お前が居たから俺が居た
@ys194
短編小説 お前が居たから俺が居た
休日の朝、男は車を山道に走らせていた。
ブラックバスが棲むという、人に知られていない小さな池が目的地だった。舗装も怪しい林道の途中、ブレーキを踏ませるものがあった。
道端で、タヌキが倒れていた。
前脚に深い傷があり、血で毛が固まっている。
男が近づくと、タヌキは逃げようとした。だが数歩も進めず、その場で崩れた。男はため息をひとつ吐き、しゃがみ込む。
「……無理するな」
言葉はそれだけだった。
リュックから救急セットを取り出し、慣れた手つきで傷を洗い、消毒し、包帯代わりに布を巻く。釣りをしていれば、ルアーの針で自分が怪我することも多い。その延長のような手当だった。
タヌキは暴れなかった。男の手をじっと見つめているだけだった。
その日は釣りをせず、男はそのまま帰った。
夜。
アパートのドアをノックする音で、男は顔を上げた。
ドアの向こうに立っていたのは、見知らぬ女性だった。妙齢で、どこか懐かしい匂いがする。
「……どちら様で」
「昼間、山で助けていただいたタヌキです」
男はしばらく黙っていた。
女性は、何も言わずに目の前で姿を変えた。人の形が揺らぎ、毛に覆われ、タヌキになる。
男は頭を掻いた。
「……そうか」
それ以上、深くは聞かなかった。
女性は再び人の姿に戻り、深く頭を下げた。
恩返しに来たのだという。
「別に、恩を売ったつもりはない」
男の声は低く、感情が乗らない。
それでも女性は言った。
一族の掟で、恩を返すまで帰れないのだと。嘘だったが、男はそれを見抜いても何も言わなかった。
「……好きにしろ」
そうして、奇妙な共同生活が始まった。
男は多くを語らなかった。
朝は静かに仕事へ行き、夜は簡単な飯を作る。女性は家事を手伝い、時にタヌキの姿で丸くなって眠った。
ある日、男は合鍵を作って渡した。
「一緒に住むなら、必要だろ」
女性は鍵を受け取ったまま、泣いた。
家族として認められた気がしたのだと、後で小さく打ち明けた。
男は何も言わず、ただ頷いた。
季節は巡り、二人は自然に愛し合うようになった。
言葉は少なくても、沈黙は心地よかった。
年月が流れ、男は老いた。
ある冬の日、倒れ、そのまま目を覚まさなかった。
女性は葬儀の後、姿を消した。
しばらくして、アパートの住人が噂話をするようになった。
「このアパート、毎晩タヌキが出るんだよ。前に爺さんが住んでた部屋の前に、ずっと座っててさ。朝になると山に帰るんだ」
「餌でもやってたのかね」
誰も知らなかった。
そのタヌキの首から、紐で鍵が下がっていたことを。
さらに長い時が過ぎた。
タヌキもまた老い、死期を悟った。
彼女が選んだ場所は、何もない空き地だった。
かつて、あのアパートが建っていた土地。建物は取り壊され、跡形もないが、確かにそこだった。
夜明け。
朝日が差し込む頃、タヌキは静かに息を引き取った。
首から下げた鍵は、長い年月を経ても大切にされ、錆ひとつなく、朝日を反射していた。
誰もいない空き地で、それだけが、確かにそこにあった。
それは、死の間際に見た幻だったのかもしれない。
山奥。
生まれ育った、馴染みの匂いがするはずの場所に、なぜかアパートが建っていた。とうに取り壊されたはずの、あの建物が。
記憶が混ざったのだろう。
長く生きすぎたせいか、終わりが近いせいか、夢のように曖昧だった。
タヌキは、最後の力で姿を変えた。
人の女の形になり、ふらふらと歩く。山道のはずなのに、足元はいつの間にかコンクリートになっていた。
辿り着いたのは、覚えのあるドアだった。
あの部屋。
首から下げていた鍵が、やけに輝いて見えた。
二度と使うことはないと思っていた鍵を、彼女は震える手で差し込む。
音もなく、ドアが開いた。
部屋の中に、彼がいた。
老いてもいない、若くもない。
ただ一番よく知っている姿で、こちらを見て笑っている。
それだけで、胸が潰れそうになった。
「……ごめんなさい」
言葉が、勝手に溢れた。
涙が止まらなかった。
彼は、本来なら人として生きるはずだった。
人の女と結ばれ、子をなし、誰かに囲まれて、当たり前のように老いて死ぬはずだった。
それを、自分が奪った。
化け狸である自分がそばにいたせいで、彼は子も持たず、最期を看取ったのも自分一人だった。
「……私が、あなたの人生を……」
嗚咽で、言葉にならなかった。
彼は何も言わず、近づいてきた。
そっと、彼女を抱きしめる。
昔と同じ、静かな腕だった。
「……それでも」
男は、短く言った。
「それでも、いい」
それら全てと引き換えにしても、お前といたかった。
多くを語らずとも、そう伝わった。
今度は、嬉しくて泣いた。
自分のような化け物が、こんな最期を迎えていいのかと、泣いた。
二人は、そのまま抱き合った。
やがて、部屋も、アパートも、山も、すべてが白い光に包まれていく。
幻だったのかもしれない。
走馬灯だったのかもしれない。
それでも――
彼女にとっては、確かに「そこにあった」最期だった。
朝日が昇る頃、空き地には、静かに横たわる一匹のタヌキがいた。
首から下げた鍵だけが、光を受けて、穏やかに輝いていた。
もう、使われることのない鍵だった。
けれど、最後まで、大切にされていた。
お前が居たから俺が居た @ys194
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