君を知らなかった
わたひと
第1話
突然変異で虫になる人間が当たり前になった世の中。
今朝だって妻と、
「おい、隣の旦那さん、虫になったみたいだぞ。この前、新品のスーツ買ったばかりって話してたのにな〜。」
なんて話してたばかりだ。
あの時、妻は、何も言わず微笑んでた。俺には他人事だったんだ。自分もなるかもしれない、妻も同じように虫になるかもしれない。
そんな事は、宝くじが当たるに等しいくらい有り得ないと。
でも、現に隣の旦那さんは虫になってしまった。ああ、能天気に笑っていた今朝の自分が憎らしい。
そして今、帰宅したら家の電気は消え、いつもなら腹の虫が黙っちゃいない夕飯の良い香りがするはずなのにそれもない。聞きなれた妻の「あらあら、おかえりなさい。今日もお疲れ様でしたね。」も聞こえてこない。
全部ない。
代わりにあったのは、かさ…かさ…という何かが這う音だけだった。
生唾を飲み込む。秋風が冷たい季節なのに、シャツは真夏の炎天下に出た時のように身体に張り付いている。
嘘だ嘘だと自分の声が頭の中で木霊する。こんなこと、人生にあっただろうか。
夢であってほしい。「寝坊助さんね」と、くすくす笑う妻の顔が浮かんでくる。
苦しい。短く浅い呼吸しか出来ない。
嫌なのに、怖いのに、足は自然と音のする方へと向かうのだ。
キッチンに入ってから、一瞬だけ、妻の笑顔を期待した。だが、妻がいるはずの場所には巨大なカマキリが1匹、ポツンとそこにいたのだ。
そして、俺の気配と共に、なんの表情もないまま、こちらをじっと見据えた。
「あ…ぁ…」恐怖とも悲しみとも絶望とも、何とも言えない感情。この感情は辞書にあるのだろうか?
声が出せない。
声をかけられない。
目の前の「これ」は、妻だ。単なる大きなカマキリなのに、妻なのだ。「これ」は虫で、表情も声も匂いも温かみもないはずなのに。俺を見据えるその雰囲気は、何十年と連れ添った彼女のそれなのだ。理屈なんかじゃ分からない、誰にも分からない、俺だけにしか分からない。
ギチチ…と人では到底出せない「声」。彼女はもう言葉を発することも出来ないのか。
ふ、と最後に交わした言葉は何だったかと、走馬灯のように今までの会話が脳裏を駆け巡る。こんな時なのに、俺はしょうもなくて、
「もう…あなたったら、また靴下脱いだままにしていたわよ?」
なんて、怒られた事が真っ先に思い浮かんだ。もっと、もっと、あっただろうに。何十年も連れ添った仲だと言うのに。
頬を伝う涙。目の前の「それ」は表情がなく、ただ涙を流す俺を見据えるのみ。
もう、靴下の事を怒られることもないんだな。気がついたら嗚咽を漏らしていた。
巨大な「それ」は、ずり…ずり…と移動し、タオルが入ってるバスケットへ行き、鎌の部分で器用に1枚タオルを持ち上げると、俺の目の前にパサりと落とした。
たったそれだけの行動、なのに「これ」が妻だと…嫌でもそうだと分かってしまった。
涙で歪む視界。ああ、その複眼からは何を思っているのだろう。
泣いた俺を見て、君はどう思った?傷付いた?腹が立った?呆れた?悲しかった?苦しかった?君が妻だと分かるのに、気持ちが見えない、分からない。
こんな時に思うのも変かもしれないが、俺たちに子供がいなくて、良かったのかもしれない。
若い頃は君と何度もこの件で衝突した。子供が欲しい俺と、欲しくなかった君。
そして君はこう言った。
「世界が、こうなってしまったから。大切な人が増えて話せなくなるのは辛いでしょう。体温を感じられなくなるのも辛い。産まれてくる子供が虫にならない保証なんてないの。もちろん、私も。」
今になって、あの時の君の言葉がが鮮明に思い出される。
俺はあの時も、今朝みたいにまるで他人事だったし、君を沢山傷付ける言い方をしていた。
今更だが、自分勝手で、良い夫ではなかったかもしれない。
それでも離れなかった。ずっといてくれた。静かに涙を流しては、次の日には何事も無かったかのように「おはよう」と言ってくれた君。
なんで大切にしなかったんだろう。
どうして同じように出来なかったんだろう。
俺は愚かだ。失ってから後悔する典型的な愚か者。
君と二人で観た映画で
「こいつ馬鹿だよなぁ、今更悔いてもしょうがないだろうに」
