第3話 実験記録:軟体動物化と痛覚過敏
「ぎ、ぎゃああああああああっ!?」
剛田(ごうだ)の絶叫が、屋上の踊り場に反響した。 無理もない。自分の右腕が、まるで茹で過ぎた麺のようにだらりと垂れ下がっているのだから。肘関節も手首も、本来あるべき固定点を失い、ぶらぶらと揺れている。
「な、なんだこれ!? 腕が、腕が動かねぇ! 力が!」
「騒がないでくれ。ただ『カルシウムの結合を解いた』だけだ」
僕は観察日記をつけるような気分で、剛田の腕を見下ろした。
素晴らしい。骨組織を一瞬で脱灰(だっかい)させ、コラーゲン繊維のみを残した状態。これならレントゲンを撮られても「骨が消えた」としか診断できず、傷害事件としての立証は困難だろう。
「お、お前……何をしたんだ……?」
後ろで見ていた蛇島(へびしま)が、引きつった顔で後ずさりする。
その目には、明確な恐怖の色が浮かんでいた。さっきまでの「捕食者」としての余裕はどこにもない。
「何って、治療だよ」
僕はゆっくりと蛇島の方へ向き直る。
「君たちは、他人の痛みに鈍感すぎる病気にかかっている。だから、僕が名医として機能を『最適化』してあげようと思ったんだ」
「ふ、ふざけるな! 来んじゃねぇ! 化け物!」
蛇島が半狂乱になってポケットからカッターナイフを取り出した。
刃渡り五センチほどの、チープな凶器。普段なら脅しに使っていた玩具も、今の僕には無意味だ。
蛇島がめちゃくちゃに刃を振り回して突っ込んでくる。
だが、遅い。
視界には、彼の筋肉の収縮の予兆、重心の移動が「ベクトル矢印」のように見えている。
僕は半歩横にずれ、蛇島の手首を優しく掴んだ。
「――対象、中枢神経系。痛覚信号の増幅(アンプリファイ)。倍率、一〇〇倍」
小さくつぶやき、神経のシナプス結合を書き換える。 脳へ送られる電気信号の閾値(いきち)を、極限まで下げたのだ。
「……は?」
蛇島が間の抜けた声を上げた。 直後。
「ぎひぃっ!?!?!?」
カッターを取り落とし、蛇島が泡を吹いてその場にのた打ち回った。 僕が彼の手首を掴んだ指の跡。そこがまるで、焼きごてを押し当てられたかのように赤く腫れ上がっている。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い! 服が! 空気が痛い!!」
「成功だね。痛覚過敏(ハイパーアルジェジア)の状態を再現してみた」
僕は冷徹に解説する。
「今の君の皮膚は、赤ん坊のそれよりも敏感だ。着ている制服の繊維が擦れるだけで、紙やすりで削られるような激痛が走る。風が吹くだけで、ナイフで斬りつけられるような痛みを感じるはずだ」
「やめ、やめろぉぉぉ! ごめんなさ……ぎぃぃぃぃっ!」
蛇島は土下座して謝ろうとしたが、膝がコンクリートの床についた瞬間、その衝撃が激痛となって脳を貫いたらしい。白目を剥いて痙攣を始めた。
「謝罪なんて求めていないよ。ただ、データの収集に付き合ってほしかっただけだ」
僕は興味を失い、再び剛田の方へ視線を戻す。 剛田は左手で右腕を抱え、涙と鼻水を垂らしながら震えていた。
「た、助けてくれ……相馬、いや相馬様……! 俺が悪かった、言うこと聞くから……!」
「剛田くん。君は筋肉が自慢だったね」
僕は彼の命乞いを無視して、その太い太ももに触れた。
「じゃあ、筋肉が収縮したまま戻らなくなったらどうなるか、知ってる?」
「ひっ……!?」
「こむら返りを想像するといい。あれの、全身バージョンだ」
スキル発動。
筋繊維の収縮命令を固定。弛緩(しかん)を禁止。
ゴゴッ、と不快な音がして、剛田の全身の筋肉が岩のように硬直した。
「が、ぐ、う、うううぅぅぅぅ!!」
声にならない悲鳴。
全身の筋肉が断裂しそうなほどの力で収縮し続けている。自分自身の筋力で、自分の骨を締め上げているのだ。動こうとすればするほど、地獄の苦しみが彼を襲う。
「ふう。初めてにしては、上出来かな」
僕は白衣の裾を払う仕草をして(実際には制服だが)、二人の「実験体」を見下ろした。
一人は風が吹くたびに絶叫し、もう一人は全身を強張らせて呻いている。
かつて僕を支配していた恐怖の象徴は、いまや無様な肉塊へと成り下がっていた。 胸のすくような光景。 燃やされたノートも、失った推薦も戻ってはこない。けれど、この圧倒的な全能感が、空っぽになった僕の心を満たしていく。
「安心しなよ。殺しはしない」
僕は出口へ向かいながら、背越しに告げた。
「死んだら、苦しみを感じられないからね。……放課後のチャイムが鳴るまで、そこで反省会でもしているといい」
ドアを開け、屋上を後にする。
階段を降りる足取りは、羽が生えたように軽かった。
世界は変えられる。
この手で、思い通りに。
僕はポケットの中で、まだ微かに熱を帯びている自分の掌を強く握りしめた。 次は、誰を「治療」しようか。
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