マウンドパラドックス
菅哉
第一章~五月の静寂~
五月の夕方、グラウンドには風と影だけが残っていた。練習が終わると、県立K高校の野球部のグラウンドは、急激に音を失う。ついさっきまで響いていたバットがボールを弾く音もグラウンドに飛び交う声もいつの間にか途切れている。余韻が残るわけでもなく、最初から存在しなかったかのように空気は静まり返る。
県立K高校は、城跡に近い丘の麓にある。創立から百年を超える県立高校で、校舎もグラウンドも、周囲の自然に囲まれている。昼間は特別な印象を受けないが夕方になると、敷地全体から切り離されたように感じられることがある。野球部はかつて甲子園に出場したことがある。春に二度、夏に三度。だが最後の出場は三十年前で、今となっては部室の壁に掛けられた古い写真と、色あせた記録として残っているだけだった。その過去の功績もあって野球部専用の寮が存在する。県大会では上位に進むが、決定的な場面で勝ちきれない。そういうチームだと、周囲からは見られている。僕、森平涼介はその野球部の控え投手だ。自分では真面目な方だと思っている。練習は誰よりも真剣に取り組むし、監督の指示にも忠実に従う。ただ、チームの中で熱くなりきれない自分がいるのも事実だった。輪の中にいながら、どこか一歩引いた場所から全体を眺めている感覚がある。この部の上下関係は厳しい。理由を問うことは好まれず、「昔からそうだから」「勝つためだから」という言葉がすべての説明になる。誰もそれに逆らわないし、疑問を口にすることもない。そういう空気が当たり前のように存在している。
夜、寮に戻る。古い建物で、廊下はやけに静かだった。足音を立てても、音が遅れてついてくるような感覚がある。誰とすれ違っても、不思議と気配だけが残る。部屋に戻り、ストレッチをしながら去年の夏のことを思い返していた。県大会準決勝。延長にもつれた試合だった。僕は一年生ながらベンチ入りしたが、マウンドには立っていない。最後はサヨナラだった。外野を抜けた打球が転がり、歓声が一斉に上がった。勝った。苦しい試合だったが、確かに前に進んだ感覚があった。その流れのまま迎えた決勝は、僅差だった。一点差。最後まで分からない展開で結局は競り負けた。悔しさは残ったが、納得もしていた。準決勝で力を使い切ったのだと、誰かが言っていて、それをそのまま受け入れた。甲子園には届かなかったが、あの夏は無駄ではなかったと思っている。窓からグラウンドを見下ろすと、照明に照らされた場所と、そうでない場所の境目が妙にくっきりしていた。視線を動かした、その一瞬だけ。マウンドのあたりに何かが立っているように見えた。気のせいだ。疲れているだけだろう。カーテンを閉める。夏の大会は、6月の終わりに始まる。まだ時間はある。チームはこれから仕上がっていく。去年も仕上がった。だから準決勝は勝って、決勝は僅差だった。その認識に、疑問を持つ理由はない。静かな夜だった。何も起きていない。少なくともこの時点では。
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