人生非常灯

高守 帆風

第1話 耳馴染み

窓を割った。これで何度目だろう。

教室では悲鳴の束が収束して、こちらを気味悪い視線で警戒してくる。少しして先生が入ってきて、爆音が響く。


ガラスの割れる音は聞こえず、相変わらず外野の音はエコーがかかったように耳の中でぐるぐるする。先生が僕の手を掴んできた。その手は冷たくて、振り回すように手を解いてそのまま自身の手を窓際の壁に殴りつけた。太鼓を叩いたような音が連続して聞こえて、耳を塞ぐ。この音は嫌いだ。割った窓から身を投げ出して、地上のグラウンドへ着地する。足の痛みで、少しだけ気持ちが落ち着いた。


遠くで体育の授業をしている先生と生徒の音が途切れ途切れに聞こえてくる。自分の地面を擦る足音に耳を済ましても、全く何も聞こえなかった。




家に帰りたくなくて、少し寄り道をする。街灯の光が付き出したら帰宅してねと、そう言ってくれたのは誰だったっけ。少し前に潰れた駄菓子屋の跡地を見て息を吐き出す。家から離れるように、河川に近づくように歩幅を早めていると左手が冷たく包まれた。知っている手だ。

ゆっくりと繋がれた手の主を確認する。笑いじわの特徴的な、僕のお母さんだ。


血は繋がっていないけど、誰よりも僕に近い人。

喋らなくても安心する、唯一の人だった。


耳に異常が出る前に教えてくれた名前は、市川実みのり。もうすぐ40歳になる女性だ。彼女の声ははっきりと聞こえるのだが、僕がこうなってからは気を遣っているのかあまり口を使わなくなった。

代わりに手を使って会話をしたり感情を表現してくれる。


実さんの手はとても器用だ。少しだけ手を握る強さが変わって、注意をそちらに惹き付けられる。空いた左手で右側に見える橋を指さして、両腕を振った。どこへ行くのかともう一度実さんの方を見ようとしたけど、ぐっと腕を引っ張られるままに走らされた。口が酸素を求めて軽く開く。空気抵抗で首の近くが痺れるような感覚があった。




「こっち」




橋を渡った先に、大きな白い月が森の上に浮かんでいた。

繋いでいた手はそのまま僕の耳を優しく包んで、それからその手を離してひらひらと振られる。


痛いの痛いの、とんでいけ


お母さんは口を閉じているけど、僕にはそう言っているように見える。



明日には、世界の音が少しでも自分に馴染みますように。



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