雪中君子

祐里

一、安穏

 眠れないんだ、と言われて「大変ですね。おつらいでしょう」と答えた。私たちホステスは皆、それくらいの和顔わげんは持っている。

 同伴出勤の時にも、できるだけ自然に持ち上げて、良い気分にさせるよう努力する。うちのママは優しいけれど、そういうところには厳しいから、何かミスしたら叱られてしまう。


「上品で素敵だね。まるで雪中君子せっちゅうくんしだ」

 今日は常連客との同伴出勤。待ち合わせして訪れた寿司店のカウンターで、相田あいださんが言った。ピンクのエクステと白いニットワンピースの私に、いつものかすれた声で、いつものように文学的に。

「ありがとうございます。せっちゅう……、雪の中、ですか?」

「うん。梅の花、紅梅のことだよ。春の気配をいち早く感じることができる梅は、その分早く花を咲かせる。ただ、咲いたあとに雪が降ってしまうこともあるんだ。それでもしおれない。強い花だね」

「そんなふうに見てくれる人がいるからこそ、梅も寒さを乗り越えることができるのでしょう。きっと優しい視線が梅の支えになっているのです」

「はは、そうかもしれないな。沙耶さやちゃんと話すと何だか世界が明るくなるようだ」

 しわの多い顔。上質な粉茶を一口飲み、穏やかに笑う。獲物を狙う獣のような男たちとはまるで違う、繊細な脆さを感じさせる表情。

 ふと、相田さんの箸を持つ手が少しだけ震えているように見えた。

「寒いかしら。何か温かいもの……熱燗でもお飲みになりますか?」

 彼が本をよく読むのも、寒さが体に堪える年齢というのもわかっていた。同じくらいの年齢の客や、センシティブな文学趣味を持つ客は他にもいる。珍しいことでもない。ただ、この時はなぜだか、心にひりつくような苦みが走った。

「いや、大丈夫だよ。それに、飲むならきみの店の方がいい」

「まあ、嬉しい。お気遣いありがとうございます」

 白木のカウンターの下で彼の手をそっと握ると、苦みはだんだん消えていった。


「沙耶、今日アフター最後までね」

「今日、ですか? 私は稼げるから助かりますけど、いいんでしょうか?」

 ある日、ママに店舗入口の方へ呼び出されて言われた。

 うちのクラブで『最後まで』というのは、最上客である相田さんにしか許されていない。週一回の来店で、彼はホステスの一人を必ず『最後まで』、つまり、枕に誘う。拒否することもできるけれど、そうでなければ大体三ヶ月に一回くらいの割合で一緒にホテルに宿泊することになる。でも、前回からまだ二ヶ月くらいしか経っていない。

 彼はホステス一人一人を平等に扱いたいと言い、店で指名するのも瑠奈るなの次は香織かおり、香織の次は涼子りょうこというように、特定の誰かを贔屓することはないのだ。最近はやめたホステスもいないから、すぐに自分の番が回ってくるというのはありえない。

 首を傾げていると、ママが答えをくれた。

「沙耶が一番、一緒にいて落ち着くんだって。だから何人か飛ばしたのよ」

「落ち着く……。確かに、一緒にベッドに入ってもすぐに入眠されますが」

「何年か前に奥様が亡くなってから、あまり眠れなくなったっておっしゃっていたじゃない? だからそういうのはありがたいんじゃないかしら」

 ふ、という小さな吐息のあと、ママは言った。

「あなたあまり愛想がないから、最初はちょっと心配だったけど……」

「す、すみません」

「いいの、それがいいのよ。私の目に狂いはなかったということだわ」

 ママは在りし日を思い出すように、目をつい、と左に動かした。きっと私たちが初めて会った時のことを思い出しているのだ。履歴書を片手に、オフィスビルの前でため息をついていた私に声をかけたのはママだった。

「そう、でしょうか」

「自分じゃわからないものなのよね」と言い残し、ママは飲み物を運ぶボーイの方へつかつかと歩いていってしまった。

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