って馬鹿にした主人公と同じじゃないか。本当に、今更悔いてもしょうがないのだ。
ああ、俺は、どうしたらいいんだ。君にどう償えばいいんだ。謝っても仲直りしたか分からない。かと言って追い出すなんて事も絶対に出来ない。
虫になった君とどう生きていけば良いんだ。
食べるものも違う、話せない、温もりを感じることも出来ない。そんな君と、一体、どうしたら……。
もう50歳を迎えた俺たち。これからも、ずっと夫婦仲は変わらず、君に靴下のことで文句を言われ、一緒にくだらない映画を見ては笑い、毎朝君の「起きて!寝坊助さん!」の声掛けで目を覚まして…そうしてお互いに、同じ速度で、同じように、共に朽ちていくのだと思っていた。
だって、この年齢になるまで、何も無かったじゃないか。
なんで今日なんだ?なんで何の変哲もない、【いつもの朝】だったのに。
まるで、この日だけプツリと切り取られた映画フィルムのように。それも趣味の悪いタイプの映画のな。
ハッピーエンドなんてない、後味の悪さだけが残る、俺の大嫌いなタイプのやつ。
ああ、でも君は違ったっけか。あの口の中に残る砂利のような気持ち悪さが良いと、俺によく話していたな。
あれの何がいいんだかって、肩を竦めて終わらせた。あれ、聞いとけばよかった。そしたら、きっと、この現状を君の目線で見れたかもしれないのにな。
もう、全部、遅い。
俺はそれでもこの狂った現状を受け入れるしかない。
いつも作ってくれていた食事も、もう二度と俺の口に入ることはない。似たような味に近付けたとしても、それは「君の味」であって、「君が作ったもの」じゃない。たまに卵の殻が入ってる甘い卵焼きは二度と胃に収まることはない。
庭の花たちも、今は元気に咲いてるが、君は一体、どう世話をしていたんだろう?
一度、君が風邪で寝込んだ時に代わりに水をやった事があったけど、萎れていく一方だった。元気になった君は萎れた花をみて
「あら、萎れちゃったのね。でもね、私はこの子達を元気にする方法を知ってるから、大丈夫よ」
なんて言って、ほんの数日で太陽に向かって、宣言通り、元気に花弁を開かせてみせた。
俺はあの時も
「俺には分からん。花は君に任せる」
って世話をしてやったのに萎れた花に苛立ち、そしてそれを意図も容易く元通りにした妻にもムッとして、つい、あんな事をいってしまった。
この花たちも、今は元気にしているが、前回と同じく、数日経てばまた萎れていく事だろう。
そして、あの時と違って…最期は朽ちるだろう。枯れゆく花を見る度に、君と過ごした日々が少しずつ散っていく様に、俺は、きっと後悔を重ねることだろう。
部屋を見回すと、今朝までは当たり前だった風景に、君の残像がある。飲みかけのコーヒーのカップは新婚旅行の時のやつ。あれ、まだ使ってたのか…。
お気に入りのクッキー缶は、封が開いていて、何枚か食べた痕跡がある。君はいつもそのメーカーのばかりだな。
それから、洗濯物。君の分と俺の分、窓の外でハタハタと風に揺らいでいる。
なあ、君も、俺と同じだろう?
まさか今日だなんて思ってなかった、そうだろう?
キッチンには、今日の夕飯になるはずだった野菜たちが乱雑に転がっていて、出された鍋には水が入っていた。俺の大好きな野菜スープを作る予定だったのだろうか。
切りかけのバケットは中途半端にナイフが刺さっている。不自然な様子に、もしかしたら、この時に……と、頭を過ぎった。
だとしたら、君はこうなる瞬間に何を思った?切りかけのバケットからは何も想像がつかない。
俺のことを少しでも考えてくれただろうか?
その時、幸せだった思ってくれただろうか?
君はいつだって、にこにこと笑って、俺が喜怒哀楽を剥き出しにしても、変わらない態度で…。それは、虫になる、その瞬間も…?
なあ、どうしたら分かるんだ?話したい、もう一度でいいから、君の声が聞きたい。
項垂れ、下を向く俺の耳に、虫になった妻が移動し、鎌で何かをつつく音が飛び込んだ。
ふ、と顔をあげると、壁にかけられた古いホワイトボードの前で、コツ…コツ…とそれを無心につついていた。
その行為は、まるで電灯に集る虫のような行動にも見えた。吸い寄せられるように、ただ、コツコツと。
……ホワイトボード?
