スマートホンサンダーボルト
吟野慶隆
スマートホンサンダーボルト
うっかり手が滑り、持っていたスマートホンが顔めがけて落ちてきた。ベッドの上で仰向けになっていじっていたのだ。
(しまっ──『+@≠&÷』!)
慌ててその五文字の呪文を心の中で唱えた途端、この世の時がぴたりと止まった。スマートホンも宙に浮かんだままの状態で動かなくなった。
(ふう、焦った……)
(早くスマホを取って、もう一度呪文を唱えて時を動かそう)
スマートホンは鼻先から数センチメートル上がったあたりの位置で静止していた。ディスプレイは、手を滑らせる前はゲームアプリのタイトル画面が表示されていたが、今は真っ暗になっていた。右手を伸ばす。
(痛っ!?)
指先が接触した瞬間、びりっという鋭い痛みが走った。反射的に手を開き、指を離す。痛みはすぐに消失したが、じいんと弱く痺れるような感覚は残った。
(いったい何が──いや、この痛みには覚えがあるぞ。一昨日の晩、漏電していた洗濯機に触った時に経験したものと似ている。ということは……ちょっと確かめてみるか)
首をひねり、顔を左に向けた。ベッドを寄せている壁とは反対側の壁に目を遣り、そこに立てかけられている姿見を見る。ヘッドボードの周囲が映り込んでいた。
鱒貞は鏡で位置関係を確認しつつ右手を頭上に伸ばした。ヘッドボードの上に遣り、小物入れから目薬の容器を取る。その時、隣に立てかけられていたエアコンのリモコンに指が当たった。リモコンは外に飛び出して床に落ち、液晶ディスプレイが割れた。
片手しか使えない状態では苦労したが、なんとかキャップを外すことができた。スマートホンの真上で逆さまにする。落ちたしずくは端末の背面に着地した途端、じゅっという音を立てて蒸発した。
(やっぱり漏電していやがる……! さては時を止めたせいだな。あの呪文は唱えるとおれの体の──正確には頭の近くに位置する電気製品に異常な影響を及ぼすから。いつもなら、唱える時は各種の電気製品から距離を取っておくんだが……)
鱒貞は目薬の容器にキャップをはめ、適当に放り投げた。容器は菓子パンの包装の上に着地し、くしゃっという音を立てた。部屋中央に置いてある脚の低いテーブルの上に放置されている袋だ。今日の夕方に大学から帰る途中のコンビニで買い、一時間ほど前に夜食として食べた、夏季限定の商品だ。
(たぶんバッテリーから漏電しているんだろう。こんなことになるなら純正品にしておけばよかったな。今スマホに組み込んでいるのは、通販サイトで海外の業者から購入した、安価で大容量・高出力の非純正品だから。漏れている電流も強力だ)
なんとはなしに暑さを感じた。右手を腹に遣り、タオルケットを脇にどかす。
(こんな物を顔面で受け止めるわけにはいかない、なんとかどかさないと。しかし、こうすぐ目の前にあっては、思うように動けないな。仕方ない、あれをしよう。『★*▽¥◎』)
その五文字の呪文を心の中で唱えた途端、鱒貞の意識とスマートホンの状態を除くすべてが一瞬にして数秒前に巻き戻り、時が動きだした。目薬はヘッドボードの小物入れに戻り、頬のかさぶたは元の傷口に被さり、リモコンの液晶ディスプレイは綺麗に直った。右手は空中に上がり、すでにそこから離れていたスマートホンが顔めがけて落ち始めた。
すぐに心の中で(『+@≠&÷』!)と唱え、時を止めた。前回とは違い、スマートホンと顔面とは十数センチの距離があった。ディスプレイは真っ暗なままだ。
(やっぱりスマホは直っていないか。時を止める呪文を唱えてからあまり時間が経たないうちに時を巻き戻す呪文を唱えた場合、おれの意識だけでなく、時を止める呪文を唱えたことによる電気製品への異常な影響まで引き継がれてしまうんだよな。こうなったら絶対にスマホの顔面衝突を阻止しないと。そうだな……タオルケットを使ってみるか)
鱒貞は右手を腹に遣り、タオルケットを掴んで引き寄せた。体の横で転がして丸め、平べったくして顔に載せる。
(少し息苦しいが、これくらいなら我慢できる。じゃあ、『+@≠&÷』)
再びその呪文を心の中で唱えた途端、時が動きだした。落ちたスマートホンは丸められたタオルケットの上に着地した。
