死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~

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第一章:開かずのフォルダと遺された愛

第1話 父の隠しフォルダ(前編)

 東京、神保町。

 古書店が軒を連ねるこの街は、インクと古い紙の匂いがする。

 路地裏にある雑居ビル、『三島ビル』。築40年は下らないであろうその建物の地下へ続く階段を降りると、ひんやりとした湿った空気が肌にまとわりついた。


 蛍光灯がチカチカと明滅する廊下の突き当たり。

 『デジタル・アーカイブス社』と書かれただけの、無骨なスチール製のドアがある。


 ここが、私の新しい職場だ。


「……失礼いたします」


 重たいドアを開けると、そこには地上とは隔絶された異質な空間が広がっている。

 壁一面を埋め尽くすのは、無数の黒いサーバーラックと、乱雑に積み上げられた古書の山。青白いLEDの光と、古本の埃っぽい茶色が混在する、整理されているのか散らかっているのか分からない部屋だ。

 そして、部屋の奥からは今日も、食欲をそそるスパイシーな香りが漂っていた。……今日は、クミンとコリアンダーの香りだろうか。


「あ、あの……すみません」


 入り口で、華奢な女性が不安そうに立ち尽くしていた。

 私は慌てて自分のデスクから立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄る。


「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」


 私は背筋を伸ばし、かつてホテルで働いていた時と同じ角度で頭を下げた。

 依頼人の名前は、長谷川里美さん。事前にメールで予約を入れていた女性だ。喪服ではないが、黒に近い紺色のワンピースを着ている。その表情は硬く、手元のハンドバッグを強く握りしめていた。


「お足元の悪い中、お越しいただきありがとうございます。担当の石川です。どうぞ、こちらへ」


 革張りのソファに案内し、私はすぐに給湯室へ向かう。

 客人の緊張を解くには、まず温かい飲み物だ。今日は少し肌寒いから、香りの良いアールグレイにしよう。

 ティーカップをソーサーに乗せ、音を立てずに彼女の前に置く。里美さんは湯気立つ紅茶を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「……落ち着く香りですね」

「ありがとうございます。本日は、お父様のパソコンの件でご相談とお伺いしておりますが」


 私が切り出すと、里美さんはバッグから一台のノートパソコンを取り出した。

 パナソニックのレッツノート。ビジネスマンが愛用する、頑丈さが売りのモデルだ。使い込まれているのか、天板の塗装が剥げ、角が丸くなっている。


「先週、父が急死しまして……心筋梗塞でした」

「ご愁傷様です」

「父は、真面目だけが取り柄のような人でした。地方公務員で、定年まで勤め上げて。趣味もなくて、休みの日も家で新聞を読むか、このパソコンで何かを書いているか……」


 里美さんは、パソコンの黒い画面を愛おしそうに、けれどどこか恐ろしげに撫でた。


「遺品整理をしていたら、デスクトップに見慣れないフォルダがあったんです。厳重にロックが掛かっていて、開けなくて。ファイル名は『Z』……父のイニシャルとも関係ないし、そんな名前をつけるような人じゃなかったんです」

