メトロポリタン・ナポリタン
御子柴 流歌
前篇: 「都会でナポる」とは
ナポリタンには、人生で三回くらい真剣に向き合うタイミングがある。
一回目は、小学生の頃。ファミレスでお子様ランチから卒業して、単品のナポリタンを頼む勇気を振り絞ったとき。
二回目は、高校か大学くらい。友達と入った喫茶店で、「え、まだナポリタン食べてんの?」と笑われる覚悟を決めたとき。
そして三回目は、二十代も後半になってから。スーツのまま、会社帰りの高層ビルの地下街で、値段の高いナポリタンを前にしたときだ。
今日が、まさにそれだった。
金曜の十九時半。新宿駅西口、直結のメトロポリタンなんとかっていう複合ビルの地下二階。
僕はボーナス前で財布がやせ細ったスーツの胸ポケットを撫でながら、メニューの前で立ち尽くしていた。
「メトロポリタン・ナポリタン 一〇八〇円(税込)」
まぁまぁ……いや今の俺には高い。ケチャップベースのくせに、四桁。
だが、このプレート写真を見てしまった以上、もはや逃れられない。
銀色のステンレス皿の上、オレンジに光る麺。輪切りのソーセージ。ピーマンと玉ねぎ。上から自意識過剰な粉チーズの雪。
完璧なB級なのに、『メトロポリタン』とかいうブランド名を前にして、急にA級面を始めたいらしい。全然できていないと思うのは、きっと僕の気のせいではないはずだ。
──いや、わかるよ? ここが都心で、家賃と人件費が高いのは。
でも、ナポリタンに都市計画を乗せないでほしい。胃袋のキャパは、東京ドームじゃない。
「一名様ですか?」
店先から、エプロン姿の店員さんに声をかけられた。
僕は、メニューを持つ手をそのまま挙げて、ギブアップのポーズを取る。
「はい。じゃあ、その……メトロポリタン・ナポリタンで」
「かしこまりました。お席ご案内しますね。お飲み物はいかがされますか?」
「……水で」
ここでドリンクセットに行かないあたりが、僕の中流未満感である。
せめてもの抵抗として、糖分は麺からだけ摂取する。そういうポリシーのある節約だ。嘘だけど。
案内されたのは、通路側の二人掛けテーブル。外からもよく見える、いわばショーウィンドウ席だ。
スーツ姿の男がひとりでナポリタンを食べている様を、行き交う人々に晒すプレイ。僕はいつからMの道を歩んでいるのだろうか。
鞄を足元に置き、ネクタイをゆるめ、とりあえずスマホを取り出す。
会社のチャットツールには、さっき上司から「今日の資料、週明けまでに修正版お願い」とだけ書かれたメッセージが届いていた。
絵文字ゼロ、労いゼロ。書かれているのは締切だけ。
嗚呼、なんてわかりやすいんだ。
画面を閉じ、ため息の代わりに背もたれに身を預ける。
──こんなはずじゃなかった。
二十五歳の頃の僕は、三十前にはもっとドラマチックな人生になっていると思っていた。
海外出張とか、スタートアップとか、年収とか、結婚とか、なんかそういう、あれやこれや。
現実は、新宿でひとりナポリタンだ。
いや、別にそれが悪いわけじゃない。人間、炭水化物が摂れていればだいたい幸せだ。
ただ、もうちょっと『青春の延長戦』みたいな何かがあるんじゃないかと、心か脳細胞のどこかで愚かしくも期待していたのだ。
「お待たせしましたー、メトロポリタン・ナポリタンです」
銀色の皿が、目の前に置かれた。
湯気。ケチャップとバターの混ざった匂い。
鉄板じゃないのに、ジュワッという幻聴が聞こえる。
──あ、これ勝ったわ。
さっきまでの人生反省モードが一瞬で吹き飛んで人生勝者モード。
これは実に瀟洒で勝者で、まだまだ少者でありたいヤツだ。
くだらない韻を踏んでいる暇は無い。
フォークを握りかけた――そのとき。
「……あれ? 長谷部?」
名前を呼ばれて、僕は条件反射で顔を上げた。
そこに立っていたのは、紺色のスーツにパンツスタイル、肩までの髪を後ろでざっくり結んだ女性だった。
首から下げた社員証には、このビルの管理会社のロゴ。
「え、……真琴?」
まさかの再会は、たいていナポリタンの前で起こる。
そんな統計データは存在しないが、今、僕の中で確定した事実だ。
「うわ、本当に長谷部じゃん。きっしょ……懐かし」
「前半と後半が明快にケンカしてるよ? もうちょっと褒めて?」
「どこをどう切り取っても褒めてないんだけど」
口調も、笑うときに右の口角だけ上がる癖も、昔のままだった。
高校の頃、同じクラスで、よく一緒に駅前の喫茶店でナポリタンを食べていた、クラスメイトの水野真琴。