毎月の予定を書くものだが、俺は妻の予定は特に気にした事がなかったっけ。だって、毎日家にいて、毎日同じ事を繰り返す日々な訳だ。何か用事があれば、俺と妻とで出かけていた訳だ。ホワイトボードなんて気にする必要なんてないじゃないか。でも、虫になっても、なぜ気にかけているんだろう。
そっと覗き込むと、それぞれの日付に、ニコニコした顔のマークと、涙を流した顔のマークが書いてあった。ざっと見ても、その2種類のみだ。
俺は、それを見て、ヒュッと息を飲みこんだ。
いつも変わらない日常の中で、君を変わらないと判断していたのは俺の勝手な思い込みだったのかもしれない…。
この小さなホワイトボードの中に、君の中で楽しい事があった、悲しいことがあったという、小さなサインが、ここに刻まれているじゃないか。
花を萎れさせてしまった日、つい数週間前、悲しい顔のマークが付いていた。
ああ、胸が痛い、苦しい。
平気そうにしていた君は、ここに吐き出してたんだな。ごめん。ごめんよ。謝りたい、話したい、君を抱きしめたい。
辛かった事はきっとこれだけじゃないはずだ。だって、このホワイトボードは…結婚してからずっとここにあるのだから。
ギチチ…と妻が声を上げ移動した。ホワイトボードから離れ、今度はダッシュボードに置いてある、可愛い花柄の箱の前へ。
そういえば、これもかなり前からあるな。なんの箱だろうか?全く気にしたこともなかったが…こうなると気になってくる。
もう今の妻には開けることも出来ないその箱を、そっと開けてみた。
中には、沢山の……沢山の写真が入っていた。
これは、いつ撮ったのか。でも、それもかなり前から撮っていたであろうものたちだ。ご丁寧に日付まであるじゃないか。
彼女にカメラの趣味なんてあったのか…。そこも、全然知らなかった。今の今まで。こんなに長い間いたのにも関わらず。
変わらない日常の中で、どこかへ出掛けては道端の花を撮り、美しい鳥や夕焼けを撮り、アルバムに入れるでもなく、乱雑に箱詰めされていた写真たち。でも、日付だけは書いているのが君らしい。
なんで俺に言わなかったんだろう。
ビックリさせるため?金のかかる趣味でもないから反対されるとは思わなかっただろうに。なんで……。
それから、たまに出てくる俺の寝顔が数枚。君は何を思ってこんなものを撮っていたんだ?若い頃の俺の寝顔ならまだ分かるが…、こんなおじさんの俺の寝顔まで、何故。
なあ、どうして君が虫になってから、君の知らない一面が沢山見えてくるんだろう。君に確認したい事が山ほど出てくるんだ。ああ、どうして…一緒にいる時よりも…。
突きつけられる、これからの非日常。
描き足される事ないホワイトボード。
増えない写真。
二度と食べられない君の料理。
枯れゆく花。
虫になった君はいるのに……もう二度と会えない君に会いたい。
俺が君の代わりにホワイトボードを書き足せば、毎日泣いてる顔のマークばかりになるだろう。
写真も、何を撮っても味気がなくて、君と同じようには撮ることは出来ないだろう。
料理も腹に入れば何だっていい、庭には、俺が死ぬまで二度と花が咲くことは無いだろう。
虫になった君と過ごす、たった今から、どちらかの灯火が消えるまでの予測できない。
向き合いたいのに向き合えない。向き合ったって、それは1人相撲のようで…滑稽な馬鹿な男のようで…。
虫になった君は俺の事は分かるのかい?
俺の言葉は理解出来るのかい?
もし人間に戻れるのなら、俺は君が死ぬその瞬間まで、世界一幸せにすると誓うよ。今、何をやったって、それは自分のエゴのような気がしてならない。俺の自己満足だ。
何か反応してくれ。
何か話してくれ。
何か、頼む、何か、何か……。
俺は、俺が死ぬまで、虫になった君を見て、毎日、許されない日々を過ごすしか道がないのかもしれない。
ああ、口の中に砂利が残るような、そんな映画のワンシーンが毎日上映されてるような気分だ。
なんの良さも見出せなかった俺が、君がいるのに君がいない日常で、良さなんて、見つけられるわけがないのだ。
君を知らなかった わたひと @watahito0823
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