春色のカーテン

辛口カレー社長

春色のカーテン

 四月も半ばだというのに、東京の空は今日もまた、煮え切らない灰色をしていた。ビルの谷間を吹き抜ける風はまだ冷たく、道行く人々のコートの襟は固く閉じられている。

 年度末の繁忙期をどうにか乗り越えたものの、今度は新年度という強敵を迎え、私の神経は擦り切れる寸前だった。連日の残業、理不尽なクライアントの要求、終わりの見えないタスクの山。デスクで乾いた目薬を差し、凝り固まった首を回すたびに、自分の心が少しずつ摩耗していく音が聞こえるようだった。

 ようやくその日の業務を終え、最寄り駅からアパートまでの道のりは、コンビニの白いLEDライトだけが眩しく、それが余計に自分の疲れを浮き彫りにするようで、私は逃げるように早足になった。重い足取りで帰宅したのは、午後十一時を回った頃だ。

 エントランスの冷たい空気の中、郵便受けを開ける。うっとうしいダイレクトメールの束に混じって、不在配達票ではなく、宅配ボックスの預かり票が入っていた。差出人の名前を見た瞬間、一日中張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じた。

『高村 りく

 北国の城下町へ転勤していった、私の恋人だ。

 遠距離恋愛になると決まった時、私たちは努めて明るく振る舞った。「新幹線ならすぐだ」とか「旅行気分で会いに行くよ」とか。でも、現実はそう甘くない。お互いの生活リズムは微妙にズレ始め、電話の回数は減り、いつしか、メッセージだけのやり取りが増えていた。

 部屋に入り、ヒールを脱ぎ捨てて、着替えるのももどかしくて箱を開ける。丁寧に梱包された包みの上に、一枚のメッセージカードが添えられていた。

『春色のカーテンです。大切にしてね』

 見覚えのある、少し右上がりの癖字に、私は思わず苦笑した。その文字を見るだけで、彼の少し低い声が脳内で再生される。

 去年の秋、彼が私の部屋に来た時のことを思い出す。西日がきつく差し込む窓を見て、私が「そろそろカーテン、替えないとなぁ。色がくすんじゃって」と独り言のように呟いたのを、彼は覚えていたらしい。あの時、彼は「じゃあ、俺が選んでやるよ」なんて言わなかった。ただ黙って、西日を眩しそうに見つめていただけだったのに。

 それにしても、「春色」とはどういう意味だろう。

 包みを開くと、現れたのは柔らかな手触りのレースカーテンだった。白ではない。かといって、ピンクそのものでもない。桜の蕾が開く直前のような、あるいは早朝の空に溶け込む朝焼けのような、淡い紅を溶かし込んだ、絶妙なニュアンスカラーだった。手に取ると、驚くほど軽い。指紋の隙間から春の空気が入り込むような、不思議な温かみが指先から伝わってくる。

「……春色、か」

 私はスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。

『カーテン、届いたよ。ありがとう。すごく綺麗な色。でも、春色ってちょっと安直じゃない?』

 少し意地悪なメッセージを送ってみると、すぐに既読のマークがついた。彼も仕事が終わって、部屋で一息ついているところなのだろうか。

『安直で悪かったな。でも、騙されたと思って掛けてみてよ。同じ景色が見られるかもよ?』

 返信の意味を測りかねて、私は首を傾げた。

 ――同じ景色?

 彼は今、ここから新幹線を乗り継いで四時間以上かかる場所にいる。北国とはいえ、今年は暖冬で早咲きの桜が話題になっているとニュースで見た。

 一方、ここはコンクリートジャングルだ。窓の外に見えるのは隣のビルの外壁と、無機質な非常階段だけ。同じ景色なんて、テレビ画面越し以外にはあり得ない。

 私は溜め息をつきながら、古びて薄汚れたカーテンをレールから外した。長年この部屋の空気を吸い込んだ布は、ずしりと重い。代わりに、送られてきたばかりの「春色」を吊るしてみることにした。

 脚立に乗り、フックを一つずつ掛けていく。カシャ、カシャ……というプラスチックの音が、静まり返ったワンルームに響く。その単調な作業の最中も、彼がこのカーテンを選んでいる姿を想像してしまう。どんな店で、どんな顔をしてこれを選んだのだろう。