「なに、東京でナポリタンに再会する運命?」
「運命をナポリタンで括るなよ。ここ、職場?」
「そうそう。このビルのテナント担当。そっちは?」
「そこらへんの社畜。今日は客として侵略してきました」
「ご利用ありがとうございます。当ビルはナポリタンのご用命にも──って、あ、やば」
真琴は腕時計を見て、小さく舌打ちした。
「ごめん、休憩もう終わるんだった。……ねぇ、相席していい?」
「え」
「上司いるとこ戻るのだるいから、ここでサボる」
「ビル管理的にいいの、それ」
「ナポリタンの前ではみんな平等って条例があるから」
「聞いたことないよ、その条例」
真琴は勝手に向かいの椅子に座り、店員さんを呼んだ。
「すみませーん、メトロポリタン・ナポリタンひとつ。大盛りで」
「大盛りいった!?」
さっき一〇八〇円で震えていた僕の前で、さらに一五〇円を足してくるスタイル。
さすがクールに見えて胃袋が体育会系な女だ。高校の頃から変わらない。何ならスタイルの良さも変わってない。
「なにその顔。大盛りは正義でしょ?」
「大人になると、ナポリタンにも節税意識が出てくるんですよ」
「そんな悲しい大人いやだわ」
僕の皿から、湯気がふわりと真琴の方へ流れていく。
それを見ながら、ふと、高校の帰り道を思い出した。
あの頃、駅前の昭和喫茶で、部活帰りに二人でナポリタンをよく食べた。
『ナポる』という謎の動詞を発明し、テスト後に「今日はナポるか」みたいな会話をしていた。
そんな流れで真琴が言い放った台詞がフラッシュバックする。
――『大人になってもさ、都会でナポってる私たち、ちょっとよくない?』
都会でナポってる、というパワーワード。
あれを、今ならこう言い換えてもいいのかもしれない。
「メトロポリタン・ナポリタン、ね……」
僕がメニュー表のロゴを指でなぞぶと、真琴が首を傾げた。
「なに、急にポエマー?」
「いや、なんか、この名前すごいなって」
「メトロポリタンにナポリタンでしょ。語感だけで会議突破したやつだよね、絶対」
「でも、ちょっと高校のときのやつ思い出してさ。『都会でナポる』とか言ってたじゃん」
「あー……そんな黒歴史もあったねぇ」
「やっぱ黒い方か」
真琴はストローの包み紙を指で細かくちぎり始める。
何かを照れ隠しするときの癖。これもまた、変わっていない。
「どうよ、実際。都会でナポってみて」
「そうねぇ」
真琴は、わざとらしく視線を上に泳がせた。
「想像より、ずっとしょーもない」
「正直でよろしい」
「なんかこう、もっとドラマチックなやつだと思ってたのよ。メトロポリタンって。夜景の見えるバーで乾杯して、タワマンから花火が見えて、『これが私の青春の延長戦』みたいな」
「わかる。なんか、映画のポスターにだけ存在してる世界ね」
「実際は、蛍光灯の下で残業して、自販機の缶コーヒーで疑似エナドリして、気づいたら一年経ってたっていう」
「そこにナポリタンを足すと?」
「色だけ派手なケチャップまみれの延長戦。炭水化物のオーバータイム」
「すごい、夢がない」
二人で笑ったところで、真琴のナポリタン(大盛り)が運ばれてきた。
僕の皿の一・五倍くらいある。物理的に人生の密度が違う。
「いただきます」
真琴は迷いなくフォークを突き立て、麺の束を巻き取る。
そして、ひと口。
「……うん。これ、完全に学生時代の味だわ。値段以外」
「口が覚えてる?」
「舌がね。あと胃袋が」
僕も負けじと、自分の皿にフォークを入れる。
ケチャップの甘さ、胡椒の軽いスパイス、ソーセージの塩気。
味そのものは、記憶の中のナポリタンとほぼ同じなのに、背景だけが高層ビルになっている感じだ。
「ねぇ、長谷部」
「ん?」
「大人の青春って、こういうのでいいのかな」
「ナポリタンで青春を総括しないで」
真琴はフォークを皿に置いて、水を一口飲んだ。
「最近さ、会社辞めようかなって思ってて」
「急に重めの話来たな?」
「重さで言うと、大盛りと同じくらい」
「それはまあまあ重い」
真琴は笑いながら、テーブルの端に置かれた紙ナプキンを玩んだ。
いつもの癖だ。照れ隠しのときの。
でも今日は、照れているだけじゃない気がした。
次の更新予定
2026年1月15日 23:02
メトロポリタン・ナポリタン 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba
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