「その中身を確認したい、ということでしょうか?」

「いいえ」


 里美さんは、きっぱりと首を横に振った。そして、強い視線で私を見上げた。


「見ずに、消してほしいんです。完全に、復元できないように」


 その言葉に、私は息を呑む。

 デジタル遺品整理の現場において、「見ずに消してほしい」という依頼は珍しくない。むしろ、全体の半数を占めると言ってもいい。

 誰にでも、墓場まで持っていきたい秘密はある。ポルノ、不倫の証拠、恥ずかしいポエム、裏アカウントの罵詈雑言。

 残された家族にとっても、故人の「裏の顔」を知ることは必ずしも幸せではない。知らないままでいることが、故人の名誉を守り、遺族の心の平穏を守ることになる場合もある。


「承知いたしました。中身を確認せず、論理フォーマットと物理的な上書きを行えば、二度と読み取れないようにすることは可能です」

「本当ですか? 良かった……。きっと、父の……その、恥ずかしい趣味のものだと思うんです。父はずっと厳格な人だったから、私、そういうのを見て幻滅したくなくて」

「お気持ち、お察しいたします。では、お見積もりを――」


「おい」


 突然、部屋の奥から低い声が響いた。

 サーバーラックの影から、男がぬっと姿を現す。

 身長185センチを超える大柄な体躯。グレーのパーカーのフードを目深に被り、無精髭を生やした顔には、深い不機嫌のシワが刻まれている。

 その分厚い胸板と、まくった袖から覗く太い腕は、キーボードを叩く指先よりも、ダンベルを持ち上げる方が似合いそうだ。


 うちの所長、阿部邦彦だ。


「あ、阿部さん。お客様の前ですよ」

「聞こえてたよ、石川。……そこのあんた」


 阿部は私の制止を無視して、鋭い眼光を里美さんに向けた。里美さんが怯えたように身を引く。

 その威圧感は、野生動物のそれに近い。とてもカタギの商売人には見えないが、これでも彼は元警察庁サイバー犯罪対策課のエースだった男だ。


「見ずに消せ? そんなオーダーは受けられないな」

「えっ……どういうことですか?」

「ロックが掛かってるんだろ。中身を操作するには、まずロックを解除しなきゃならない。解除してフォルダにアクセス権限を通さなきゃ、完全削除なんてできねえよ」

「そ、そんな……。パソコンごと壊してしまえばいいんじゃないですか?」

「うちは『整理屋』だ。破壊屋じゃない。それに、HDDを物理的にドリルで粉砕したって、残留磁気からデータを復元される可能性はゼロじゃない。完全に消したいなら、正規の手順で中身をゼロデータで上書きするしかない」