 全て掛け終えて脚立を降り、数歩下がって眺めてみた。部屋の照明を反射して、レースの生地が真珠のように鈍く光っている。確かに、部屋の雰囲気は変わった。殺風景だったワンルームが、そこだけ切り取られたように華やいで見える。

 彼は、転勤した当初こそ「寒すぎる」とか「雪かきが大変で腰が痛い」とか「コンビニまで車で十分もかかる」とか、文句ばかり言っていた。都会育ちの彼にとって、地方暮らしは不便の連続だったはずだ。でも、最近送られてくるメッセージのトーンは少し違う。「もうそろそろ雪解けだ」とか「川沿いの散歩道がいい感じだ」とか「地酒が美味い店を見つけた」とか、その土地の生活に馴染み始めている様子が伝わってくる。昨日は、満開の桜並木の写真を送ってきた。

『こっちの桜は、色が濃い気がするなぁ』

 そんなコメント付きで。

 私はと言えば、日々の業務に忙殺され、桜を見る余裕なんてなかった。通勤途中の公園にある桜も、いつの間にか咲いて、気づけば葉桜になっていた。ここ数年、ゆっくりと花見をした記憶はない。

 彼は今、どんな景色を見ているのだろう。

 ――本当は、寂しい。

 転勤が決まった時、ついて行くという選択肢がなかったわけではない。彼もそれを望んでいるような素振りを見せたことがあった。でも、私には私の仕事があり、積み上げてきたキャリア、そして、これからのビジョンがある。それを捨てて彼についていく勇気も、彼を引き止める権利も私にはなかった。遠距離恋愛を選んだのは、お互いに納得の上だ。

 それでも、ふとした瞬間にどうしようもない孤独が押し寄せる。特にこんな、ひどく疲れて帰った夜は。

 新しいカーテンは、そんな私の心を見透かしたように、窓から吹き込んでくる微かな風に揺れていた。


 ――翌朝。

 スマートフォンのアラームで目を覚ました私は、重いまぶたをこすりながらベッドを出た。遮光カーテンを開けると、その内側にある春色のカーテン越しに、柔らかい光が満ちていた。いつもの灰色の朝とは違う、桃色がかった光。それだけで、少しだけ気分が晴れる気がした。

 コーヒーを飲みながら何気なく窓の方を見ると、カーテンの向こう側で、何かが動いた気がした。薄紅色の影が、チラチラと舞っている。

 ――ん?

 コーヒーカップを持ったまま、窓の外を見る。私の部屋はマンションの五階だ。窓のすぐそばに木はないし、そもそも隣のビルとの間には味気ない非常階段があるだけだ。鳩でも飛んだのか、あるいは、コンタクトレンズの汚れだろうか。そう思って、私はトーストをかじった。

 異変に確信を持ったのは、その日の夜だった。残業を終えて帰宅し、ソファに沈み込んで缶ビールを開けた時だ。間接照明だけを点けた薄暗い部屋で、窓辺のカーテンだけが、ぼんやりと発を放っている。

 そして、また何かが動いた。今度は、はっきりと。薄いレースの向こう側を、無数の花びらが舞い落ちていく。風に煽られ、時には螺旋を描き、時には優しく降り注ぐ。それは紛れもなく、桜の花びらだった。

 ――え?

 私は缶ビールをテーブルに置き、ふらふらと窓に近づいた。酔っ払っているわけではない。幻覚でもなさそうだ。そっとカーテンの隙間から外を覗く。

 カーテンの向こうに広がっているのは、隣のビルの非常階段でも、東京の夜景でもない。黒い瓦屋根と、歴史を感じさせる白い壁。そして、その手前を覆い尽くすほどの、圧倒的な桜吹雪。夜空を背景に、街灯に照らされた桜が、妖艶なほどに美しく舞っている。まるで、ここではないどこか別の世界が、カーテンの向こう側に広がっているようだ。