安堵の溜め息をついたのがいけなかったらしい。タオルケットの塊は小さく震え、そのせいでスマートホンが表面を滑り始めた。しまったと思っている間に端から飛び出し、鱒貞の鎖骨あたりに乗っかる。胸部に強烈な電流が流れ込み始め、激痛が走りだした。
(ぎゃあああ──『★*▽¥◎』──)
時が数秒前に巻き戻り、上げている右手から離れたスマートホンが顔めがけて落ち始めた。すぐに心の中で(『+@≠&÷』!)と唱え、時を止める。
(はあ、はあ……酷い目に遭った。もうタオルケットは使わないでおこう、またスマホが滑り落ちてしまうかもしれない。
早く成功させないとな、時を巻き戻せるのは一日に四回だけだ。しかし、どうやったらどかせるのか……)
鱒貞は顔を左に向け、打開策を求めて室内を観察した。姿見にはヘッドボードの後ろ、棚の上に設置されている水槽も映り込んでいた。中では鮮やかな見た目の熱帯魚が泳いでいる途中の状態で静止している。ヘッドボードの上、雑誌を立てるための細長い穴にはアクアリウムの情報誌が挿し込まれていた。
(よし、閃いたぞ。雑誌の上にスマホを着地させて、体の横に置こう)
鱒貞は鏡で位置関係を確認しつつ右手をヘッドボードに遣り、雑誌を取った。顔の前に掲げ、スマートホンの真下で水平にする。
(それでは、『+@≠&÷』)
時が動きだした。落ちたスマートホンは雑誌の上に乗っかった。
機器の重量による負荷は想像していたよりも大きく、雑誌が胸元に向かって傾いた。その上を端末が滑っていく。
(まずい──!)
慌てて右手に力を込めて雑誌を上に傾け、再び水平にした。しかしその最中にスマートホンは外に飛び出した。
端末は放物線を描いて飛んでいき、鱒貞の股間にどむっと激突した。睾丸が変形する感覚や吐き気を伴う鈍痛に見舞われる。陰嚢や陰茎に強烈な電流が流れ込み始め、激痛が走りだした。
(ぐおおお──『★*▽¥◎』──)
時が数秒前に巻き戻り、上げている右手から離れたスマートホンが顔めがけて落ち始めた。すぐに心の中で(『+@≠&÷』!)と唱え、時を止める。
(も、元に戻っているよな……!?)右手で股間をまさぐった。(……大丈夫のようだな)心の底から安堵し、深くて長い溜め息をついた。(めちゃくちゃ焦ったぞ。もう雑誌の上に着地させるのはやめよう。
今回こそ、上手くどかさないと。時を巻き戻す呪文は、回数制限を超えて唱えるわけにはいかない……ペナルティが発生してしまうからな。最初に強烈な耳鳴りに襲われて、その後は時が巻き戻らず、長時間にわたって止まり続けてしまうんだ。小学五年生の夏にやらかした時は再び動きだすまで約一万秒、高校二年生の時は約六万秒もかかった。さて、どうするか……)
鱒貞は顔を左に向け、打開策を求めて室内を観察した。ベッドの床板は高く、部屋の床から一メートルほど上がった位置にあった。フットボードに備えつけられているステップで昇降するのだ。床板の下は収納スペースになっている。部屋の床には絨毯が敷かれ、ミトンや洗濯ばさみ、トングなどが転がっていた。
(そうだ、なにもスマホを雑誌の上に着地させる必要はない。雑誌の間にしっかり挟み込んでしまおう)
鱒貞は鏡で位置関係を確認しつつ右手をヘッドボードに遣り、雑誌を取った。真ん中あたりのページを開いて横に向け、顔の右斜め上に掲げる。左に移動させてスマートホンを挟み込み、そのまま閉じた。
(じゃあ、『+@≠&÷』)
時が動きだした。鱒貞は雑誌を持った右手を胸の上に、左手を腹の上に置いた。
(ふう、やっと成功した……)
思わず右手に込めている力を緩めたのがいけなかった。やや下に傾いている雑誌の中に挟み込まれているスマートホンが、ずずず、と滑り始めた。
(しまっ──)
慌てて雑誌を上に傾けようとしたが、遅かった。端末は雑誌の下側からすっぽ抜け、左手の甲に衝突した。電流が流れ込み、激痛が走る。
「ぎゃあっ!」
反射的に左手を大きく跳ね上げた。スマートホンは宙を吹っ飛んでいき、ヘッドボード後ろの水槽の側面に命中した。
側面のガラスは割れて大穴が開き、中の水がどばどばと流れ出した。水はベッドに流れ込み、鱒貞の体をずぶ濡れにし、マットレスの上に落ちたスマートホンもびしゃびしゃに浸した。鱒貞の全身を強烈な電流が駆け巡り始め、激痛が走りだした。
(ぐううう──『★*▽¥◎』──)
時が数秒前に巻き戻り、上げている右手から離れたスマートホンが顔面めがけて落ち始めた。すぐに心の中で(『+@≠&÷』!)と唱え、時を止める。
