ戻るための光――
そのはずだった。
だが、透は気づいた。
光は、彼を“外へ押し出す”のではなく、
“境界の奥へ導いている”のだと。
「……これは……?」
あおいが、透の手を握りしめた。
〈……かんりにんさん……?〉
透は、少女の瞳を見つめた。
「……あおい。
僕は、現実へ戻るんじゃない」
少女は、驚いたように目を見開いた。
〈……え……?〉
「境界が……僕を“選んだ”んだ」
光が、透の足元に集まる。
その光は、あおいの影と重なり、
まるで“二人をつなぐ糸”のように揺れていた。
番人の声が、
境界の奥から静かに響いた。
〈……みさき……〉
透は息を呑んだ。
「……二人……?」
〈……あおいは……“よわさをうけとめるかんりにん”……〉
あおいが、透の袖をつまんだ。
〈……かんりにんさん……〉
透は、少女の手を握り返した。
「……ああ。
僕は、境界を離れない。
君と一緒に――ここを守る」
あおいの瞳に、涙が溢れた。
〈……よかった……〉
透は微笑んだ。
「うん。
“ただいま”も“おかえり”も、
これからはずっと言い合える」
光が、透とあおいの周りを包み込む。
住人たちが、静かに集まってきた。
201号室の青年・悠斗。
103号室の夫婦。
203号室の凛。
402号室の女性。
502号室の男。
101号室の母親。
301号室の老人の影。
そして、輪郭の曖昧な影たちも。
彼らは、透とあおいを見つめていた。
悠斗が言う。
「……あなたが、ここに残ってくれるんですね」
透は頷いた。
「僕は、ここで生きる。
君たちの声を受け止め、
あおいと一緒に境界を守る」
103号室の妻が微笑む。
「……安心したわ。
あなたがいるなら、ここは大丈夫ね」
凛が、小さく手を挙げた。
「……あおいと……かんりにんさん……
ふたりなら……“なまえ”も……“こえ”も……まもれる……」
透は胸が熱くなった。
「ありがとう。
君たちの声が、僕をここへ導いてくれた」
光が、透の胸に集まる。
その光は、
父・三崎亮が残した“管理人の印”だった。
透は、静かに目を閉じた。
「……父さん。
僕は、あなたのように“ひとりで背負う管理人”にはならない。
あおいと一緒に――
“つながりを守る管理人”になるよ」
光が透の胸に吸い込まれ、
新しい印が刻まれた。
あおいの影も、透の影と重なり、
ふたつの影は、ひとつの形を作った。
〈……かんりにんさん……〉
「……あおい。
これからよろしく」
少女は、涙の中で笑った。
〈……うん……!〉
境界マンションが、
静かに、ゆっくりと脈打った。
光と影が混ざり合い、
新しい“境界の朝”が広がっていく。
住人たちの声が、
優しく響いた。
「ここにいる」
「帰ってくる」
その声を受け止めながら、
透は、あおいと並んで立った。
――ここが、僕の場所だ。
――ここが、僕の帰る場所だ。
透は、深く息を吸った。
「……さあ、始めよう。
僕たちの――境界の管理を」
あおいが、透の手を握った。
〈……いっしょに……〉
光が、ふたりを包み込んだ。
影が、足元で静かに揺れた。
昨日よりも。
その前の日よりも。
そして、ここへ来た最初の日よりも――
影は、確かに深く、温かく、
“境界の管理人” を帯びていた。
『境界マンションの管理人 @pappajime
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