 ――うそ。

 慌ててカーテンを開け放った。シャーッという音と共に視界が開ける。そこにあったのは、いつもの見慣れた東京の夜だった。隣のビルの非常灯が、無機質に点灯しているだけ。花びらの一枚も落ちていないし、瓦屋根も白い壁もない。コンクリートの壁がそびえ立っているだけだ。

「……何なの、これ」

 呆然と立ち尽くす。冷たい夜風が頬を撫でた。私は震える手で、もう一度ゆっくりとカーテンを閉めた。レースが重なり合い、東京の夜景が遮断されると、世界が切り替わる。

 再び、私の目の前に、彼が住む街の春が現れた。先ほどよりも風が強まったのか、花吹雪は勢いを増している。まるで映画のスクリーンのように、カーテンという布一枚を隔てて、数百キロ離れた場所の景色が投影されている。

 美しい。ただひたすらに、美しかった。


『同じ景色が見られるかもよ?』


 彼の言葉が、頭の中でリフレインする。

 ――そういうことか。

 私はその場にへたり込むように座り込んだ。これは魔法か、あるいは最新鋭のVR技術なのか、理屈は分からない。でも、直感が告げている。このカーテンは、彼の部屋の窓と繋がっているのだと。

 彼が毎日見ている景色。彼が「綺麗だ」と感じて、私に見せたいと願った景色。それが今、私の部屋にある。彼がすぐ隣にいて、「ほら、見てごらん」と指差してくれているような気がした。

 そう確信した瞬間、涙腺が緩んだ。張り詰めていた糸が切れ、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。私は缶ビールを手に取り直し、カーテンの前にあぐらをかいた。夜桜をつまみに酒を飲むなんて、何年ぶりだろう。

 花びらは絶え間なく降り注ぐ。時折、強い風が吹くと、カーテン自体がふわりと膨らみ、部屋の中にまで甘い花の香りが漂ってくるような錯覚を覚えた。


 翌日は土曜日だった。

 溜まっていた家事もそこそこに、私は一日中、カーテンの前で過ごした。特等席のようなソファで、飽きもせず眺め続けた。昼間は陽光を浴びて輝く桜が見えた。背景には古いお城の石垣のようなものが見え隠れする。楽しそうに写真を撮るカップル、走り回る子供たち。たくさんの観光客らしき人影が、ぼんやりとしたシルエットになって通り過ぎていくのも見えた。

 音は聞こえない。でも、想像力を働かせれば、人々のざわめきや砂利を踏む音、鳥のさえずりまでが聞こえてきそうだった。

 午後三時頃、突然、視界が白く濁った。

 ――雨だ。

 向こうは雨が降ってきたらしい。東京は快晴なのに、私の部屋の窓辺だけが、しっとりと濡れた春の雨に包まれている。雨に打たれて重くなった桜の枝が、ゆらりと揺れる様が切なくて、私はまた胸が締め付けられた。