 阿部はソファの対面にどかっと腰を下ろすと、無遠慮に里美さんのパソコンを引き寄せた。

 嘘だ。

 私は心の中でつっこむ。

 専用の業務用ツールを使えば、パスワードを解除せずにストレージごと初期化することは可能だ。阿部ほどの腕があれば、造作もないことだろう。

 彼はなぜ、わざわざ「開ける」ことにこだわるのか。


「あんた、父親の何を知ってる?」

「え……?」

「真面目な公務員。趣味なし。それが全てか?」

「そ、そうですけど……。だからこそ、隠していることがあるなら、それはきっと……」

「ポルノ動画か? 愛人とのメールか? それとも違法な取引の記録か?」


 畳み掛けるような阿部の言葉に、里美さんの顔が青ざめる。

 私はたまらず割って入った。


「所長、言い過ぎです! お客様は、お父様のイメージを守りたいと仰っているんです」

「イメージ? そんな曖昧なもんでデータを扱うな。データは0と1だ。事実しか残らない。俺たちはその事実に対して金をもらってる」


 阿部は冷たく言い放つと、パソコンを開いた。

 電源を入れる。古いHDDの駆動音が微かに響き、Windowsのログイン画面が表示された。

 アカウント名は『H_Tatsuo』。パスワード入力欄が点滅している。


「ログインパスワードは?」

「あ、はい。メモしてあります」


 里美さんが手渡したメモには、不規則な英数字の羅列があった。それを入力すると、デスクトップ画面が表示される。

 背景は、初期設定のままの青い画面。アイコンは『ゴミ箱』と『ブラウザ』、そしていくつかの文書ファイルのみ。

 几帳面な性格がひと目で分かるデスクトップだ。

 その中央に、ひとつだけ異質なフォルダがあった。


 『Z』


 黄色いフォルダアイコンに、鍵のマークがついている。

 阿部がそれをダブルクリックすると、再びパスワードの入力を求める小さなウィンドウが開いた。


「ログインパスワードと同じものは?」

「試しました。ダメでした」

「誕生日は? 19601201とか」

「それも、父の誕生日も母のも、私の誕生日も試しましたけど……開きません」


 里美さんは困り果てたように眉を下げる。

 阿部はふんと鼻を鳴らすと、キーボードに手を置いた。その指は、驚くほど太く、節くれ立っている。


「素人はすぐに誕生日を使いたがるが、本当に隠したいものには使わない。人間がパスワードを決める時、そこには必ず『心理的なバイアス』がかかる」

「心理的な、バイアス……?」

「打ちやすいキー配置、好きな言葉、忘れられない記憶。特にこの世代の男は、自分なりの美学をパスワードに込める傾向がある」


 阿部はポケットから取り出した眼鏡をかけ、鋭い視線でキーボードを見つめた。

 そして、パソコンを持ち上げ、裏面の型番シールや、キーボードの『手垢』のつき方を観察し始めた。

 まるで、獲物を品定めする猛獣のようだ。


「E、R、T、U、I、O……上段のキーがよく摩耗している。AとSもだ。……ローマ字入力だな」


 独り言のように呟きながら、阿部はいくつかのキーを叩く。


『admin』『password』『123456』……。

 よくある脆弱なパスワードを試しているようだが、エラー音が鳴るばかりだ。


「おい、あんた。父親に愛されてたか?」

「は……?」


 唐突な問いに、里美さんは目を白黒させた。


「な、何を急に……。普通、だと思います。厳しかったし、あまり口を利くこともありませんでしたけど、大学まで行かせてもらいましたし」

「昔、なんて呼ばれてた?」

「えっと……里美、ですけど」

「違う。もっと小さい頃だ。あだ名とかないのか」


 阿部の視線はパソコン画面から動かない。

 里美さんは少し考え込み、やがて恥ずかしそうに口を開いた。


「……さとみん」

「は?」

「小さい頃、父は私のことを『さとみん』って呼んでました。でも、小学校に上がった頃にはもう呼ばれなくなって……」

「さとみん、か」


 阿部の口角が、ほんの数ミリだけ上がった気がした。

 彼は高速でキーボードを叩き始めた。


「S、A、T、O、M、I……N。これじゃ単純すぎるな。真面目な公務員なら、数字と記号を混ぜるはずだ。娘の誕生日はいつだ?」

「3月3日です」

「ひな祭りか。なら『0303』か……いや、違うな」


 阿部の指が止まる。

 彼は眉間のシワをさらに深くし、沈黙した。

 重苦しい静寂が部屋を支配する。サーバーのファンの音だけが低く響く。

 私は固唾を呑んで見守っていた。

 阿部は、ただのハッカーではない。彼は「デジタル遺品整理士」だ。

 数秒、数分の沈黙の後、阿部はゆっくりと口を開いた。


「……あんたの父親は、真面目なだけじゃなかったようだな」

「え?」

「パソコンを見ればわかる。このキーボードの汚れ方。エンターキーだけが異常に強く叩かれている。これは、文章を書く人間の癖だ。それも、感情を込めて書くタイプのな」


 阿部はそう言うと、ある文字列を打ち込んだ。


 カチッ。


 最後にエンターキーを強く叩く音が響く。

 その瞬間、画面上の小さなウィンドウが消え、フォルダの中身が表示された。


「あ……」


 里美さんが声を漏らす。

 解除できたのだ。

 阿部は画面を見ずに、パソコンをくるりと回転させ、里美さんの方へ向けた。


「開いたぞ」

「え、あ……でも、私、見たくない……」

「見ろ」


 阿部の声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。

 しかし、そこには先ほどまでの威圧感はなく、どこか静かな、導くような響きがあった。


「あんたはこれを『消してくれ』と言った。中身が何であれ、依頼通り消去はする。だが、その前に確認するのは依頼人の義務だ。……これが本当に、消すべき『ゴミ』なのかどうかをな」


 里美さんは震える手でマウスに触れた。

 私も、横からそっと画面を覗き込む。

 フォルダの中にあったのは、怪しげな動画ファイルでも、背徳的な画像データでもなかった。

 そこにあったのは、無数のPDFファイル。

 そして、そのファイル名には、日付と――ある言葉が並んでいた。


『さとみんへ_3歳』

『さとみんへ_小学校入学』

『さとみんへ_反抗期』

『さとみんへ_就職祝い』


「こ、これ……」


 里美さんの目が見開かれる。

 一番新しい日付のファイルは、先週のものだ。『さとみんへ_結婚おめでとう』。

 里美さんの左手の薬指には、真新しい婚約指輪が光っている。お父様が亡くなる直前に、報告したのだろうか。


「……パスワードは、『Satomin_Love_Forever』だ」


 阿部がボソリと言った。

 里美さんが息を呑む。


「父が……そんな、気恥ずかしいパスワードを……?」

「真面目な男ほど、隠れた場所ではロマンチストなんだよ。それに、パスワードってのは祈りだ。毎回入力するたびに、その言葉を心の中で唱えることになる。……親父さんは、このフォルダを開くたびに、あんたへの愛を確認してたんだ」


 阿部は興味なさそうに立ち上がり、給湯室へと歩き出した。

 背中越しに、ぶっきらぼうな声が飛んでくる。


「おい石川、依頼確認書だせ。削除するなら今すぐやるぞ」


 私は阿部の背中を見つめ、そして里美さんに向き直った。

 彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。

 彼女は震える指先で、一番新しいファイルをクリックする。


 画面に表示されたのは、不器用な明朝体で綴られた、娘への溢れんばかりの祝福と、これまでの感謝の言葉だった。口下手で厳格だった父が、決して口にすることのなかった、心の底からの言葉。


「……消しません」


 里美さんは、涙で濡れた顔を上げ、きっぱりと言った。


「これは……消せません。私の、宝物です」


 私は深く頷き、ハンカチを差し出した。

 奥のキッチンから、鍋をかき混ぜる音が聞こえてくる。

 スパイスの香りが、少しだけ優しくなった気がした。


 これが、私がこの奇妙な事務所で見た、最初の「遺品整理」だった。

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