(ふう、ふう、ふう、ふう……はあああ…………)苦痛が消失したことの安堵に浸り、一分ほど放心した。(……ああもう、まさか死ぬんじゃないかと思ったよ。雑誌の間にスマホを挟み込むのはやめよう。
もう時は巻き戻せない、これが最後の機会だ。ペナルティを受けるわけにはいかない……時が止まっている間はめちゃくちゃ不安でひたすら後悔にさいなまれるし、なにより暇だからな。呪文を唱えて止めたときとは違って、体はいっさい動かせないし。五感が失われるわけじゃないから、体のどこかが痒くなってもかけなくて大変なんだよな)
鱒貞は顔を左に向け、打開策を求めて室内を観察した。反対側の壁にはたくさんのロケット花火が詰まった袋が立てかけられていた。来週は大学のホッケー部の合宿が計画されている。その二日目の晩に催されるレクリエーションで使う予定の物だ。袋の横にはホッケーの道具一式が入ったバッグも置かれていた。
(おっ、名案が浮かんだぞ。なにもスマホを上手くキャッチしないといけないわけじゃない……斜め下に滑らせて、頭から離れた所に落としてしまおう)
鱒貞は鏡で位置関係を確認しつつ右手をヘッドボードに遣り、雑誌を取った。顔の前に掲げ、右上から左下にかけて斜めに傾ける。
(これがラストチャンスだ、『+@≠&÷』!)
時が動きだした。スマートホンは雑誌の上に乗っかり、表面を滑っていった。左端から飛び出し、マットレスの上、鱒貞の左耳の横に衝突する。
(やった、やったぞ……!)雑誌を体の脇に放り投げ、ガッツポーズをした。(四度目の正直だ、やっと成功し──)
歓喜を遮り、破壊音や破裂音が聞こえてきた。
(何だ!?)
顔を左に向ける。スマートホンはマットレスでバウンドしてベッドから飛び出したらしく、部屋の床に落ちていた。端末はばらばらに大破し、バッテリーはめらめらと燃えていた。
(床に激突した時のショックのせいで出火したか……!)
火はあっという間に絨毯に移った。みるみるうちに広がっていく。
(と、とんでもないことに──そうだ、水槽の水をぶっかけよう!)
急いで体を半回転させ、腹這いになった。引き続いて四つん這いになり、右膝を立てる。
ひゅるるるという音が聞こえたかと思うと、右から飛んできた何かが顔の前を横切り、左の壁に衝突した。
(いったい何だよ……!?)
鱒貞は顔を左に向け、下に向けた。壁の、飛来物が当たった箇所は黒く焦げ、マットレスの上には燃えかすのような物が転がっていた。
今度は右に向ける。絨毯の火が反対側の壁に立てかけている花火の袋にも移っていた。中に詰まっているロケット花火には次々と火が点き、ベッドの寄せられているほうの壁めがけて飛んできていた。
(早く消火しないと……!)
急いでマットレスの上に立った。水槽に手を伸ばす。
右耳に衝撃と激痛、高熱を食らった。ロケット花火が直撃したに違いなかった。
「ぐあっ──」
思わず両手で耳を押さえ、その拍子に体のバランスを崩した。右に向かって傾いていく。
「わっ、わっ、わっ──」
体勢を立て直そうとしたが間に合わず、逆さまになってベッドから転落した。頭頂部が床に激突し、首からぼきりという音が鳴った。すぐに体は倒れ、燃え盛る絨毯の上で仰向けに寝転んだ。
(痛い痛い痛い熱い熱い熱い──)
頸椎を損傷したらしく、首から下が動かせなかった。顔の上をロケット花火がひっきりなしに飛んでいて、鮮やかな火花を撒き散らしていた。
(があああ──『★*▽¥◎』──)
回数制限のことも忘れ、心の中で唱えた。聴覚が強烈な耳鳴りに支配される。ペナルティだ。
時が巻き戻らずに止まった。絨毯やテーブルの燃焼もストップし、ロケット花火も空中でぴたりと動かなくなった。耳鳴りはやがて治まったが五感は失われず、とうぜん痛覚も維持されていて、全身が焼却される激痛と高熱に絶え間なく襲われ続けた。
(ああ、ああ、あああああ──)
時が動きだし意識が途絶えたのは二十一万秒後のことだった。
〈了〉
スマートホンサンダーボルト 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t
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