永遠の時の中で
藤森銘菓
古代エルフと人間の見習い
朝日が昇り、書斎の高く装飾された窓から、あたたかな光が差し込んでいた。
静かな室内の床には紙が散らばり、部屋の隅々には大小さまざまな書物の山が積み上げられている。本来ならば静寂に包まれているはずの場所だが、机にうつ伏せになった一人の影から、かすかな寝息が聞こえていた。
ラクニは机に突っ伏したまま、穏やかな表情で眠っていた。腕の下には白紙の羊皮紙が隠れ、羽根ペンの先のインクは乾きかけている。今は何もかもがどうでもよかった。思索も筆も、心地よい昼寝のあとでいい。
この眠たげなエルフが、幾世紀も生き、世界の出来事を記し続けてきた書記官だとは、にわかには信じがたい。だが書斎の中では、彼はただの眠る子どものようだった。
そのとき、重厚な扉がそっと開いた。隙間から覗く視線が室内を見渡し、やがて眠る姿に留まる。
小さなため息のあと、扉は完全に開かれ、見ていたのは見習いのローブを着た人間の少女だった。彼女は散乱した物を巧みに避けながら、まっすぐ机へと向かう。
見習い――ミラは、不安定に積み上げられた天文学書の横を慎重に通り抜けた。革靴が石床に触れる音はほとんどしない。彼女はもう知っていた。師を最も早く目覚めさせる方法が、本の山を倒してしまうことだということを。そして、驚いて目を覚ました古代エルフの朝が、決して穏やかでないことも。
机の横で立ち止まり、腰に手を当てて光景を見下ろす。その表情には、呆れと心配が同時に浮かんでいた。羊皮紙の上には「年代記」という一語だけが記されている。口元には小さな涎の跡があり、貴重な史料の山に今にも届きそうだった。
「……毎朝これだもの」
そう呟きながら、ミラは羽根ペンをそっと抜き取り、脇に置いた。太陽はすでに高く昇っている。本来なら夜明け前に作業を始める予定だったが、それは叶いそうにない。
彼女は書斎を見渡した。一晩で混沌が増殖したかのようだ。前夜に整理したはずの場所に新たな山が生まれ、巻物は移動し、昨日は確かに置いていなかった分厚い本がランプの上に鎮座している。
そっと肩に手を置く。
「先生……?」
ごく軽く揺すると、眠たげな声が漏れた。
「ん……?」
黄金色の瞳がゆっくりと開く。朝の光がその奥で揺れた。
「……何時だ……?」
眠そうに目をこすりながら、穏やかな低い声で尋ねる。
「もう昼近いですよ、先生」
ミラは微笑みつつ、肘の近くにあった書簡の山をそっと遠ざけた。
「また机で眠ってしまったんですね。秋の宮廷の交易記録……ですか?」
白紙を指差しながら、反対側へ回り、インク壺と羽根ペンを片付けていく。
「カモミールティーを用意しておいたんですが、すっかり冷めてしまって。それから、魔術師区のアルドリック先生から、家系記録の催促が三度目届いています」
片付けの手を止め、やさしくもどこか楽しげな視線を向けた。
「先に新しいお茶を淹れますか? それとも朝食にします? 昨夜は“少しだけ”の昼寝が、朝まで続いていましたし」
「……遅れているようだね」
ラクニは小さく笑い、資料の山を眺めてから伸びをした。
「お茶を冷ましてしまって、すまない。もう一杯、温かいものをいただけるかな」
その言葉に、ミラの表情は自然と柔らいだ。
「お気になさらず。もう慣れましたから。冷えたお茶は栞代わりにも便利ですし」
そう言って、茶の準備を始める。湯を沸かす時間は、彼が完全に目覚めるための大切な間だった。
「今日は、どの資料を使いますか?」
振り返りながら尋ねる。
「昨日の本たち、どういうわけか……移動してしまっているようで」
「年代記には、過去の草稿と各地の交易書簡が必要だ」
ラクニは紙束を引き寄せた。
「アルドリックには……“できるだけ早く”進めていると伝えてくれ」
「“できるだけ早く”、ですか」
ミラは湯を注ぎながら、くすっと笑う。
「先生、それは今日かもしれませんし、次の時代かもしれませんよ」
湯気の立つ茶を、机の唯一空いている場所に置く。
「“全力で取り組んでいる”と書いておきましょう。……お昼寝の間も、考えてはいらっしゃいますし」
ラクニは茶を一口含み、筆を取った。
「穀物紛争だ。北方は南部の穀物に依存することを嫌っていた」
言葉が流れ出すように、ペンが走る。
「……厳しい時代だった」
ミラは、その変化を静かに見守っていた。眠たげな姿は消え、何世紀もの記憶が彼の中を静かに流れ始めている。
「書簡を見つけました。北方の使節からのものです。それと、南部部族の証言も」
彼女は隣の机に座り、羊皮紙を広げた。
「装飾文字の準備をしますか? 今回は部族の紋章を入れると仰っていましたよね」
「頼むよ、ミラ」
彼は微笑み、書き続ける。
「当時の紋章は今とは違う。参考書は――あそこだ」
混沌の中から、彼女は正確に一冊を取り出した。深緑の表紙、古い筆跡。
「収穫月の紋章と、交差する穂……」
ミラは絵具を混ぜながら、静かな集中に身を委ねる。
「どちらから始めますか?」
「君に任せる」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……では、収穫月を」
午後の光が差し込み、筆音だけが響く。
やがてラクニは筆を置いた。
「今日はここまでにしよう」
「休憩ですね」
ミラは伸びをし、微笑んだ。
「庭へ出ませんか?」
彼は手を差し出す。
少し迷ってから、彼女はその手を取った。
「葉に埋もれても、助けませんよ」
大図書館を抜け、庭へ。
「ミラ、本の価値とは何だと思う?」
「……紙も大切です。でも、言葉は形を変えて生き残ります」
彼は頷いた。
「時は流れる。だが、記すことで足跡は残る」
庭の空気は澄み、古い樫の木が立っている。
「この木は、私より古い」
二人は木の下に立ち、葉の音を聞いた。
「時間とは何だと思う?」
「……庭のようなものかもしれません」
「止められなくとも、立ち止まることはできる」
二人は幹にもたれ、静かに腰を下ろした。
「少しだけ……」
ミラの声は次第に小さくなる。
葉が肩に落ちても、払わなかった。
古木は見守り続ける。
記憶と信頼が交わる、この小さな時間を。
永遠の時の中で 藤森銘菓 @fujimori-meika
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