忍びの世。涙 / 京町抜忍返し

紙の妖精さん

第1部〘和歌幼日〙第1話

その和室は静かだった。障子の向こうから差し込む光が、昼のものか夕方のものか、判別がつかない。白く薄く、ぼんやりとした明るさだけが部屋に満ちていて、畳の表面を淡く照らし、光は障子の紙を透かして柔らかく屈折、畳の継ぎ目に細い線を描き、和歌の膝の辺りでかすかに揺れている。揺れは微かで、畳の匂いが嗅覚の奥に染み込んでくる。乾いた草の匂いと、材樹の、どこか甘い匂いが混じり合っていた。和歌は正座をしていた。膝の下の畳は硬い。視線を畳の目の前に固定し、呼吸を浅く、ゆっくりと繰り返す。息を吐くたびに、胸の奥が小さく震える。部屋の隅に置かれた小さな火鉢は、すでに火が消えかけていて、灰の中にわずかな赤みが残っているだけだった。灰は白く、表面に細かなひびが入り、時折ぱちりと小さな音を立てて崩れる。火鉢の周りには、灰受けの鉄の縁が冷たく光り、畳の目が、規則正しく並んで縦横に交差する線が、まるで網のように和歌を捕らえているようだった。視線を動かすと、継ぎ目が少しずれている場所が見える。そこだけ、畳がわずかに浮き上がっている。白い光がちらつき、障子の光が、瞼を通してまで入り込んでくる。


目の前には、大人がいる。

声を荒げるわけでもなく、威圧的な身振りをするわけでもない。ただ、姿勢を崩さず、まっすぐこちらを見ている。その視線が、和歌には重かった。

視線は柔らかく、穏やかでさえあるのに、言葉にならない重石のように。和歌はそれを避けようと、視線を少しだけ逸らした。けれど、逸らした先にも同じ視線が待っているような気がして、すぐに畳に戻る。


「なぜ、そう判断した?」


低く、抑えた声だった。怒っているわけではない。この静かな問いかけには、逃げ道がない。声は穏やかで、抑揚がほとんどなく、部屋の空気に溶け込むように響く。響いたあと、静けさがさらに濃くなる。声が消えた場所に、空白がぽっかりと残る。その空白が、和歌の言葉を待っている。和歌は唇を少し噛んだ。

下唇の内側に、歯が軽く当たる。頭の中には、さっきの光景が浮かんでいる。音、空気の動き、ほんの一瞬の違和感。だからそうした、という感覚は確かにある。でも、それを言葉にしようとすると、途端に輪郭が崩れてしまう。光景は鮮明だったはずなのに、説明しようとする瞬間、霧のように薄れて、手からすり抜ける。指の間から零れ落ちる砂のように。――わからない。でも、間違っていない気もする。喉の奥が詰まったように感じて、声が出ない。

喉仏のあたりが、硬く締めつけられている。息を吸おうとしても、浅くしか入ってこない。吐く息は熱く、唇の端で震える。何か言わなければいけないと分かっているのに、どう言えばいいのかが分からなかった。畳の継ぎ目は規則正しく並んでいる。数えても、数えても、言葉は出てこない。継ぎ目の線が、ぼやけて見える。涙ではない。ただ、視界がわずかに揺れている。沈黙が続く。沈黙は、部屋の空気を固めていく。障子の向こうから差し込む光が、ゆっくりと傾き始め、畳の表面に長い影を落とす。影は和歌の膝の近くまで伸び、彼女の小さな体を包み込もうとする。火鉢の灰は、もう完全に冷えていた。和歌は、この沈黙が、悪いことだと思っていた。答えられないのは失敗で、失敗は責められるものだと、信じ込んでいた。胸の奥がきゅっと縮む。自分の中にある判断は確かにあったはずなのに、それを説明できない自分が、だんだんと間違っている存在のように思えてくる。間違っているのは自分だ。答えられない自分が悪い。沈黙している自分が、許されない。そんな思いが、胸の奥で渦を巻く。渦は小さく、けれど確実に回り続け、和歌の体を内側から締めつける。「……」それでも、何も言えなかった。 声にならない息だけが、唇の間から漏れる。息は白く、部屋の冷たい空気に溶けていく。和歌の指は膝の上で固く握られ、爪が掌に当たる。その小さな背中は、怯えているというより、必死に耐えているようにも見えた。言葉にできない感覚を、自分の中で必死に守ろうとしている、幼い和歌の姿だった。背中は小さく、肩がわずかに震えている。震えは抑えようとしても抑えきれず、着物の生地を微かに波打たせる。着物の袖口は少し擦り切れていて、そこから細い腕が覗いている。腕は白く、血管が薄く青く浮かんでいる。正座の姿勢を崩すことが、今は許されない気がした。〘答えられない=悪ではない〙そのことを、和歌はまだ知らない。ただ、『「沈黙している自分はだめなのかもしれない」』部屋の静けさは、彼女の沈黙を優しく、残酷に包み込んでいた。 大人の視線は、まだそこにあった。穏やかで、重く、和歌を待っている。和歌は、その視線の下で、ただ小さく息をしていた。息は浅く、細く、途切れなかった。

途切れないことが、今の彼女にできる唯一のことだった。

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