 スマートフォンを取り出し、天気予報アプリを開く。彼の住む地域の予報は『雨のち曇り』。

 ――やっぱり。

 私は彼に電話をかけることにした。鼓動が少し速くなる。呼び出し音が数回鳴り、彼が出る。

『もしもし? どうした?』

 懐かしい声。最後に聞いた時よりも、少し落ち着いた響きがする。少し鼻声なのは、花粉症のせいだろうか。

「ううん、別に。ただ、声が聞きたくて」

 私は膝を抱えながら、カーテンを見上げた。布越しの雨粒が、涙のように雫を残しながら落ちていく。

「そっちは天気はどう?」

『ああ、今は雨だよ。結構降ってきたなぁ。せっかく桜が満開なのに、散っちゃいそうで心配だよ』

 彼の言葉と、目の前の景色が完全にリンクする。

「そうなんだ。ねぇ、桜、綺麗?」

『うん。すごいよ。お城の堀が桜の花びらで埋め尽くされてる。これを君に見せたかったんだよなぁ」

「……見てるよ」

『え?』

「見てる。すごく綺麗。雨に濡れた桜も、風情があっていいよね。石垣の黒さが雨で際立って、桜の色が映える」

 彼は一瞬沈黙し、それからふっと息を吐くように笑った。

『何だよ、こっちの天気予報でも見たのか? ああ、ライブカメラか』

「ううん。……カーテン」

『はぁ?』

「あのカーテン、本当に春色だった」

 私は窓ガラスに手を当てた。冷たいガラスの感触。その向こうにあるのはカーテン、そして更にその向こうには、彼がいるはずの雨の景色。

「風が吹くとね、花びらが舞うの。夜は街灯に照らされて、今は雨粒が光ってる。まるで、あなたがそこにいるみたい」

 電話の向こうで、彼が息を呑む気配がした。彼もまた、窓の外を見ているのかもしれない。

 少しの沈黙の後、彼は静かに、噛みしめるように言った。

『そっか。届いたんだな、魔法』

「魔法って、自分で言う? 中学生じゃあるまいし」

 私は笑いながら、目尻に浮かんだ涙を拭った。

『どうしても見せたかったんだよ。地元の古い染物屋に入ったら、不思議な婆さんがいてね。離れてても同じ春が見える布はないかって無理言ったら、奥から出してきてくれたんだ』

「そんな無茶振りに応えてくれる染物屋さん、どこにあるのよ。昔話じゃないんだから」

 『あるんだよ、こっちには』

 彼はおどけた口調で言うけど、その奥にある愛情が痛いほど伝わってきた。私の部屋の窓のサイズも、西日の強さも、そして私が何を見て癒やされたいと思っているかも、彼は全部分かっていたのだ。

 カーテン越しの雨脚が強くなる。花びらが次々と散っていく。桜は、散るからこそ美しいと言うけど、今の私にはその儚さが辛かった。

 この景色は幻だ。カーテンを開ければ消えてしまう。音のない世界で、触れることのできない桜の花びら。そして何より、ここには彼の体温がない。彼と同じ景色を見ていても、同じ場所にいるわけではない。その事実が、美しい景色を見れば見るほど浮き彫りになっていく。このカーテンは窓であると同時に、私たちが隔てられていることを証明する、残酷な壁でもあった。

 私はこの「魔法」に守られた部屋で、ただ待っているだけでいいのだろうか。

「……ねぇ、睦」

 私は意を決して言った。喉が震える。

「来週の週末、空いてる?」

『来週? ああ、今のところ予定はないけど』

「そっち、行くね。本物の桜、見に行きたいなって」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。カーテン越しの幻影で満足していた自分に、さよならを告げるように。

「このカーテンも素敵だけど、やっぱりあなたの隣で見たい」

 風を感じたい。雪解けの空気の冷たさを肌で知りたい。そして何より、その景色を見て笑う彼の横顔を、この目で直接見たい。モニター越しでも、カーテン越しでもない。同じ空気を吸って、同じ温度を感じたい。

 電話の向こうで、彼が大きく息を吸う音が聞こえた。驚きと、隠しきれない喜びが伝わってくる。

『ああ、待ってる。美味しい酒も用意しておくよ。とびきりのやつを』

 短く、でも力強い返事だった。

「うん。楽しみにしてる」

 通話を終えて、私はもう一度カーテンを見つめた。

 雨は小降りになり、雲の切れ間から薄日が差してきたようだ。濡れた桜がキラキラと輝き始めている。それは息を呑むほど美しかったが、もう私をこの部屋に縛り付けるものではなかった。

 私は立ち上がり、カーテンに手をかけた。少し迷ってから、勢いよく左右に開く。シャララ、という音と共に、幻想的な桜の風景は瞬時に消え去り、午後の日差しを浴びた東京のビル群が現れた。無機質で、騒々しくて、何の変哲もない灰色の景色。でも、不思議と寂しくはなかった。むしろ、これが私の現実なんだという実感が湧いてくる。

 私は窓を開け、東京の空気を深く吸い込んだ。排気ガスと埃っぽさが混じった中に、微かに春の残り香が漂っている。

 私はスマートフォンを握りしめ、新幹線の予約サイトを開いた。画面をタップする指先に迷いはない。

 窓から吹き込んだ風が、開け放たれた春色のカーテンを揺らす。パタパタと、まるで私を応援するように、嬉しそうな音を立てていた。


(了)

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